Posted at 2011.11.28 Category : ∟史料関係
史料編纂所で書き写してきたものと、『東浅井郡志』収録分を比較。
○馨庵寿松
史料編纂所:「預修馨庵寿松大姉 逆修/浅井千代鶴女/永禄十年二月三日/下野守大方殿」
東浅井郡志:「預修馨庵寿松大姉 逆修/浅井鶴千代女/永禄十年二月三日/下野守大方殿」
赤字の箇所が違います。どちらが正しいのでしょうか。
『東浅井郡志』の解釈では、父の次妻である馨庵寿松のために、正妻蔵屋の娘である鶴千代が供養塔を逆修した…というかなり不自然な解釈になっています。
普通に解釈するならば、下野守(久政)大方殿(母)である浅井千代鶴女が永禄十年二月三日に自らの供養塔を逆修したと読めますので、もともとは「千代鶴」だったのでしょう。
私は、これまで浅井千代鶴と尼子馨庵は別人だと思っていましたが、そもそも馨庵は尼子氏なの?というところにぶつかっています。
彼女が尼子氏出身であるという根拠は『島記録』にある「久政ノ御母ハアマゴノ息女ノ由」という一節だけなんですよね…
馨庵が竹生島を篤く信仰していたことは事実で、尼子氏もまた奉加していることと関係があるのかもしれませんけれど、自らの供養塔の逆修記事によれば、久政生母である馨庵寿松は浅井千代鶴女を名乗っていることは無視できません。
こういうことがあって、私は現在、馨庵寿松=浅井千代鶴女と考えています。
○二位局?
「松清禅定門霊位/江州北郡渡邊与右衛門殿/天正十年六月五日/摂州大坂二ノ丸ノ内御タケ局ヨリ御立候/文禄三年六月五日」
これは、茶々の女房であった「御タケの局」という女性が、渡邊清という人を追善供養した記録です。忌日をみると、本能寺の変の三日後にあたり、その辺りのごたごたで命を落としたのでしょうか。
この人の子には渡辺筑後守勝、そして茶々の女房であった二位局がいます。
「御タケの局」というのは二位局の名のようです(もしくは母か姉妹で同じく茶々に仕えた人がいたのでしょうか?)。
落城のときに、いろいろ噂のある彼女ですが、秀頼が生まれた翌年には茶々に仕えており、古参の女房であったということは間違いなさそうです。
○大蔵卿?
「玉巖宗珠禅定門/江州北郡ヲ田ニ村大蔵卿/天正十一年四月二十一日」
「秀譽安誓尼公 逆襲/江州北郡ヲタニ村大蔵卿/文禄三年六月五日」
『高野山浅井過去帳』にある以上、この「大蔵卿」は大蔵卿局のように思うのですが。
小谷の出身で、文禄三年には尼となっていたことになります。
ちなみに、天正十一年四月二十一日は賤が岳決戦があったときで、大蔵卿局は身内をこの日に亡くしてしまったと考えられます。孝蔵主のように尼姿で活躍していたということでしょうか。
千の乳母刑部卿局も、千の身替りで満徳寺で出家した後も「刑部卿局」として千の傍で活躍を続けていたようですし。
○刑部卿局&くす
『高野山浅井家過去帳』から離れますが、満徳寺関係の史料を見る機会があったのでついでに。
『満徳寺由緒書』には「台徳院様(秀忠)御姫君(千)、大坂御城より一旦満徳寺え御入院遊ばされ、御離縁之御趣意相立、本多家え御再縁遊ばされ候、則御姫君(千)御替ため、形部局(刑部卿局)従。台徳院様(秀忠)御住職仰付られ、中興開山俊長(俊澄)上人と改名」と紹介されています。
刑部卿局を「浅井長政の娘」とする根拠がこの満徳寺関係の史料です。
『満徳寺過去帳』の十二日の項には、「慶安三庚寅五月/満徳寺中興大一房俊澄上/天樹院殿御乳人形部卿事/浅井殿末ノ息女 俊澄ハ刑部卿殿娘」とあり、『満徳寺代々上人法号』には、「満徳寺中興大一房俊澄上人 慶安三庚寅年五月十二日/江州小谷之城主浅井肥前守長政娘/御名郷部局と申上候、」また千の項に「天樹院様御かハリトシテ、浅井肥前守長政公の御息女、郷部卿局殿其カワリトシテ御入寺なされ、俊澄上人ト改」とあります。
結論からいえば、私はこの記述について、刑部卿局と江の混同であろうと考えています。
『満徳寺過去帳』には千の母である江も名を連ねているのですが、(十五日項)「寛永四年丁卯九月/崇源院殿一品大夫人昌誉大禅定尼/秀忠公御袋」とあります。江が亡くなったのは寛永三年ですし、「秀忠公御袋」は「家光公御袋」の誤りでしょう。
「浅井肥前」が「浅井備前」なのはいうまでもなく、江についても記述の不正確さが散見されます。
もうひとつ気になるのは、本当に刑部卿局が長政の娘ならば、過去帳等に長政の名が見えてもいいと思うのですが、私見の限り見つかりませんでした。同じく長政の娘とされるくすが再興した龍澤寺には浅井長政と思われる「浅井太守 天窓芳清大居士」の位牌(「本念宗心大姉」との合同位牌)が安置されています。
話はそれますが、くすは『三方郡誌』に「豊臣秀吉の侍女」、「秀吉の妾芳寿院(寿芳院の誤り)の乳母」と記されていますが、くす自身が発給した黒印状に「京こくさま(「京極様」、龍のこと)御内」とあることから龍の侍女であったことは間違いありません。くすを京極家の娘という伝承もあるようですが、おそらく「京こくさま御内」を誤解したものと思われ、逆にこの文言からくすが京極家の娘ではなかったことがはっきりします。
龍澤寺に豊臣秀吉の朱印状がのこり、また秀吉の木像や位牌があることも秀吉との関係を伺わせられます。
大坂城天守閣の『特別展 戦国の女たち ―それぞれの人生―』はこれらの史料から「秀吉側室松の丸殿(京極竜子)付きの侍女として秀吉に近侍したものであろう」と結論付けています。
ちなみに、この合同位牌、くす木像・発給黒印状、豊臣秀吉の朱印状・位牌・木像などについても『特別展 戦国の女たち ―それぞれの人生―』に書かれています。
実際に一度龍澤寺を参拝したのですが、その時にくす木像、秀吉木像、合同位牌、くす位牌、秀吉位牌を実際に拝見しました。他に、徳川歴代将軍合同位牌(「東照大神君(家康) 台徳院殿(秀忠) 大猷院殿(家光) 厳有院殿(家綱) 常憲院殿(綱吉) 文章院殿(文昭院殿、家宣) 有昭院殿(有章院殿、家継) 有徳院殿(吉宗) 淳信院殿(惇信院、家重)」)、歴代小浜藩主合同位牌(「空印寺殿(酒井忠勝) 広徳院殿(?) 有厳院殿(勇厳院、酒井忠直) 高台院殿(酒井忠隆) 放光院殿(宝光院、酒井忠囿) 霊苗院殿(酒井忠音) 実相院殿(酒井忠存) 霊岳院殿(酒井忠用) 樹徳院殿(酒井忠与)」)が祀られていました。当時お寺の方が後不在で、門徒の方に入れていただいたのでお話を伺うことができなかったのですが、過去帳などは残されていないのでしょうか。龍や父母の戒名など、残されていないか気になります。
失礼いたしました。くすについて、ちょっと気になるところがあったのでついでに。
一時、くすが転身して刑部卿局となったのだろうかということも考えたのですが、戒名も違いますし、それは無理がありますね。没年などはっきりすればよいのですが。
…とそういうわけで、満徳寺で刑部卿局が長政を供養したらしい跡が見えないのがひとつ。
千は早くに寡婦となり、秀忠の嫡女として徳川家で大きな影響力をもつ存在となります。刑部卿局はそんな千の傍で長く仕えていました。
その割に、江の姉妹という情報が満徳寺の記述以外に全く見られないことにさらなる不自然さを覚えます。
江の姉妹であれば千にとっては実の伯叔母にあたるわけで、そのような近しい女性が乳母となることも他に例のない不自然なことです。また、兄弟姉妹でなくとも、同族というだけで三好直政は江に憚り浅井姓を捨てたというくらいに、江の同族、外戚であることは重大なことでした。しかし、秀忠の嫡女の乳母という立場にありながら、刑部卿局についての記録には江との関係性が全く見えてきません。
最後に気になるのは満徳寺の記述にみえる「浅井殿末ノ息女」という書き方です。
長政の末娘は他でもない江その人です。小谷生まれか、岐阜生まれかという争点があるほどに、江は小谷落城と前後して生まれました。もちろん長政は、江が生まれた年の九月一日まで生きていたわけですから、ギリギリに別の女性が懐妊したとして翌年生まれたとすれば江より遅い生まれにはなります。なりますが、「末ノ息女」と言い切るからにはご落胤のような認知されない存在ではなく、江のことを指しているように私は思うのです。
これらの理由と、江についての記述の不確かさから、刑部卿局が浅井長政の娘であるという伝えは、江の出自と混同したものであると私は考えています。
○馨庵寿松
史料編纂所:「預修馨庵寿松大姉 逆修/浅井千代鶴女/永禄十年二月三日/下野守大方殿」
東浅井郡志:「預修馨庵寿松大姉 逆修/浅井鶴千代女/永禄十年二月三日/下野守大方殿」
赤字の箇所が違います。どちらが正しいのでしょうか。
『東浅井郡志』の解釈では、父の次妻である馨庵寿松のために、正妻蔵屋の娘である鶴千代が供養塔を逆修した…というかなり不自然な解釈になっています。
普通に解釈するならば、下野守(久政)大方殿(母)である浅井千代鶴女が永禄十年二月三日に自らの供養塔を逆修したと読めますので、もともとは「千代鶴」だったのでしょう。
私は、これまで浅井千代鶴と尼子馨庵は別人だと思っていましたが、そもそも馨庵は尼子氏なの?というところにぶつかっています。
彼女が尼子氏出身であるという根拠は『島記録』にある「久政ノ御母ハアマゴノ息女ノ由」という一節だけなんですよね…
馨庵が竹生島を篤く信仰していたことは事実で、尼子氏もまた奉加していることと関係があるのかもしれませんけれど、自らの供養塔の逆修記事によれば、久政生母である馨庵寿松は浅井千代鶴女を名乗っていることは無視できません。
こういうことがあって、私は現在、馨庵寿松=浅井千代鶴女と考えています。
○二位局?
「松清禅定門霊位/江州北郡渡邊与右衛門殿/天正十年六月五日/摂州大坂二ノ丸ノ内御タケ局ヨリ御立候/文禄三年六月五日」
これは、茶々の女房であった「御タケの局」という女性が、渡邊清という人を追善供養した記録です。忌日をみると、本能寺の変の三日後にあたり、その辺りのごたごたで命を落としたのでしょうか。
この人の子には渡辺筑後守勝、そして茶々の女房であった二位局がいます。
「御タケの局」というのは二位局の名のようです(もしくは母か姉妹で同じく茶々に仕えた人がいたのでしょうか?)。
落城のときに、いろいろ噂のある彼女ですが、秀頼が生まれた翌年には茶々に仕えており、古参の女房であったということは間違いなさそうです。
○大蔵卿?
「玉巖宗珠禅定門/江州北郡ヲ田ニ村大蔵卿/天正十一年四月二十一日」
「秀譽安誓尼公 逆襲/江州北郡ヲタニ村大蔵卿/文禄三年六月五日」
『高野山浅井過去帳』にある以上、この「大蔵卿」は大蔵卿局のように思うのですが。
小谷の出身で、文禄三年には尼となっていたことになります。
ちなみに、天正十一年四月二十一日は賤が岳決戦があったときで、大蔵卿局は身内をこの日に亡くしてしまったと考えられます。孝蔵主のように尼姿で活躍していたということでしょうか。
千の乳母刑部卿局も、千の身替りで満徳寺で出家した後も「刑部卿局」として千の傍で活躍を続けていたようですし。
○刑部卿局&くす
『高野山浅井家過去帳』から離れますが、満徳寺関係の史料を見る機会があったのでついでに。
『満徳寺由緒書』には「台徳院様(秀忠)御姫君(千)、大坂御城より一旦満徳寺え御入院遊ばされ、御離縁之御趣意相立、本多家え御再縁遊ばされ候、則御姫君(千)御替ため、形部局(刑部卿局)従。台徳院様(秀忠)御住職仰付られ、中興開山俊長(俊澄)上人と改名」と紹介されています。
刑部卿局を「浅井長政の娘」とする根拠がこの満徳寺関係の史料です。
『満徳寺過去帳』の十二日の項には、「慶安三庚寅五月/満徳寺中興大一房俊澄上/天樹院殿御乳人形部卿事/浅井殿末ノ息女 俊澄ハ刑部卿殿娘」とあり、『満徳寺代々上人法号』には、「満徳寺中興大一房俊澄上人 慶安三庚寅年五月十二日/江州小谷之城主浅井肥前守長政娘/御名郷部局と申上候、」また千の項に「天樹院様御かハリトシテ、浅井肥前守長政公の御息女、郷部卿局殿其カワリトシテ御入寺なされ、俊澄上人ト改」とあります。
結論からいえば、私はこの記述について、刑部卿局と江の混同であろうと考えています。
『満徳寺過去帳』には千の母である江も名を連ねているのですが、(十五日項)「寛永四年丁卯九月/崇源院殿一品大夫人昌誉大禅定尼/秀忠公御袋」とあります。江が亡くなったのは寛永三年ですし、「秀忠公御袋」は「家光公御袋」の誤りでしょう。
「浅井肥前」が「浅井備前」なのはいうまでもなく、江についても記述の不正確さが散見されます。
もうひとつ気になるのは、本当に刑部卿局が長政の娘ならば、過去帳等に長政の名が見えてもいいと思うのですが、私見の限り見つかりませんでした。同じく長政の娘とされるくすが再興した龍澤寺には浅井長政と思われる「浅井太守 天窓芳清大居士」の位牌(「本念宗心大姉」との合同位牌)が安置されています。
話はそれますが、くすは『三方郡誌』に「豊臣秀吉の侍女」、「秀吉の妾芳寿院(寿芳院の誤り)の乳母」と記されていますが、くす自身が発給した黒印状に「京こくさま(「京極様」、龍のこと)御内」とあることから龍の侍女であったことは間違いありません。くすを京極家の娘という伝承もあるようですが、おそらく「京こくさま御内」を誤解したものと思われ、逆にこの文言からくすが京極家の娘ではなかったことがはっきりします。
龍澤寺に豊臣秀吉の朱印状がのこり、また秀吉の木像や位牌があることも秀吉との関係を伺わせられます。
大坂城天守閣の『特別展 戦国の女たち ―それぞれの人生―』はこれらの史料から「秀吉側室松の丸殿(京極竜子)付きの侍女として秀吉に近侍したものであろう」と結論付けています。
ちなみに、この合同位牌、くす木像・発給黒印状、豊臣秀吉の朱印状・位牌・木像などについても『特別展 戦国の女たち ―それぞれの人生―』に書かれています。
実際に一度龍澤寺を参拝したのですが、その時にくす木像、秀吉木像、合同位牌、くす位牌、秀吉位牌を実際に拝見しました。他に、徳川歴代将軍合同位牌(「東照大神君(家康) 台徳院殿(秀忠) 大猷院殿(家光) 厳有院殿(家綱) 常憲院殿(綱吉) 文章院殿(文昭院殿、家宣) 有昭院殿(有章院殿、家継) 有徳院殿(吉宗) 淳信院殿(惇信院、家重)」)、歴代小浜藩主合同位牌(「空印寺殿(酒井忠勝) 広徳院殿(?) 有厳院殿(勇厳院、酒井忠直) 高台院殿(酒井忠隆) 放光院殿(宝光院、酒井忠囿) 霊苗院殿(酒井忠音) 実相院殿(酒井忠存) 霊岳院殿(酒井忠用) 樹徳院殿(酒井忠与)」)が祀られていました。当時お寺の方が後不在で、門徒の方に入れていただいたのでお話を伺うことができなかったのですが、過去帳などは残されていないのでしょうか。龍や父母の戒名など、残されていないか気になります。
失礼いたしました。くすについて、ちょっと気になるところがあったのでついでに。
一時、くすが転身して刑部卿局となったのだろうかということも考えたのですが、戒名も違いますし、それは無理がありますね。没年などはっきりすればよいのですが。
…とそういうわけで、満徳寺で刑部卿局が長政を供養したらしい跡が見えないのがひとつ。
千は早くに寡婦となり、秀忠の嫡女として徳川家で大きな影響力をもつ存在となります。刑部卿局はそんな千の傍で長く仕えていました。
その割に、江の姉妹という情報が満徳寺の記述以外に全く見られないことにさらなる不自然さを覚えます。
江の姉妹であれば千にとっては実の伯叔母にあたるわけで、そのような近しい女性が乳母となることも他に例のない不自然なことです。また、兄弟姉妹でなくとも、同族というだけで三好直政は江に憚り浅井姓を捨てたというくらいに、江の同族、外戚であることは重大なことでした。しかし、秀忠の嫡女の乳母という立場にありながら、刑部卿局についての記録には江との関係性が全く見えてきません。
最後に気になるのは満徳寺の記述にみえる「浅井殿末ノ息女」という書き方です。
長政の末娘は他でもない江その人です。小谷生まれか、岐阜生まれかという争点があるほどに、江は小谷落城と前後して生まれました。もちろん長政は、江が生まれた年の九月一日まで生きていたわけですから、ギリギリに別の女性が懐妊したとして翌年生まれたとすれば江より遅い生まれにはなります。なりますが、「末ノ息女」と言い切るからにはご落胤のような認知されない存在ではなく、江のことを指しているように私は思うのです。
これらの理由と、江についての記述の不確かさから、刑部卿局が浅井長政の娘であるという伝えは、江の出自と混同したものであると私は考えています。
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