Posted at 2013.02.20 Category : ∟つぶやきまとめ
大坂の陣の後、熱田神宮社人が求められて奉行に提出した誓約書(大坂牢人を囲わない旨を誓わせた)、改元から三月経っても「慶長廿年」を用いているところが面白い。畿内じゃないのに。
posted at 22:53:25
そうなると、史料中に出てくる「筑州母儀」はやっぱり光高の母となり、元和八年に亡くなっている子々(天徳院)ではない女性を指すことに。利常のことなら、母寿福院が寛永八年まで生きているのでそっちかなと思ったんだけど、それもないっぽいですね…。ううん。
posted at 21:09:41
寛永六年八月の前田「筑州」と「播磨之御姫様」の縁談について考えていました。「筑州」が光高なのか父利常なのかと考えていましたが、この年の春に光高が家督を継ぎ筑前守となり、また前年に千の娘勝が池田家へ輿入れしていることから、やっぱり筑州=光高、御姫様=千ということに。
posted at 21:07:43
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