Posted at 2014.06.03 Category : ∟書籍・論文・記事
小嶋太門『後藤又兵衛の研究 最後の戦国武将とその系譜』
後藤又兵衛についての逸話が紹介されている中で、茶々姫にまつわる箇所。
大坂の陣を目の前にして、秀頼の母である茶々や、妻である千が豊臣方として入城した浪人の生活に気を配って世話をしている話が伝わっているのが面白いなあと思いました。しかも茶々と千が一緒に贈り物をしているところが個人的にうれしかったです。
茶々は浪人たちを軽挙無頼を恐れていたとも言われますが、こういう一面もあったのでは?と思わせる逸話でとっても心に残りました。
そして、又兵衛から味噌が届いた時の茶々の反応がすごく気になります^^
後藤又兵衛についての逸話が紹介されている中で、茶々姫にまつわる箇所。
大坂城に入城した時、又兵衛の従者は九人で馬匹一頭であった。秀頼は非常に悦んで迎え総軍都督、二の丸目付という重要な役目につけ、白銀五百枚、三千人扶持を差し上げようとの言葉があったが、どうしても禄を受けようとしなかった。そこで淀君の方(※ママ)から小袖一重、錦直垂、夜具布団一具を送り届けてきた。それに対して彼はこういう返事をしている。
「錦の直垂だけは大将分の装束ですから頂戴いたします。その他の品物は間に合っています。軍中では余計にモノを蓄えるということは無益です。それがしの召使の者には未だ褒美を与えるほどの手柄者もおりません。」
彼の陣所には寒中に屏風一つなく、朝夕の食膳も足軽小者達と一緒だった。それを聞いた淀君と秀頼夫人(千姫)は何としても又兵衛を慰めたいものと、再び使者に目録を持たして陣所にやった。屏風大小二双、燭台大小二対、硯箱一組、定器椀膳一具、湯桶、食籠、料理鍋二つ、というように品物は数十点にも及んでいた。
又兵衛は吃驚して、それらの品物を辞退してしまった。欲しい品物に印をつけたのはわずか燭台二対、蝋燭十斤、敷皮の代わりとして毛氈一枚、屏風の代わりとして幕一張、包丁、鍋などで、かえって少しばかりだが、と自分でこしらえた味噌を淀君に献上した。
世に後藤味噌と呼ばれているのは、この時の又兵衛手作りの味噌のことであるという。
大坂の陣を目の前にして、秀頼の母である茶々や、妻である千が豊臣方として入城した浪人の生活に気を配って世話をしている話が伝わっているのが面白いなあと思いました。しかも茶々と千が一緒に贈り物をしているところが個人的にうれしかったです。
茶々は浪人たちを軽挙無頼を恐れていたとも言われますが、こういう一面もあったのでは?と思わせる逸話でとっても心に残りました。
そして、又兵衛から味噌が届いた時の茶々の反応がすごく気になります^^
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