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織田秀子(藤)について

関ヶ原合戦前後、茶々の側にいたという女性。
『十六・七世紀イエズス会日本報告書』にみえる彼女の素性についてのヒントを挙げてみます。

・「信長の娘」
・慶長八~九年ごろ受洗しキリシタンに。内藤ジュリアの説得による。夫は慶長六~七年頃キリシタンに。
・受洗後、自らの母親にキリシタンになるよう説得した。=慶長八~九年ごろ母が生存していた。
・茶々との間には「緊密な友情と従属関係」があり、また「平素茶々の傍らにい」た。彼女が茶々に対してキリシタンの教えを度々説いたため、茶々がキリシタンに対し「好意的」になったとされる。


…というわけで、信長の娘から候補のひとりとして挙がっているのが、筒井定次の妻となった秀子もしくは藤でした。
ただ、定次の受洗は天正二十(1592)年らしいので、報告書の時期とズレがあるのが気になっています。
が、とりあえずその他いろいろと調べてみたことをまとめておきたいと思います。

生没年:
永禄十年~慶長二十年七月十日(「筒井補系」、「筒井家伝覚書」では没日が一日)

称:
・「上野御方」(「筒井補系」、「筒井家伝覚書」)

法号:
・「○雲院殿」(「筒井系図」)
・「雲上良清大姉」(筒井村寿福院位牌、「筒井補系」)

父: 織田信長(『寛政重修諸家譜』など)
・信長十四人目の息女(「筒井諸記」)
・信長の末女(「和州諸将軍伝」)
夫:筒井定次
・天正六年三月、筒井藤四郎定次に輿入れ(「和州諸将軍伝」)

子:
・順定(藤太、宮内少輔) …慶長六年一月五日(伊賀)~元和元年三月五日 (「筒井系図」、『断家譜』)
・春次(藤丸、浄慶) …?~寛永十八年十月十五日(「筒井系図)
・筒井定次の娘たちとの母娘関係は不明。ただ、定次には仁木氏という妾がいたらしい(『多聞院日記』)
(※「定次の女」として伝わる女性たちについて、「筒井系図」によると、松倉重正の妻は政次の女、加納豊前の妻は順慶の女とあります。)

(その後)
・慶長十三年六月に夫定次が領地を没収され幽閉される。
・次男春次とともに大和唐招提寺法華院に住む(「筒井補系」)
・長男順定は慶長十三年六月八日に父定次とともに罪を被り、慶長二十年三月五日に父とともに岩城で死を給う。旧臣が豊臣家へ属したためという。定次五十四歳、順定十五歳。(『寛政重修諸家譜』、『武徳編年集成』、『慶長見聞書』)定次の法名は「前伊州太守四品拾遺宗用大居士」、「伊州太守大雲宗用大居士」。順定の法名は「一運宗剣」、「宗運居士」大安寺で火葬され、筒井家菩提寺伝香寺に墓碑が建てられたという(「伝香寺過去帳」、「増補筒井家記」、「筒井家伝覚書」、『断家譜』)

(異説)
・初め中川秀政に嫁し、文禄元年十月に中川秀政が没したのち定次に嫁いだ。寛永九年四月十二日逝去した。法号「法連日栄尼」(「筒井補系」/「中川家説」と注記あり)
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