『摂津名所図会大成』によると、「大蔵局邸跡」の項があります。
曰く、「中濱村にあり今田岡の字に大蔵という伝云」とあり、現在の大阪府大阪市城東区中浜に邸があったようです。
近くに白山神社があり、摂社の稲荷神社が大蔵卿局屋敷の邸内鎮守であったとあります。
『摂津名所図会大成』で「大蔵局」を「木村重成の母にして後に秀頼公の(傅母なりと)伝ふ」と誤記されていますが、こちらは今更訂正するまでもありません。
○大野弥十郎屋敷(江戸)
『武功雑記』に、「(大野)弥十郎屋敷ハ今ノ雉橋ノ御倉也」とありました。
「雉橋」を調べてみましたが、江戸城の雉橋門の辺りでしょうか。
弥十郎は大野治長の次男で、大坂方の人質として徳川方に差し出されました。
しかし結局、東西手切れとなり、弥十郎は父や祖母に送れること三月半、八月二十五日、下谷海禅寺で刑死しました。
兄信濃守治徳との混同が見られますが、その年は人質に出たとき十七歳であったとあります(『駿府記』、『大坂冬陣記』)ので、亨年は十八歳。『大坂冬陣記』曰く、乳母が弥十郎に付き添っていったとあります。
参考:
○「後光明天皇ブログ」
・東福門院の女房について
(紹介されている女性)
信濃小路局(滋野井教広女)/西洞院時慶女 行子/綾小路局(西洞院時直女)/新大典侍局(久我通堅女 俊子)/高倉局(鷲尾隆量女)/積房小路局(万里小路雅房女)/権大納言局(橋本季宗女)/中納言局(下冷泉為将女 貞子)/肥後局(大河内具泰女 梅子)/春日局(堀河康胤女)/小弁(鴨永祐女)
○「Celtic Woman -Songs From The Heart-」(Chloe Lisa Lynn ALex Máiréadさん)
・東福門院女官
・続・東福門院女官
(紹介されている女性)
民部卿局(阿茶局)/右衛門佐局(水無瀬氏?、秩父重国女?)/対馬局(浅井定政女)/出羽局(浅井清忠女)/真巌宗見(千宗旦室)/筑後/権大納言局(橋本秀宗女)/高倉局(鷲尾隆量女)/右衛門佐局(水無瀬氏?、秩父重国女?)/石井局 行子(西洞院時慶女)など
というわけで、以下より便乗記事です。
○『寛永諸家系図伝』に見える和子の女房・侍女
①右衛門佐局:秩父重国女
・「幼少より東福門院につかふまつる」
件の貞春の縁で仕えたであろう女性です
②肥後局(本名は梅):星合具泰女
※生母飯尾信宗女は江の侍女
・慶長十二年十月七日、七歳で和子に仕える
・元和六年、和子入内の際供奉
・同八年、和子中宮宣下の際女官頭となり、三位に叙され肥後と号す
・寛永三年九月、二条城行幸に供奉
・同年十一月、病のため辞し江戸に帰る。病平癒の後神尾守勝に嫁し、守政をうむ。
・同七年五月五日卒。二十九歳。法名妙純。見性院と号す。
③和子の乳母:渡邊勝母
慶長十八年乳母を辞しその後江、秀忠に仕える
④下野:渡邊勝女
※おそらく和子の乳母子
○『徳川実紀』より、二条城行幸(寛永三年九月)で「中宮の女房」として贈答を受けた女性
(五百両、綿衣十領ずつ)
権大納言/新大納言/御櫛笥/梅小路宣旨/式部/右衛門佐
(三百両、綿着物六領ずつ)
・中将/左京/大弐
(百両、四領ずつ)
・豊前/長門/肥後/但馬/信濃/石見/日向/薩摩/出羽/内海(うつみ)/河内
○『幸家公記』より、和子の使者として九条家を訪れた女性(元和年間)
・「中殿」、「あふみ(近江)殿」、「きい」(「織助女」)、「たちの殿」(「権中納言のオハ(おば)也」)、「権中納言殿」
その他、厳密には和子の女房ではありませんが、以前宰相と称した横山家次の女(家次は浅井長政の家臣)が和子が産んだ二番目の皇子若宮の乳母だったと紹介したことがありました。
『徳川実紀』など、漁ればまだまだ出てきそうですね。