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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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[Twitter]浅野家

 

確認しました。『済美録』でも寿光院「おいし」でした。お詫びして訂正いたします。五女兼、六女阿久利、七女鶴は同母姉妹のようですね。 @katzchen_blau21 『阿久利姫の生母』藤村耕市著によると、生母はお石(いし)の方(1672-1696)で、墓は大徳寺黄梅院にあるそうです


posted at 01:40:27


余談ですが、浅野内匠頭長矩の室、浅野阿久利はwikiで浅野長治とその妻浅野長重女うわ(齢松院)の娘になっていますが、実際は長治晩年の子なので、うわの所生ではありえません。この時期に長治の娘を何人か生んでいるお石(いわ)殿という女性では?と『済美録』では推測されていました。


posted at 06:03:13


浅野家に嫁いだ完子の孫、寵と八代の子孫を追いかけていたら夜が明けました\(^o^)/寵は綱長を産んだ後すぐになくなってしまいましたが、綱長の娘たちがものすごく多くて、いろんなところに嫁いでいるのでもう凄いことになっています。八代が産んだ息子長澄にも結構子どもたちが。


posted at 05:58:15


浅野綱晟に嫁いだ完子の孫(次男道房の五女)八代を見つけた。またお参りに行かなければ。 t.co/uo4zU5Gx


posted at 02:06:31



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[Twitter]九条通、鷹司孝子など

 

@katzchen_blau21 特に永光院の本名は万ではないですしね。本名は梅の方かな~と思いつつ、確証がないので。そこであえて万という呼称を与えられたところに興味と疑問を抱きました。


posted at 17:55:26


@katzchen_blau21 私が気になっているのは、格上の方の名前と被る場合は改名・改称などするのでは…というところです。しかも家康室の万とは違い、同じ家光の妻妾同士なので。それだけ孝子の立場が弱かったのかしら、というところが気になっていました。


posted at 17:52:57


そうするとやっぱり家光と完子ー通は江を挟んで血縁があったはずだよなあ…という結論に行きつくわけですが…。(家光生母の件と通生母の件)


posted at 13:32:36


勘は本徳寺准円の後妻だったわけですが、先妻は鷹司孝子の同母妹で妙顕院円妙(「吉井藩主系図」では「円明」)という女性でした。この輿入れは家光の御台所の妹として関東の肝いりで行われたそうです。その後を受けた勘の輿入れも、家光の縁者として幕府の意向をうけたものだったのでしょう。


posted at 13:31:13


徳川綱吉室鷹司信子の本名が「小石」なのは聞いたことがあったけど、家光室鷹司孝子の本名が「マン」なのは知らなかった。(『吉井藩主系図』)では永光院を「お万の方」と呼んだのはなぜ…?


posted at 13:16:11


メモ2:大谷吉継(吉隆)、幼名慶松。『毛利~』


posted at 13:08:50


メモ:大善院月潤宗照(豊臣秀長女、豊臣秀吉養女、毛利秀元室)、慶長十五年十月二十九日没。享年二十二歳。『毛利三代実録』より


posted at 13:07:13


正直、茶々も江も正確な肖像がないし、完子は言わずもがなで、市のものと並んで母や祖母二人の面影をも偲ばせる貴重な肖像ではないかしら、と思います。姉の序の肖像は東本願寺さんに残っていないのかしら…


posted at 01:01:26


ところで、「通」は「みち」と読むのではなく「つう」と読むそうです。「御系図」では「於通君」、「良如宗主歴伝」では「通君」とありました。そして通の次女赤良は「あかやや」と読むそうです。


posted at 01:00:05


待望の「良如宗主と龍谷大学の歩み」図録到来。通の絵像を拝見。大変可憐な尼様でした。養源院の江肖像は当人のものではないと私も考えていますが、それにしても(伝)江像に似た雰囲気があります。江の孫娘として紹介。茶々の孫とは紹介してくれないあたりがもどかしい…。仕方ないけど。


posted at 00:55:27



 

[Twitter]勘姫、通姫

 

おっと。井口阿古←茶々→完子→勘、でした。四代…いや、阿古と茶々、完子と勘の間で一代とんでいるので、正確には六代にわたってしまっております。収拾つかないけれど興味は尽きない!! RT @itoko_akaishi 茶々→完子ときて、ここに来て→勘と来ました。


posted at 23:04:00


用があって京都大学付属図書館へTEL。一般人なので京大ってだけでドキドキでした。あとは大谷大学や龍谷大学も行きたいんだけど、暇と時間ががggg…どこでもドア欲しいです。したら行きたいところの選択肢が増えて、さらに時間とお金ががg(ry …となるわけですがorz


posted at 18:28:57


茶々→完子ときて、ここに来て→勘と来ました。なんと魅力的な系譜なのでしょう…。勘の肖像はありそうでなさそう。出自、輿入れ先から考えてあっても不思議ではないけれど、顛末からして処分されてそう。あるとしたら東本願寺側でしょうか。


posted at 17:46:27


通に会えるかも…?


posted at 17:34:29


訂正「通の次女」→「次女通の長女」。失礼しました。 RT @itoko_akaishi 完子の孫勘(通の次女)は姫路本徳寺の准円昭澄の妻となりましたが、彼女は後妻で、先妻は鷹司房輔の娘(妙顕院円妙)だったそうです。子どもは男の子が二人いたみたいですが、惜しくも夭折した模様…


posted at 14:24:13


そして、勘は異母弟寂円を養嗣子にしていて、その妻は信長の玄孫でした。残念ながら初産の時に産褥で亡くなった模様です。


posted at 03:04:49


はあ…勘ってとても凄い女人でした…。その筋では有名な女傑だったのですね。うっかりこんな時間まで読み耽ってしまった。西派宗主の嫡女でありながら、西派と対立して東派に転派とか…確かに母通の姉は東の宗主裏方序なのだから、勘は東の宗主一家とも近しい血縁な訳でした。


posted at 02:52:58


うわああああ、この間まで龍谷大学で通の画像が出てたなんて…!!!も、ものすごいショック…!!!でも現存していたのはものすごくうれしい… t.co/DG3WZQrU


posted at 00:38:03


完子の孫勘(通の次女)は姫路本徳寺の准円昭澄の妻となりましたが、彼女は後妻で、先妻は鷹司房輔の娘(妙顕院円妙)だったそうです。子どもは男の子が二人いたみたいですが、惜しくも夭折した模様…


posted at 00:27:49


『石川日記』承応三年十二月二十二日条に、完子の娘通(「貞梁院様」)の「御影像」が出てきます。どんな御顔だったんだろう。今でも東本願寺さんに残ってたりしないのでしょうか。


posted at 00:27:29

 

[Twitter]義演准后日記、乳母

 

九条道房の妻、廉貞院松平鶴の諱は「長子」で知られていますが、今日見た系図史料では「艶子」となっていました。


posted at 22:33:18


『義演准后日記』の五巻、早く出ないかな~。四巻の終わりごろに康道が生まれていたから、道房(忠象)、序、通以下の生まれ年や出生の様子が分かるかもしれないと思うとわくわくします!


posted at 21:47:28


@gokoumyoutennou 霊元帝の乳母だった文英尼も、夫京極忠高が亡くなって出家した後に出仕したようなので、乳母と言っても実際の授乳役ではなかったっぽいでしょうから、他にも乳母がいたんでしょうねえ…。天皇クラスでもはっきり出てこないっていうのは本当にもどかしいです。


posted at 21:38:34


@gokoumyoutennou 高貴なお方は乳母が複数いるはずなので、公家出身の乳母さんもいるのではないでしょうか?詳しくないので、余計な一言だったらごめんなさい。


posted at 21:37:41

 

[Twitter]明石

 

またフロイスの証言から全登は宇喜多秀家の姉妹を妻としていたことが分かるそうです。カタリナ、レジイナの母はこの女性でしょうか?茶々がレジイナを鍾愛したことも、この秀吉の養子である秀家の姪であるということと無関係ではないかも…


posted at 22:04:20


明石全登の「明石」家はもともと播磨国明石郡明石郷に本貫地があったことによるものだそうな…お察しの通り、「赤石」の名前の由来でもあります。もともと海に大きな赤い石があり、「赤石」から転じて「明石」となった、と時のわらしが申しておりました。


posted at 21:59:16

 

[Twitter]江の出生時期

 

史料の信頼性という問題になると本当に難しいです。立ち位置、見方を変えたら一次史料でも怪しいところはいくらでもありますし、二次史料でも失われたと思われる記録を辛うじて書き留めてある可能性が大いにあるわけで…。いつも悩みどころです。


posted at 23:37:00


江の出生時期について。出典は『以貴小伝』とされますが、『以貴小伝』の記述は『渓心院文』が出典なんですよね。渓心院の立場から考えて、出生時の詳細エピソード自体は又聞きの又聞きであるの可能性はが高いですが、出生年は間違えないのではないでしょうか。小谷説・岐阜説の双方あるくらいですし。


posted at 23:35:41


 

[Twitter]義演准后日記

 

この時代、二条晴良を父に九条兼孝・二条昭実・鷹司信房が生まれていることを考えると、すごいですね。三家は近しく良好な関係だったのでしょうか。そしてその兄弟が義演。やっぱりすごいお坊様です。


posted at 19:20:43


康道生母について。『義演准后日記』読み返していたら、康道誕生の一か月前くらいから普通に完子の安産祈願記事が散見しておりましたー。鷹司信尚の女子(後の花山院定好室、生母は後陽成天皇女三宮清子内親王)と一日違い。彼女は慶長十二年一月二十三日生まれだそうです。


posted at 19:15:44

 

[Twitter]上臈局

 

「茶々姫女房上臈局(上臈御方)」:同時代では二条晴良の妹(花山院家輔の養女、正親町天皇尚侍)が「上臈局」を号したらしいのですが…。同一人物とまでは言わないけれど、そのくらい出自の良い女性だったのでしょうか…。


posted at 22:47:44

 

[Twitter]序と通

 

通だって数えの十三歳で輿入れ、十七歳で第一子を出産という一般的な年齢なのに、無理に先に妹を嫁がせるのも不自然です。


posted at 00:46:33


完子の娘たちの出生順について。『大谷本願寺通紀歴世宗主伝』によれば、序が妹で通が姉とのこと…。でもそれだと序が通の翌年生まれだったとしても、最初の出産が、数えで十一歳で受胎、十二歳で出産ということに…甚だ不自然ですので、序が妹ということはないんじゃなかろうかと思います。


posted at 00:44:16

 

「江与」の号に見る江(崇源院)の存在感

 
福田先生が一昨年『江の生涯』で提唱された「江与」=「えど」説。
私にとってはすっかり定着しているのですが一般的(特に物語系)にはまだまだ「えよ」が根強いようです。

もうこれ以上この説について検討する要素は見つかりそうにないなと思っていたのですが、見つけました。
別件で、『徳川家嫡庶譜略』という史料の引用を見ていたところ、江の名前についてこのような記述が。

恵登姫 宮姫 達子ミチコ 徳子

この史料は古いものではなく、19世紀初めに編まれたもののようです。それまでに編まれた史料上に出てくる江の名前を該当箇所に書き連ねているものかと思われます。
「宮姫」は「みや」ではなく「ぐう」と読ませたいのではないでしょうか。

「江与」に当たると思われるところを、「恵登」と表記されています。
「恵登」は「えと(ど)」としか読めません。そして、「えよ」にあたる表記がないことから、19世紀初めの時点では「江与」は「えと(ど)」と読まれていたのではないでしょうか。

この「江与」という名前について、「江戸に与えられた」という意味であるという説を私は長年信じてきました。
「江与」の「江」が「江戸」の「江」であったことから、当たらずしも遠からず、といった感じですが、趣が随分違います。
今は、「江与」という号をみて、私は江の存在の大きさを痛感するばかりです。
江戸城が将軍家の本拠となった最初の御台所だからという点もあるのですが、その後どの妻妾たちの中に「北の丸」や「西の丸」など江戸城の一角を号した女性はいても、「江戸」そのものを自らの称号とした女性は江の他にはいません。
大河ドラマ的にはその辺りは不発に終わったような気がしますが、やはり江はまぎれもなく徳川幕府のゴッドマザーだったのだなあ…と史料を見ながらしみじみ思いを馳せておりました。


ちなみに、この史料には珍しく江の生年月が書かれてあるのですが、「元亀三年九月 一に八月とす」となっています。
通説では天正元年=元亀四年で、一年ずれている上に、他の史料との兼ね合いから生年はやはり天正元年=元亀四年でいいと私は思うのですが、月が明記されているのはちょっと気になっています。

しかし九月かもしくは八月といっても微妙なところで、九月ならば江は小谷城の生まれでありえないですが、市や姉妹が織田方に下ったのが『総見記』では八月二十八日、『武功夜話』では八月二十六日となっており、そのあたりのことではなかったかと思われます。ただ、姉妹や市が既に小谷城にはおらずどこぞに避難していた(姉妹は四月の時点ですでに実宰院に避難していたのではと私は考えているのですが…)可能性が考えられますので、本当に微妙な時期です。

とりあえず、後年の編纂史料ですが、江の生まれを九月(もしくは八月)としている史料がありましたよ~ということだけ、ご参考までに。
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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