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徳川初と小石川伝通院墓所

茶々姫をたどる汐路にて

先日、伝通院にお参りしてきました。
目的は千のお墓参りですが、妹である初(興安院)のお墓にもお参りしてきました。
しかしながら、伝通院の案内にも初のお墓についての記載はなく、その意外なほどの存在感の薄さに驚いてしまいました。
位牌も、大(伝通院)や千、そして家光の妻鷹司孝子のものは安置されていましたが、初のものはないんですね。現存していないだけでしょうか。
常高寺には現存しませんが位牌があったそうです。

初は夫である京極忠高とは不仲であったといわれています。
その最期も初の侍女が秀忠に忠高の薄情を訴えるほどで、葬儀には京極家の参列は許されなかったといいます。
子どもがいなかったのも不仲の証のように言われますが、実は二度ほど懐妊をしていたそうです(「若狭守様(忠高)御祝言以後御前様(初)両度御誕生あそばされ候へども甲斐なく御子様失せ参らせられ候」/『渓心院文』)。また、病も忠高の薄情に初が心を痛めたためとも言われますが、『渓心院文』には二度目の出産の後患ったとされています。だからといって夫婦仲が良かったとは言えませんが、幼いころから忠高と初はともに育ち、「あにさま」と読んで育ったといいますから、不仲説はそんなに単純なものなのだろうか…と疑問に思うところはあります。

あと、個人的に初について気になっているのは、秀忠の娘の中(和子は除く)で初の院号だけが異質なところです。

千(天寿院、天樹院)
子々(天徳院)
勝(天崇院)
初(興安院)
和子(東福門院)

初は、千の輿入れの同月(慶長八年七月)に伏見で誕生し、生後すぐに初(常高院)に引き取られました。
豊臣と徳川の間にたつ京極家で、しかも初(常高院)の手で育てられた初が(ややこしい…)、姉である完子や千を、伯母である茶々を、従兄である秀頼を、大坂落城までの豊臣をどのように見ていたのかもちょっと気になるところです。

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| ∟旧跡だより | 20:31 | comments:8 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

1. 無題

初の戒名についてわたしも気になっておりました!

天樹院
天徳院
天崇院
興安院

と一人だけ天の字がないですよね。

なぜなのでしょうか?
気になります……………

| こち亀愛好家 | 2011/10/27 21:37 | URI | ≫ EDIT

2. 無題

完子も天真院ですしね。

初は誕生年が二説あったり
生母の記載がない史料(他の兄弟は母堂御台所と記載)があったり
母不詳、と書かれた史料もあったりして
謎が多い姫様ですね。

私は初の墓をなかなか見つけられなくて30分くらい探しまわりました。

| やまやま | 2011/10/27 22:14 | URI | ≫ EDIT

3. Re:無題

>こち亀愛好家さん

そうなんですよね。
やまやまさんが仰っておられるように、完子が天真院ですし、院号ではないのですが、私は天秀尼の「天」も千経由で同じ字が選ばれているのだろうかと思うことがあります。

不思議ですね。

| 紀伊@赤石いとこ | 2011/10/27 22:17 | URI | ≫ EDIT

4. Re:無題

>やまやまさん

初の記載が少ないのは、徳川家で育った時期がなかったからではないかと考えています。
まさか御台所が懐妊しているのに伏見に下ったなんて、後年記録が作られた当時の常識をして思えなかったのも初の記録の不備に繋がっているのではないでしょうか。
姉の子々も幼くして嫁いではいますが、それまで育ったのは徳川家ですし。

確かに、初の墓は案内も何もなくしかも少し探しにくい場所でした。それもまた不思議です。

| 紀伊@赤石いとこ | 2011/10/27 22:22 | URI | ≫ EDIT

5. 無題

是非とも、次は高野山に。
○花蓮院管理

・崇源院 一番石塔
・千姫
・勝姫
・徳川綱重

○持明院管理

・崇源院 六角宝塔
・初姫

蓮花院に泊まれば徳川関係が多く見えそう。

後、徳川墓碑総覧、なぜか、崇源院の部分はネットで見えます。

| ダイナゴン | 2011/10/28 12:25 | URI | ≫ EDIT

6. Re:無題

>ダイナゴンさん

そうですね!高野山はぜひぜひ改めて参拝したいところです。

茶々の姪御さんたちはもとより、豊臣家墓域の鶴松供養塔や上臈供養塔、上杉家墓域の茶々・秀頼供養塔は絶対チェックしたいです。

宿坊は個人的に、持明院に宿泊してあるかどうか分かりませんが浅井家縁のものを探してみたいです。

墓碑総覧は以前教えていただいたのを覚えていたので、先日国会図書館でチェックしてきました。とても面白かったです。

いつもいろいろありがとうございます。ブログも拝見させていただいています。とても参考にさせていただいております。

| 紀伊@赤石いとこ | 2011/10/28 16:58 | URI | ≫ EDIT

7. 多分昔は一等地

紀伊様
初夏に訪ねた際、案内所(?、神社で言えば社務所のような)の方に聞いた所では、於大の方・初姫の墓所以外は、江戸期に移動が有ったらしい、との事でした。
墓前に在る、維新後に造成されたであろう墓を除いて考えれば、初姫の墓は、丁度於大の方と並ぶ奥行きの場所に在り、墓塔の大きさも同規模である事から、元々は、相応の重要な扱いを受けていたものと思います。
寺宝・寺記の類も、空襲(多分昭和20年5月の)で全て灰になったそうですので、位牌は、戦後の物でしょうが、その頃には、軽く扱われるようになっていたものでしょうか?文京区の文化財指定を受けていない事も、何か意味が有るのかもしれません。
ただ、建て替えられた山門の落慶式は、来年3月4日、初姫の命日に行われるようです。関連は有るのか、今度訪れた際に聞いてみる積りです。
それから、今神保町で開催中の「神田古本まつり」で、運よく「看羊録(東洋文庫)」を入手する事が出来ました。ざっと読みましたが、慶長五年四月の離日後に起こった事を耳にしていれば、書かなかった(あるいは変更された)であろうような内容が多く、儒教的な考え方と、秀吉や日本人に対する恨みなども、記述に影響しているようで、論拠とするには躊躇われるもの、と感じました。

| 武江 | 2011/10/29 16:01 | URI | ≫ EDIT

8. Re:多分昔は一等地

>武江さん

なるほど。納得しました。
それにしても、掲示はないし、案内パンフレットには乗っていないし、売店で売っている『伝通院略志 附 墓碑録(小伝)』にものっていないし、現在の扱いはちょっと不憫な感じですね。
初は徳川家によって伝通院で懇ろに葬られたはずなので、かつてはやはりお位牌もあったのでしょうね。お位牌はもちろん、記録も焼けてしまったのは大変惜しいことです。

『看羊録』についての考察、大変参考になります。『多聞院日記』にも記述があるので、そういう噂があったことは確かなのでしょうけれども、それで事実であったと決めつけてしまうのはやはりどうかと思います。

| 紀伊@赤石いとこ | 2011/10/31 00:09 | URI | ≫ EDIT















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