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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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[Twitter]興安院、朝覚

 

@hanahime8787 そのせいでエピソードや交わされた書状を見るに、京極家で育っても秀忠も江も初に気を配っていたようですね。記録は残っていなくても京極・徳川で肉親の愛情には恵まれていたように思います。若くして亡くなったのは不憫ですが。


posted at 19:27:20


@hanahime8787 そうですね。特に初は生まれた状況からして特殊なせいもあるかと。将軍家として地位を確立する前に、徳川家で育つことなく養女に出されたのは以降の徳川家の娘で見られない環境だと思います。そのせいで出生の記録も生母が抜けていたりちょっと変わっていますね。


posted at 18:41:33


@hanahime8787 そういう意味では、京極、徳川に縁が深く、当時を生きた渓心院の証言はとても貴重な史料ですね。彼女が偽りを記す意味も必要もありませんし。女性ならではの視点と語り口だと思います。


posted at 18:09:34


@hanahime8787 印象として、七夜の内くらい生まれてすぐに亡くなったのでしょうね。公家などの日記ではわりとそういう出来事が出てきますし。系図や編纂史料など、一次史料以外では夭折した子でもでも、誕生の一連の儀式を終えた子どもが記録に残っているように思います。


posted at 18:03:39


@hanahime8787 「御誕生があった」とありますので、早世なのだと思います。


posted at 17:32:40


反論になるかわかりませんが、徳川初や氏家古奈についてまとめていて思ったのは、「子どもがいない」とされていても実際は何度か出産があったということは思っているよりもたくさんあったのだなあ、ということです。それだけ幼児が夭折するのが珍しくない時代だったのですね。


posted at 15:16:50


御本人も仰っておいでですが、朝覚=秀勝説より根拠が薄く、結局一番大きな根拠は「秀吉の生涯を考えて長浜時代に子どもがいるはずがない」というところのように見えます…。なるほど、茶々の年表に治長との密通の噂をわざわざ書かれる理由が察せられます。残念です。


posted at 15:14:36


長浜城から大河ドラマ講座の資料が届きました。太田先生は妙法寺の秀勝の墓を山内一豊の娘与祢のものではとお考えのようです。そして、朝覚(秀勝とされる人)は秀次たちの兄弟ではと。


posted at 15:12:19

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プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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