Posted at 2012.06.23 Category :
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Posted at 2012.06.01 Category :
∟史料関係
福田先生が一昨年『江の生涯』で提唱された「江与」=「えど」説。
私にとってはすっかり定着しているのですが一般的(特に物語系)にはまだまだ「えよ」が根強いようです。
もうこれ以上この説について検討する要素は見つかりそうにないなと思っていたのですが、見つけました。
別件で、『徳川家嫡庶譜略』という史料の引用を見ていたところ、江の名前についてこのような記述が。
恵登姫 宮姫 達子ミチコ 徳子
この史料は古いものではなく、19世紀初めに編まれたもののようです。それまでに編まれた史料上に出てくる江の名前を該当箇所に書き連ねているものかと思われます。
「宮姫」は「みや」ではなく「ぐう」と読ませたいのではないでしょうか。
「江与」に当たると思われるところを、「恵登」と表記されています。
「恵登」は「えと(ど)」としか読めません。そして、「えよ」にあたる表記がないことから、19世紀初めの時点では「江与」は「えと(ど)」と読まれていたのではないでしょうか。
この「江与」という名前について、「江戸に与えられた」という意味であるという説を私は長年信じてきました。
「江与」の「江」が「江戸」の「江」であったことから、当たらずしも遠からず、といった感じですが、趣が随分違います。
今は、「江与」という号をみて、私は江の存在の大きさを痛感するばかりです。
江戸城が将軍家の本拠となった最初の御台所だからという点もあるのですが、その後どの妻妾たちの中に「北の丸」や「西の丸」など江戸城の一角を号した女性はいても、「江戸」そのものを自らの称号とした女性は江の他にはいません。
大河ドラマ的にはその辺りは不発に終わったような気がしますが、やはり江はまぎれもなく徳川幕府のゴッドマザーだったのだなあ…と史料を見ながらしみじみ思いを馳せておりました。
ちなみに、この史料には珍しく江の生年月が書かれてあるのですが、「元亀三年九月 一に八月とす」となっています。
通説では天正元年=元亀四年で、一年ずれている上に、他の史料との兼ね合いから生年はやはり天正元年=元亀四年でいいと私は思うのですが、月が明記されているのはちょっと気になっています。
しかし九月かもしくは八月といっても微妙なところで、九月ならば江は小谷城の生まれでありえないですが、市や姉妹が織田方に下ったのが『総見記』では八月二十八日、『武功夜話』では八月二十六日となっており、そのあたりのことではなかったかと思われます。ただ、姉妹や市が既に小谷城にはおらずどこぞに避難していた(姉妹は四月の時点ですでに実宰院に避難していたのではと私は考えているのですが…)可能性が考えられますので、本当に微妙な時期です。
とりあえず、後年の編纂史料ですが、江の生まれを九月(もしくは八月)としている史料がありましたよ~ということだけ、ご参考までに。