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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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鷹司孝子(本理院)の名前

 

徳川綱吉室鷹司信子の本名が「小石」なのは聞いたことがあったけど、家光室鷹司孝子の本名が「マン」なのは知らなかった。(『吉井藩主系図』)では永光院を「お万の方」と呼んだのはなぜ…?


posted at 13:16:11


『宮廷公家系図集覧』では「満姫」 twitter.com/itoko_akaishi/…


posted at 13:21:19

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崇源院侍女東ノ局(新田かな)

 

新田かな、新田氏純女、千葉邦胤室、東ノ局と称し崇源院に仕える。寛永十年六月十一日没、享年八十三歳。(「御当家末書」)


posted at 13:42:44

 

小笠原家に伝わる完子の血筋 など

 

確認。永と書いて「ひさ」と読むらしい。名付け親は小笠原忠雄夫人梅(浅野光晟女、長寿院)。 twitter.com/itoko_akaishi/…


posted at 19:27:20



五徳の娘が嫁いだ小笠原家では、五徳の名前が「玉姫」と伝わったようだ(「御当家末書」)


posted at 13:07:59


姉妹に小笠原氏(「御当家〜」では貞慶と推測)室高源院殿真海性憐大姉。一時秀吉伯母圓鏡院尼公の庇護をうける。高源院は天正十年十月二十六日第二子(源松大童子)出産と当日に死去。圓鏡院尼公は同年九月十三日病没。 twitter.com/itoko_akaishi/…


posted at 13:42:52


小笠原忠総室の養寿院の名は、「能姫」と「喜姫」という表記があるので、「よしひめ」と読むのだろう。


posted at 16:39:56


確認。永と書いて「ひさ」と読むらしい。名付け親は小笠原忠雄夫人久(浅野光晟女、長寿院)。「御当家末書」ではやはり「永」。自分の名前を継がせたようだ。


posted at 23:01:48


「御代々御奥方之事」で「ヨシ」とふりがな発見。 twitter.com/itoko_akaishi/…


posted at 23:06:19

 

「大坂の陣と近江牢人」

 

@ 主に浅井一政自記や北川〜、長沢〜を元に、冬の陣開戦までの十日間をわかりやすくレポしていただきました。あと近江出身の大坂牢人のご紹介などです。


posted at 00:03:08


@ 個人的には且元の嫡子と秀頼の娘をめあわす話があった下りが面白かったです。 最近出た一政自記の論文に比べ、同じ史料を使っても、読む方が変わればこんなに印象が変わるのかと改めて驚きました。


posted at 00:05:59


@ それは本当にそう思いました。 秀頼も茶々も且元も首脳陣も、絶対的な力を持てなかったと太田先生が評価されて、わたしもそう思いましたが、その中でも且元の存在感は娘をやっても惜しくないほど豊臣家の中で大きく、欠くことができなかったのでしょうね。


posted at 00:17:34


@ あと茶々が一政たちに応対するとき、きちんと屏風越しに応対していた描写が、世に聞く話や印象とは大きく異なり、その辺りちゃんとしていたんだなあと驚きました。


posted at 00:21:04


浅井鶴千代ー海津局(夫は田屋政高)ー田屋式部(妻は三好氏)ー三好直政(妻は明石掃部の娘レジイナ)ー… かなあ


posted at 14:48:22

 

虞美人草

 


 

丸亀城

 

丸亀城。時間が間に合わなかったのでさわりだけ。 pic.twitter.com/q9RTGrs9BI



posted at 16:29:02


 

「雲平墓」(伝大野治長墓)@讃岐国分寺跡

 

治長の落ち延びた先のお墓跡という場所 パネル写真となるべく同じ角度を目指して撮ってみた 墓碑はもちろんかつてあったらしい塚も何もなくなっているけれど、ささやかな野の花が咲き、のどかな場所でなんかほっとしました pic.twitter.com/RgkhIoeQ4w



posted at 11:07:05


治長の墓って、他にないもんなあ 妙心寺で治長夫妻の墓と言われているのは、治長の父母の供養塔だし…


posted at 11:08:57

 

吉備津彦神社

 

吉備津彦神社。池田照直、福生院、六姫、光政、綱政ゆかりの社。 pic.twitter.com/v8B2G3mhUO



posted at 12:19:43

 

西本願寺唐門(日暮しの門)

 

唐門も飛雲閣も、聚楽第説は大分否定されてるのかー…


posted at 23:57:12


 

「豊臣家中からみた大坂の陣ー大坂落人浅井一政の戦功覚書を題材として」

 

堀氏の論文を読んだ。とかく気になったのは、茶々が女だてらに秀頼を差し置いて云々という視点。そもそも秀頼と茶々が一枚岩ではなかったというのは昨今各氏の論じられている通り。どちらが悪でどちらが善はない。 kyoritsu.repo.nii.ac.jp/index.php?acti…


posted at 00:49:20


一政自記だけでは、とても茶々が且元へ送った書状、それが片桐家に伝わったことなどとしっくりピースがかみあわないところもあるよね twitter.com/itoko_akaishi/…


posted at 00:52:34


個人的に気になるのは、一時期茶々が世代交代をしようとしていた形跡が見えるのに、この時期一政の目に明らかなくらい主導権を握ろうとしている?と思われるような描写が増えるところ。秀頼と一枚岩ではなかったことも原因なのかな… twitter.com/itoko_akaishi/…


posted at 01:07:33


あとは、徳川方でもそうであったように、秀頼は戦を知らない世代であるため、親の代である自分が舵を取らなければと思ったのだろうか twitter.com/itoko_akaishi/…


posted at 01:09:38


まあ、なんせ一政自記に記された茶々の行動に対して、「過干渉」と安易に評価されていたのが個人的にひっかかりまくったというお話でした


posted at 01:11:48

プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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