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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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[Twitter]改撰諸家系譜

 

???/織田信包――信重――直政――了斉(「母浅井備前守長政女」)


posted at 01:47:26


「改選~」続き。茶々姫の項。「関白太政大臣豊臣秀吉公室 号淀殿 後称浄秀院殿 法名大虞院殿 母同上(=「織田信長公妹 於市 後号自性院」)」・・・「浄秀院」?????


posted at 01:15:53


勝の子松平光長は、初めての外孫だったので、江の寵愛が厚かった、という記述が。


posted at 17:33:15


しかし、完子については家光の異父妹になってるし、父は於次秀勝になってるし、夫は道房になってるし、無茶苦茶です(苦笑)


posted at 17:21:45


千の乳母について、「改選~」では内藤宮内長宗の姉となっていました。


posted at 17:17:09


「改選~」でも市場=宝鏡院になっていました。


posted at 17:05:39


「女 道子 松殿右大将道昭室/後称恵了院」(「改選諸家系譜」)


posted at 14:28:04

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[Twitter]筒井、市場姫

 

@Ka_Yuu_K いえいえ。実際そう書かれている史料もありましたから…。ややこしいですよね。ほんとうに。


posted at 22:59:57


@katzchen_blau21 @Ka_Yuu_K 「筒井系図」では市場が嫁いだのは筒井政次となっています。「信長の養女」というワードを見ると、ここでも秀子との混同の原因だか結果だかが垣間見えますね…。そしてwikiとだいぶ没年が違う…。大混乱です。


posted at 11:09:32


@katzchen_blau21 @Ka_Yuu_K 「戸田家系校正余録」では「市場姫君」は天文十四年生、母は戸田憲光女。永禄四年、荒川甲斐守義広の妻に。天正三年二月、信長の養女となって筒井順慶の妻に。寛永十年二月二十二日、娘木崎殿の婿酒井忠勝邸で没す。光源院殿松誉貞月大禅定尼


posted at 11:05:06


@Ka_Yuu_K 内藤ジュリアは茶々の伯母マリアと親友だったそうですから、本当に繋がりまくりです。おもしろいですよね。


posted at 22:56:06


@Ka_Yuu_K やっつけですみません。ご参考になればよいのですが。


posted at 21:50:18


@itoko_akaishi @katzchen_blau21 @Ka_Yuu_K 筒井定次と筒井政次の混同がすごいです。「筒井系図」では市場は政次の妻で、政信の母となっています。政次は筒井順慶の甥っこです。ややこしい…


posted at 20:59:21


@katzchen_blau21 @Ka_Yuu_K 「筒井諸記」を確認しました。出典として「中川家の説」とありました。


posted at 20:36:50


@katzchen_blau21 六角については、浅井の女性に絡むところしか調べていませんが、その説についてはかなり調査しました。サイトでも扱っていますし、ブログのほうでもちょこっと書いています。母親の「北向殿」浅井千代鶴関係で。


posted at 12:41:50


@itoko_akaishi @katzchen_blau21 @Ka_Yuu_K あ。これです。wiki情報か…微妙ですね。この説はとりあえず保留で。『戦国~』も実家だ…(´△`) t.co/SYbfuK3e


posted at 02:47:41


@katzchen_blau21 @Ka_Yuu_K 信長息女についての論文とか『筒井順慶とその一族』で読んだのですが、今どっちも手元にない…実家に取りに行って見直してみます。


posted at 02:39:41


@katzchen_blau21 @Ka_Yuu_K 市場は父順慶の妻だったという説もありますよね。というか、その時期だと永禄五年生まれという定次の妻は無理が…。秀子=光秀の娘で信長の養女という説もありますよね、たしか。


posted at 02:39:29


@Ka_Yuu_K もう、そうなってくると、史料の成立年代やら書き手やら原史料やらといった話になってきますねえ…。面白いところですが、ややこしや、です…。また私の方で何か見つかればご報告しますね。こちらもこっそり楽しみにしています^^


posted at 17:56:40


@Ka_Yuu_K 鶴さんが「法連日栄尼」で寛永九年没、秀子?(藤?)が「雲上良清大姉」で元和二年没…かな?と読んだのですが…、どうでしょう。「法連日栄尼」と「寛永九年」が中川家の史料らしいので。


posted at 16:44:57


@Ka_Yuu_K だいぶ前につぶやいたものですが… つt.co/qBuvPuIY


posted at 16:41:19


@Ka_Yuu_K 没年と法号を見るに別人なのでしょうねえ…。


posted at 15:08:25


@katzchen_blau21 @Ka_Yuu_K 「冬姫」について、いつもお世話になっている方のブログに取り上げられていたので、ぜひ~。 t.co/RRPjnVTp


posted at 15:03:42



 

天秀尼「御局」台月院と天秀尼乳母三宅善兵衛の妻

 
『のぼうの城』映画化に伴い、作中に登場する甲斐姫の本が出ています。

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三池純正

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天秀尼の侍女(「御局」)について、『東鑑』という史料に、「乳母である三宅善兵衛の妻は夫が戦死したため、大坂落城後は主家である小出家が引き取った」という記述があるそうです。

『新東鑑』は江戸中期に編まれた家康の伝記だそうです。

ここから、この乳母は天秀尼とともに東慶寺に入ることはできなかったはずとされ、台月院はこの女性ではないとの結論を出されています。

また宝篋印塔という墓の形式や「院殿」号は、三宅善兵衛の妻の身分にふさわしくないのではないか、とも指摘されていました。
そういわれると、という感じもします。


ところで、陽岳寺というお寺のHPでこんな史料を見つけました。

一、年九ツニ罷成候女子おち女共ニ四人加藤左馬殿家中之船
尓乗参候を御改候ヘハ秀頼之内三宅善兵衛と申ものの子ニ
て候と申ヲ左馬殿内細次郎兵衛と申者預り度候由申ニ付手形
を取御預候由得其意存候事

(出典: http://home.att.ne.jp/wind/gakusan/suigun/keizu.html)

九歳の女児とその乳母、女中たち四人が、加藤(嘉明)家の舟に出頭してきた?ので改めたところ、
この女児は秀頼の家臣、三宅善兵衛というものの娘だというので…

三宅善兵衛は、天秀尼の乳母の夫です。
つまり、善兵衛の娘は天秀尼の乳姉ということになります。

『本向系図』という史料が出典のようで、原史料と思われるものは、慶長二十年五月二十一日付で土井利勝が向井忠勝に宛てて書いた書状のようです。

『駿府記』によると、天秀尼が捕らえられたのは五月十二日のことで、また彼女を七歳と記録しています。

この話を読んだ時、天秀尼の兄国松が捕まったときのエピソードを思い出しました。乳母がとっさに、自分と夫の子どもであると言った話です。なので、始め私はこの「女児」=天秀尼…?と疑いました。

なお、大坂落城の際の天秀尼については、『駿府記』では五月十二日の時点で京極忠高が探し出し捕らえた(状況はこれとは違うと思いますが、史料に準じます)とあり、『聞書雑和集』では千とともに城を脱出したと伝えられているとあります。これどちらにしても、この「女児」はやはり天秀尼ではなく、天秀尼の乳姉本人の話ということになるでしょうか。

さらに言えば、「台月院」の墓が善兵衛妻のものであると明記しているのもこの『聞書雑和集』だったりします。そのうえで、三宅善兵衛夫妻がそろって大坂落城後小出家へ預けられたという話も載っていたり…

とりあえず、三宅善兵衛が大坂落城時に仕えていたのは小出吉英ではなく秀頼だったというのが正しそうですが、『新東鑑』では善兵衛は大坂の陣で戦死、『聞書雑和集』では生存して天秀尼乳母とともに小出家へ預かりの身となった…とどちらが正しいのか判断がつきません。

だからといって、善兵衛妻がその後天秀尼のもとへ行ったということがありえないかと言われれば、是か非か断言することはまだできません。
天秀尼は大坂落城時七歳(満5~6歳)であり、千の養女となった彼女に、馴染みの乳母が召されたということがあったかもしれません。なかったかもしれません。

『のぼうの姫』での三池氏の指摘もまた、そうだったかもしれないと思わせるものがありましたが、やはり断言するには材料がまだまだ足りません。

今回は、私自身何も結論を出せていないので、内容的にも文章もすっきりしないままですが天秀尼にまつわる史料をふたつ知ることができたということで…
 

徳川家康の異母妹市場について

 
ちょっと話題がずれますが、twitterで筒井家関連で市場についての話題が出ていたので、手元の史料を参考までに整理してみました。出典は主に『大日本史料』です。
特に詳しいわけではないので、何か不備がありましたら御容赦のほどを。


〔戸田家系校正余録〕

・「光源君」
・「贈大納言家(広忠)の御女」
・「東照宮の御妹」
・「花慶君(戸田憲光花慶院)の御所生」
・永禄四年、十七歳で荒川甲斐守義広の妻となり、同七年離別。居城八面(やつおもて)を去り寄近村に蟄居。同十年九月二十九日に義広が没したのち、二男一女を連れて徳川家に帰る。
・「酒井左衛門尉忠次」の「姑夫」(「高橋氏家伝」)
・天正三年二月、信長の養女として筒井順慶の妻となる。子はなし(「藩翰譜」、「酒井侯家家伝」など)
・元和元年、筒井家が絶え、徳川家へ帰る、この時政次の次男左馬助某(後の織部)とともに江戸元飯田町黐木坂に住まう。その後秀忠が市場の化粧料千石をもって綾部を小姓として召したという。
・酒井忠勝は市場の孫娘の夫(一女「木崎殿」は松平金弥親能の妻となり、その娘が忠勝の妻)
・市場は酒井忠勝邸で没す。
・寛永十年二月二十二日逝去(本誓寺の記録によるという)
・享年「八十九」
・「天文十四年の御生にして」
・「光源院殿松誉貞月大禅定尼」
・馬喰町の浄土宗本誓寺に葬られる。のちに本誓寺は深川に移される。(「酒井侯家伝」、「筒井家伝」、「本誓寺由緒書」など)

〔筒井系図〕

・「政次」の子「政信」に「母市場姫君」とある。政信の項に「左馬助」、「綾部」とあり。
・「政次」の父「政行」の項に「市場姫君」の化粧料として上野沼田郡に千石を賜るとあり。

〔江城年録/三月二十三日〕

・「市場様」
・「権現様御妹」
・「荒川甲斐守殿御台」
・享年「八十」

〔寛永日記/三月二十三日〕

・「いちば殿」
・「権現様御妹」

〔大猷院実紀/二月二十三日〕

・「市場殿」
・「神君の御妹君」
・「荒川甲斐守頼持」に嫁し、後に「筒井紀伊守政行」の妻となる
・享年「八十九」
・「光源院」

〔御九族記〕

・「市場姫」
・「荒川甲斐守源義広室」
・「御母戸田弾正少弼藤原康光女」
・「永禄四辛年五月御婚姻」
・「寛永十癸年二月二十二日御逝去」
・「光源院殿松誉貞月、葬深川本誓寺」
・「後筒井伊賀守定次に御再縁トアルハ未詳」

〔徳川幕府家譜〕

・「市場殿」、「宝鏡院殿」
・「永禄四年」、「荒川甲斐守頼持」の妻となるが、「永禄六年」離別。二女(後の酒井備後守忠利の妻、二女は筒井定次の妻という)をもうける。
・後に筒井伊賀守定次の妻となる(但し、「筒井ハ元来順慶ト云テ・・・」と定次=順慶となっている)

〔寛政重修諸家譜〕


・「市場姫君」
・「東照宮の御妹 広忠卿息女」
・筒井順斎の項に妻として記載(※「今の呈譜政行に作る」)
・大和国ののち上野国木崎に化粧料七百石を給う。
・寛永二十年二月二十二日逝去
・「松誉貞月光源院」
・馬喰町本誓寺に葬られる。後に本誓寺は深川へ移転。
・「政行」は家康が浜松在城の時から仕える。大和国福住に五千石を賜り、諸戦功により市場を妻として賜る。文禄元年、武蔵国足立郡に千石の朱印を賜るが、これは市場の化粧料という。
・酒井修理太夫忠実の呈書によると、市場は初め荒川甲斐守頼持に嫁し、二男一女(三郎四郎、次郎九郎〔または次郎三郎、荒川甲斐守義弘〕、松平金弥親能妻木崎)をもうけた。頼持の死後、筒井定次(※後の順斎とする)に嫁ぎ、上野国木崎で化粧料七百石を給う。市場の娘が木崎と称したのはこの地が由来。

〔翁草〕

・広忠長女
・「市場殿」
・「後の宝鏡院殿と称す」
「荒川甲斐守頼将室、後に酒井備後守忠利室、一説後に筒井伊賀守定次、また筒井主殿介定慶に再嫁」


○市場=筒井定次妻説

これは「御九族記」、「徳川幕府家譜」、「翁草」に見えますが、「御九族記」ではその説が「未詳」であると書かれ、「徳川幕府家譜」では定次を順慶と混同、「翁草」では諸説のうちの一つとして紹介しています。
さらに「徳川幕府家譜」には娘が定次の妻であった説も見え、「寛政重修諸家譜」には順斎=政次としながら、改めて「政次」の項に市場の孫娘が妻となったという記載も見えるなど、各所に混乱が見えます。

○市場の法名

「宝鏡院殿」とするのは「徳川幕府家譜」、「翁草」で、他の史料では「光源院殿松誉貞月」としています。
 

織田秀子(藤)について

 
関ヶ原合戦前後、茶々の側にいたという女性。
『十六・七世紀イエズス会日本報告書』にみえる彼女の素性についてのヒントを挙げてみます。

・「信長の娘」
・慶長八~九年ごろ受洗しキリシタンに。内藤ジュリアの説得による。夫は慶長六~七年頃キリシタンに。
・受洗後、自らの母親にキリシタンになるよう説得した。=慶長八~九年ごろ母が生存していた。
・茶々との間には「緊密な友情と従属関係」があり、また「平素茶々の傍らにい」た。彼女が茶々に対してキリシタンの教えを度々説いたため、茶々がキリシタンに対し「好意的」になったとされる。


…というわけで、信長の娘から候補のひとりとして挙がっているのが、筒井定次の妻となった秀子もしくは藤でした。
ただ、定次の受洗は天正二十(1592)年らしいので、報告書の時期とズレがあるのが気になっています。
が、とりあえずその他いろいろと調べてみたことをまとめておきたいと思います。

生没年:
永禄十年~慶長二十年七月十日(「筒井補系」、「筒井家伝覚書」では没日が一日)

称:
・「上野御方」(「筒井補系」、「筒井家伝覚書」)

法号:
・「○雲院殿」(「筒井系図」)
・「雲上良清大姉」(筒井村寿福院位牌、「筒井補系」)

父: 織田信長(『寛政重修諸家譜』など)
・信長十四人目の息女(「筒井諸記」)
・信長の末女(「和州諸将軍伝」)
夫:筒井定次
・天正六年三月、筒井藤四郎定次に輿入れ(「和州諸将軍伝」)

子:
・順定(藤太、宮内少輔) …慶長六年一月五日(伊賀)~元和元年三月五日 (「筒井系図」、『断家譜』)
・春次(藤丸、浄慶) …?~寛永十八年十月十五日(「筒井系図)
・筒井定次の娘たちとの母娘関係は不明。ただ、定次には仁木氏という妾がいたらしい(『多聞院日記』)
(※「定次の女」として伝わる女性たちについて、「筒井系図」によると、松倉重正の妻は政次の女、加納豊前の妻は順慶の女とあります。)

(その後)
・慶長十三年六月に夫定次が領地を没収され幽閉される。
・次男春次とともに大和唐招提寺法華院に住む(「筒井補系」)
・長男順定は慶長十三年六月八日に父定次とともに罪を被り、慶長二十年三月五日に父とともに岩城で死を給う。旧臣が豊臣家へ属したためという。定次五十四歳、順定十五歳。(『寛政重修諸家譜』、『武徳編年集成』、『慶長見聞書』)定次の法名は「前伊州太守四品拾遺宗用大居士」、「伊州太守大雲宗用大居士」。順定の法名は「一運宗剣」、「宗運居士」大安寺で火葬され、筒井家菩提寺伝香寺に墓碑が建てられたという(「伝香寺過去帳」、「増補筒井家記」、「筒井家伝覚書」、『断家譜』)

(異説)
・初め中川秀政に嫁し、文禄元年十月に中川秀政が没したのち定次に嫁いだ。寛永九年四月十二日逝去した。法号「法連日栄尼」(「筒井補系」/「中川家説」と注記あり)
 

[Twitter]祐天寺

 

あー、普通に間違ってた。祐天寺の仁王門や阿弥陀堂を寄進した綱吉息女竹姫って実娘じゃなくて養女か…。鶴姫と混同してた…これは恥ずかしい。


posted at 17:06:28


今更ですが。/「江」の位牌発見――京都・雲龍院で : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) t.co/VY1cEkeK


posted at 23:26:49


帰宅ー。とりあえず竹姫寄進の祐天寺仁王門&阿弥陀堂を。 t.co/BrSR2SmI t.co/j2SSbc3A


posted at 23:15:00


江関係でいえば、曾孫竹姫寄進の祐天寺の仁王門と阿弥陀堂。竹姫って何となく私の中で存在感が薄かったので、彼女の生きた痕跡を見つけられて嬉しかったです。


posted at 10:48:59


宝台院にあった江の宮殿が移されたというだけで、見るべきものはないかなと思いきや、思いの外エンジョイしてしまいました。見所といえば大正天皇生母柳原愛子の墓所や徳川家斉室天英院煕子寄進の梵鍾など。


posted at 10:19:16


もう一人は、清心院殿円誉皎月智鏡法尼。この人は大正四年十二月八日に亡くなったことしか書かれていない。…が、藤波家の所縁なのだろうなあということがなんとなく察せられる。


posted at 10:03:32


同墓地にあと二人埋葬されているらしい。明治十六年八月二十八日に亡くなっている。この人は家斉息女に仕えていたらしい。同じく藤波寛忠の息女とある。藤波と号して、諱は岩倉藤子といったらしい…。岩倉家へ嫁いだ?心月院殿澄誉清林祐岩法尼。


posted at 10:00:27


祐天寺で家定の乳母歌橋のお墓を見つけた。wikiで生没年不詳になってるけど、銘によると文化四年さんがつ二十一日生まれで、明治十年九月九日没。公卿藤波寛忠の息女らしい。法好院殿蓮誉樹光操心法尼。 t.co/2ys3mgxm


posted at 09:55:37



 

善長山隆崇院

 
御無沙汰しております。

姿をくらましている間に、2014大河が明智光秀らしいというデマが飛び、結局黒田官兵衛らしいというところに収まって、またもや判で押したような小物悪役秀吉像や、関ヶ原~大坂の陣に頭を抱えなければいけない日々がやってくることに頭を抱えている今日この頃です。

いっそ光秀のほうがよかった。まだ正栄尼とかネタがあったのに。

そんなこんなですが、とにもかくにもようやくネットがつながったので、ご機嫌伺いに先日東京へ行ったときの写真を小出しに。

茶々姫をたどる汐路にて

(参拝時のツイート。※誤字は訂正しております)

白金まで足を伸ばして隆崇院(りゅうそういん/完子の曾孫徳川綱重室隆崇院の菩提寺。継子家宣の建立と伝わる)へ。お寺の方にお話を伺いましたが、やはり墓や供養塔などはなく、過去帳にお名前もないため、ご供養もされていないとのことでした。 http://t.co/xmEdQMsx

posted at 17:20:39

本当に名前しか隆崇院の菩提寺としての痕跡が残っていない模様…残念ではありますが、一度は訪れたいところだったので、嬉しかったです。しかし「そう」と読む「崇」の字が院号に入った彼女は、父母両方から江の血を引くだけあって、江の子孫としての矜持や期待をものすごく感じさせられます。

posted at 17:43:06

隆崇院やその墓所などに関しては以前の記事をどうぞ(↓)
⇒関連記事: 隆崇院殿(追記)(20120220)


痕跡がないのは、移転や統合を繰り返しており、管理されているお家が変わられているということが大きいようです。

今年~来年にかけて、また何度か弾丸ですが東京へ行く用事が出来たので、いろいろ行きたいなと思っています。
とりあえず安養院(九条八代〔浅野長晟後妻称専院〕の供養塔など)鎌倉(東慶寺・建長寺)に行きたいです。
それに海津・饗庭姉妹の件も去年から棚上げになっているので、なんとか時間を見つけて赤坂浄土寺さんにもお参りしたいです。
 

[Twitter]隆崇院

 

本当に名前しか隆崇院の菩提寺としての痕跡が残っていない模様…残念ではありますが、一度は訪れたいところだったので、嬉しかったです。しかし「そう」と読む「崇」の字が院号に入った彼女は、父母両方から江の血を引くだけあって、江の子孫としての矜持や期待をものすごく感じさせられます。


posted at 17:43:06


白金まで足を伸ばして隆崇院(りゅうそういん/完子の曾孫徳川綱重室隆崇院の菩提寺。継子家宣の建立と伝わる)へ。お寺の方にお話を伺いましたが、やはり墓や供養塔などはなく、過去帳にお名前もないため、ご供養もされていないとのことでした。 t.co/xmEdQMsx


posted at 17:20:39



次東京に行く機会があれば、赤坂浄土寺同様、是非お参りしたいけれど…なにか手がかりは残っているかしら。/隆崇院|品川区上大崎にある浄土宗の寺院 t.co/ECvOKF1P


posted at 16:01:53



隆崇院の菩提寺があるのは知らなかった。東京都品川区に善長山隆崇院という寺院があり、そこがそうらしいです。wikiには家宣が建立したとあり、『徳川将軍家墓碑総覧』にも家宣の養母となったという記載がありました。そのお寺に俗名が残っていたりしないだろうか…


posted at 00:47:22


(メモ)隆崇院は慶安元年八月八日生まれ。


posted at 00:34:19



徳川綱重妻隆崇院にとって、父方の曾祖母が完子、玄祖母が江、母方の祖母が和子、曾祖母が江ってことか……。 江はひいおばあちゃんであり、ひいひいおばあちゃんでもあるわけだ。うん、ややこしい!


posted at 16:56:23



 

[Twitter]阿古御局

 

重盛といえば、信長も重盛の次男資盛)の子孫を名乗っていた…ということは茶々姫もその血に連なる訳ですね。真偽はともかくとして、茶々姫にもその意識がおそらくあったはず。阿古局を鍾愛したことや、ところどころに垣間見える建礼門院を始めとする平家への思い入れは、そこに端を発するのかも…?


posted at 21:54:39


茶々にその才を愛され、秀頼・茶々に相次いで仕えた女房阿古局(伊勢菊 )。彼女は朝廷でも他の女房をとは比べ物にならない特別待遇で迎えられたのですが、その理由は内大臣だった小松殿こと平重盛の末裔として大臣家の娘の扱いを受けたからでした。大河の重盛を見てふと思い出しました。


posted at 21:48:16


重盛といえば、信長も重盛の次男資盛)の子孫を名乗っていた…ということは茶々姫もその血に連なる訳ですね。真偽はともかくとして、茶々姫にもその意識がおそらくあったはず。阿古局を鍾愛したことや、ところどころに垣間見える建礼門院を始めとする平家への思い入れは、そこに端を発するのかも…?


posted at 21:54:39


茶々にその才を愛され、秀頼・茶々に相次いで仕えた女房阿古局(伊勢菊 )。彼女は朝廷でも他の女房をとは比べ物にならない特別待遇で迎えられたのですが、その理由は内大臣だった小松殿こと平重盛の末裔として大臣家の娘の扱いを受けたからでした。大河の重盛を見てふと思い出しました。


posted at 21:48:16


まったく、茶々姫への思い入れは体力の限界とか、テンションの低さとか、そういうのをお構いなしなんだなあということを改めて思い知って、我ながら苦笑するほかありません( ̄▽ ̄;)完子は私の中で鶴松や秀頼と同じなので。隆崇院も天秀尼に続く縁者な訳です。


posted at 17:54:55

プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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