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1614/慶長十九年

慶長十九(1614)年
※ []内は茶々姫の居場所

一月

[大坂城本丸奥御殿]
四日(天晴)
辰刻(午前八時ごろ)、秀頼の名代として片桐且元(「片桐市正殿」)が豊国社へ参詣し、例年のように金子一枚・百貫文を奉納する。 また神官たち(「惣神官」)へ百貫、巫女八人へそれぞれ杉原十帖・銀子一枚ずつ、 萩原兼従(「萩原」)・吉田兼治(「左兵衛佐」)へ小袖二つずつをおくる。〔舜旧記〕

十日(天晴)
梵舜、萩原兼従(「萩原」)・瑛侍者とともに秀頼へ年賀のあいさつのために大坂城へ登る。
この日の早朝に片桐且元(「片桐市正殿」)を訪れ贈答のあり。
そののち登城し、兼従より太刀折紙・杉原五束・段子二巻、梵舜・瑛侍者よりそれぞれ杉原十帖・扇五ずつを秀頼(「殿様」)へ進上する。 また梵舜のみ、茶々姫(「御袋様」)・大蔵卿局(「大蔵卿殿」)へそれぞれ引合十帖・小扇三本ずつをおくる。
その後、片桐且元家臣日比半右衛門・同助衛門・多羅尾半左衛門・高瀬猪右衛門へ蹈皮・扇など進物あり。〔舜旧記〕

十一日
有節瑞保、新年のあいさつに寧(「政所様」、「高台院殿」)、使いの英春(「高台院殿御内英春」)と贈答する。〔鹿苑日録〕


二月

[大坂城本丸奥御殿]
十八日(天晴)
寧(「政所様」)、萩原兼従(「兼従」)へ祈祷を依頼し、豊国社にて宗源行法が一座執行される。〔舜旧記〕


四月

[大坂城本丸奥御殿]
十六日(天晴)
梵舜、萩原兼従(「萩原」)とともに方広寺大仏殿の鐘鋳を見物する。京の人々もこぞって見物する。この鐘のために鋳師百人・棟梁十四人・小工二百人・其の外鋳師の下々三千人が動員されたという。その後、普請奉行の片桐且元(「片桐市正且元」)続いて板倉勝重(「板倉伊賀守」)が鋳造の様子を視察に訪れる。鐘はこのとき形に入れられている状態であった。〔舜旧記〕
文英清韓、秀頼のために方広寺の鐘銘を撰文し、徳川方より瞰視される。〔東福寺誌〕
寧(「政所様」)、この日の夜秘かに(「御忍之礼也」)豊国社を参詣し、銀子五枚と散銭二百貫を奉納する。 その帰り、お寧もまた鐘鋳造の様子を見物する。〔舜旧記〕

十七日(天晴)
大野治長(「大野修理」)、秀頼名代として参詣する旨を知らせる音信のために、単物(白綾一ツ)・帷(サラシ一ツ)を梵舜へおくる。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
豊国社祭礼。
大野治長(「大野修理」)、秀頼(「大坂」)名代として豊国社へ参詣し、金子一枚・鳥目百貫文を奉納する。続いて萩原兼従(「萩原」)・吉田兼治(「左兵衛佐」)・梵舜へ銀子五枚を贈る。〔舜旧記〕

二十四日(雨降)
奉行片桐且元(「市正」)、方広寺大仏殿鐘完成の礼のために駿府へ出発する。〔舜旧記〕


五月

[大坂城本丸奥御殿]
二十日
前田利長薨ず。五十三歳。幕府、その隠居領を利光(後の利常)に与え、その中から三百領を利光室(子々または珠/秀忠と督〔江〕の二女)へ与える。
『東福寺誌』には、「為に家康は最早や世に憚る人なきに到り、一念、大坂城壊滅を図れり。」との評あり。 〔史料綜覧、東福寺誌〕


六月

[大坂城本丸奥御殿]
十三日(朝晴、雨降)
片桐貞隆(「片桐主膳正」)、五千石の知行加増の礼に駿府へ赴く暇乞いのため豊国社へ参詣し、三百疋を奉納する。貞隆、萩原兼従(「萩原」)へ帷三ツ、梵舜へ蒔絵・間鍋二ツをおくる。
続いて大野治長(「大野修理」)もまた五千石の知行加増の礼に駿府へ赴く暇乞いのため豊国社へ参詣する。治長、萩原兼従と梵舜へ大麻をおくる。〔舜旧記〕

十六日(雨降)
片桐且元(「片市正」)、大仏視察のために大坂より上洛する。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
梵舜、豊国社臨時祭礼のための注文を京の片桐且元邸へ持参する。〔舜旧記〕

二十四日(天晴)
梵舜、瑛侍者とともに寧(「政所様」)を見舞う。対面・贈答あり。〔舜旧記〕

二十九日
江戸に着いた有節瑞保、孝蔵主にあう。〔舜旧記〕


七月

[大坂城本丸奥御殿]
二十一日
徳川家康、方広寺鐘銘に『国家安康。君臣豊楽』の字句があることを難詰する。〔鹿苑日録、本光国師日記(東福寺誌)〕

二十六日
徳川家康、片桐且元に方広寺鐘銘の不吉語句について詰問する。〔鹿苑日録、本光国師日記(東福寺誌)〕

二十九日(天晴)
この日の早朝、片桐且元(「市正殿」)より梵舜へ上棟大仏供養の延期の申し入れあり。 文英清韓(「韓長老」)の書いた鐘銘に対し、徳川家康(「駿河」)が不服のためという。〔舜旧記〕


八月

[大坂城本丸奥御殿]
二日
方広寺大仏棟札写し並びに方広寺鐘銘の草案等、駿府に至る。家康はこれを見て訝る。〔本光国師日記、鹿苑日録(東福寺誌)〕

四日(天晴)
龍(「松丸殿」/京極高吉女)が豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

十四日
板倉勝重、林羅山(幕府御用学者)等五山僧を集めて方広寺鐘銘を批評させる。妙心寺海山(海山元珠)のみが決し難しと評するほか、みな不穏の拙文字なりと批判したという。〔東福寺誌〕
・「清韓文書を以て世に鳴る、下愚、筆力を知るにあらねば、蔵否を決し難しと雖之を心ありと謂わゞ則心あらむ、清韓は凶詞を知て書くべからず、唯天下の泰平を祝し檀那の功徳を著はすのみならん歟」〔武徳編年集成〕

十五日
幕府、東福寺の文英清韓の住庵を毀す。〔本光国師日記、鹿苑日録(東福寺誌)〕

十六日
集雲守藤(東福寺住持)、文英清韓の免罪に尽力する。〔本光国師日記、鹿苑日録(東福寺誌)〕

十七日(天晴)
片桐且元、文英清韓と共に駿府にいたり、方広寺鐘銘の不吉語句について陳謝する。 本光国師日記、鹿苑日録(東福寺誌)
寧(「政所様」/「光台院様」)が豊国社へ参詣し、百石・散銭十四貫を奉納し、神事を見物する。梵舜、寧へ豊国社でなった柿をおくる。〔舜旧記〕
大蔵卿局(「大蔵卿殿」)、大坂よりの使者として豊国社へ参詣し、銀二枚を奉納する。また萩原兼従・梵舜へ銀五枚、祝衆十人へ帷一ツ・単物一ツずつ、巫女八人に単物二つずつをおくる。続いて秀頼(「大坂」)の依頼として湯立五釜・大原巫女勤を奉納する。
※ 寧の参詣と時を同じくしているため、二人の会談があったのではと思われる。
興意法親王(「照高院殿」)、豊国社へ参詣する。

十八日(天晴)
五山衆の方広寺鐘銘批判文、駿府に至る。文英清韓は決して、不穏の意にて撰文したものではないと申し開きをする。〔本光国師日記、鹿苑日録(東福寺誌)〕
片桐貞隆(「片桐主膳正」)、秀頼(「大坂」)の名代として豊国社へ参詣し、百貫文を奉納する。例年の金子一枚はこの日届かず(大坂方の手違いか?)。 続いて萩原兼従(「萩原」)・吉田兼治(「左兵衛佐」)・梵舜へそれぞれ帷二ツ・袷一ツ・銀子五枚ずつを贈る。
また、江原与右衛門が千(「御姫様」)の名代として豊国社へ参詣し、神楽を奉納する。兼従へ帷二・単物一、梵舜へ帷一・単物一を贈る。
続いて朝廷より大炊御門経頼(「大炊御門大納言」)が装束にて参詣し、太刀折紙を奉納する。〔舜旧記〕

十九日(雨降、午刻ヨリ晴)
豊国社にて能が興行される。〔舜旧記〕

二十日(雨降、午刻ヨリ晴)
萩原兼従(「萩原」)・梵舜、神事の礼のため、片桐貞隆(「片主膳」)・大蔵卿局(「大蔵卿殿」)へ使者を遣わし、書状を届ける。〔舜旧記〕

二十七日
徳川家康、文英清韓の紫衣勅許を得たるを怪しみ、板倉勝重に命じて旧記を検めさせる。〔本光国師日記、鹿苑日録(東福寺誌)〕

二十八日
古田織部重熙、文英清韓を饗応し、幕府より咎めを受ける。〔本光国師日記、鹿苑日録(東福寺誌)〕


九月

[大坂城本丸奥御殿]
一日
相国寺蔭涼軒より、文英清韓の紫衣位なる事を以心崇伝に復命する。〔本光国師日記(東福寺誌)〕

十二日
大蔵卿局、正栄尼、片桐且元ら帰坂する。
以心崇伝、集雲守藤よりの文英清韓執成方を拒絶する。〔本光国師日記(東福寺誌)〕

二十二日(晴)
梵舜、播磨を伴い大坂へ下向する。見舞いのために片桐且元(「片市正」)・同貞隆(「片主膳」)・大野治長(「大野修理」)へ書状をおくる。
「今度為御見舞罷下也、内義以外恐怖之礼也」と記載あり。〔舜旧記〕

二十六日
方広寺大仏殿鐘供養について申し開きのため駿府へ赴いていた片桐且元(「片桐市正且元」)が、大坂へ帰還する。 且元、徳川家康(「駿府」)よりの返答を秀頼(「大坂」)へ伝えるも、秀頼これを受け入れず、家康へ対抗する意思を示す(「反逆之由被仰出」)。 且元、重ねて説得を試みるも、大坂方は承服せず。〔舜旧記〕

二十六日
萩原兼従(「萩原」)、大坂へ見舞いのために播磨を遣わす。播磨、大蔵卿局(「大蔵卿」)と対面し、兼従・梵舜の会見を申し入れる。播磨、その晩は大坂城に泊まり、翌日急いで京へ帰還する。〔舜旧記〕

二十九日(天晴、寒風)
京にて寧(「高台院殿」)が大坂へ駆けつけるという噂が流れる。寧、屋敷の門を堅く閉じ、人の出入りを禁じる。〔時慶記〕


十月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(天晴)
寧(「高台院殿」)、大坂へ駆けつるため屋敷を発つも、鳥羽の関を越えられず立ち戻る。 時慶記(同月二日条)
片桐且元(「片桐市正」)・貞隆(「同主膳」)兄弟、この日大坂の私邸を出、摂津茨木城へ入る。〔舜旧記〕

四日(天晴)
梵舜、片桐且元・貞隆兄弟(「片市正・主膳正兄弟」)を見舞うために摂津茨木を訪れ、両人と対面する。〔舜旧記〕

五日(天晴)
板倉忠世(「雅楽助殿」)を通じて板倉勝重(「板伊州」)へ大坂に見舞に訪れてもよいか問い合わせる。 はっきりした返事はなかったが、自ら梵舜は見舞いに行くべきでないと承知する。〔舜旧記〕

六日(天晴)
梵舜、前日の問い合わせをふまえ、大坂への見舞として播磨を遣わせる。〔舜旧記〕

八日
徳川家康(「大御所」)、大坂城攻めのため上洛するという(慈性〔多賀大社僧、日野資勝子〕、千妙寺亮諶〔「千僧正」〕よりこの日文にて知る)。〔慈性日記〕

二十三日(天晴)
徳川家康(「駿川〔河〕将軍」)上洛し、二条城へ入る。この翌日より、梵舜らは連日(二十四・二十六・二十七・二十八・二十九日・十一月一日。ただし二十八・二十九日は対面なし)家康を二条城に見舞う。〔舜旧記〕


十一月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(天晴)
板倉勝重(「伊州」)、梵舜へ愛宕福寿院による大坂城秀頼邸(「大坂秀頼様御壺」)へ出入りの様子を尋ねられる。〔舜旧記〕

十五日(晴)
徳川家康(「駿州前将軍」)大坂住吉の本陣へ発する。旗雲出現の天変が発生し、諸人見物するという。 〔舜旧記〕

二十二日(天晴)
萩原兼従(「萩原」)・梵舜、寧(「政所様」)を見舞い、蜜柑一折を進上する。寧の面前で振舞あり。〔舜旧記〕

二十五日(天晴)
萩原兼従(「萩原」)・梵舜、住吉陣屋の家康を見舞うため大坂へ下向する。〔舜旧記〕


十二月

[大坂城本丸奥御殿]
八日
五山衆、徳川家康及び秀忠に謁見する。〔本光国師日記(東福寺誌)〕

二十五日
家康(「大御所」)、大坂表より帰洛する。有節瑞保、大坂との講和がまとまったという話を聞く。〔鹿苑日録〕

二十八日
徳川家康、東福寺領、南禅寺領(九月十三日付)、南禅聴松院領、建仁寺領、岩栖院領、天龍寺領、酬恩院領、万寿寺領、慈照寺領の黒印を与える。〔東福寺文書、本光国師日記(東福寺誌)〕



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