秀頼と宇喜多家がどの程度関係があったのかを考えていました。慶長四年の祈祷・返礼記事に一緒に登場するのを知ってから地味に気になっていたりします。前田家との関係も思ったより深そうだし…
posted at 21:55:12
志賀の陣から大坂の陣まで戦関係があまり得意ではないので、関ヶ原周辺も女性関連くらいしか分からなかったりします…これではいかん、と思いつつ。感想記事書きながら頭を抱える場面もちらほら。自分の考え等を書き記す言い回しなども難しいです。見苦しい弱音でごめんなさい。
posted at 21:49:25
子々が亡くなったとき、二条康道が喪に服したようです。「御母方姑歟」と有るのですが、母方の姑?母方の血縁者という解釈で大丈夫でしょうか。一応大坂の陣後なので、康道の母完子が秀忠の養女扱いになっているかもしれませんが、子々と姉妹からだったからこその服喪だと考えていいようにも思います。
posted at 00:27:44
改めて史料確認。加賀郡北中條村に子々(「中納言様之御前様」)の化粧殿があり、子々の氏神が山王社だったため化粧殿内に社殿、米を寄進したそうな。光高誕生の際も、この山王社へ宮参りの予定があったが、健康上の問題で取りやめになったという話も。子々と光高の関係を偲ばせる貴重な史料ですね。
posted at 00:20:24
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