@hanahime8787 日秀の建立した某寺の過去帳にも四兄弟と三姉妹の戒名有るようですし、そのように思うのですが、道昭に関しては「決定打」が足りないという感じです。
posted at 00:31:48
@hanahime8787 ありがとうございます。先ほどのリプで思いだし、おそらく同じ論文を読み返したところ道昭の墓所についての記述を見つけました。将軍家と姻戚だからというのでは、主体が徳川家のようで…あくまで忠栄が徳川家に働きかけて松殿家再興を遂げたように私には見えました。
posted at 23:40:19
@hanahime8787 義姉と同じ名前なのが面白いなあと思います。実際に嫁いでいたら改名していたかもしれませんよね。どこに葬られたかが分かればいいのになあと思っています。やっぱり実家の墓所(瑞龍山?)でしょうか。
posted at 23:01:06
@hanahime8787 「恵了院」ですよね。私もまさに調査中です。生没年も史料によって没日が違っていたりするのもややこしいです。本名も、結局嫁がずに終わった人なので、「通子」はやっぱりおかしいですよね。後年の編纂史料によくある、「本名+子」なのだろうと解釈しました。
posted at 22:41:55
通はおそらく道昭の人となりを知ることもなく寡婦となり、その後独身を通したわけですが、その原因、背景が気になっています。頼房の意向?通の意志?当時、夫と死に分かれた場合、江のように喪が明けるのを待って、もしくは千のように「縁切り」の手続きをすれば再嫁はできたはず。
posted at 18:32:33
松殿道昭の婚約者、徳川通(通子)は輿入れの直前道昭が歿し、その後再嫁した形跡は見当たりません。婚礼時、道昭は三十二歳、通は二十三歳。二人とも当時としては晩婚。通は徳川頼房の第一子で側室所生ではあるが、いわゆる「嫡女」でもあります。
posted at 18:30:34
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