大雲院。信忠座像。お位牌もありそう。後陽成天皇宸筆勅額草、額草年号。軍配団扇、盆石 銘残雪、餓鬼腹花入(開山貞安上人が信長に拝領したもの)。信長画像。信忠画像。丸壷茶入 銘唐丸(貞安上人が秀吉に拝領)
posted at 15:34:01
#武士の装い展 @ #丸亀市立資料館 京極の家紋が眩しい 秀頼から京極に送られたにっかり青江さんも気になるところ pic.twitter.com/Zdys8PBbQm


posted at 09:07:56
【曳山博物館知善院展①】 ◯知善院蔵豊臣秀頼書豊国大明神神号(慶長6年):↓の発願文に三河村新兵衛尉が寄進したとあり。他のものに比べて華奢な筆かなとも感じたけれど、ハネはしっかりピンと跳ねていた (解説は「ほうこくだいみょうじん」とルビが…)
posted at 13:19:30
【曳山博物館知善院展】 ◯柿経(こけらきょう)…清水谷知善院跡出土。法華経が記されている。元亀三年の墨書あり ◯硯、瀬戸美濃水注、銅壺、香炉、笹塔婆…清水谷知善院跡出土品、長浜市蔵
posted at 14:33:42
過去の図録に、長浜城歴史博物館蔵や長浜八幡宮蔵の秀頼自筆神号、竹生島の慶庵ゆかりの灯籠や観音様があったので入手。 先日読み直した福田先生がとりあげていた侍女こぼ書状に関する太田先生の記事を収録したみーなも入手。 たくさん買って下さるんですねえとボランティアさんに言われたわず(笑)
posted at 14:39:33
豊国神社の字は浅野長勲書 当然、浅野長政の子孫ですが、完子の子孫でもあり。 完子ー九条道房ー寵ー浅野綱長ー吉長ー宗恒ー重晟ー懋昭ー長勲 pic.twitter.com/Jv7HOna7db


posted at 15:21:53
★資料 寛永15年 瀧谷吟松寺 「・・豊臣御母公淀殿之・・・」 紙本 巻物★ page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/s54… #ヤフオク pic.twitter.com/OkDVx7owpR

posted at 17:22:09
秀頼母子の最期、史実だとどうしてわかるのか。内容が一致=同じ情報源 の可能性は? どちらにしろ、徳川方vs豊臣方の、三者とも徳川方という一方的な、しかも秀頼主従の様子を直接見ていない者の話が何が史実か
posted at 20:42:07
少なくとも、天守閣で浅井一政に自害の教えを受ける秀頼の様子からは、そのような様子は見受けられない 最後までなんとか母(茶々)を生かそうと伝手を辿った様子はよくわかるけれど それも茶々が見苦しく最後まで生き残ろうとしたかのごとく語られる ここでの主語はあくまで秀頼なのに。
posted at 20:45:16
例の『浅井一政自記』の論文を改めて読んだ。学ぶところ多かったけど、茶々に関する記述で、当時の女性の政治関与や豊臣家内の勢力図を明らかにしないままに、悪女の萌芽とか独断とか断ずるのはやっぱり違和感を覚えました。贔屓目のぞいても、根拠と検討が充分とは言えないのでは、と。
posted at 19:54:07
そういえば、こないだの論文、最後の常高院への助命嘆願使者の依頼も、何度読んでも原文で主語は秀頼なのに、表では茶々になってたな。秀頼と茶々は一枚岩ではないということにも言及されてたのに、そこを混同したのはわざと?なのかな?
posted at 21:27:03
切手によると、「周慶寺」と謚され、慶長九年に三十二歳で亡くなったらしい…
毛利秀就、吉川広正室竹姫、毛利就隆三子の生母らしい…
(史料は未確認のため、切手シート情報のみですみません)
この、「淀君が絶賛した」なるエピソードについてのご質問でしたが、浅学の私は全く存じ上げませんでした。
フォロワーさん方にお知恵を拝借できないか尋ねてみたものの、今のところ情報なしです。
しかしながら、気になるので忘備録もかねて改めてブログに書き残します。