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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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古奈と初 興安院徳川初供養塔(三宝寺)

 
茶々姫をたどる汐路にて

三宝寺は二度目の参拝だったのですが、前回は気がついていませんでした。

古奈が建立したといわれる、養父母京極高次・常高院夫妻の供養塔の隣に、義理の姉妹である興安院徳川初の供養塔がありました。これも古奈によるものと思われます。
過去帳にも寛永七年三月四日付で「興安院殿豊誉天清陽山大禅定尼」の戒名がありました。

伝通院の墓所もあまり目立たちませんが(とはいっても大きな墓碑です)、こちらにも供養塔があるとは驚きました。
血はつながりませんが、仲の良い姉妹だったようです。
初が忠高を「あにさま」と呼んだエピソードは知られていますが、ひょっとすると古奈のことも「あねさま」と呼んで親しんだのかもしれません。
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Comment

1. 妙な記事

紀伊様
ツイートの朝日(家康室では無く)の記事は、何か変ですね。
鑑定の決め手が、やはりあれだけの事だったとすると、於市の方の書状の蓋然性が高い、などとは、とても言えないと思います。箱書きの事に触れないのも、如何なものか。
そう言えば、あの消息のその後の消息はどうなっているのでしょう?
そして、驚いたのが、『江の生涯』が出るまでは、江は慶長地震の時点で江戸にいた、というのが、定説であったかのような書かれ様です。出版前から、江の江戸下向時期について、あれこれ考えて、いろんな関連本も立ち読みしましたが、そんな事が書かれた物などついぞ見ませんでした。k2さんに、「家忠日記」から慶長四年と推定している論文有り、と教えていただいて、ようやく下向年までたどり着いた位で…。
伝通院のこの時点での居所は、江戸の可能性は高いと思います。伏見に居る事は、江の他にも人質(大政所級の)を増やす事にしかなりません。慶長七年に伏見城で亡くなりますが、譜略の一書の、於大の方の項の補注には、「○伏見城ニ逝去ノ事京御見物トシテ御上京ノ所御病気ニテ被為入伏見城逝去ナリ」と有り、江戸から上洛中に亡くなったようです。

2012.02.11 | 武江[URL] | Edit

2. Re:妙な記事

>武江さん

相変わらず大変ご無沙汰いたしております。いろいろと手をつけてはいるのですが、記事に書くまでまとまらない今日この頃です…

市のものだとする書状をはじめ、「新発見」とされる書状は、ぜひもう少し議論を重ねられた上で誰のもの、と特定していただきたいです。
最初に見つけた、解釈した方の説が定説となってしまうのは腑に落ちないところが…(もちろん見つけられた、世にお出しになった功績はあまりあるものがあると思いますが)

いろいろとツッコミどころがあるものの、大河も終わってしまいましたし、活発な議論は期待できないのでしょうか。
そう思うと、昨年の大河の失敗はとても痛いなあと思います…

2012.02.19 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

    
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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