以前ご紹介しましたが、同史料には彼女が明智光秀の娘であったと紹介されています。
母(永誉寿慶大姉)は近江永原城主の嫡男だった永原仁左衛門の娘で、光秀と離別後、当時の慣習に従って娘共々永原家に帰ったため、正栄尼は明智姓ではなく永原姓を称していたようです。
永原家に帰ったのち、養嗣子を迎えて福左衛門を産んだようです。
祖父
・永原仁左衛門(『天正記聞』)
母
「永誉寿慶大姉 渡辺正栄並永原福左衛門母 西暢真光妻」(『清凉寺過去帳』)
・明智光秀前妻(『天正記聞』)
父(養父か)
「西暢真光信士 江州永原住渡辺正栄並永原福左衛門父 石塔有之」(『清凉寺過去帳』)
清涼寺墓地に墓地があったようですが現在は不明。
弟
「永原福左衛門」(『清凉寺過去帳』)
後に秀吉の家臣であった渡邊宮内少輔に嫁ぎ、大坂の陣で活躍する内蔵助糺、ツル、祐清の母となりました。
夫・渡邊宮内少輔:
『寛政重修諸家譜』:夫は渡邊宮内少輔「昌」(渡邊出雲守告の次男)。もとは山城国田中の人。出雲守は松永久秀に仕え、宮内少輔は秀吉に仕えたという。
『本朝武芸小伝』:夫は渡邊宮内少輔「登」。
『続武家閑談』:夫は渡邊「民部少輔」。摂津の人。
「源誉道抱禅定門 渡邊宮内 内蔵助父」(『諸寺過去帳』高野山過去帳)
「源誉道把居士 渡辺宮内正栄夫(二十日)」(『清涼寺過去帳』)
(清凉寺 渡辺宮内墓所)
※但し、没日など早崎兵庫〔「蓮池院源叟休把居士」〕と混同が見られる
子・渡辺糺
「源大静閑信士 渡邊内蔵助」(『清凉寺過去帳』)
(清凉寺 渡辺糺墓所)
糺の妻
・くう「徳芳妙寿禅定尼 慶長十四年二月一日/渡辺権之助内クウ」
・伊勢田丸四万五千石の城主牧村兵部大輔(利貞)の娘(『天正記聞』)
・祖心尼?(稲葉家の記録)
娘・ツル
「正心院殿宝樹水庵大姉 万治四年二月(二十一日)/往相院女道三玄鑑室」(『清涼寺過去帳』)
『天正記聞』:「正栄亦有娘、ツルト云フ、」
『寛永諸家系図伝』:今大路親純〔道三・玄鑑〕は江が和子を出産する際の難産を助けた、また江の臨終にも遣わされるが、その道中で急死する。
娘婿・今大路玄鑑
「前道三亀渓玄鑑法印 寛永三年九月十九日」(『清凉寺過去帳』)
・親純 兵部大輔。江が和子を産む際、その難産を助けた。江の臨終の際にも病を押して駆けつけようとするも、寛永三年九月十九日、道中で病死。享年五十歳。
子に祐智(愛宕教学院)、道三玄鎮(親昌)、および女子四人あり(『寛永諸家系図伝』)
(清凉寺 今大路玄鑑、ツル夫妻墓地)
娘・祐清
「以春軒和渓宗仲禅者 慶長十一年九月(八日)/浦野祐清夫渡辺正栄一門也」
「廓雲了性童子 丙午年(慶長十一年?)八月(十九日)/浦野祐清息往想院ノ孫」
夫の死去後、落飾し尼となり、「正栄」と号しました。
「正ゑいさま」(『本光国師日記』)彼女が正栄尼という名前で登場する最も早い史料は、一次史料ではありませんが『続撰清正記』で、慶長十六年四月二日に登場しています。
「庄栄」「正栄 渡邊内蔵助母」(『土屋知貞私記』)
「正永」(『浅井一政自記』)
「正栄殿」(『続撰清正記』)
「正永」(『豊内記』)
「永原正栄尼」(『難波戦記』)
「渡邊正栄様」(『清涼史論』)
「正栄尼 渡邊内蔵助母」「渡邊内蔵助母 正永尼」(『駿府記』)
「永原之正栄尼」「衣原正栄尼」(『元寛日記』)
「正栄尼」(『慶元記』)
「正永」(『慶長見聞録』)
「少栄」(『北川遺書記』)
「正栄尼」(『駿府政事録』)
「正栄尼」(『編年大略』)
「正栄」(『落穂集』)
「正栄」(「大坂物語」)
その後の活躍の割には、それ以前に名前が全く見えないため、この辺りが夫の死と正栄尼の出家の時期なのではないだろうか…と推測しています。
正栄尼は大坂の陣の最中糺とともに戦火に歿しますが、孫(渡辺守/「陽春院徳林徹居士 元禄三年正月四日 渡辺内蔵助権兵衛正栄孫」〔『清凉寺過去帳』〕)が乳母の機転で生還したこともあって、大坂方の戦没者の中ではかなり手厚く供養されています。
「往想院西誉正栄 永原氏 渡邊宮内室 内蔵助等母 五月七日自殺於大坂城」(『諸寺過去帳』高野山過去帳)
「渡邊内蔵助源尚 宮内少輔某男、元和元年五月七日、於大坂戦死、源太静間
源尚母 同日自殺、往想院西誉正栄」(『諸寺過去帳』)
「往相院西誉正栄大姉 慶長廿年五月七日大坂討死 渡辺内蔵助母 宮内妻 祠堂有之」(『清涼寺過去帳』)
「往想院西誉正栄大姉」(『清涼史論』、「伝渡辺正栄尼画像」)
・清凉寺位牌
(表面)「往想院西誉正栄大姉/岳樹清光(永原忠左衛門)/源太静閑(渡辺糺)/量寿栄薫(糺女) 各位」
(裏面)「慶長廿年五月七日/大阪討死/当寺大旦那」
(清凉寺 正栄尼墓所)
正栄尼の周りには、実家である永原の一族が集っていたようで、渡邊氏だけではなく永原氏も少なくない人が正栄尼に殉じています。
渡邊氏:
「源大静閑信士 渡邊内蔵助」「量寿栄薫信尼 内蔵助女」「雲龍童子 同上息」(『清涼寺過去帳』)
「雲龍童子 渡邊内蔵助子息 五月八日」(『諸寺過去帳』高野山過去帳)
永原氏:
「獄樹清光信士 永原忠左衛門」「棄大良雲信尼 忠左衛門妻」「永宏常有信士 忠左衛門息忠兵衛」「隆巌秀知信尼 忠兵衛妻」「性翁高月信士 永原福太郎」
今日は『武功雑記』を読んでいたのですが、正栄尼についてこんな記述がありました。
「正永ハ御中ト云シ女ナリ内蔵介母也」
ここで、正栄尼の本名は「御中」つまり「なか」といった、とあります。
ここで、秀吉生前最後のイベント醍醐の花見を振り返ってみると…確かに、「なか」という女性の存在が。
「桜花かかるみゆきに相生の 松も千歳を君にひかれて」
「君か代にあふうれしさをみゆき山 花やいろ香にいでてみすらむ」
正栄尼、存在感の割に名前が大坂の陣前後にしか出てこない。夫の死後出家したとのことなので、渡邊宮内少輔(渡邊昌)が亡くなったのは慶長の晩年ごろだったのではないかという推測をしています。俗名で活躍していたのか、別の候名だったのか…。
posted at 02:45:24
怪しい…?とにらんでいるのが、三位局。正栄尼と同じく五月七日に亡くなったらしいところと、「三位局」という大上臈の一人であるにも関わらず出自が全く不明なところ。ただ、大坂の陣の戦没者史料で名前が重複して登場するので微妙です。一応一次史料では被っていないはずなのですが…
posted at 14:34:11
一方、この花見で「なか」と「三ゐ(三位局)」が同時に存在していますので、↑の推測は成り立たないことになりますね。
慶長十六年の時点で、茶々の側に「なあ」という侍女がいるのだけど…誰だろう…。「おなあの御方」とあるほか、「おなあ」と呼び捨ててあるからもちろん天秀尼ではない(第一天秀尼の名前は「なあ」ではない)し、順序は大蔵卿・上臈・二位・饗庭・右京大夫・宮内卿・阿古の次。伊茶よりは上位の様子。
posted at 01:40:44
このツイートで出てくる「なあ」はこのときから正栄尼ではないかなと考えていたのですが、「なあ」ではなく、「な可」なのか…?
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