QT @amnkrm 世間がいまさらといっても私にとっては日常なのに(笑)世知辛いものです。そういえば、二条康道が子々死去の際、服喪していたようです。あと家光が道房死去の際も。明記はされていなかったけど、おそらく道昭のときも。あまのかるもさんに聞いて頂きたかったんです!(笑)
posted at 00:25:47
『徳川実紀』は結構適当。忠栄(幸家)なのに「兼孝」(忠栄の父)って書いていたり、道房(忠栄の息子)なのに「幸家」って書いてあったりその逆だったり。完子も煕子(忠栄の母)になっていたり、道房の妻鶴(息子の嫁)になっていたり。
posted at 00:01:52
そうかー、玉(お玉の方)の養家本庄家は光平の家司というよりは、まだ康道の時代か…。玉の兄本庄宮内道芳が家光の御家人にとりたてられた件で、康道が謝礼に訪れている…。思っていたよりもっと江に近しかった。
posted at 23:42:34
服喪を問題にするならば、家光と二者の間には江―完子を挟んでやっぱり血縁があるということになるのでは…。そして、道昭も「庶子」とあるので、完子所生か断定していいか悩んでいたけれど、家光と血の繋がりがあるということに。…とか現在考えています。
posted at 23:02:19
家光、松殿道昭が亡くなった時に諸大名から弔問を受けて、更に増上寺代参を取りやめ、九条道房が亡くなった時も弔問を受けて、紅葉山への御宮参をやめています。後者は特に「摂政の事(薨去)によりて御軽服なれば」とあり、前者も同様の行動から、道昭・道房両者が亡くなった時に喪に服している様子。
posted at 22:59:38