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大蔵卿局屋敷・大野弥十郎屋敷

大蔵卿局邸(大坂)

『摂津名所図会大成』によると、「大蔵局邸跡」の項があります。
曰く、「中濱村にあり今田岡の字に大蔵という伝云」とあり、現在の大阪府大阪市城東区中浜に邸があったようです。
近くに白山神社があり、摂社の稲荷神社が大蔵卿局屋敷の邸内鎮守であったとあります。
『摂津名所図会大成』で「大蔵局」を「木村重成の母にして後に秀頼公の(傅母なりと)伝ふ」と誤記されていますが、こちらは今更訂正するまでもありません。

大野弥十郎屋敷(江戸)

『武功雑記』に、「(大野)弥十郎屋敷ハ今ノ雉橋ノ御倉也」とありました。
「雉橋」を調べてみましたが、江戸城の雉橋門の辺りでしょうか。

弥十郎は大野治長の次男で、大坂方の人質として徳川方に差し出されました。
しかし結局、東西手切れとなり、弥十郎は父や祖母に送れること三月半、八月二十五日、下谷海禅寺で刑死しました。

兄信濃守治徳との混同が見られますが、その年は人質に出たとき十七歳であったとあります(『駿府記』、『大坂冬陣記』)ので、亨年は十八歳。『大坂冬陣記』曰く、乳母が弥十郎に付き添っていったとあります。
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[Twitter]養源院本

@Ka_Yuu_K 桑田忠親氏の『淀君』が書かれた時には既に剥落していたようです。初版は昭和33年だそうです。『姫路城史』は昭和27年だそうです。鼻筋がはっきりしていて、凛とした雰囲気でした。どちらにしろ、像主が茶々である可能性は限りなく低いですが。


posted at 18:20:56


@Ka_Yuu_K 昨年公開していましたね。剥落前はもっともっと美しかったですよ。修学旅行ですか~いいなあ。


posted at 18:08:39


絵で思い出しました。昨日、養源院蔵の伝茶々像をとある本で見ました。『新訂姫路城史』ですが、掲載されていたのが剥落する前の画像でした。目鼻立ちがとてもくっきりしていて、現在の印象とはかなり違いました。とても美しかったです。どちらにしろ、茶々ではないと思うのですが。


posted at 18:03:04


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[Twitter]諸家譜

諸家譜を読んでいて思うこと。関ヶ原合戦は共通して「三成に任せておいたら秀頼様にためにならない!」という理由で動いたとされているのに、一方で大坂の陣に至るまでの経緯が驚くほど省略されているものをいくつか見かけます。正当化できなかったのか、後ろめたさが多少なりともあったのか…はてさて


posted at 21:57:45


大坂の陣の発端となったことで有名な方広寺の鐘銘について、「方広寺鐘銘並五山衆評判」を読んでいたのですが、あまりにもあまりで閉口せざるをえませんでした。秀頼の名前の前に家康の名前をいれるべき!とかびっくりしました。


posted at 21:54:38


織田信益(母が信長の姉妹綱)はもともと秀信に従っていたところ、慶長合戦で岐阜が落城したのちに茶々を頼り、その伝手で江を頼ったそうです(『織田家譜要記』)当時の茶々・江姉妹の繋がりが見えてちょっと面白いです。


posted at 21:46:32


@Ka_Yuu_K この間たまたまこの方を調べていたのですが、筒井氏側の記録に見える「雲上良清大姉」のほうは没年が元和二年なのだそうです。一方「法蓮日栄尼」は中川家によるらしいのですが没年寛永九年でがあわないらしく、混同がみられるそうです。どうなんでしょうね…


posted at 21:20:25


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秀頼許嫁=秀次息女八百姫の足跡を追って

1・「露月院」について

・『系図纂要』
「秀次――女 母中納言局阿亀方、文禄四年八月二所殺、九 感月院誓槿、一に妙泉」

・『諸系図』
「秀次――女 母中納言局、お亀方、感月院誓槿大童女、九才」

・「関白手懸衆車注文」(『豊臣秀次の研究』)
「ひびの下つけ殿御むすめ おちやうさま 廿七   御ひめ様 三ツ」
「こはま殿御子 ちうなこん□ □□」

・『新撰豊臣実録』
「先害長女…(中略)…中納言局三十三、号於亀、摂州小濱坊女、生長女是也」

・『瑞泉寺寺伝』
「露月院殿誓槿大童女」

・「善正寺過去帳」(『東西歴覧記』)
「妙亀童女(*没日:「七月十三日」)


2・秀頼許嫁の事蹟

≪文禄二年≫
六月十三日
殿下御息女当年正月御誕生也、御殿別殿へ度々被遷也、方角見合鎮札可調参之由、御乳人文・益庵折紙到来…」(『兼見卿記』)

六月十六日
殿下御息女御かめ御祈祷之札調持進上之」(『兼見卿記』)

七月七日
「先度承也、殿下御息女八百姫さま被置御殿、鎮札・守一昨日相調之、令祈念、今日以喜介益庵へ持遣之、御局へ文をもて申入了」(『兼見卿記』)

七月十一日
「明日殿下御息女八百姫、御帷二、モロウス・白スヽシ、二重・灯炉一丁調之、悉出来、明日可持参之也」(『兼見卿記』)

七月十二日
八百姫様御帷一重、モロウス・白スヽソ・灯籠、以喜介持進上之、益庵へ以折紙申遣、同御局へ文ニテ令申畢、」(『兼見卿記』)

七月十四日
殿下御息女八百姫様御樽・ハスノ飯・鯖十、三荷、青女方へ同前被持下了、相添御使也、以索麦進一盞、罷帰刻片衣カチン。袴青茶色遣之、自御局文、お返事申入畢、」(『兼見卿記』)

八月一日
④「自殿下御息女二才、八百姫様御樽五荷五種被持下了、ホカイ一、サウメン、干鯛十枚、スルメ十連、塩雁三、昆布十巴、田舎捶桶十、御使台所人也、」(『兼見卿記』)

八月十一日
関白御息女八百姫此間少御煩気也、一七日御祈祷之事御局ヨリ文、御撫物持給了、益庵折紙到来、自明日可執行之旨申入了、益庵・御局へ返事申訖、」(『兼見卿記』)

八月十二日
八百姫御祈祷初之、神前之御幣八本、新ニ調之、神供八膳、常灯二灯、宗源行法陽陰、此外祭文等読之、諸神供養、」(『兼見卿記』)

八月十五日
「行事入夜大護摩修行、左太蔵、右民部、神人各勤之、御姫御祈祷之義也、重而御撫物之事申入、即持給之訖、護摩之後焼払御撫物之義也、御帷給之、」(『兼見卿記』)

八月十六日
御姫被得御験之由承了、富少路療治之也、」(『兼見卿記』)

八月十八日
御姫御祈祷今朝結願、御祓・天度三百六十座、・天神地祇加護之鎮札・榊八本、入箱持進上之、御局へ文、益庵折紙遣之、御撫物先度重而持給之、御撫物之袋等返上之、   後刻喜介罷帰、御姫一段被得御験気之由御返事、五百疋之御折紙給之畢、御局御返事在之、」(『兼見卿記』)

九月六日
殿下御息女八百姫様ヨリ為重陽御祝儀小袖一重・ソメ小袖裏織色・袷裏織色、青女ニ御小袖・■■ソメ小袖・紅花絵色尽之袷、ヌリ裏表ヌリ也、御樽三荷三種、干鯛廿、スルメ十連、・昆布十巴、御使御小人也、民部相伴仕夕食、人足各認申付了、御使ニ片衣カチン、遣之、御局ヨリ文、御返事申訖、」(『兼見卿記』)

九月十六日
「若政所御祓・白粉廿箱、八百姫様へ御祓、御局へ文にて申入了、益庵折紙、遣御祓了、遣喜介了、とうゑいの坊取次之、御祓・白粉十箱、文にて持遣之、他出之由返事也、」(『兼見卿記』)

九月二十八日
殿下御息女 小浜殿腹ノ姫君ノ御乳ノ母 姫君ノ御膳トテ持セ来候、各賞翫」(『時慶記』)

・閏九月六日付秀次書状に対する茶々の返信
ひめ君も御そくさいの御事にて御入候よし申候…」(「福田寺文書」)
⇒この時「ひめ君」が上方にいたらしいこと、また既に秀頼と姫君との婚約話が茶々・秀次両者に認識されていたであろうことが推測される。また、確かにこの頃病がちな八百姫は元気であった様子。

十月一日
「木下半介(吉隆)方より申越、御ひろい様と姫君様御ひとつになさせられ候ハん由、被仰出由関白様被成還御次第、其通羽筑州(前田利家)夫婦ヲ以可被仰出由也」(『駒井日記』)

十一月二十一日
殿下御息女二才、八百姫少御不例、御祈祷之義自十七日承畢、別而今日ヨリ行法三座、一座侍従勤之、神供八膳、朝ト夕ト両度備前之、御撫物御小袖入袋壇ニ置之、」(『兼見卿記』)

十一月二十三日
「御祈祷午已前、令結願、鎮札・守・太麻・天度百座、入箱マサ板ヲ以テ指之、以喜介持進上之、被得験気之由御返事、」(『兼見卿記』)

十一月二十四
「自益庵折紙到来云、昨日御祈祷目出思召也、為御札八木弐十石給之由仰也、尤忝由返事訖、」(『兼見卿記』)

十一月二十五日
八百姫猶為御祈祷於両社御千度神人十人、早々令社参了、午刻以喜介御祓進上之、御祝着之由御返事也、」(『兼見卿記』)

十一月二十六日
「夜半過ぎより 姫君様少御煩被成」(『駒井日記』)

十一月二十九日
姫君様御祈祷東寺宝厳院被仰付、政所様御座間へ被参候、其段重而一往之念不申上とて益庵御しかり被成候」(『駒井日記』)

十一月二十九日
八百姫様為御見舞以喜介申入了、同篇之由仰也、数日急度無御本復、致気遣了、富少路殿御薬調進之、切々尋遣之、不可苦之由被申也、日々給文、御祈祷無油断可勤之由、御局ヨリ承了、」(『兼見卿記』)

十二月三日
「自是向富少路、他出、帰路於門内面会、内へ被請之間罷向、殿下御息女御違例之様相尋是、一両日不御見舞之由被申訖、」(『兼見卿記』)

十二月五日
八百姫一段御験気之由、自御局文、尤目出存之由、御返事申入了、」(『兼見卿記』)

十二月六日
「御祈祷今日中執行、及晩結願、御祓明日可進上之也、」(『兼見卿記』)

十二月七日
八百姫招魂之祭結願、御祓五色、御局へ以書状喜介持進上之、被得御験気之由御返事也、」(『兼見卿記』)

十二月十二日
八百御姫大験之由御返事也、御局へ以書状申入了、」(『兼見卿記』)

≪文禄三年≫

一月十日
「自殿下御息女八百姫様御樽五種、鏡之餅御姫へ参也、鱈十、・鳥五・スルメ十連・鯛十、・昆布十把、柳五荷、文御局ヨリ、御使ヲトナ、中間、此外中間・人夫四人、各進食進飯食、御使中間へ参十疋、残五人三十疋遣之、御局へ文之御返事申訖、」(『兼見卿記』)

一月十六日
「若政所へ御祓・白粉廿箱、八百姫様へ御祓、御局へ文折紙也、白粉十箱、遣之、梅か枝台所、下女也、毎度令馳走也、弐十疋遣之、益庵へ帯二筋、遺書状折紙了、使者喜介、とうゑいの房御祓・白粉十箱遣之、」(『兼見卿記』)

五月三日
殿下御息(女)八百姫御樽五荷五種、御帷予二、青女二、・慶鶴丸二、被入御念被持下了、年中度々之御音信外聞実義不過之、尤神徳也、大慶/\/\、」(『兼見卿記』)

五月十五日
殿下御息女八百姫御不例、御祈祷之義承、自御局文給之、明日十六ヨリ可執行之由、御返事申訖、」(『兼見卿記』)

五月十六日
御姫君御祈祷初之、神供八膳、御灯、今夜大護摩、」(『兼見卿記』)

五月二十二日
「今朝御祈祷結願、御祓明日可持参也、」(『兼見卿記』)

五月二十三日
「一七ヶ日御祈祷之御祓三百六十座、一尺五寸、・鎮札一、守一、箱マサ板ヲ以テ指之、以喜介御局へ文ニテ申入了、近日御煩敷也、無油断祈念、偏被任置之由承了、」(『兼見卿記』)

五月二十六日
御姫以外御煩敷之由聞之、以喜介御見舞申畢、後刻罷帰云、大事相極之由申畢、」(『兼見卿記』)

六月十七日
「自若政所殿以御局文給之、銀子弐枚、拝領之、御姫中々不被及ぶ是非之由仰也、過分忝之由申入了、」(『兼見卿記』)


○秀頼許嫁=八百

『駒井日記』文禄二年十月一日条で、秀頼と秀次の息女「姫君様」が婚約した記事が登場します。同年十一月二十六日条、二十九日条にも「姫君様」が病を得たと記録しています。
駒井重勝は「姫君様」に特に注記をつけていないところから、この時点で秀次の息女は「姫君様」一人であったことが推測されます。

一方、この時期に病を得た秀次息女について記したもう一つの史料が『兼見卿記』で、この息女の名前が「八百」であることがこの病関連記事から分かります。
秀次息女八百は十一月二十一日ごろから体調を崩し、十二月十二日に至るまで各所に病平癒のための祈祷が申しつけられていたようです。

○八百の亨年は「九歳」か?

系図史料で亨年が「九歳」である旨の記載があります。また、「関白手懸衆車注文」には三歳の息女三条河原で惨殺されたとあります。

しかし、『兼見卿記』の八百に関する記述を遡ると八百が文禄二年時点で「二歳」である旨の記述が八月一日、十一月二十一日の記事に出てきます。一方、同年六月十三日の記事では「当年正月御誕生」とあり、文禄二年時点で当歳であることを表わす記載があります。
どちらが信頼できるかというと、やはり祈祷記事である十一月二十一日の記事が最も信用できると思われます。祈祷のために誕生日の把握は必須であり、秀頼の誕生日祈祷を再三行った義演も秀頼の年齢を日記に毎年明記しています。

つまり、八百は文禄二年当時二歳であり、文禄三年には三歳、文禄四年には四歳であるというのがここでの結論になります。

○八百の生母

八百の生母について、一次史料上で根拠とされているのが『時慶記』の九月二十八日条なのですが、実はこれだけでは根拠は薄く、小浜殿所生の息女が秀頼の許嫁かどうかまではこれだけでは分かりません。
しかし、先に述べた通り、駒井重勝が十月一日時点で「姫君様」に何の注釈もつけていないことから、この時点では秀次の息女は八百ひとりだけであったのでは、と推測することができ、その直近である九月二十八日時点での「御息女」は八百のことであろう、と裏付けることができます。

なお、「小浜殿」とは小濱坊の娘である中納言局こと亀のことを指すことは通説で間違いないと思われます。

ここで、『兼見卿記』の記述に戻ると、六月十六日の記事に「御息女御かめ」と「御息女」=「御かめ」?ともとれる記事があります。しかし、八百の生母の名前が「亀」であることを考えると、生母の名前を書きとめたものか、生母の名前を誤って記載したものかと推測できます。
以下の記事を参照すると分かるのですが、秀次の息女の名前だとすると「姫」も「様」もつけずに「御かめ」と呼び捨ててあること自体不自然です。

○八百の没日

露月院殿は秀次切腹の後、三条河原で秀次妻妾斬刑の際に刃の露と消えたと考えられており、そのように記載した史料がいくつか見られ、その中でも『新撰豊臣実録』は長女惨殺の様子を詳しく書かれてあります。

引っかかるのは、秀次の母日秀が建立した善正寺の過去帳では彼女の没日を「七月十三日」としているところです。
秀次妻妾斬刑の日は文禄四年八月二日です。これを他でもない日秀が間違うでしょうか。
『東西歴覧記』の筆者が写し間違えていない限り、理解しがたい誤記だと頭をひねってきました。

ここで『兼見卿記』に戻ります。
八百は少なくとも文禄二年から度々大病を得て、一進一退を繰り返しながらも平癒してきました。
彼女の動きが『兼見卿記』に見えるのは、文禄三年の六月十七日が最後になります。

これ以降、今のところ八百の生存を確認できる一次史料を見つけることができていません。
私の中で、八百の没日は文禄四年八月二日ではなく、文禄三年七月十三日なのではないだろうか…、そして彼女の死も秀吉と秀次が決裂するきっかけの一つであったのでは…という考えがちらついています。

| ∟史料関係 | 00:01 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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秀頼息女万姫、天秀尼

ふと思い立って秀頼のwikiを見ていたら、妻の欄に「安威の方(安威忠衛門の娘)」という記載が。たしかに「愛」(「お愛の方」)という人がいますけれども、これが妾であったという史料はまだ見たことがありません。「方」とつくからにはそれなりの位の侍女であることは間違いないと思いますが。

posted at 19:04:00


愛(「お愛の方」)について調べていたらこんなサイトが。ここでは愛は青木半入の娘と…。史料のない伝承なのかな。/「この坂の名称は豊臣秀頼の側室「お愛」の父・青木半入の居宅があった為に「愛殿坂」がなまったと言う考えもあるとされる。」t.co/6QgH9O85

posted at 12:56:44


出典は『摂津名所図会大成』らしいです。こっちでは「安威殿坂」とあり、「安威」と「愛」双方がこの坂の由来として伝わっているということが紹介されています。「安威」は安威摂津守、もしくは安威忠衛門の娘とあり、「愛」は青木半入の娘とありました。 t.co/01LYleva

posted at 13:03:56



秀頼妾「愛殿」の出典を見ました。一女ありとの記述。息女のその後の記述に天秀尼との混同かと思える説がある一方、母娘ともども戦火に没したという記述もあり、殉死者に「お愛の御方」の名が見えることから、やはり娘がもう一人いて、戦火に没したのではないか…といろいろ考えています。


posted at 12:59:55


@Ka_Yuu_K 想像にすぎませんが、やはり天秀尼が命を助けられたのは、嫡女として千の手元で育てられていたであろうことが大きかったのではないかと。天秀尼が供養している兄弟は同母の国松だけなので、嫡男でも嫡女でもない他の弟妹は千や天秀尼の側で育てられなかったということでしょうか。

posted at 21:37:17


彦根城博物館。「彦根藩士たちの大坂の陣」。博物館臓の大坂の夏の陣図に、まさかの秀頼息女万姫の記述が!!き、来てよかった! pic.twitter.com/J3iPnMam8L



posted at 14:53:50


秀頼の娘万の母愛殿ゆかりのあいどり坂 pic.twitter.com/Lm78ecLAIT



posted at 17:13:06

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秀頼の妾「愛」と次女「萬」

~秀頼妾「愛」を追って~

ふと思い立って秀頼のwikiを見ていたら、妻の欄に「安威の方(安威忠衛門の娘)」という記載が。たしかに「愛」(「お愛の方」)という人がいますけれども、これが妾であったという史料はまだ見たことがありません。「方」とつくからにはそれなりの位の侍女であることは間違いないと思いますが。

posted at 19:04:00


愛(「お愛の方」)について調べていたらこんなサイトが。ここでは愛は青木半入の娘と…。史料のない伝承なのかな。/「この坂の名称は豊臣秀頼の側室「お愛」の父・青木半入の居宅があった為に「愛殿坂」がなまったと言う考えもあるとされる。」http://t.co/6QgH9O85

posted at 12:56:44


出典は『摂津名所図会大成』らしいです。こっちでは「安威殿坂」とあり、「安威」と「愛」双方がこの坂の由来として伝わっているということが紹介されています。「安威」は安威摂津守、もしくは安威忠衛門の娘とあり、「愛」は青木半入の娘とありました。 http://t.co/01LYleva

posted at 13:03:56



上のツイートで取り上げた出典の「安威殿坂」について書かれた部分をチェックしました。

豊臣家の近臣、安威摂津守の邸宅があった場所で、この坂の北側に秀頼の妾「おあい殿」という女性が住んでいたことから「安威殿坂」と名付けられたと伝わるそうです。

また、「阿愛どの」は秀頼との間に「萬姫君」という姫がいたとも書かれており、その顛末がざっと書かれています。

曰く、大坂の陣(「元和の変」)の際、「阿愛どの」と「萬姫君」は「新宮左馬之助」という者の働きで城内より助け出され、「後藤荘三郎」の預かりとなり、その後「京都東山松嵜」の上人の預かりとなり、母娘共に尼となった…
曰く、母娘とも秀頼と死をともにした…
という二つの説が書かれています。

ざっと「京都東山松嵜」について調べてみると、かつて東山に「松嵜山妙泉山」という法華宗のお寺があり、そこが「松嵜」と言われたらしいそうです。現在は泉涌寺に統合されているとのことです。

ただ、同説には母娘共に尼になったとありますが、「愛」は大坂の陣で秀頼に殉死した女性として僅かな史料に登場しています。

『慶元記』:「愛殿」
『大坂御陣覚書』:「お愛の御方」
『慶長見聞書』:「お愛の御方」

愛の父親候補として『摂津名所図会大成』に名前が挙がっている「安威摂津守」をどこかで見たことがあるなあ…と思ったら、福田千鶴先生の『淀殿』でした。
淀城が完成するまで茶々が滞在したという茨木城の当時の城主が安威摂津守こと安威五左衛門でした。こちらでは、「秀吉の側近かつ右筆として信頼・重用されていた」、「秀頼の死後に安威は秀頼に仕えている」と説明されてありました。

はじめ、「秀頼の娘」は天秀尼との混同か?と疑いましたが、「萬」という具体的な名前は初見だったのでちょっと驚いています。
少なくとも、天秀尼は同母と思われる兄国松のみ供養しているので、妹の存在を知らなかったのでは、と考えていたのですが、よく考えれば東慶寺の過去帳は一部のみ抜粋されている史料を見たことがあるだけなので、本当に天秀尼が萬を知らなかったかどうかは今のところ何とも断言できないです。

少なくとも幕府方の史料に萬の存在が全く見えないということは、千の手元で育てられていた訳ではないのかな?と思い、やはり千の手元で育てられていたであろう天秀尼こそ間違いなく嫡女(=姉)なのだろうな、と考えている次第です。


今後もこの母娘について追いかけて行きたいと思っていますが、なにぶん史料(資料)が少なく、今回はこれ以上追い掛けることはできませんでした。何か他に情報があればご助力いただけると助かります。

| ∟書籍・論文・記事 | 21:39 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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[Twitter]猶子、筒井、有馬温泉

現代的解釈では、養子>猶子という印象ですが、当時的にはそういうわけでもないのかな、という感じです。


posted at 21:18:17


「猶子」:「惟任謀反記」で大村由己が於次丸秀勝を秀吉の「猶子」と記しています。桑田先生の解説曰く、「養嗣子の候補者」という註釈。そもそも文脈からして、現代の解釈そのものを当時の一次史料の「猶子」に当てはめるのはやっぱり正しくないかと。もちろん完子の話です。


posted at 21:16:24


仲が良かったと言えば、足利義昭の妹勝雲院とお寧さんは「一ノ御気合也」だそうです。


posted at 13:57:25


ベッドで多聞院を眺めながら呟いていた昨日のTLはカオスですね(苦笑)筒井定次室が茶々と親しかったと知って、筒井家への関心が急上昇です。


posted at 13:53:04


天正十七年五月の前田豪の出産記事は、二人の息子の生年より早いから長女の貞(理松院)なのかな…。


posted at 03:52:08


んで、天正十七年四月に亡くなっている「筒井後室」の「小侍従」は順昭の妻でいいのかな…ややこしい。


posted at 03:43:01


順政の母が尊栄尼。順政の兄が順昭で、その母は宰相局(妙久禅尼)。宰相が「筒井後室」で尊栄尼は「悲母」ってことは


posted at 03:36:35


ん?違うか。年齢的に順慶の祖母かな。>宰相局


posted at 01:56:27


筒井順慶の母は宰相局と称し、戒名を妙久禅尼というらしい。天正九年八月十九日早朝に死去。享年は七十九歳とも、八十余りとも。(『多聞院日記』)


posted at 01:30:03


有馬温泉は豊臣家の女性が多く湯治に訪れています。しかし茶々が訪れた記事は未だ見つかりません…。しかも大蔵卿局も慶長三年末に湯治に訪れたそうなので、ますます茶々も来たことがあるのではないかなあと思わざるを得ません。草津温泉には茶々が訪れたという伝承が残っているのに。


posted at 00:39:41

| ∟つぶやきまとめ | 23:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[Twitter]近衛

『御湯殿~』読んでて、近衛は当時「こんえ」って読んでたのかしら、と思いました。少なくとも仮名書きでは「こんえ」なんですね。「このえ」になったのは最近?


posted at 12:53:26

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[Twitter]八百姫、疱瘡

祈祷記事やその時期から、秀頼の許嫁だった秀次の娘(露月院)=八百姫でいいんじゃないかしら…。若政所の側にいたらしいことや、「御姫君」と尊称されている辺り、正式に姫の扱いを受けているような印象です。文禄二年で二歳らしいので、秀頼よりひとつ年上ですね。


posted at 00:32:45


おや、慶長十三年の秀頼疱瘡の時、龍が大坂城に駆けつけたのは知っていたけれど、お寧さんも大坂に駆けつけていたんだ。曲直瀬道三に治療を依頼して、豊国社に祈祷依頼して更に大坂に駆けつけていたんだなあ。


posted at 00:26:57



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東福門院和子の女房・侍女

こっそりお邪魔している先で、2件も和子の女房について調べられた記事を拝見したので、便乗してみました。

参考:
○「後光明天皇ブログ
東福門院の女房について

(紹介されている女性)
信濃小路局(滋野井教広女)/西洞院時慶女 行子/綾小路局(西洞院時直女)/新大典侍局(久我通堅女 俊子)/高倉局(鷲尾隆量女)/積房小路局(万里小路雅房女)/権大納言局(橋本季宗女)/中納言局(下冷泉為将女 貞子)/肥後局(大河内具泰女 梅子)/春日局(堀河康胤女)/小弁(鴨永祐女)

○「Celtic Woman -Songs From The Heart-」(Chloe Lisa Lynn ALex Máiréadさん)
東福門院女官
続・東福門院女官

(紹介されている女性)
民部卿局(阿茶局)/右衛門佐局(水無瀬氏?、秩父重国女?)/対馬局(浅井定政女)/出羽局(浅井清忠女)/真巌宗見(千宗旦室)/筑後/権大納言局(橋本秀宗女)/高倉局(鷲尾隆量女)/右衛門佐局(水無瀬氏?、秩父重国女?)/石井局 行子(西洞院時慶女)など

茶々姫をたどる汐路にて

というわけで、以下より便乗記事です。

○『寛永諸家系図伝』に見える和子の女房・侍女

①右衛門佐局:秩父重国女
・「幼少より東福門院につかふまつる」
件の貞春の縁で仕えたであろう女性です

②肥後局(本名は梅):星合具泰女
※生母飯尾信宗女は江の侍女
・慶長十二年十月七日、七歳で和子に仕える
・元和六年、和子入内の際供奉
・同八年、和子中宮宣下の際女官頭となり、三位に叙され肥後と号す
・寛永三年九月、二条城行幸に供奉
・同年十一月、病のため辞し江戸に帰る。病平癒の後神尾守勝に嫁し、守政をうむ。
・同七年五月五日卒。二十九歳。法名妙純。見性院と号す。

和子の乳母:渡邊勝母
慶長十八年乳母を辞しその後江、秀忠に仕える

下野:渡邊勝女
※おそらく和子の乳母子

○『徳川実紀』より、二条城行幸(寛永三年九月)で「中宮の女房」として贈答を受けた女性

(五百両、綿衣十領ずつ)
権大納言/新大納言御櫛笥梅小路宣旨式部/右衛門佐
(三百両、綿着物六領ずつ)
・中将/左京大弐
(百両、四領ずつ)
豊前長門/肥後/但馬信濃石見日向薩摩/出羽/内海(うつみ)河内

○『幸家公記』より、和子の使者として九条家を訪れた女性(元和年間)

・「中殿」、「あふみ(近江)殿」、「きい」(「織助女」)、「たちの殿」(「権中納言のオハ(おば)也」)、「権中納言殿

その他、厳密には和子の女房ではありませんが、以前宰相と称した横山家次の女(家次は浅井長政の家臣)が和子が産んだ二番目の皇子若宮の乳母だったと紹介したことがありました。

『徳川実紀』など、漁ればまだまだ出てきそうですね。

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