「石清水八幡宮社殿略年表」 天正十六年 七月「豊臣秀吉母大政所病気平癒ヲ祈願シテ一万石ヲ奇(ママ)進ス」 同十七年「是歳、豊臣秀吉母大政所ノ病気平癒ヲ祈リ社頭四方ノ廻廊ヲ再興ス 慶長四年「是歳、豊臣秀頼若宮殿ヲ再興ス」 同六年「是歳、狩尾社ヲ再興シ、高良社ヲ造替ス」(続)
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(続き) (天正16は廻廊、天正17は社殿再建) 慶長十一年「三月二十三日、仮遷宮日時宣下/二十五日、三所御体ヲ若宮殿ニ遷シ奉ル/旧社殿ヲ悉ク取除キ宝殿内外・幣殿・舞殿・武内社等悉ク造営/十二月七日、正遷宮日時宣下/十一日、正遷宮」 (続)
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さすが八幡宮の神宮寺。応神天皇のお位牌がある。応神天皇の位牌所応神寺から応神天皇を憚って神應寺。歴代江戸幕府将軍位牌。家康と綱吉だけ個別。豊臣秀吉坐像。(江戸時代。高さ42cm)精悍な印象。きりっとしてる。集合位牌に「豊国大明神」。雍州府志に朝鮮出兵時のエピソードあり。
posted at 14:14:28
弓箴善疆像(高台寺の開山、秀吉の同郷) 狩野家、大坂の陣以降石清水八幡宮に隠れ住む。 『杉山住山記』「豊臣秀吉公方外ノ朋友 伏見城ヨリ朝鮮征伐之砌當寺止?書中□」 秀吉像、白衣裏赤 pic.twitter.com/8C5yOs2xk0




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南化玄興(1537〜1604)賛豊臣秀吉像、賛は田中吉政の求めによる。高台院像(北政所像、容貌若々しく剃髪もしていないので高台院を名乗る慶長八年までの寿像か)、木下長嘯子像、常光院蔵木下家定像、綱敷天満宮縁起(慶長十二年ら寧が幼少から天神を深く信仰していたという)
posted at 18:49:48
浅野長政仮名消息(寧が木下家定遺領を甥の勝俊に継がせたいと強く願う旨、孝蔵主、客人局宛)、常光院蔵高台院消息(常光院宛) pic.twitter.com/CRjh6u7zQz

posted at 19:04:21

〇大野家
大野治長・治房兄弟は毛利勝永と家老の宮田甚之丞とも従弟である(『南路志』)
大野・宮田・毛利(森)の三氏が葉栗郡に所縁があることを解説。
(略)高澤(等)氏は戦国初頭に(森氏が)美濃から移ってきたのではないかと推測されている。
同(葉栗)郡内に宮田の地名があり、勝永の家老にして従兄弟宮田陣之丞の故地と考えられる。宮田氏は太子山上宮寺住職の分家であるという(『尾張群書系図部集』)。また同郡上門間庄大野郷は、大野氏発祥の地と考えられる。
宮田・毛利両氏は大野兄弟にとって父方の従弟のようですね。
同書では毛利勝永(吉政)の父吉成(勝信?)の妻が大野氏か宮田氏かとされています。
①大野氏であれば、吉成の妻及び宮田陣之丞の母は大野佐渡守の姉妹?
②宮田氏であれば、大野佐渡守の妻大蔵卿局が宮田氏の出?
青柳の存在が裏付けできれば、①?もしくは青柳の母が大蔵卿局の姉妹?という感じですね。
〇勝永の妻 「土佐御前」龍造寺安
龍造寺政家が九州仕置の後記楽する際に娘(「嫡女」〔龍造寺家々譜書抜〕)を人質として送った。「やす御りうにんさま」(『日峰様咄之書(茂宅聞書)』/『佐賀県近世史料』第八編第二巻内)
安の紹介の後にこんな逸話が…
龍造寺政家はその息女安姫を秀吉へ証人として差し出したが、美麗の評判が高かったため、上方にあっては淀殿の妬みを買った。そこで、秀吉は淀殿の嫉視を避けるため、毛利豊前守勝永に安姫を娶せたという。
間もなく、大陸出兵がはじまると、勝永も朝鮮に在陣するようになり、安姫は九州へ下向して、小倉の城下に居住するようになった。美しい安姫のことが忘れられない秀吉は、名護屋との往復の折、船を寄せて小倉に入った。しかし、安姫は勝永への貞操を守って、秀吉のもとへ伺候しようとはしなかった。秀吉は、さては実父政家の指図かと勘繰った。加えて、病弱でもあった政家は、先の肥後一揆の際に出兵しなかったため、秀吉の不興を買っていた。秀吉は、ついに政家に強いて龍造寺いの家督を息子藤八郎(高房)に譲らせてしまったという。
逸話を紹介された後に、「秀吉が諸大名の妻妾に懸想したという話はいくつも伝わっており、一々信ずるに足りない。」と一刀両断されています。
例の蒲生家の冬姫の話といい、まったくその通り。よくぞおっしゃっていただきました。
それにしても、毎回こういう話に出されるのは茶々なのが恣意的で嫌ですね。この話の出店はどの史料でしょうか?
九州平定は天正十五年まで、同書によると安は天正十八年の二月には佐賀に帰っているといいますから、そのころの茶々の権力が安をどうこうできたというのは現実的な話ではないです。
慶長十五年五月二十五日没。「土佐の御料人」、「土佐の御前」〔葉隠〕
没年から大坂の陣において妻に励まされる有名な逸話の妻は、真偽も定かではないが、少なくともこの女性ではなかったらしい。
大坂の陣で土佐に残された妻は後に家康の側室夏の女中に取り立てられたらしい(『南路志』)
〇二条城会見
勝永は土佐に配流後も豊臣の情報を得ていたという話。
大野治長が書状で二条城会見について勝永に宛てた書状の写しが『大阪城の七将星』にあるという。
使者に立った「窪田甚三郎」(宮田甚之丞か)と勝永、治長は従兄弟の間柄というから、治長が勝永につながりを持つのは不自然なことではないように感じます。
この時点で勝永が上方へ赴く意思を示していたのを、治長が「此方御上りの事、御無用」と止めたらしい。
〇宮田甚之丞
大坂の陣において勝永とともに大坂に入ったが、七日に城を出たらしい
(「新参ニ籠、七日ニ城ヲ出ル者/毛利豊前家老後松平伊豆守(松平信綱?)召抱 宮田甚之丞」)
甚之丞は勝永から形見を託されたらしく、真田丸展で展示された陣羽織などはその時持ち出されたもののようです。
瑞泉寺。創建当初は小さな堂宇の寺であったが、七十年後の天和三年に現在規模に。慈舟山瑞泉寺略縁起、秀次遺愛之陣刀、秀次装束、一の台局緋袴、御釜、冠、扇(秀次直筆)、秀次一族の御影(複製)、秀次朱印状二通、秀次公縁起(寛永二年成立甫庵太閤記より古い成立)、瑞泉寺縁起
posted at 14:16:58
以前は龍や国松の墓があったほか、
安永九年刊『都名所図会』より元和八年以降の景観(宝珠院第三十二代慶祐上人御内室画)が額縁に入れて飾られていました。 pic.twitter.com/DjK0myhaUJ




posted at 13:25:04
すごく立派な御本尊さまにおどろきました 三つ盛亀甲が京極家由来とか、讃州寺町が誓願寺が以前あった場所とか 秀吉室として再考した割には思いの外豊臣の影が薄かったです 盃争いも普通に書かれてましたけどね(´・ω・) pic.twitter.com/BpbLAm2ibv




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橋本実勝女、慶安元年十二月二十六日没 RT @itoko_akaishi 東福門院の側近、権大納言局は福正院殿梅雲妙白といって、龍が帰依した誓願寺に塔頭(福正院)を築いた人。お墓もそこにあったらしいのだけれど、今もあるのか、それとも龍や国松同様どこかに移転されているのか…(雍州)
posted at 06:35:59
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