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第三十五話「幻の関ヶ原」【大河ドラマ感想】

茶々姫をたどる汐路にて

前回の記事虚しく、普通~に大蔵卿局(劇中では「サキ」)が活躍していましたね…だいぶがっかりしました。この頃の大蔵卿局については、前回の記事で書いてしまいましたので、よろしかったらご参照ください。
→*第三十四話「姫の十字架」【大河ドラマ感想】(20110921)

小山評定で流れを決定づけたのが福島正則ではなく細川忠興だったこととか、真田幸村は「幸村」でいくのか~とかいろいろ細かいことはありますがとりあえずその辺は不得意分野なので横に置いておいて…

○大津城攻防戦講話交渉

秀吉の生前から豊臣家で大きな力を持っていた侍女孝蔵主は講和のために二度大津城を訪れており、二度目には茶々の使者として大蔵卿局ではなく饗庭局(「あいばどの」)、もしくは海津局(「京極御系図」、「大津籠城合戦記」)、海津尼(『譜牒余録』、『寛政重修諸家譜』)という侍女が大津城に遣わされています。

京極家の史料ではこの孝蔵主を茶々の使者としていますが、孝蔵主は寧に近似していた女性で、『筑紫古文書』(筑紫家)や『関ヶ原陣輯録』(毛利家)など、京極家以外の家ではきちんと寧の使者と記録しているようです。
この辺りに詳しい跡部信先生は、講和交渉が寧と茶々の連携で行われたものであれば、茶々の意志であるという面もあったのではないかと仰っておられます。そうであれば、当時のきわどい情勢下で不用意に動けなかったために一度目は直接自らの侍女を赴かせることができなかったのかもしれません。
とはいえ、孝蔵主が動いたこの一件に茶々の意志だけに注目して、寧の意志を無視することはできません。

ここでは何度も記事に書いているので、今更な感じもしますが、大蔵卿局に代わり、使者として茶々から派遣された饗庭局は浅井宗家の血をひく女性です。海津局はその姉を指し、海津尼はおそらく二人の母を指すと思われます。
ただこの辺り、伝わる系譜では年代的に矛盾がありどこか一代抜けていると私は考えているのですが(鶴千代――海津殿――海津局・饗庭局のような気もしています)、この一家から使者が選ばれたことは間違いないと思われます。大蔵卿局が動けない中、あえて彼女たちの中から使者が選ばれたのはやはり血縁を重んじて講和を進めようとした面があったのでしょう。

この一家に関しては別記事で詳しく考察記事を書いております。
→*浅井鶴千代~三好直政の謎

○初・龍(龍子)の働き

最後の江紀行で、『凌霄開山和尚伝 附開基伝』に水くみや炊き出しを行っていたという記述がある旨の紹介がありました。他に、『渓心院文』では城内では初が主導して女中たちとともに日夜玉を鋳させていたという記述もあります。また、『磯曳網』という史料には矢や弾丸が袖にあたっても驚かず侍女たちとともに水くみや炊き出しにあたったという一節があるそうです。
劇中で初は鎧姿でしたが、これは大坂の陣で茶々が鎧姿だったという記録を参考にしているのでしょうか。

「大津籠城合戦記」によると、このとき龍(「松ノ丸殿」)をはじめとして、高次の母マリア(「宰相殿御母堂」/後の泉源寺殿、養福院)、初(「奥方」)、高知の妻(「修理殿奥方」)が城内にいたとあります(「譜牒余録」にも同内容の記述があるようです)。
また、孝蔵主の遣わされた先は初その人であったといいます。
初は孝蔵主に会い、自分も龍も高次が越前で翻り大津に帰ってから対面していないため高次の思いは分かりかねること、そして高次に直接会って事の次第を伝えるように孝蔵主に伝えます。しかし高次は孝蔵主には会わず、交渉が一端暗礁に乗り上げたようです。
そうこうしているうちに龍の女中二人に砲撃が直撃して亡くなり、龍は何とか和議を受け入れるように高次に願い出たといいます。
龍が高次の頑なな気持ちを説得したということは、寧・茶々・龍の三人で講和に至らしめたと言ってもいいように思います。

鎧と言えば、劇中では小袖打掛姿でしたが、龍のものと伝わる具足が伝わっています。武田元明の娘を出産した家に伝わるものだそうです。元明の妻だった頃これを着用したものと思われますが、この後京極家は若狭へ転封となります。もしかすると大津城攻防戦でもこれを身につけ、転封の後、お世話になったこの家へ鎧が伝わったのかもしれませんね。

龍の侍女が死傷し、本人が気絶したシーンがありましたが、先ほどの「大津籠城合戦記」だけでなく、「立花事実記」に龍(「松丸殿」)の女中が二人微塵になり、龍が気絶したという記述があるようです。
この件に関しては、大坂夏の陣で茶々の侍女が大砲に直撃し死傷したという逸話ととても似ており、逸話の混同を気にしているところですが、龍に関しては京極家の史料、立花家の史料と複数あるようです。

○寧・龍の出家

孝蔵主派遣のシーンで登場していましたが、もはや出家していて高台院を名乗っており、びっくりしました。
朝廷より高台院の院号を下賜されるのはこれより三年後、慶長八(1603)年十月三日のことになります。それまでは豊国神社への参拝は続けているものの、「北政所」、「政所」以外の呼称が見当たらないことや、他に出家している形跡が見えないので、おそらく出家も院号勅許の前後ではないでしょうか。
最近は寧の京都転居よりもこの出家の時期が注目されつつあります。

龍も落飾後の肖像画が残っていますが、いつ頃落飾したのか記されていません。龍は死去の記録最後まで院号の「寿芳院」ではなく「松丸殿」の呼称で呼ばれ続けています。茶々の出家もしくは落飾の有無も含めて、彼女たちの去就は謎の一つです。

○熊麿=忠高

そういえばこの頃、京極家では高次の子熊麿(生母は妾山田崎)を大坂に人質として送っているのですが、出てきませんね。東軍に翻った後、熊麿はどうやって助かったのでしょうか。その辺も磯野家の功績と関係があるのでしょうか。


大津城講和については、跡部信先生の「高台院と豊臣家」(『大阪城天守閣紀要』第34号)、もしくは「高台院と淀殿」(学研『図説戦国女性と暮らし』)をご覧になることをしつこくお勧めいたします。
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| ∟江 姫たちの戦国 | 20:40 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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