Posted at 2011.10.29 Category : ∟旧跡だより

三宝寺、氏家古奈(菊亭)墓碑。
今回は古奈についてのメモ書き代わりにまとめてみました。
父は氏家卜全の息子行広(荻野道喜)、大坂の陣では豊臣方の将として活躍し、茶々が自害する際、その介錯を務めた人として知られています。
母は京極高吉と泉源寺殿(本名不詳。洗礼名マリア、浅井久政の娘、養福院)の娘西津殿(本名不詳)。生年も不詳です。『新修丸亀市史』本文中ではなぜか龍の姉という記述がありますが、一般的には次妹とされています。
また、古奈の生母について西津殿ではないとするものがありますが、古奈が建立した三宝寺に父母の供養碑(「松林院殿妙山養全霊儀〔氏家行広〕 慶長二十卯年五月八日/松雲院殿高岸樹清日浄霊〔西津殿〕 慶安二年五月十五日」/写真を撮りそこないました…)を建立していること、同じく『三宝寺霊簿』の「松雲院殿高岸寿清日浄/日宝女君御母 慶安己丑歳 五月(十五日)」という記載、『渓心院文』の「さい相様はめいご様ゆへに」という記述などから、生母は西津殿でいいと思われます。
兄弟については出家していた三男を除く三人(左近・内記・八丸)が大坂の陣の際自害し、姉妹については姉は京極家家老赤尾出雲守(浅井家家老赤尾清綱の子)の妻、妹は京極高政の妻となったそうです。
その生い立ちは『渓心院文』に詳しく、誕生直後に常高院(初)に引き取られ養育されたそうです。常高院が江戸へ下る際にもこれに従い、江戸城で謁見も許され、初の子として三百石の朱印を受けたとあります。また、常高院は遺言状(「かきおきの事」)で忠高に対し、自分亡き後古奈の後を託し、常高寺で営まれた常高院の葬儀には古奈も自ら参列するなど、その母子関係が偲ばれます。
三宝寺には高次・常高院の供養塔(下)もあり、また常高院の供養のために京に常高寺を建立し、木像を納めています。常高寺にある日蓮像は古奈が祖母である泉源寺殿の供養のために作らせたもので、泉源寺殿を模してつくられたものであるといわれています。

(三宝寺供養塔/左:京極高次、右:常高院)
古奈が菊亭経季へ嫁ぐ際には、茶々(「大坂御袋様」)の世話で大変立派な祝言が行われたことが記され、古奈が茶々からも大変可愛がられていたことが知られます。大坂の陣の後、残党狩りが激しい中建立された三宝寺の供養塔は大変有名で、古奈と茶々の関係を伺うことができます。

(三宝寺供養塔/「嵩陽寺殿秀山大居士」、「漏世院殿雲山智西大童子」、「大虞院殿英岩大禅定尼」)
また、古奈は千とも交流があったらしく(「御馴染みの御古奈様御あとの事に御座候へば」)、古奈の跡目について滞りなく相続が行われるように特に千が口添えをしています。
千と古奈が知り合ったのは二人の輿入れの時期から考えて大坂城にいたころと考えられ、ここからも当時の千の立場、茶々と千の関係が伺い知れます。
輿入れの後、古奈も何度か出産したようですがいずれも早世したそうで(「御古奈様度々御誕生御座候へども、御育て御座なく」)、信長の孫にあたる(母が信長の娘月明院殿秋岸浄仲大禅定尼)徳大寺公信の子公規を養嗣子として迎え、養兄弟京極高政の子高和の娘宮(美屋、高林院殿玉栄日光大姉)を公規の妻としました。
『三宝寺霊簿』には「高樹院殿林堂日宝大姉/当山初祖資助大旦那 六十一歳/明暦三丁酉八月(六日) 六十一歳」、同寺墓碑には「高樹院殿林堂日宝大姉/明暦三丁酉年八月六日 六十一歳」とあり、『常高寺過去帳』には「高樹院殿日宝大姉 菊亭大将公内室 明暦三丁酉八月/栄昌尼公息女」とあり、これに従うと古奈は明暦三(1657)年に六十一歳でなくなったということですから、慶長二(1597)年の生まれとなります。
古奈の生母を西津殿ではないとするのは、西津殿の没年について柴田氏の論文で慶安二年が慶長二年(古奈の生年と同じ)となっている誤植によるものでしょうか…
また、『新修丸亀市史』では西津殿の没年が慶長十一年と記載されていますが、これは末妹の朽木元綱妻の没年との混同と思われます。
参考:
『渓心院文』、『京極御系図』
柴田伊左衛門氏「京極の女達」
大野正義氏「戦国の三姉妹」、「女達の知行の行方」
『常高院殿』
渡辺江美子「織田信長の息女について」
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