特に詳しいわけではないので、何か不備がありましたら御容赦のほどを。
〔戸田家系校正余録〕
・「光源君」
・「贈大納言家(広忠)の御女」
・「東照宮の御妹」
・「花慶君(戸田憲光花慶院)の御所生」
・永禄四年、十七歳で荒川甲斐守義広の妻となり、同七年離別。居城八面(やつおもて)を去り寄近村に蟄居。同十年九月二十九日に義広が没したのち、二男一女を連れて徳川家に帰る。
・「酒井左衛門尉忠次」の「姑夫」(「高橋氏家伝」)
・天正三年二月、信長の養女として筒井順慶の妻となる。子はなし(「藩翰譜」、「酒井侯家家伝」など)
・元和元年、筒井家が絶え、徳川家へ帰る、この時政次の次男左馬助某(後の織部)とともに江戸元飯田町黐木坂に住まう。その後秀忠が市場の化粧料千石をもって綾部を小姓として召したという。
・酒井忠勝は市場の孫娘の夫(一女「木崎殿」は松平金弥親能の妻となり、その娘が忠勝の妻)
・市場は酒井忠勝邸で没す。
・寛永十年二月二十二日逝去(本誓寺の記録によるという)
・享年「八十九」
・「天文十四年の御生にして」
・「光源院殿松誉貞月大禅定尼」
・馬喰町の浄土宗本誓寺に葬られる。のちに本誓寺は深川に移される。(「酒井侯家伝」、「筒井家伝」、「本誓寺由緒書」など)
〔筒井系図〕
・「政次」の子「政信」に「母市場姫君」とある。政信の項に「左馬助」、「綾部」とあり。
・「政次」の父「政行」の項に「市場姫君」の化粧料として上野沼田郡に千石を賜るとあり。
〔江城年録/三月二十三日〕
・「市場様」
・「権現様御妹」
・「荒川甲斐守殿御台」
・享年「八十」
〔寛永日記/三月二十三日〕
・「いちば殿」
・「権現様御妹」
〔大猷院実紀/二月二十三日〕
・「市場殿」
・「神君の御妹君」
・「荒川甲斐守頼持」に嫁し、後に「筒井紀伊守政行」の妻となる
・享年「八十九」
・「光源院」
〔御九族記〕
・「市場姫」
・「荒川甲斐守源義広室」
・「御母戸田弾正少弼藤原康光女」
・「永禄四辛年五月御婚姻」
・「寛永十癸年二月二十二日御逝去」
・「光源院殿松誉貞月、葬深川本誓寺」
・「後筒井伊賀守定次に御再縁トアルハ未詳」
〔徳川幕府家譜〕
・「市場殿」、「宝鏡院殿」
・「永禄四年」、「荒川甲斐守頼持」の妻となるが、「永禄六年」離別。二女(後の酒井備後守忠利の妻、二女は筒井定次の妻という)をもうける。
・後に筒井伊賀守定次の妻となる(但し、「筒井ハ元来順慶ト云テ・・・」と定次=順慶となっている)
〔寛政重修諸家譜〕
・「市場姫君」
・「東照宮の御妹 広忠卿息女」
・筒井順斎の項に妻として記載(※「今の呈譜政行に作る」)
・大和国ののち上野国木崎に化粧料七百石を給う。
・寛永二十年二月二十二日逝去
・「松誉貞月光源院」
・馬喰町本誓寺に葬られる。後に本誓寺は深川へ移転。
・「政行」は家康が浜松在城の時から仕える。大和国福住に五千石を賜り、諸戦功により市場を妻として賜る。文禄元年、武蔵国足立郡に千石の朱印を賜るが、これは市場の化粧料という。
・酒井修理太夫忠実の呈書によると、市場は初め荒川甲斐守頼持に嫁し、二男一女(三郎四郎、次郎九郎〔または次郎三郎、荒川甲斐守義弘〕、松平金弥親能妻木崎)をもうけた。頼持の死後、筒井定次(※後の順斎とする)に嫁ぎ、上野国木崎で化粧料七百石を給う。市場の娘が木崎と称したのはこの地が由来。
〔翁草〕
・広忠長女
・「市場殿」
・「後の宝鏡院殿と称す」
「荒川甲斐守頼将室、後に酒井備後守忠利室、一説後に筒井伊賀守定次、また筒井主殿介定慶に再嫁」
○市場=筒井定次妻説
これは「御九族記」、「徳川幕府家譜」、「翁草」に見えますが、「御九族記」ではその説が「未詳」であると書かれ、「徳川幕府家譜」では定次を順慶と混同、「翁草」では諸説のうちの一つとして紹介しています。
さらに「徳川幕府家譜」には娘が定次の妻であった説も見え、「寛政重修諸家譜」には順斎=政次としながら、改めて「政次」の項に市場の孫娘が妻となったという記載も見えるなど、各所に混乱が見えます。
○市場の法名
「宝鏡院殿」とするのは「徳川幕府家譜」、「翁草」で、他の史料では「光源院殿松誉貞月」としています。
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