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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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[Twitter]明石掃部家

 

@annzuame55 なるほど、確かにレジイナで二人は繋がってるんですね。大檀那の生母であるにも関わらず医王寺過去帳にも名前が見つけられませんでした。離別か政盛をうんだときとか、ものすごく早くに亡くなったのでしょうね…


posted at 13:28:56


@annzuame55 はじめまして!海津局への思い入れに共感できる方は初めてで嬉しいです(*^^*)最近は明石掃部の女に関心があるので、いろいろ教えてください♪あと、HPは最近あまり触ってないので、情報が古いですゴメンナサイ…


posted at 12:50:56


『柳営婦女伝系』コピー中。岡平内の妻が明石全登の娘らしいです。これはカタリナかな?レジイナかな?レジイナの嫁入り話(茶々姫に気に入られて、婚礼の世話をしてもらうことになっていたという話)を考えると、こちらがカタリナのような気がします。


posted at 18:27:03

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[Twitter]ヨハンナ

 

小野木公知(重勝)の妻ヨハンナが歌道の上手として豊臣家の奥御殿に仕えていたらしい。この人は公卿の女とのこと。重勝の妻は島左近の女ってことになってるけど…


posted at 01:42:37

 

東寺再興にみる秀頼と寧の関係

 
遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
今年も今まで通りマイペースに続けていきますので、なにとぞよろしくお願いします。

新年早々、京都に行きまして、その時久しぶりに東寺へ参拝しました。
その時図録を購入して、東寺再興についていろいろ棟札を見ることができました。
以下忘備録です。

茶々姫をたどる汐路にて


○講堂(写真左)

文禄の大地震で転倒したものを、寧が大檀那となり慶長三年に修築。
棟札曰く、秀吉の朝鮮出兵の際、その戦勝祈願として寧が建立を沙汰したとある。


○南大門

文禄の大地震で転倒したものを慶長九年に秀頼が大檀那となり再興した。奉行は文殊院勢誉。
現在の南大門は蓮華王院の西門を明治二十八年に移築されたもので、慶長六年に建立されたもの(棟札の写しあり)。

○金堂(写真右)

文明の土一揆で焼失したものを、秀頼が大檀那となり、慶長八年再興。同十一年に落慶供養。
奉行は木食応其、のち文殊院勢誉。

『義演准后日記』の慶長七年九月朔日条に、東寺金堂棟札の草稿があり、慶長七年九月三日付となっている。
実際の棟札は秀頼奉行片桐且元の名で、慶長八年五月付となっている。


○東大門(不開門)

慶長十年九月吉日付の棟札に、秀頼(「秀頼郷」)と寧(「北政所」)が施主として記されている。
なお、秀頼の奉行は片桐且元、寧の奉行は孝蔵主とある。


(メモ)

秀吉が生前、寧が協力し、木食応其が奉行となり東寺の再建するよう命じた旨が書かれた五奉行の連署状が東寺に残されている。
実際にその端緒となった講堂再建は、慶長三年八月に寧より木食応其に建立料が下されている。

慶長十年の東大門再興では秀頼と寧が連名で施主となっている。
寧から秀頼に権力が移行したというよりも、秀頼が施主となっている金堂や南大門の再興においても、寧が後ろ盾となり、秀頼が施主として成り立つように計らったのではないかと考えられる。
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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