ガラシャこと玉さん退場回でした。歴代稀にみるとっても綺麗な玉でした。
ドラマのように「最後」が分かっていれば、現実でも気の利いた別れが出来るのかな、とか物思いにふけりつつ。
この時、ドラマで出てきた光千代の兄忠隆の妻千世(前田利家の娘)は玉によって千世の実姉豪の嫁ぎ先宇喜多邸へ逃がされたといいますので、実際は「最早逃げ場はない」という状況以上に、玉自身の覚悟が大きかったのかな、と個人的に思います。
細川邸に来たのは長束正家・増田政盛の軍勢で、彼らはこの時秀頼の名を大義名分に掲げていたといいます。
同じ日、石田三成は豊国神社へ内密に参拝していました。
ところで、玉の異母姉にあたるであろう正栄尼はこの時すでに大坂城にいたのでしょうか。玉と交流があったのかどうか、気になります。
○上杉攻め
慶長五年六月十五日、秀頼が大坂城西の丸に家康を訪問し、黄金二万両・米二万石・宝刀・茶器を送ったと「板坂卜斎覚書」にあります。
この件をもって、茶々がこの時点では家康を信頼していた、または信頼していなかったがどうすることもできなかった、などと様々に言われていますが、そこまでは史料にもおそらく書かれていないことなので、なんとも言えないというのが現実です。
ただ一つ言えることは、出兵の直前に秀頼をわざわざ西の丸へ訪ねさせていることから、この一件は秀頼方(主に茶々)の強い意志を感じるということです。信頼していた、という単純な動悸以外を考えるならば、秀頼のお墨付きを与えて大軍を動かす会津征伐を「公儀」の軍事行為とすることで家康の独断を抑えようという狙いがあったかもしれません。
どちらにしろ、先の細川邸の一件と合わせてみるまでもなく、後に東軍西軍と呼ばれる両者ともに、大義名分として秀頼の名を掲げていたのですから、それは大混乱だったでしょう…
○豊臣対徳川?
前回まで結構あからさまに「豊臣対徳川」で進めたきていたような気がするのですが、今回いろいろな人物がやたらと「豊臣と徳川の争いではない」という旨の台詞を口にしていました。
今思うと、あからさまな大義名分ではありますが、後に小山評定と言われる場でで福島正則たちがこれを確認した上で家康に従っていることから、この大義名分は豊臣系武将を動かすために思いのほか重要な要素だったようです。
福島正則、加藤清正たちは石田三成を襲撃した七将ですが、「秀頼大事」の思いが浅かったというわけでは決してありません。二条城での秀頼と家康の会見における清正の働きは言うに及ばず、福島正則の大坂の陣に際しての対応などにその辺りが偲ばれます。
○関ヶ原合戦と大蔵卿局の物語
大蔵卿局は家康が大坂を発ったこの頃身柄を拘束されています。
大野治長も大きく関係している事件で、三姉妹に焦点を当てたこの作品で取り上げられないのが不思議なのですが(劇中では一応秀頼・茶々と家康の対面シーンで確か大蔵卿局の姿がなかったように思いますが…)、前年に家康暗殺事件の実行犯として治長が結城へ流されており、母の大蔵卿局はこれに連座したものと考えられています。
義演が拘束中の大蔵卿局へ進物をしていることから、蟄居していたのは京だったのでは、と考えています。
大蔵卿局は茶々の乳母であり側近中の側近ですから、茶々は大蔵卿局の赦免のために様々な働きかけを行ったと思われますが、功を奏さず大蔵卿局の拘束は長引きました。
この頃、家康が会津へ発する直前、寧が京より大坂へ下向しました。『時慶記』によると、大蔵卿局の赦免のためであったとされています。交渉は首尾よく運んだ模様で、寧の在坂は二三日に留まっています。
寧による交渉の結果、治長は許されそのまま東軍として関ヶ原に参陣、宇喜多勢と戦い戦功をあげました。宇喜多秀家夫妻は秀頼にとって義兄・義姉ですから、考えれば皮肉な展開です。
一方、大坂城には七月十七日の夕刻毛利輝元が秀頼を守護する名目で西の丸に入り、大坂城は西軍の拠点となります。治長が東軍に属しているため大蔵卿局は大坂に帰ることができなかったのではないかと思います。
八月七日に義演が大蔵卿局宛に音信を送っていますが、秀頼や茶々の名代としてというわけではなかったようですので、まだ京にいたのでしょう。義演は同時に豊臣家老女のひとり、主に寧の近くで活躍していた茶阿局宛にも同時に音信を送っていますので、寧に保護されていたようにも見えます。
大蔵卿局が大坂城に復帰したことがわかるのは、関ヶ原合戦が終わったのちの、十月二十日になります。秀頼宛の進物の取次として大蔵卿局に文が送られたことが記されていますので、この頃までには大坂城の秀頼と茶々の元へ戻っていたようです。
大蔵卿局は茶々だけでなく三姉妹にも近い存在であったらしいことが偲ばれます。京極家において侍女の崎を母に忠高が生まれた際も、どうやら大蔵卿局が機嫌を損ねていたらしいことが読み取れます。
おそらく次の回に取り上げられる大津城攻防戦の際、上記のような状況でしたので大蔵卿局は茶々の使者として動けませんでした。ただ、寧の使者孝蔵主に情勢を聞きながら、初の身を案じるところは大きかったことだろうと思います。
○茶々の苦悩
大蔵卿局と引き離され、また次から次に動いていく時勢のなか秀頼を守る茶々でしたが、さすがに心労が祟ったものか、この頃体調を崩しています。
慶長五年二月のことですが、見舞の返礼の使者を務めたのが大蔵卿局ではなく二位局であることから、この時点でも大蔵卿局は茶々の側にいなかったらしいことが分かります。
いろいろリアリティに欠けるなあと思う場面が多いですが、あの困り果てている宮沢茶々姫の様子に、当時の茶々も実はこんな風だったのかもしれないなあと思っています。
○秀頼の成長
秀頼の祈祷を行っている醍醐寺三宝院の義演が二月の日記に秀頼の様子を記しています。
当年数えて八歳になった秀頼が何事もなく健やかに成長していることに喜び、諸人も秀頼様の健やかな成長に安堵しているという内容です。
秀頼の健やかな成長に、秀頼の成長を見守る周囲の人々の様子、苦悩の中秀頼を守り育てる茶々の苦労が偲ばれます。
○家康の大津城訪問
「京極御系図」によると、会津へ発った足で家康が大津城に高次を訪問し、吉光の小脇差を贈ったとあります。また、この時妻の初(「御内室様」)・龍(「松丸様」)も家康にまみえたとあります。『寛政重修諸家譜』にも、高次・初(「室」)・龍(「松丸」)・高知が家康に拝謁するとの記述があります。
そして、高次は弟高知を関東へ向かう家康に従わせ、山田大炊を人質として関東へ送りました。一方西軍方にははじめ養子の喜六郎を、のちに改めて嫡子熊麿(忠高)を人質として大坂へ送っています。
高次にとってもこの時点で東軍に属する=豊臣を離れるという考えはイコールではなかったのでしょう。大津城決戦・関ヶ原合戦の一ヶ月ほど前にあたる八月十六日、豊国社へ参拝に訪れていることからもそれが伺えるのではないでしょうか。
(追記)「関原一乱志」に「石田の所業は秀頼卿を盛りたてるためにならないことを案じて」という記述がありました。
○江の行方
劇中では既に江戸に移っている江ですが、史料では鍋島直茂の邸に移るよう言い含められていたとあります。大坂にも屋敷はあったようですが、自身秀吉の養女とはいえ秀忠との娘たちと大坂にいるのは流石に危険ですし、伏見の屋敷で間違いないと思います。
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