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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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講演会愚痴 ~秀吉没後の茶々の去就について

 
茶々姫をたどる汐路にて
(京都豊国神社の大野治長寄進燈籠。件の噂が事実だったらこの寄進も存在しなかったでしょう)

北川氏の講演会行ってきました。
いろいろ収穫はあったのですが、オチが茶々と治長の駆け落ち話だったことに落ち込んでいる真っ最中です。
正確にいえば、徳川家康との結婚を秀吉の遺言として、実現していれば姉妹で義理の母娘の関係だったね~という話のオチだったのですが…

徳川家康との婚礼話がある史料として「内藤隆春書状」や『多聞院日記』、『看羊録』を引いておられます。
「内藤隆春書状」は茶々と治長が密通し、その咎で治長が斬られるところを宇喜多秀家に匿われて高野山へ逃げ込んだという内容。『多聞院日記』は秀吉の書置で慶長四年九月十日に茶々と家康の祝言が行われる予定であったのが、治長が茶々を連れて高野山へ駆け込んだという内容。『看羊録』は秀吉の遺命で茶々を妻にしようとしていたところ、茶々が治長と通じ妊娠していたために怒り、治長を関東に流した上に途中で死を与えたという内容です。

いろいろ言いたいことがありますが、祝言が予定されていたとされる九月十日の三日前、九月七日に家康襲撃未遂事件があります。前田利長が首謀者とされ、実行犯として前田利家に近かった大野治長と土方雄久が捕らわれます。また、浅野長政も共犯として加わったともされ、前田家や浅野家が家康寄りに転じるきっかけになったともされています。
捕らわれた大野治長が流されたのは下総結城で、蟄居の末、関ヶ原合戦では東軍に属し、宇喜多秀家隊を相手に戦功をあげています。茶々を連れて逃げる前に家康暗殺未遂の容疑で捕らわれ、しかも匿ったとされる宇喜多秀家と関ヶ原で対峙しているわけです。もちろん、道中で死んでいれば豊臣家の家臣として活躍はおろか、関ヶ原合戦にも参戦できません。
関ヶ原合戦後、戦功を賞され録を受け豊臣家に復帰しますが、治長は秀頼の名代として豊国社参拝や参内、諸大名への折衝など、様々な活躍を見せています。そのような不行跡が事実であれば、世間の治長に対する信用があるはずもなく、この活躍もなかったはずです。
そもそも事実であったかどうかも怪しい「家康暗殺未遂事件」の実行犯?という容疑だからこそ、首謀者のレッテルを張られた前田家から芳春院が人質に出されたことなどもあって、関ヶ原合戦の後豊臣家に復帰できたのであって、秀吉の妻かつ秀頼の母たる「御上様」茶々との密通が実際にあったのだとすれば、それこそ斬り捨てられる、もしくは良くても蟄居は免れ得ないはずです。

一方、治長に連れられ逃れたという茶々自身も、九月七日に家康、十日に松梅院と大坂城で会い、贈答を受けています。
茶々と家康の祝言が秀吉の遺言といいますが、内容から察するに、『多聞院日記』、『看羊録』に書かれた記事の「もと」は同じ噂だと思われます。秀吉の遺命であれば、他の遺命同様、実際にその情報に接したであろう武家の記録に見えないことは不自然です。またその遺命に反した茶々に何の咎めだてがなかったことや対処らしきことがされなかったことも不自然です。
そもそも、茶々と家康の婚姻が秀頼の将来を考えての処置であれば、既に秀吉の枕元で既に秀頼と千の婚約が取り交わされています。
『看羊録』の言う通り、茶々を家康に嫁がせて、利長を秀頼の乳父とするという内容も、まだ大きな影響力を持つ前田利家が健在の秀吉生前としてはおかしな話です。
もしも遺言が実在したとしても、その遺命は家康にとっても不都合なことではなかったでしょうか。遺言が実行されていない=茶々に非があるというのは、あまりにも早計です。
それにしても関ヶ原合戦で西軍方が家康が大坂城西の丸に入ったことについて、寧の住居を奪ったと弾劾しておきながら、家康と茶々の婚姻話には触れてもいないのはやっぱり不自然に思います。
私はこの遺命の存在自体疑問に思わざるを得ません。

茶々が出家しなかったことも、家康との婚礼を考えて秀吉が許さなかったのだともおっしゃっておられました。そもそも、最後まで出家落飾しなかったというのも、事実なのでしょうか。寧も秀吉の死後すぐに出家したわけではありません。龍もまた然りです。像主に疑問の残る肖像を根拠にしているのならば、雁金屋に残る色目を控えた衣裳の注文記事に伺える落飾の気配のほうがまだ説得力があるように私は思います。

この頃確かに大坂で騒ぎがあり、公家たちがそのことを日記に記し、朝廷からも様子を伺う使者が立てられていますが、これは家康暗殺未遂事件に関わるものでしょう。
豊臣家のうちでこのような不行跡があったなら、その直後に寧が大坂城を出て京都へ移るということもあり得ないと思います(寧が豊臣家を見捨てて大坂を出たのではないことは今更言うまでもありません)。何より、そんな治長の母である大蔵卿局の赦免のために寧が動くこともなかったでしょう。母大蔵卿局もまさに茶々本人の名代、側近として最期まで活躍し続けています。彼女のゆるぎない忠義もまた、治長の汚名が事実ではないことを示す根拠の一つです。

治長と茶々の駆け落ちの噂は、家康暗殺未遂事件、秀吉の遺言による秀頼と千の婚姻、治長が茶々にとって絶大な信頼を寄せる大蔵卿局の息子というあまりにも近しい人物であったこと、秀吉を喪った茶々の今後への世間の関心…当時存在していたこれらの事情が人の噂の中で複雑に絡み合った結果のものといえましょう。そういった背景こそもっと注目されるべきだと思います。

北川氏の記事はいくつも拝読したことがありますが、茶々の身辺についてそのような考えをお持ちだとは全く知らなかったので、だいぶショックでした。最終盤に動揺しておろおろしてしまいました。質問時間もなかったのでご真意を質す時間も機会もなく。残念です。

最後以外の講演内容は、最近の新見解を取り入れられたものでした。特に『渓心院文』をふくむ『誰も知らなかった江』の影響を強く感じました。福田本については、ところどころ異なる見解の紹介として話題にのぼることがありましたが、ほとんどその見解については採用されていないなという印象でした。あと、完子の生まれた時期についての見解など、いつもお世話になっている方のブログをチェックされているのかしら、とふと思ってしまう場面が何度かありました。

個人的な収穫は、天秀尼について、生母が成田氏であること、また千(「北方」)が養うと記されている史料を改めて確認できたことでした。
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Comment

1. 大丈夫ですか?

大蔵卿局は 大坂の陣の時、茶々の代理人?として交渉しますよね。

家康裏切って 顔に泥を塗った者の母親が のこのこ和平交渉に出て来る筈がありません。徳川方は阿茶局が出ます…こういうのは、お互いに最も信頼性が高くて、相手にも受けが良いであろう人物を選ぶのであって、北川説だと ハナから徳川を侮辱し、喧嘩売ってる事になりますが、一体何のための和議なのか。


秀頼と大坂城と65万石捨てて高野山に駆け落ち?そちらの話題は不案内ですが、某国会での偽メール事件を思わせます。本物だったら 徳川はもっとネガティブ・キャンペーンに利用したと思います。

2011.10.02 | 渡邉markⅡ[URL] | Edit

2. 無題

紀伊様
3日後の、九月十三日付毛利輝元書状を、読んで頂きたいですよね。
って言うか、まだ読んで無いのかい、というのが正直な感想です。解読は、大変ですけど(笑)。

2011.10.02 | 武江[URL] | Edit

3. 噂の出所

紀伊様
「内藤隆春書状」は、毛利本家の文書だそうで、内藤隆春は、輝元の為に大坂で情報収集をしていたようですが、五大老の一人である輝元としては、この情報は荒唐無稽な為に、はじいた事でしょう。重陽の対面での申し入れの内容や、家康が十一日から石田正澄邸に宿泊している、という情報をもたらしたのは、別の情報源でしょうか。
茶々様と大野治長、さらに家康まで絡んだ噂が、既に家康の大坂入り直後に有ったというのは、今回初めて教えて頂いたので、ある意味有難い事です。伏見に在った『看羊録』著者も、翌年には、朝鮮に帰国しているようです。早くにこうした噂が広まっていた事が判ります。それと同時に、家康の一連の行動が、何を意味するのか、案外その時その場に在った人々にとっては、全く読めていなかった事を表しているようにも思えます。

2011.10.02 | 武江[URL] | Edit

4. ツイート関連情報

紀伊様
上野は、江戸城の鬼門にあたり、慈眼大師・天海により、上野の山(忍ヶ岡)を比叡山に見立て、東の叡山、「東叡山」寛永寺が開かれました。そして、弁天堂は、不忍池を琵琶湖に見立て造営されたものです。
で、天海と言えば日光東照宮ですが、江戸東京博物館「常設」展示室にて、8日より日光御社参関連の展示が始まるようです。時間が許せば、御覧になっては如何でしょう。

2011.10.07 | 武江[URL] | Edit

5. はじめまして。

とても質の高い素晴らしいブログですね。
私も浅井三姉妹は勿論ですが戦国時代の姫君が大好きで。
紀伊様のように自身で独自に色々と研究しております。
ただ外に表現する事が性格上、苦手なので苦笑
本来の職の傍らに合間を見ての程度です。
私自身もかなり詳しい方だと良く言われますが。
紀伊様のブログを拝見して改めて新しい知識が増えました。
本当に有難う御座います、私も紀伊様と同じ関西在住者です。
京都大学日本史学→京都大学院日本史学を専攻しておりました。
今は全く違う分野で働いております。

紀伊様であれば既にご存知では?と思うのですが。
香川県丸亀市の丸亀市立資料館にて
平成23年10月15日(土)~11月27日(日)
浅井三姉妹初と京極展が行われます。
http://www.city.marugame.lg.jp/itwinfo/i16436/
昨日の午前にニュース速報で流れたのですが。
上記にて新たに発見された2通の江直筆(?)書状が公開されるとか。
お江と初姫の新たなの一面を知れますね。

紀伊様のブログを拝見して、もう一度本当に自分がやりたい分野!
それで身を立てて行こうかとも少々思案しております。
それでは。                    彩架

2011.10.10 | 彩架[URL] | Edit

6. Re:大丈夫ですか?

>渡邉markⅡさん

返信が大変遅くなり申し訳ありません。

仰る通りだと私も思います。
いろいろと茶々の記事を書いている大阪城の偉い先生がお話されたことがとってもショックでした。

2011.10.25 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

7. Re:

>武江さん

折角コメントいただいていたのに返信ができず、重ねがさね大変失礼しました。

そうですよね。
毛利輝元書状はまさにこの辺の時期でした。このことも書き加えるべきでした。

噂ですが、逆にいうと現在までまことしやかにささやかれている大野治長実父説の史料的根拠(要因?)はこの噂だけなんですよね。

不忍池についても教えていただき、ありがとうございました。
今回は結局時間が足りず訪れることができなかったのですが、今後上京の際に機会を作ってぜひ訪れたいです。

2011.10.25 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

8. Re:はじめまして。

>彩架さん

コメントありがとうございます。お返事が遅くなり大変申し訳ありません。

私はまだまだ浅学ですので、いろいろと及ばずお恥ずかしい限りです。

丸亀の特別展は若干遠方ですが是非訪れたいと思っています。
またその暁には記事にできればと思っております。

2011.10.25 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

    
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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