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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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秀頼の羽柴姓と黒印

 

「羽柴藤吉郎豊臣朝臣秀頼」について 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(27)|法学部|駿河台大学 www.surugadai.ac.jp/gakubu_in/hoga…


posted at 22:29:34


羽柴姓については、福田千鶴先生の『豊臣秀頼』では、それでも同時代に秀頼が「羽柴」を使った形跡がないので、本家は姓が無い状態だったのでは?とも考察されてました。


posted at 22:31:22


@takinogawakage そうですね。普通の武家とも立場が違いますし…。 福田先生も、そこはそうで無い証拠があらわれれば考えを改めたいと書かれています。


posted at 22:34:23


@takinogawakage こちらこそ、意図された意味と違った反応をしていたら申し訳ないです。


posted at 22:35:34


@takinogawakage 確かに黒印の件は気になります。そういう切り口で考えたことがなく不勉強を恥じるばかりです。


posted at 22:44:08

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海津局と三好家 ~消えた一代を追って

 

浅井明政の妻浅井鶴千代と宗正寺に入った海津政元の妻は別人なのか…。そうすると饗庭局との関わりはまた別の話ということ…?


posted at 13:30:37


もしくは、海津局と直政の間に一代抜けているのかもしれない…。


posted at 16:41:17


若く見積もって天文二年に十二歳だったとしても、海津局を生んだのが四十過ぎになってしまう…。鶴千代と海津局の間に、どうしても一代抜けているような気がしてならない…。


posted at 16:34:31


政高と海津局の間にはあと三人娘がいる。これがみんな直政の姉だとして、直政が慶長六年生まれで、海津局三十五歳の子どもだったと仮定すると、海津局は永禄十(1567)年ごろの生まれ。海津局の母鶴千代の生年も不詳だけれど、天文二(1533)年には夫明政と寄進の記事がある…


posted at 16:29:17


その父政高は元和元(1615)年没で没年五十五歳ということは生年は永禄四(1561)年。直政が生まれたときは四十一歳、もしくは四十六歳。


posted at 16:24:17


昨日、海津局一家のことが気になりだして眠れなくなってしまった…。『寛政重修諸家譜』曰く、海津の息子直政は寛永七(1630)年没で没年が三十歳もしくは二十四歳ということは、生まれ年は慶長六(1601)年か慶長十一(1606)年。


posted at 16:22:07


@amnkrm そうなんです、どうしても違和感が…。①鶴千代・明政―海津局(海津尼、政高妻)―海津局(海津、明政養女、田屋式部妻)―直政かなあ…と。もしくは②鶴千代・明政―饗庭局―海津局―直政も考えました。もう少し手がかりがほしいところです…


posted at 23:14:15


海津局と直政の間に海津の息子がいるのでは…説ですが、松平定綱の継室となった女性が浅井忠政の娘さんだとか。浅井家で忠政といえば、「作られた系図」では直政さんの父上が忠政さん。あの直政さんと三好直政の混同で、三好直政の父が浅井忠政だったということはないだろうか…


posted at 03:08:54


もしそうだとすると、三好直政と松平定良母曜安院殿は直政の姉妹ということになりますね。海津局の子で、直政の姉妹とされている人は里見興元妻、紀伊介賢政妻、林外記妻で、曜安院は入っていない…。曜安院が産んだ定良の継室が京極高広の娘だということにも驚いた。


posted at 03:14:59


www.city.takashima.lg.jp/www/contents/1… 宗正寺の記事。しかしながら、お位牌を拝む術なし…(T ^ T)


posted at 19:28:02


@himi_souma タイムリーですが、わかったかも!鶴千代さんが海津尼で、天正5年に亡くなってる(正宗院)、その娘が海津殿で慶長十七年に亡くなってる(栖松院)、饗庭局はその妹。その娘が海津局で、明暦二年に亡くなってる(光源院)だとものすごくしっくり!


posted at 15:15:38


@himi_souma いくら何でも薨じると書いてるのに実は亡くなってなくて…というのは無理があるのではとサイトを見て思いました。海津尼と海津殿が別人だと考えればすごいしっくり。


posted at 15:17:20


@himi_souma まだ整理できてないあれを垂れ流して恐縮です…


posted at 15:30:02



@himi_souma ずっと裏を取ろうとしてるんですが、まだとれなくて、おおっぴらにはいえないただの仮説ですが、少なくとも一代足りないのは確かで…私の計算では海津局が60代くらいで直政を産まないと計算があいませんでした。


posted at 00:31:29


@himi_souma 私の仮説では、いわゆる海津局が鶴千代の娘で直政の母では年代が一代くらいたりないので、系図が一代とんでいるのではないかと考えています。海津局の娘か息子が直政の実親で、その配偶者が三好姓かな、と。


posted at 00:29:19


@himi_souma それ、気になりますよねえ。身内で一体何があったんだろう…


posted at 00:25:16


長浜城。 浅井合戦日記付属の浅井系図に、明政の女として「女子 饗庭妻? 淀殿一所生害」、「女子 沢山城主磯野??守室 子孫有之」…内容全てが正しい系図ではないけれど、海津局の母かな?


posted at 16:38:48


浅井鶴千代と明政の長女が磯野氏=員昌?に嫁いだとすると、磯野員昌女という小堀正次妻は鶴千代の孫娘ということに。正次自身の母も浅井亮親女。そこから田屋政高妻までどう繋がるのか。こんがらかり中。『諸系図』では磯野員秀の妻が久政女になっているらしいけど…大混乱。


posted at 18:28:28


やっぱり普通に考えて長政と同世代なはずの海津局の世代がおかしいよねぇ


posted at 17:40:21


紺地牡丹唐草文様銀襴打敷(こんじぼたんからくさもんようぎんらんうちしき)弘化3年(1846)大坂城落城の際に、千姫に従って海津局(淀の方の侍女)は、浅井家の血を伝える幼い子を連れて脱出した。海津局の子は「浅井」から 「三好」へ名字を変えて後に江戸幕府へ出仕し、孫の三好政盛も幕府で


posted at 17:11:57


三好家の菩提寺ならば、海津局が二代いるのでは?問題が解決するかと思ったけれど、ダメか…がっくり。江戸の中期に火事で古い記録は焼失したらしい…。五年くらいかけたけれどそう簡単にはいかないか…


posted at 01:32:39

 

茶々は名護屋に同陣したか ~文禄二年京極高次書状(熊麿関係)

 

ちなみに、『居所集成』の新版でも福田先生による「簾中」が龍子ではない旨の補強がありましたので一応。 twitter.com/kazumaru_cf/st…


posted at 06:53:24


文禄2年の京極高次書状(磯野家書状)を見ている。「大坂御局」が誰かですが、わたしは大蔵卿局だと考えブログにそう書きました。福田説では、大蔵卿局は名護屋にいるはずなので別人とされ、ネットでは大蔵卿局であるはずだから、やっぱり茶々は大坂にいるはずで、服部説の裏付けだとされています。


posted at 19:11:55


(続き)別人だとしたら、その後に「海津殿」と出てくるので、京極家との仲立ちができる人物である海津の叔母(妹というのが通説ですが、この海津は姪にあたる人ではないかとわたしは考えています)饗庭局かなと思うのですが、正直「御局」のみで通じているのでやはり大蔵卿局をさすのかなあと…


posted at 19:15:44


そもそも、大蔵卿局は茶々姫の乳母で最側近すが、彼女が始終茶々から離れることはなかったのでしょうか。たとえば、寧の側近孝蔵主は寧の代わりに動くこともしばしばあります。少なくとも大坂の陣のときには茶々の元を離れ駿府まで出向いていますし、(続く)


posted at 19:18:42


(続き)江が千の輿入れで上洛してきた際にはやはり大坂の茶々姫のそばを離れて近江まで行って応対していますし… 出産を控えて大坂へ帰る茶々のために、二の丸の体制など準備を整えるのは大蔵卿局が責任を負ったと思いますし、先に名護屋を離れて大坂にいたとしても別に変じゃないと思うんですが。


posted at 19:22:32


そもそも名護屋では知れ渡っているのに大坂で話題にできないというのも、単に公表に至っていないというだけで、すでに茶々姫ともども大坂に帰っていても不思議ではないとも思っていますが。 まあなんせややこしい。


posted at 19:25:05

 

真田丸 第34回「挙兵」

 

お寧さま大坂城西の丸に入ったか #真田丸


posted at 21:05:30


茶々さまはあえて知らないふりか、やっぱり #真田丸


posted at 21:06:15


ほんと秀頼は、せめてこの人が長生きしていれば…という人物が多すぎる… #真田丸


posted at 21:07:09


お、ちゃんと徳川屋敷じゃなくて治部少輔丸に入るんだ! そして大坂の陣のメンバーが続々と。 #真田丸


posted at 21:12:15


茶々さまの耳に争いの話をいれないのは、茶々さまのためであり、秀頼を政争に巻き込まないためよね 「御上様」茶々さまと信繁のやりとりに胸熱…! #真田丸


posted at 21:15:13


そしてお寧さんはとても、政とは無関係になれないのです、、 #真田丸


posted at 21:16:04


聡い茶々様にもうもう胸がいっぱいでございます…!


posted at 21:17:00


そしてどこか冷静さがまだ残るせいしょこさまにも胸熱。 #真田丸


posted at 21:19:15


「秀頼様を頼む」 だよね… 最後の最後に頼むのが清正… 泣けるわ…! なんだかんだ1番信用しているのだね #真田丸


posted at 21:24:41


大坂の陣まで続くスカウトはじまたー #真田丸


posted at 21:26:16


家康が西の丸に入った… #真田丸


posted at 21:26:52


桃の木を大切にする茶々姫萌えです…(*'-'*) つかの間の幸せそうなシーン… #真田丸


posted at 21:29:12


秀頼の名前だすのは今回徳川の意思という設定かぁ 且元がんばってぇぇぇ #真田丸


posted at 21:36:46


大蔵卿がんばれぇぇ #真田丸


posted at 21:37:34


茶々さま、いけません…、、 #真田丸


posted at 21:38:27


〔今回の茶々姫〕秀頼のためを第一に冷静に見つめる御上様茶々姫は本当に美しく素晴らしかった その路線で行くなら、最後に家康に兵糧や旗まで許すのは矛盾しない?? 経験の差で家康の都合のいいように引き出されるにしても、もうちょっと粘ってもよかったかなぁ(´・ω・) #真田丸


posted at 21:44:21


@karinto55 本当に。秀長、秀次、鶴松、秀吉、利長、浅野長政、清正…挙げればきりないですね…


posted at 21:47:35


「御上様」(おかみさま) 諸史料を見た限り、特に一次史料では茶々姫が1番呼ばれることの多かった呼称では?と思います 秀吉の生前から、秀吉没後「御袋様」が増えてきても「御上様」は使われてます。 #真田丸


posted at 00:07:27


兵糧と旗を貸してしまった時のTLは目も当てられない感じですね… 私が感激した「秀頼のためになりますか?」のシーンは、賛否両論… 物事を冷静に見る目はあるけど、旗や兵糧を出すということが秀頼の名前をだすのと同義だとわかっていない、知識がないってことか、なるほど… #真田丸


posted at 00:16:25


〔茶々の呼称〕「御上様」といえば、「上様」(うえさま、かみさま)と「御上様」(おかみさま、おうえさま)でいつも迷う。 紫の上は「うえ」と読む、みたいな。 こんな話をする機会が来ようとはこれまた胸熱。 あとは「御上様」ほどではないけど「御前様」や「簾中」などもあり。


posted at 02:00:40


そうやなぁ そんなif歴史が変わりすぎるから考えにくいけど、万福丸が生きていたら、秀頼にとってはよっぽど心強い伯父さんやったやろうなぁ、うん


posted at 02:23:33


〔今回のせいしょこさま〕 昨日の三成から清正への耳打ちですけど、三成が清正に託すことといえば秀頼のことしかないという思い込みで見ていたら、 口の動きが「ひでよりさまをたのむ」とぴったり合致したので鳥肌立ちました。 (続く) #真田丸


posted at 14:30:31


(続き②) 感想サイトなどですごい謎扱いされてるから、もっと手の込んだ謎なのか?という感じですが、せいしょこさまの最期を考えるとこの言葉非常に重いものだなあと考える次第です。 #真田丸


posted at 14:31:08


(続き③) ある意味せいしょこさまを縛る「呪い」ですな。まあ、呪いがなくてもせいしょこさまは秀頼を守ってくれたと思いますが、より命を賭したものになるというか… …違う耳打ちならごめんなさい(笑) #真田丸


posted at 14:31:31


お恥ずかしながら戦に疎すぎるので、以前戦国無双やりながら、そういえば清正は結局関ヶ原にはいないよなぁと思っていたのですが、昨日の丸島先生の解説ツイートを拝読していろいろ納得した次第。それは七将もいるのだから、一枚岩とはいかないよね。それぞれが事情が違うし。


posted at 14:43:18


(続き)いつもセットで描かれる加藤福島も別行動とるし、意見の違う場面もあっただろう。 そんな当たり前のことを改めて思いました。


posted at 14:44:32

 

特別展「大谷吉継と西軍の関ヶ原」@敦賀市立博物館

 

敦賀市立博物館なう。 『当代記』:ちょうど前回の家康暗殺計画で大谷吉継が家康に加担し事態が収束した記事。 『岩淵夜話 別集』:家康にまつわる逸話んまとめた書。元禄年間? など


posted at 13:46:44


「大谷吉継書状」原本真田宝物館所蔵、宛先「眞安房守殿/左衛門佐殿/人々御中」、差出人「白頭」:「内府去々年以来御仕置、 太閤様御定被背相、 秀頼様御成立難成由候而、…」、「何方ニ御在陣候共、右趣御分別候而、 秀頼様御身捨有間敷事、…」


posted at 13:47:03


「松井康之書状」神戸大学大学院人文学研究科所蔵、「中修理」(中川秀成)宛、慶長五年七月二十五日付:「大津宰相殿伏見と被持合、内府様へ無御別義由之事、」 『微妙公御直言覚』:前田利常の言行を家臣の藤田泰勝が書き留めた書


posted at 13:57:11


『御撰大坂記』延享2年成立。徳川吉宗の命により大坂の陣についての幕府の正史として編まれた 『難波戦記』解説に1615年が慶長15年になっている… 『絵本孫子童観抄』


posted at 14:12:00


『駿府政事録』元和元年ごろ成立。慶長16年8月1日から元和元年12月29日までの記事。「史官」による記録。 信繁夫人のほか国松、天秀尼、浅井周防守、大野道犬捕縛の記載あり。「秀頼御息女七歳」、「秀頼息男八歳号国松殿」、「浅井周防守是ハ御母義縁者」 『大日本史料』にある史料。


posted at 14:16:35


ほか、『おあん物語・おきく物語』など pic.twitter.com/yI36NaFnmR



posted at 14:20:44


『御撰大坂記』 「けいちゃう十九年九月廿六日/ちゃ/\御血判 いちの正殿」


posted at 14:27:43


大坂編のポスター地味にはじめて見ました。 pic.twitter.com/ukJveR7vMo



posted at 14:32:46


RT @ton_hakuyama: 特別展「大谷吉継と西軍の関ヶ原」ギャラリー・トークは本日(28日)10:00から。ギャラリー・トークも今回が最終となります。関ヶ原合戦から大坂の陣へ受け継がれた、吉継の想いを感じてください。参加無料(入館料必要)。 pic.twitter.com/1Z6ZSpVHwu


posted at 11:18:38


@ton_hakuyama 一昨日伺わせていただきました。とても見ごたえある展示でした。 すでにご指摘されているかもしれませんが、『難波戦記』の解説で1615年が「慶長15年」とされておりましたが、「慶長20年」の誤りかと思われます。余計なお節介でしたら申し訳ありません。


posted at 11:24:24


 

長浜城歴史講座~長浜城

 

長浜城歴史講座。 大河前回の事件『当代記』のみ登場、太田先生的には本当か嘘かわからないとのこと。 ・「嶋」左近新出書状 ・沼田裁定 裁判の体はなく、秀吉からの北条一方的な通達(秀吉朱印状より)


posted at 14:12:38


・忍城攻め 水攻めが本当に上手くいかなかったかはよくわからない 水攻めは秀吉の指示に従って三成が実行、終盤は浅野長吉主体に ・利休切腹 秀長は利休を守る立場 北条と売買もフィクション 商売はしていたかも?茶人に目利きはつきもの 奉行衆との権力闘争


posted at 14:49:06


・秀吉の鶴松の扱い ていうか、ほぼ秀頼への書状、ぞんざいに扱うようにという当初の指示と実際など ・官途(左衛門佐など)受領(伊豆守など) 真田兄弟は秀吉から朝廷に申請して正式に任官(上杉武田なども) 但し被官や陪臣は私称も多い(浅井長政でも怪しい)ので同じ受領名が全国に複数存在


posted at 14:58:48


伊豆は本来下国、伊豆守は本来従六位下相当だが、時代が下ると受領の地位が上がったため、左衛門佐や治部少輔(従五位下)と同じくらいの地位だったのでは


posted at 15:26:22


・秀次切腹 矢部説の解説 切腹は秀次の抗議、矢部氏の前著に福島正則が誘ったのではとあり 秀次追放は奉行衆と武断派の抗争に関係あり?とする


posted at 15:29:22



多賀大社蔵豊臣秀吉像(兵具は慶長10年秀頼乳母宮内卿の注文、豊臣家制作の画像)「此表具御城宮内…」「慶長拾暦乙巳二月三日」、嶋左近書状(東義久宛、小貫頼久宛)、不動院蔵安国寺恵瓊木像、真田信之宛石田三成書状6点(関ヶ原合戦後も信之が大切に保管していた点に言及されている)


posted at 16:26:07


養源院蔵豊臣秀頼像、同蔵淀殿?像、真田宝物館蔵豊臣秀頼黒印状(十二月廿五日付真田信之宛、歳暮の礼状、取次は片桐且元)、真田宝物館蔵上杉景勝書状(石田三成宛、「秀頼様御馳走之段肝要至極存候事」、「秀頼様へ無二忠節之段」)


posted at 16:37:58


真田宝物館蔵「備口人数」(「伊勢口/一千人 大津宰相」)、毛利博物館蔵蜂須賀家政書状(毛利家堅田元慶宛「被奉對 秀頼公、餘相違之題目」)


posted at 16:49:10

 

柴田神社・北ノ庄城跡・三姉妹像

 

北ノ庄城跡(たぶん3回目) pic.twitter.com/Do4387jQMm



posted at 08:35:57


地味に三姉妹像は初めてでございます pic.twitter.com/8ARrAOxkoc



posted at 08:55:03


柴田神社の中にある三姉妹神社。 最近できた神社だけど茶々姫も祭神のひとりって結構めずらしい。 像と一緒にお守りもできてた pic.twitter.com/yuVEelgHMQ



posted at 08:56:49


@itoko_akaishi 三つのお厨子の中には何がまつられているのかしら


posted at 08:59:52


柴田神社 pic.twitter.com/Yv3bXyf9TW



posted at 09:20:27


柴田神社 pic.twitter.com/PrwgItCtAz



posted at 09:21:05


柴田神社 pic.twitter.com/KbsxHycgHo



posted at 09:21:30


柴田神社 pic.twitter.com/OXnar4Fcgd



posted at 09:22:09


柴田神社 pic.twitter.com/DRJIrvaPsu



posted at 09:22:28


そして柴田神社 pic.twitter.com/933taX6X0R



posted at 09:22:58


とりあえずいただいたが、「淀・初・江」にはやっぱりもよっとする pic.twitter.com/UQ85uollkg



posted at 09:36:48

 

「大坂の陣と福井藩」@福井市立郷土歴史資料館

 

『慶元通鑑』福井県立図書館蔵:「同(十二月)十六日牧野清兵衛稲冨宮内中井大和ヲ召テ鉄砲之練者ヲ擇テ所々ノ櫓ヲ打破ルヘキト也依之備前島菅沼織部正カ攻口ヨリ大筒百挺ヲ以一同ニ打之城内之女童周章シテ魂ヲ消七組ノ背及雲生寺修理等秀頼ヲ諌ルニ曽テ心服セラレス篭城ノ初ヨリ運ヲ開ントニハ非ス…


posted at 16:49:06


…唯亡父之遺誡ヲ守テ當城ニ於テ生害せント思ニアリ…」


posted at 16:49:33


石造地蔵菩薩立像 通称「真田地蔵」 「元和元寅年 大機院真覚英性大禅定門 五月初七日 西尾氏立之」 「大坂冬の陣図」多賀谷博子氏蔵 「浅井周防守長房 二千人」


posted at 17:13:06


常設展: 柴田勝家肖像画〔複製〕柴田勝次郎氏原蔵、柴田勝家掟書〔複製〕大連家原蔵など


posted at 17:44:59


 

「よみがえる伏見城」@京都市歴史資料館

 

秀吉の指月城の石垣戻る 400年ぶり、石切場跡に案内板 - 京都新聞 s.kyoto-np.jp/local/article/…


posted at 16:49:03


京都市歴史資料館なう。 伏見蔵光庵替地願「伏見蔵光庵敷地 関白様御屋敷に被召置候あいだに、則壊申候、然者替地等被仰付候様、御取成奉頼存候、」 奉行衆連署状「聚楽御殿共伏見へ被成御引、」 pic.twitter.com/imj1J7XsoT



posted at 10:03:27


錦絵「伏見大地震之図」:「地震加藤」「関白秀吉卿」(ママ)、「北の政所」、「幸蔵主」、「加藤主計頭清正」、「石田三成」…秀頼いない 『三河記』:「七歳ニ成リ玉フ秀頼」


posted at 10:10:01


鬼瓦:五七桐紋。金箔が肉眼では確認できない程度残っているらしい おにぎり:慶長五年伏見城攻防戦のもの? 徳川期伏見城の遺構:御香宮神社表門ら園城寺仁王門、福山城伏見櫓、鉄門


posted at 10:22:14


「伏見御城郭并屋敷取之絵図」(天明8年):西側「大野修理」 「伏水桃山城古図」(大正元年):東側「木村長門守」、「速水甲斐守」、西側「藤掛三河守」、「京極修理」、「大野」


posted at 10:31:51


「大名屋敷の金箔瓦5」:飾り瓦。五七桐紋。鷹匠町出土。金箔がよく残る。 「大名屋敷の金箔瓦3(前田家)」 :軒丸瓦に梅鉢紋。


posted at 10:35:14

 

真田丸 第33回「動乱」

 

誰に肩入れしたというわけでもなくこういう理由ならまだ納得できますね。 でも、佐吉のことをわかってくれてないのが悲しい。わかりにくい佐吉がアレですけど… twitter.com/hervorruf/stat…


posted at 20:32:54


今回は、誰に肩入れするわけでもなく秀吉の意思を守るために徳川を守れと言った寧さまと、大坂城の奥で情報を遮られている茶々姫がやけにリアルだと感じました。まだ関ヶ原前で諸将が生き残っているときならこんなもんかと。 #真田丸


posted at 20:35:50


登場時からいつ佐吉と決裂するのかとハラハラしていたせいしょこさんも、まさかのここまで決定的な決裂なし。 心は決裂しないまま、身は決裂するとは、想像を超えて切なすぎる。 井戸の話だけは底知れぬ恐怖だったけど、今期に渡ってせいしょこさんの熱い情が慕わしく切なすぎる。 #真田丸


posted at 20:39:59


徳川か石田かで語られる勢力図。実際は秀頼の存在、秀吉の遺志、それぞれの秀吉との関係などなど、二者択一では本当は測れない世界。今回の大谷さんや清正公など諸将、寧さまの描き方にそれがすごく感じられて感激でした。ここ数回のなかで個人的にすごく好きな回でした。 #真田丸


posted at 20:45:03


秀吉の遺言を真摯に果たしている信繁にもぐっときています。 ただ従うだけじゃない、父を敵対させるのも、上杉に無理を承知で交渉するのも、治部を「助け」んがため。 #真田丸


posted at 21:01:19


なるほど 態度というか、現地とそうでないのの差も大きいかと思います twitter.com/mimami816/stat…


posted at 21:13:11


養源院に伏見城の遺構を使ったのは妹の江ですが、因果なのは確か。 twitter.com/green02moss/st…


posted at 21:15:23


概ね大蔵卿局が有能派と無能派に評価がわかれているけど、なにより彼女がこれだけ評価の対象されるというのは嬉しいんです。


posted at 21:21:21


いくら大河ドラマとはいえ、すべての人物とはいえないけれど、限られた最低限の出番であれだけの人物の魅力を描いているのが本当にすごいと思います。 #真田丸


posted at 21:32:38


お、たしか大坂城で千姫に仕えた小督局(妹の江とは別人)の旦那さま。 手前味噌ですみませんが、この方↓ chachahime.hanagasumi.net/meiden/ogou.html twitter.com/kazumaru_cf/st…


posted at 21:42:56

プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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