木下延俊慶長18年日記「(六月)廿日、今日も天気能く候。今朝高台院さまより殿様御気相あしき由きこしめし候て、御書参り候。其の後ニ御薬も三色参り候。今朝ハ長慶院さまヲ御振舞成され候。高台院さまより御樽、雁色々参り候。…」
posted at 12:58:09
「(六月)廿九日、今朝五つ時分大坂満介所へ御付き、天気能く候。大坂様へ御礼御申す。有楽様へ御茶湯ニ御出候。外記さまも御しやうばんニ御座候。それより見廻多く御出候。中ニも小川総兵衛参られ候。」
posted at 12:58:13
パネル「日出藩主木下家と一子相伝」、木下俊凞氏と写真、木下氏著書『秀頼は薩摩で生きていた』表紙写真(「豊後国旧日出藩十八世裔豊臣木下俊凞」)、立石領木下氏家紋(沢鷹紋)彫物〔長流寺(杵築市山香町)〕、長流寺(立石領木下氏菩提寺)、木下延由位牌(同寺)
posted at 13:06:30
18代俊凞氏は16代夫人綾子刀自から「一子相伝」を反復暗唱させられたとのこと。 日出から立石が分家した当初は全く交流がなかった程の仲の悪さだったらしいのに、日出の本家に口伝で残された不思議…
posted at 13:10:03
鬼門櫓パネル。独楽紋は秀吉から拝領した説があるらしい。 初代延俊の夫人は細川忠興の妹加賀。関ヶ原のあと姫路を追われた延俊を忠興が迎え入れて日出に城を作って与えたらしい。
posted at 13:24:13
国松伝説のこる木下延由の墓。本堂には件の延由のお位牌あり。 www.e-bookland.net/campaign/otaka… pic.twitter.com/yl8tHlQ1bk



posted at 13:27:29
結局市役所の方に問い合わせて場所は分かったのですが、雨の翌日なので足元が悪くてたどり着けず…麓で断念無念( ; ; )次回があればご子孫の方が案内してくださるらしいので、アポとってリベンジしたいなあ… pic.twitter.com/lcPORUjsTt


posted at 20:24:35
今日のお宿は福岡なのだけど、武雄温泉のお湯を使っているお風呂で、その解説にまたもや秀吉の朝鮮役時のエピソードが登場。今度は史実みたい。 www.yukoyuko.net/onsen/0435/rek…
posted at 01:21:59
呼子はまさかの秀吉まみれ。 虹ノ松原で蝉が鳴かないのは秀吉がうるさいと怒鳴りつけたからだとか、松の背が低いのは秀吉が頭が高い!と叱りつけたからだとか、田島神社にある太閤石(太閤祈念石)は朝鮮役の際に戦勝祈願に槍を突き刺したものだとか pic.twitter.com/tZtFUFfYt4

posted at 10:06:56
呼子大綱引は秀吉が士気を高めるため始めたとか… ちなみに呼子大綱引は昨日と今日。 すごいタイミングだけど、昼まで待てない(_ _。) www.genbu.net/data/hizen/taj… www.asobo-saga.jp/search/detail.… pic.twitter.com/ARLj1D7Kdh

posted at 10:10:19
.@hervorruf そんな感じです(笑)解説どれもに、そんないわれはあるけど、まあこじつけでしょうね的なことが書かれてます(笑)虹ノ松原は江戸時代に出来たものらしいですし(´・ω・`;)
posted at 10:11:42
大阪城天守閣蔵豊臣秀吉木像(複製)、名護屋城博物館蔵豊臣秀吉書状(天正15年5月28日付徳川家康宛、複製)、高台寺蔵豊臣秀吉画像(複製)、名護屋城博物館蔵『肥前名護屋城図』屏風、高台寺蔵綴織鳥獣文陣羽織(複製)、鍋島報效会蔵名護屋古城之図(嘉永元年作)、
posted at 11:42:39
名護屋城博物館蔵北政所宛豊臣秀吉自筆書状(「にのまる殿はかりのこにてよく候」の書状、複製)、大阪城天守閣蔵豊臣秀吉辞世和歌(複製)、大阪城天守閣蔵北政所宛豊臣秀吉書状(「能を十番覚えた」の書状)
posted at 12:46:15
鍋島直茂宛豊臣秀吉朱印状(複製、文禄二年八月七日付、「本城(名護屋城)の本丸へは誰であろうと他家のものは一切入れてはいけない。そのため二丸に広間台所をもうけ、客人を応接するように。例え他国のものであっても他の家中の者は本城へいれてはならない。それは昼夜関係なく油断なく行うこと」)
posted at 12:47:28