
(小石川伝通院 千墓碑)
表題の姫路文学館の特別展と、同地で催された山本博文教授の講演会「お江と千姫」へ行ってきました。
一生懸命メモしながら見ていたんですが、図録がありました。
以下、備忘録を兼ねて長々と。
○千姫姿絵(弘経寺蔵)
有名な千の画像。特別展では「江戸城竹橋御殿時代の落飾した千姫を描く寿像(生前の作)と伝わる」と説明されていましたが、山本先生のお話では、この姿絵は江戸初期の風俗画に近いため、生前の千のままとはいえないのでは、と仰っていました。
○伝崇源院像(養源院蔵)
山本先生もこの画像は江ではないのでは、と仰っていました。衣裳の桐の紋については言及され、豊臣家の女性ではと仰っておいででしたが、桐の紋については言及されませんでした。
○秀信と完子
関ヶ原合戦の話の中で秀信の話がありました。秀信は世間でも織田家においても冷遇されていたところ、秀次の死をきっかけに、秀吉によって重用され岐阜城主となったというお話でした。(実際は秀次ではなく秀勝没後のようですが…)やはり、完子が秀信に縁づいたとすればこのタイミングだと考えるのが自然ですね。
完子については、小吉秀勝と江の婚礼、完子誕生、茶々に引き取られるタイミングなど、従来の説のままお話されていました。これについては、小吉秀勝死去から江の秀忠への輿入れまでひとくくりに語られることが多いですが、実際はご指摘の通り朝鮮出兵までに完子が生まれ、父母の養育のもとで育ち、父小吉秀勝の死をきっかけとして茶々に引き取られた(「小吉死後、秀頼卿母堂為猶子養育也」/『慶長日件録』)ということになると考えています。『駒井日記』の「岐阜宰相様御内様」、「岐阜中納言様御内様」が江と完子だとするならば、文禄三年二月三日の時点で母子はともにいたようですので、江も秀勝の死後、茶々の庇護に入ったと考えられます。
○帥法印歓仲書状 書写山行事宛(大阪城天守閣蔵)
七月八日付で、茶々(「大坂二之丸様」)の安産祈祷を書写山円教寺に依頼した文書です。七月八日というタイミングを見るに、解説の通り秀頼誕生時のものと考えて間違いないと思われます(鶴松の誕生日は五月二十七日、秀頼の誕生日は八月三日)。
円教寺には本多家廟所があり、千の後夫本多忠刻や嫡男幸千代の石塔があるそうです。
○芥田五郎右衛門拝領品々
芥田家に伝わる大仏梵鐘鋳造にかかる褒美の品々。箱、袴、笏の実物と纓、袍、巾子の写真が展示されていました。拝領の日時は慶長十九年四月十九日とあります。
○伝豊臣秀頼所用陣中床几(大阪城天守閣蔵)
足座の裏に「慶長十六辛亥年霜月吉日」の文字があるそうです。「慶長16年(1611)と言えば、これまで淀殿の反対で実現しなかった家康との会見が京都二条城で行われた年である」との解説がありましたが、これでは茶々が長年反対していたように見えてしまいます。
茶々が反対したのは慶長十年五月のことで、「秀頼が十五になるまで大坂城を出してはいけない」と秀吉が生前に遺言しています(慶長十年当時秀頼は十二歳)。また、この時豊臣家恩顧の大小名が秀頼の上洛に反対していたらしいことも茶々による判断の背景に加えられるべきでしょう。
二条城会見が実現した慶長十六年、家康は慶長十年の段階で使者を頼んだ寧をあきらめ、織田有楽斎を大坂城への使者としています。しかし寧は今度は家康の使者としてではなく自分の意思で再び大坂城を訪れ、会見に応じるべき旨を訴えたらしいことは注目されます。周知の通り、寧は会見当日も秀頼に同席しました。
また、上洛当日実際に秀頼の道中を守った加藤清正や浅野幸長は、慶長十年の時点では秀頼の上洛に反対したであろう豊臣恩顧の大小名に名を連ねていますが、十六年の時点では秀頼の安全を身命を賭して守ることを誓い、茶々に会見に応じるよう働きかけています。
会見の是非を茶々が独断で決めていたのではないというところは、今後見直されるべきだと思います。
○大坂冬之陣図・大坂夏之陣図(岡山大学付属図書館蔵)
夏之陣図で、勝山の辺りに「浅井周防守」の名前が結城権之介・武田永翁とともに見えました。冬の陣では城外で戦ったためか名前が見えませんでした。
○千姫観音胎内物(豊臣秀頼自筆六字神号、慶光院周清上人自筆願文)
秀頼自筆の神号は、見たところ結構な走り書きで記されています。『千姫 おんなの城』で秀頼と千が戦を前に互いに自筆の神号を交すシーンがありますが、実際この字を見ていると、そういった差し迫った状況で書かれたものかもしれない、と思います。
千が本多忠刻に嫁いだ後、子宝に恵まれるよう秀頼に祈願したこの願文は有名ですが、ここまでじっくり見たのは初めてでした。御神体として籠められているのは秀頼の自筆神号のみですが、願文には祈願する対象として茶々(「御ふくろさま」)が登場していることに驚きました。
講演では、徳川家による秀頼への仕打ちが、秀頼が恨みを抱いて当然と当時思うものであったのではという解釈でした。井上安代氏の『千姫』では、千にとって頼みにするべき、祈願すべき相手が秀頼その人だったという解釈でした。
私は、千が秀頼や茶々の助命のために使者として徳川家に降されたにもかかわらず、役割を果たせなかったことに対して千が負い目を感じているのでは、と思っています。
○天秀尼
千方より東慶寺へ送られた書状が何点か。解説では、千が落城後に天秀尼を養女としたことのみが紹介されていました。
『聞書雑和集』では天秀尼の生涯に触れ、千が大坂を出る際にともに落ち延びたとあります。そして、書状に見る千と天秀尼の交流や、生母との交流、もしくは生母を供養した記録が見られないことなどから、私はそもそも天秀尼は幼少より千の子として育ったのではないかと考えています。
茶々は秀頼の長子国松が生まれた際、乳母をつけて常高院(初)に預けています。そして生母成田石は以降も「女房衆」、「妾」という立場でした。彼女の動向について史料が皆無と言っていいほどであることも彼女の立場を偲ばせられます。
秀頼ほどの人が妻以外の女性と通じるのは決して特別なことではありません。ましてや国松や天秀尼が生まれたのは千が成人する以前のことです。それでも茶々は千以外の女性に子が生まれたことを良しとせず、結果千の秀頼の妻としての立場は少しも揺らぐことがなかったわけです。
天秀尼が女児であったために大坂城から出されることがなかったという従来の認識に間違いはないと思われます。ですが、秀頼の長女なのですから、悠々と生母と生活していたかというとそれは違うと思います。生まれてすぐ、もしくは千が成人した後に千の子として大坂城で養育を受けていたのではないでしょうか。千と天秀尼の絆の深さ、生母との縁の薄さを私はそのようにとらえています。
そのような実績もあって、大坂落城後、のちの天秀尼は幕府から正式に千の養女と認められるに至って、現在「養女となる」という表現になっているのではないかと思うのです。
○奈阿姫奉納浄土三部経 四巻(弘経寺蔵)
以前千の孫奈阿について記事を書いたときに取り上げた経文です。
千の娘本多勝が池田光政との間にもうけた長女を奈阿といって、千の後夫本多忠刻の甥にあたる本多忠平に嫁ぎました。しばしば天秀尼の本名が「奈阿」とされるものがありますが、これはこの孫娘の名前を混同しているのではないかと思われます。
嫡女であり、また同じ本多家に嫁いだ身として縁浅からぬ間柄であり、この孫奈阿が千の死後納めた経文がこれになります。
実物を見たのは初めてだったので、興味深く拝見しました。
○天樹院御影裏書控
千の肖像は上記の姿絵のほか、「本多平八郎姿絵屏風」が使われますが、千もまた将軍家の嫡女に生まれながら、正式な肖像が現存しません。
しかし、この控が伝わるということはかつては肖像があったようです。裏書によると千の没後供養のために作られ、勝から奈阿へと伝わったとあります。控には千の姿がえがかれるべきところに輪郭が描かれているのみですが、これを見るに晩年の尼姿だったのかなという印象です。

(知恩院 千供養塔)
分骨されたという弘経寺にもいつかお参りしたいです。
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