Posted at 2011.09.20 Category : ∟江 姫たちの戦国

(伏見城治部少池)
久しぶりの大河記事です。
市がナレーションで寧を「お寧様」と言っていました。ナレーションってどういう位置づけなのでしょう。市その人というよりもちょっとメタ的な立場なのでしょうか?
○大蔵卿局、大野治長、前田利家夫妻
正確にはこの時期ではなく、秀吉の生前から茶々の乳母は「大蔵卿局」として史料に登場します。
慶長二年四月に定められた大坂城城門掟で「大蔵卿」とあり、慶長三年三月十五日に行われた醍醐の花見では和歌に「大蔵卿」と署名し、また四月の秀頼参内に従った際の記録には、秀頼乳母右京大夫局(「うきやうの大夫」)とともに「大くら卿」とあります。
私の把握している範囲で最古は、天正十七年九月に北野社へ巻数をおさめた記事に見える「大蔵卿」ではないかと思われます。この頃「大蔵卿局」と呼ばれるようになったのであれば、養い君である茶々がこの年の五月に鶴松を産んでおり、八月に大坂城へ移され嫡男として披露されていることと関係があるのではないでしょうか。
今回、少しだけ前田利家が出てきていました。大蔵卿局の息子である大野治長はこの利家を慕い、頻繁に通っていたらしい様子が前田家の史料で伺われます。後年、利常に代替わりした後のことですが、前田家に対して助力を求める書状を治長が送っている理由の一つに、この頃からの縁が関係しているのではないかと考えています。
利家の死はかなり大きな転機なのですが、出番が少なすぎて残念でした。
この辺りは『利家とまつ』を見ろということでしょうか(笑)
利家の最期の場面に、きちんとまつらしき女性が映っていたことに『利家とまつ』の名残をなんとなく感じました。
だったら利家もまつも相応に出てきてほしかったです。
利家は秀頼の傅役であり、史料の中でもなんども秀頼を抱いている姿が描かれています。その妻であるまつは田端泰子先生によると秀頼の乳母の立場であり、その立場で醍醐の花見に席を連ねたとされています。
子々の名前について松尾美恵子さんの論考を読みたくて購入した『おまつと利家』に小林千草さんの論考が掲載されているのですが、そんなまつの秀頼に対する変わらぬ思いがあったという視点で書かれておりとても面白かったです。
○秀吉の形見
『太閤記』などによると、脇差が高次(「大津宰相」)に形見分けされています。「京極御系図」によると吉光ではなく桶屋正宗だったそうです。
この頃の高次の心境ですが、彼も福島正則や加藤清正たちと同じく、この時点ではまだ「豊臣対徳川」というところになかったのではないでしょうか。
戦の際大津城にいる妹の龍は、その後何度も大坂城に秀頼を訪れています。また、秀頼の庶子国松を預かったのも京極家です。
東軍に属する=秀頼を見捨てるというところまで結論付けていなかったように思います。
家康だけでなく秀忠(「江戸中納言秀忠」)にも「枯木之絵」が形見分けされています。
かなり最初のほうに名前が出てくるのですが、これは養女江の夫であることも多分に影響しているのでしょうか。婿入りの形で婚姻させたという記録もあるくらいですし。
○三成襲撃事件
三年前に笠谷和比古先生の講演を聴講しに行ったことがあるのですが、三成襲撃事件の際に三成が逃げ込んだ先は家康の邸ではなく、伏見城治部少丸にある自分の邸だそうです。家康がかくまったというのは「大歴史家」の誤解だと仰っていました。
伏見城には五奉行しか入ることができず、また治部少丸自体衛星のような位置関係にあったそうです。
治部少丸の屋敷に立て籠った後、出るに出れなくなった三成と、入るに入れない襲撃した七将(加藤清正・福島正則・浅野幸長・蜂須賀家政・藤堂高虎・黒田長政・細川忠興)たちの仲介をしたのが家康だったということでした。
笠谷先生は寧と茶々の対立はあったという立場の方で、その点では同意できないのですが、このお話は面白くとてもよく覚えています。
○寧の京都移住
大坂城西の丸にいた寧が京都に移った件ですが、移住先は「秀頼卿御城」と称された豊臣家の屋敷(京都新城、現在の仙洞御所)でした。
小説などでは茶々が追い出したなんて悪意を込めて描かれることも少なくない一件ですが、そもそも寧は秀吉の生前から大坂にいた時期よりも京にいた時期が長く、朝廷や公家に独自のコネクションを持っていたものと考えられます。移住先も豊臣家の邸であること、秀吉生前の寧の役割、秀吉の遺言などから、現在ではこの移住は秀吉の生前からの構想によるものであるという見解が一般的です。
間もなく家康が西の丸に入るため、寧が家康に譲り渡したとも言われますが、関ヶ原合戦の際西軍方はこれを「家康がお寧の邸を乗っ取った」とも言っており、真偽はよく分かりません。
劇中で寧自身が今後は「秀吉の菩提を弔う」と言っていましたが、実際に出家するのはもう少し先のことになります。それまでも寧は月命日などにはほぼ豊国神社へ参拝して追善を欠かしませんでした。
「別々になっても心はひとつ」というセリフについては、まさにその通りで、月命日の参拝など秀吉の菩提弔いはもちろんのこと、この後も寧は京の屋敷を拠点として朝廷や公家を相手に「秀頼の身が成り立つように」懸命な活動を続けます。
大坂城で生母茶々に見守られながら、京では「まんかかさま」であるお寧に支えられ、また龍にも見守られ、秀頼は成長していきます。
○子々
一般的には幼名子々、後に珠とされていますが、劇中では最初から珠でしたね。ややこしくないように意図的にされたものでしょうか。
結局、実際には珠と改名したのでしょうか。
○江の憂鬱
秀吉の養女として秀忠の妻となった江と、あくまで侍女である大姥局。おのずから立場が違う二人です。
おまけに、秀吉の養女でありまた秀勝の妻であった江ですから実際に豊臣家のことについて江は心を痛めていただろうと思います。嫁ぎ先のことだけ考えろ、というのは時代錯誤な台詞で残念でした。
あまり詳しくないのですが、確か早くに母を亡くした秀忠の母代わりになったのは阿茶局だったのではなかったでしたっけ…?
乳母はあくまで乳母であり、母とはまったく立場が違う、というのが私の考えです。
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