「(智勝?)院(殿岳?)桂宗春大禅定尼/慶長廿年(以下判読不能)」
…年月による磨耗でかなり読みとれない部分はありますが、読めるところだけで判断しても、これってどう見ても大野治長夫妻ではなく、大蔵卿局夫妻の供養塔です。
<過去帳>
福巌院殿忠屋元公庵主 大野佐渡殿 慶長四年三月四日
節叟元忠禅定門 大野修理殿 慶長廿年五月八日
良圃元張禅定門 大野主馬殿 慶長廿年五月八日
桂岳宗春禅定尼 大蔵卿大野佐渡殿内儀 慶長廿年五月八日
南陽院殿凉巌受招大禅定尼 大野修理内儀 十二日
嵩陽寺殿秀山大居士 秀頼卿二十三 五月七日(ママ)
大處院殿英巌大姉 秀頼卿簾中 五月七日(ママ)
治長父が確かに佐渡守であり、晩年は法体であったこと、彼が慶長四年三月四日に亡くなったらしいことから、大蔵卿局も晩年は落飾し尼だったのでしょう。
さて、ここで新しい疑問が…「三名幅」と言われる「大野治長夫人」像はどうなるの…?
略史曰く、過去帳には「南陽院殿凉巌受招大禅定尼」の法名とを大野修理の内儀であるという旨が十二日の頁記されていたそうです。
また、この画像には「涼岩受招信女」の法名があり、ここからこの画像が大野治長夫人像とされたようです。
なお、この画像の讃は慶長十五年六月に書かれたものとのことで、南陽院がそのころにはすでに亡くなっていたらしいことがわかります。または、正栄尼の画像のように、亡くなった日付が画像に付されているとしたら、南陽院の没日は慶長十五年六月十二日ということになります。
某様から教えていただいた書籍では、この女性を稲葉秀方夫人としており、その画像も見ることができました。
その特定理由についてはまだ定かではありませんが、稲葉秀方と南陽院の法名「青岳受松禅定門」と「涼岩受招信女」が対になっていると考えられているようです。
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