天秀尼を訪ねて、鎌倉へ。
折しも紫陽花の季節、お花をめでる人々にあふれる境内をさまようことになろうとは…
眼福ではありましたが、ゆっくり目的を果たすこともできず、確認したかったことは次回へ持ち越し。
次回はいつになることやら…
とはいっても、大学生の時に親友と訪れて以来なのでおよそ十年ぶりに天秀尼に会いに行ってきました。

明治三十一年に灯篭が奉納されているようなのですが、施主の三宅さんって…
三宅さんと言われると思い浮かぶのは天秀尼の乳母三宅善兵衛の妻ですが…関係あるのかな?
「当山の天秀和尚は、豊国の神君(豊国大明神=秀吉のこと)の子である正二位右丞相秀頼公の息女である
松岡山東慶寺に入り、幼くして剃髪。円覚寺黄梅院の古帆周信に参禅した。一時は衰退しかかった寺を再興させた和尚としてその名が伝わる。二月に入寂、釈迦と同じ日に亡くなったことは誠に縁が深い。
小阿子法堯造立施
正保二年乙酉二月七日」
(参考:天秀尼展パネル。そのままではありません)
隣には、話題の天秀尼局台月院のお墓があります。





「䑓月院殿明玉宗鑑大姉
当山天秀和尚御局
正保二乙酉九月二十三日
正保二乙酉二月七日」
日付が二つ刻まれています。一つは台月院の没日、もう一つが天秀尼の没日です。
台月院は天秀尼逝去の半年後に没していますが、墓所は天秀尼の逝去時に逆修(生前に自ら作ったもの)されたものであるようです。
人出的にアレでしたが、天秀尼展も開催されており、いろいろと久しぶりに見るものもたくさんありました。

・東慶尼寺過去帳
(むしろこれが目的だったのですが、展示されているし、歴代宗主のところしか見えないし…)
・某年八月二十九日付「東慶寺侍者のかた」(天秀尼)宛て澤庵宗彭書状
…天秀尼が参禅しようとして再三入門願いの消息を呈したのに対しての断りの返信。
建長寺の澤庵に参禅を断られ、その後墓碑によると円覚寺黄梅院の古帆周信に参禅したようです。
・伝天秀尼使用百人一首
・豊臣秀頼公息女所持青貝摺文箱
・天秀尼持仏阿弥陀如来立像(堀主水妻なえ〔寿林尼〕の与えられたもの)
特に秀頼供養のための雲板を見ると、幼くして亡くした父への追慕がしみじみと胸に迫るものがあります…
祖母茶々姫が亡父を思い描かせた肖像を見た時と同じ感傷が。
最後に、天秀尼展に出ていた彼女の詠歌を…
咲時はそれともみえず山桜 ふもとにしるき風の色哉
柴の戸を春はにしきぞしきにける 花ふきおろし峯のあらしを教訓:史跡目当てで6月に鎌倉を訪れたらえらいことになります。
ついでに立ち寄った建長寺唐門(台徳院霊屋廟門)

肝心の仏殿(崇源院霊屋)を撮ってくるのを忘れてる…