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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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茶々と平家

 
実は去年よりも欠かさず楽しんでいる今年の大河ドラマにちなんだネタを。

茶々にその才を愛され、秀頼・茶々に相次いで仕えた女房阿古局(伊勢菊 )。彼女は朝廷でも他の女房をとは比べ物にならない特別待遇で迎えられたのですが、その理由は内大臣だった小松殿こと平重盛の末裔として大臣家の娘の扱いを受けたからでした。大河の重盛を見てふと思い出しました。

posted at 21:48:16

重盛といえば、信長も重盛の次男資盛の子孫を名乗っていた…ということは茶々姫もその血に連なるということになる訳ですね。真偽はともかくとして、茶々姫にもその意識がおそらくあったはず。阿古局を鍾愛したことや、ところどころに垣間見える建礼門院を始めとする平家への思い入れは、そこに端を発するのかも…?

posted at 21:54:39


同じ戦の世ということで、戦国時代には源平の時代への回帰が多く見られるようです。

私はなんとなく以前から茶々の平家に対する思い入れのようなものをうっすら感じることがあったのですが、それがあったとすれば、自身が平家の末裔としてのものなのか、個人的なものなのか微妙なところです。

阿古局に対しても、同じ末裔として…と上で書いていますが、朝廷からの扱いをみても、阿古局のほうがずっと由緒正しい子孫として扱われているので、やっぱりどうかなあ、と思っています。

結局、真実のところはもう少し何か出てこないことにははっきりしません。


「茶々と平家」その①:京都大原寂光院
茶々姫をたどる汐路にて
建礼門院縁の寺院。
茶々が再興し、その名が記された扁額が残されれている数少ない寺院の一つ。
建礼門院の木像があり、焼失前のものはそのモデルが茶々であったかもしれないという話がちらほらありつつ、未だ裏が取れないことに大変もどかしい思いを抱き続けている場所の一つです。

「茶々と平家」その②:兵庫須磨寺(福祥寺)

茶々姫をたどる汐路にて
茶々が秀頼の名で再興させた寺院。
平敦盛ゆかりの寺院。


というわけで、今年もありがとうございました。
再来年の大河が黒田官兵衛になったとのこと、またハラハラものです。
明智光秀のほうがよかったなあ。

ともかく、来年もなにとぞよろしくお願いします。
みなさま、よいお年を。
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[Twitter]九条道房の娘たち

 

八代が長生きといっても、姉妹たちに遅れること十年でなくなっているから、、三十代で亡くなっている(道房の享年から少なくとも三十二歳)んですよね。若いなあ…。出産って大変です。


posted at 03:05:22


さっきまとめていて気が付いたのだけれど、九条道房の娘たちは八代以外が揃いも揃って出産で亡くなっています。長女寵は浅野綱長を産んだ後、次女今(令)は茶々丸(常焉)を産んだ後、四女待は九条輔実を産んだ後。三女梅も明記されていませんが姉妹たちと時期を前後して亡くなっています。


posted at 03:01:40

 

正栄尼 永原なか ~「我身者天下取之娘」(改)

 
正栄尼は、『天正記聞』曰く、茶々の女中頭の立場であったといいます。

以前ご紹介しましたが、同史料には彼女が明智光秀の娘であったと紹介されています。
母(永誉寿慶大姉)は近江永原城主の嫡男だった永原仁左衛門の娘で、光秀と離別後、当時の慣習に従って娘共々永原家に帰ったため、正栄尼は明智姓ではなく永原姓を称していたようです。
永原家に帰ったのち、養嗣子を迎えて福左衛門を産んだようです。

祖父
・永原仁左衛門(『天正記聞』)


「永誉寿慶大姉 渡辺正栄並永原福左衛門母 西暢真光妻」(『清凉寺過去帳』)
・明智光秀前妻(『天正記聞』)

父(養父か)
「西暢真光信士 江州永原住渡辺正栄並永原福左衛門父 石塔有之」(『清凉寺過去帳』)
清涼寺墓地に墓地があったようですが現在は不明。


「永原福左衛門」(『清凉寺過去帳』)

後に秀吉の家臣であった渡邊宮内少輔に嫁ぎ、大坂の陣で活躍する内蔵助糺、ツル、祐清の母となりました。
夫・渡邊宮内少輔:

『寛政重修諸家譜』:夫は渡邊宮内少輔「昌」(渡邊出雲守告の次男)。もとは山城国田中の人。出雲守は松永久秀に仕え、宮内少輔は秀吉に仕えたという。
『本朝武芸小伝』:夫は渡邊宮内少輔「登」。
『続武家閑談』:夫は渡邊「民部少輔」。摂津の人。
「源誉道抱禅定門 渡邊宮内 内蔵助父」(『諸寺過去帳』高野山過去帳)
「源誉道把居士 渡辺宮内正栄夫(二十日)」(『清涼寺過去帳』)

(清凉寺 渡辺宮内墓所)
 ※但し、没日など早崎兵庫〔「蓮池院源叟休把居士」〕と混同が見られる
茶々姫をたどる汐路にて
子・渡辺糺
「源大静閑信士 渡邊内蔵助」(『清凉寺過去帳』)

(清凉寺 渡辺糺墓所)
茶々姫をたどる汐路にて

糺の妻
・くう「徳芳妙寿禅定尼 慶長十四年二月一日/渡辺権之助内クウ」
・伊勢田丸四万五千石の城主牧村兵部大輔(利貞)の娘(『天正記聞』)
・祖心尼?(稲葉家の記録)

娘・ツル
「正心院殿宝樹水庵大姉 万治四年二月(二十一日)/往相院女道三玄鑑室」(『清涼寺過去帳』)
『天正記聞』:「正栄亦有娘、ツルト云フ、
『寛永諸家系図伝』:今大路親純〔道三・玄鑑〕は江が和子を出産する際の難産を助けた、また江の臨終にも遣わされるが、その道中で急死する。

娘婿・今大路玄鑑
「前道三亀渓玄鑑法印 寛永三年九月十九日」(『清凉寺過去帳』)
・親純 兵部大輔。江が和子を産む際、その難産を助けた。江の臨終の際にも病を押して駆けつけようとするも、寛永三年九月十九日、道中で病死。享年五十歳。
子に祐智(愛宕教学院)、道三玄鎮(親昌)、および女子四人あり(『寛永諸家系図伝』)

茶々姫をたどる汐路にて
(清凉寺 今大路玄鑑、ツル夫妻墓地)

娘・祐清
「以春軒和渓宗仲禅者 慶長十一年九月(八日)/浦野祐清夫渡辺正栄一門也」
「廓雲了性童子 丙午年(慶長十一年?)八月(十九日)/浦野祐清息往想院ノ孫」

夫の死去後、落飾し尼となり、「正栄」と号しました。
「正ゑいさま」(『本光国師日記』)
「庄栄」「正栄 渡邊内蔵助母」(『土屋知貞私記』)
「正永」(『浅井一政自記』)
「正栄殿」(『続撰清正記』)
「正永」(『豊内記』)
「永原正栄尼」(『難波戦記』)
「渡邊正栄様」(『清涼史論』)
「正栄尼 渡邊内蔵助母」「渡邊内蔵助母 正永尼」(『駿府記』)
「永原之正栄尼」「衣原正栄尼」(『元寛日記』)
「正栄尼」(『慶元記』)
「正永」(『慶長見聞録』)
「少栄」(『北川遺書記』)
「正栄尼」(『駿府政事録』)
「正栄尼」(『編年大略』)
「正栄」(『落穂集』)
「正栄」(「大坂物語」)
彼女が正栄尼という名前で登場する最も早い史料は、一次史料ではありませんが『続撰清正記』で、慶長十六年四月二日に登場しています。

その後の活躍の割には、それ以前に名前が全く見えないため、この辺りが夫の死と正栄尼の出家の時期なのではないだろうか…と推測しています。

正栄尼は大坂の陣の最中糺とともに戦火に歿しますが、孫(渡辺守/「陽春院徳林徹居士 元禄三年正月四日 渡辺内蔵助権兵衛正栄孫」〔『清凉寺過去帳』〕)が乳母の機転で生還したこともあって、大坂方の戦没者の中ではかなり手厚く供養されています。
「往想院西誉正栄 永原氏 渡邊宮内室 内蔵助等母 五月七日自殺於大坂城」(『諸寺過去帳』高野山過去帳)
「渡邊内蔵助源尚 宮内少輔某男、元和元年五月七日、於大坂戦死、源太静間
 源尚母 同日自殺、往想院西誉正栄」(『諸寺過去帳』)
「往相院西誉正栄大姉 慶長廿年五月七日大坂討死 渡辺内蔵助母 宮内妻 祠堂有之」(『清涼寺過去帳』)
「往想院西誉正栄大姉」(『清涼史論』、「伝渡辺正栄尼画像」)
・清凉寺位牌
(表面)「往想院西誉正栄大姉/岳樹清光(永原忠左衛門)/源太静閑(渡辺糺)/量寿栄薫(糺女) 各位」
(裏面)「慶長廿年五月七日/大阪討死/当寺大旦那」

(清凉寺 正栄尼墓所)
茶々姫をたどる汐路にて

正栄尼の周りには、実家である永原の一族が集っていたようで、渡邊氏だけではなく永原氏も少なくない人が正栄尼に殉じています。
渡邊氏:
「源大静閑信士 渡邊内蔵助」「量寿栄薫信尼 内蔵助女」「雲龍童子 同上息」(『清涼寺過去帳』)
「雲龍童子 渡邊内蔵助子息 五月八日」(『諸寺過去帳』高野山過去帳)

永原氏:
「獄樹清光信士 永原忠左衛門」「棄大良雲信尼 忠左衛門妻」「永宏常有信士 忠左衛門息忠兵衛」「隆巌秀知信尼 忠兵衛妻」「性翁高月信士 永原福太郎」

今日は『武功雑記』を読んでいたのですが、正栄尼についてこんな記述がありました。

「正永ハ御中ト云シ女ナリ内蔵介母也」

ここで、正栄尼の本名は「御中」つまり「なか」といった、とあります。

ここで、秀吉生前最後のイベント醍醐の花見を振り返ってみると…確かに、「なか」という女性の存在が。

「桜花かかるみゆきに相生の 松も千歳を君にひかれて」
「君か代にあふうれしさをみゆき山 花やいろ香にいでてみすらむ」

正栄尼、存在感の割に名前が大坂の陣前後にしか出てこない。夫の死後出家したとのことなので、渡邊宮内少輔(渡邊昌)が亡くなったのは慶長の晩年ごろだったのではないかという推測をしています。俗名で活躍していたのか、別の候名だったのか…。

posted at 02:45:24

怪しい…?とにらんでいるのが、三位局。正栄尼と同じく五月七日に亡くなったらしいところと、「三位局」という大上臈の一人であるにも関わらず出自が全く不明なところ。ただ、大坂の陣の戦没者史料で名前が重複して登場するので微妙です。一応一次史料では被っていないはずなのですが…

posted at 14:34:11


一方、この花見で「なか」と「三ゐ(三位局)」が同時に存在していますので、↑の推測は成り立たないことになりますね。

慶長十六年の時点で、茶々の側に「なあ」という侍女がいるのだけど…誰だろう…。「おなあの御方」とあるほか、「おなあ」と呼び捨ててあるからもちろん天秀尼ではない(第一天秀尼の名前は「なあ」ではない)し、順序は大蔵卿・上臈・二位・饗庭・右京大夫・宮内卿・阿古の次。伊茶よりは上位の様子。

posted at 01:40:44


このツイートで出てくる「なあ」はこのときから正栄尼ではないかなと考えていたのですが、「なあ」ではなく、「な可」なのか…?
 

大野夫妻供養塔(改)

 
「前佐州太守○屋元功庵主 慶長(巳亥)/三月四日?」

「(智勝?)院(殿岳?)桂宗春大禅定尼/慶長廿年(以下判読不能)」


…年月による磨耗でかなり読みとれない部分はありますが、読めるところだけで判断しても、これってどう見ても大野治長夫妻ではなく、大蔵卿局夫妻の供養塔です。

<過去帳>
福巌院殿忠屋元公庵主 大野佐渡殿 慶長四年三月四日
節叟元忠禅定門 大野修理殿 慶長廿年五月八日
良圃元張禅定門 大野主馬殿 慶長廿年五月八日
桂岳宗春禅定尼 大蔵卿大野佐渡殿内儀 慶長廿年五月八日
南陽院殿凉巌受招大禅定尼 大野修理内儀 十二日

嵩陽寺殿秀山大居士 秀頼卿二十三 五月七日(ママ)
大處院殿英巌大姉 秀頼卿簾中 五月七日(ママ)


治長父が確かに佐渡守であり、晩年は法体であったこと、彼が慶長四年三月四日に亡くなったらしいことから、大蔵卿局も晩年は落飾し尼だったのでしょう。

さて、ここで新しい疑問が…「三名幅」と言われる「大野治長夫人」像はどうなるの…?
略史曰く、過去帳には「南陽院殿凉巌受招大禅定尼」の法名とを大野修理の内儀であるという旨が十二日の頁記されていたそうです。
また、この画像には「涼岩受招信女」の法名があり、ここからこの画像が大野治長夫人像とされたようです。
なお、この画像の讃は慶長十五年六月に書かれたものとのことで、南陽院がそのころにはすでに亡くなっていたらしいことがわかります。または、正栄尼の画像のように、亡くなった日付が画像に付されているとしたら、南陽院の没日は慶長十五年六月十二日ということになります。

某様から教えていただいた書籍では、この女性を稲葉秀方夫人としており、その画像も見ることができました。
その特定理由についてはまだ定かではありませんが、稲葉秀方と南陽院の法名「青岳松禅定門」と「涼岩招信女」が対になっていると考えられているようです。
 

[Twitter]芳雲院

 

八代の姉姫、芳雲院こと寵について、その名前を「愛」や「逸」とした史料に今だ巡り会えない…。書籍は別として。


posted at 12:12:05


浅野綱晟室九条寵(芳雲院)の回忌法要が全て伝通院で行われているので、墓も伝通院にあったんだろうなあと予想。見つけられなかったけれど、朽ちた墓石郡の中にあったのだろうか…


posted at 00:32:07



 

[Twitter]安養院

 

ブログを更新しました。 『安芸浅野家初代~十代の妻たち』 t.co/0XP6tVAX


posted at 23:55:20


.@Ka_Yuu_K 『断家譜』ありました。兄忠平の妻奈阿(千の孫)を調べた時に複写していました。「妻松平安芸守綱晟女 名豊 天和三年癸亥五月二日縁組、忠常卒後号蓮経院、元文二年丁巳二月八日卒」だそうです。まさに灯台もと暗しでした。そしてやっぱり「豊」ですね。


posted at 23:41:05


@Ka_Yuu_K また見てみます。ありがとうございます。豊は日蓮宗徒だったんですね。


posted at 23:34:41


早速教えていただいたので改めて。第三子:犬のち豊(延宝元年九月十五日~元文二年二月七日)。父綱晟の死後誕生(「天心公御遺腹」)。本多忠常室。蓮経院殿妙脱日解大姉。墓所瑞輪寺。教えていただいたところでは名前が「春」となっていますが、姉(異母?)に春姫がいるので、その混同かな。


posted at 22:15:12


@Ka_Yuu_K そうです、ずっと探していたのに(苦笑)流石です。ありがとうございます。


posted at 22:10:07


(続き)第三子:犬のち豊(延宝元年九月十五日生。「天心公御遺腹」…つまり彼女は父綱晟の死から八ヶ月半後の生まれ)本多忠常妻。彼女の院号等がどうしても見当たらない…。


posted at 21:19:11


綱晟と八代の間に生まれた子女のまとめ。第一子:万(清涼院殿蓮心日性大童女)生年:寛文三年~寛文十年ごろ、延宝元年六月(七月)五日早世。安養院過去帳に「称専院殿姫君」とあり。第二子:長澄(寛文十一年十二月一日生まれ)三次藩主。(続く)


posted at 21:18:17


大久保教寛室法雲院(米津政武女)は八代に仕えていたことがある女性なのか、何か近しい関係だったのか、安養院に信仰深かったのか…。ヒントが少ないです。


posted at 09:42:30


本堂が高層ビル化していました。八代については、寄進の燈籠も見つけました。心残りがいろいろありますが、また調べ直して後日。 t.co/Vs9hyDUg


posted at 10:49:43


八代姫に会いに来ました。「やしろ」でいいそうです。変わった名前やね。法雲院と光心院いう二人のお墓もあるんだけど、扱い的に侍女じゃなさそう。娘(特に法雲院)…?侍女の供養塔である観音様にはそれらしき戒名が。見た感じ、華嶽院が一の侍女っぽい…?


posted at 10:02:43


今更だけど、称専院こと「八代」姫は何て読むんだろう…。おなじ字を書く神様の名前で「やじろひめ」って読むらしいけど…。あと同名は徳川斉昭の娘孝子の本名が八代姫っていうらしい。


posted at 20:33:28


 

安芸浅野家初代~十代の妻たち

 
寵と八代を調べているときの副産物です。
いずれ劣らぬ名家の姫たちでございます。


初代 浅野長政妻 浅野長勝女 「やや」
長生院殿一宝宗玉大姉 元和二年二月二十二日没

二代 浅野幸長妻(許嫁) 前田利家女 与免
養泉院殿華雲芳栄大禅定尼 文禄二年六月十七日没

二代 浅野幸長後妻 池田恒興女
慶雲院殿栄春宗久大姉 元和二年十二月十七日没

三代 浅野長晟妻 徳川家康女 振
正清院殿英誉杲悦善芳大禅定尼 元和三年八月晦日没

四代 浅野光晟妻 前田利常女(徳川家光養女) 満(万)
自昌院殿英心日妙大姉 元禄十三年七月二十七日没

五代 浅野綱晟妻 九条道房長女 寵
芳雲院殿光誉英心大禅定尼 万治二年六月十一日没

五代 浅野綱晟後妻 九条綱晟五女 八代
称専院殿心誉誓空大姉 延宝七年四月十三日没

六代 浅野綱長妻 徳川光友女(徳川綱誠養女) 貴(富)
馨香院殿宝樹冷心大禅定尼 天和三年閏五月二十三日没

七代 浅野吉長妻 前田綱紀女 節
源光院殿正台恵覚大姉 享保十五年九月二十九日没

八代 浅野宗恒妻 前田吉徳女 喜代
宝仙院殿玉台善鏡大姉 寛延三年正月二十日没

九代 浅野重晟妻 徳川宗勝女 邦
智岳院殿通誉善光法雲大姉 明和四年閏九月十三日没

九代 浅野重晟後妻 徳川宗勝九女 陽
深広院殿性誉恵海了宣大姉 安永二年十月十八日没

十代 浅野斉賢妻(許嫁) 徳大寺実祖女 泰(春)
法體院殿天倫智寛大姉 寛政元年五月二十日没

十代 浅野斉賢後妻 有栖川宮織仁親王長女 織子女王
翺翔院殿環宝浄連大夫人 寛政八年五月二十九日没


(主な参考文献:「安芸広島浅野家譜」、『三次分家済美録』、「安養院過去帳」)
 

[Twitter]勘姫、八代姫

 

西本願寺宗主の総領娘でありながら、東に転派した勘姫のお墓はどこかに残っているのかしら…やっぱり、東本願寺系のお寺かな。船場本徳寺にあるのかな…?


posted at 23:53:58


今日の収穫は、八代に早世した女児清涼院がいたらしいということかな!


posted at 23:51:34

プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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