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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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[Twitter]服喪

 

QT @amnkrm 世間がいまさらといっても私にとっては日常なのに(笑)世知辛いものです。そういえば、二条康道が子々死去の際、服喪していたようです。あと家光が道房死去の際も。明記はされていなかったけど、おそらく道昭のときも。あまのかるもさんに聞いて頂きたかったんです!(笑)


posted at 00:25:47


@hanahime8787 うーん、全く見当がつかないです…九条家とどんな関係が…?


posted at 00:21:37


ん?堯円じゃなくて、堯朝かな。


posted at 01:54:49


江の回忌法要で、九条家や東西本願寺が特に参加するのは分かるんだけど、それにならんで「一身田門跡」こと堯円?がいるんでしょうか…江と何か関係がある方だったかな…?


posted at 01:13:16


『徳川実紀』は結構適当。忠栄(幸家)なのに「兼孝」(忠栄の父)って書いていたり、道房(忠栄の息子)なのに「幸家」って書いてあったりその逆だったり。完子も煕子(忠栄の母)になっていたり、道房の妻鶴(息子の嫁)になっていたり。


posted at 00:01:52



そうかー、玉(お玉の方)の養家本庄家は光平の家司というよりは、まだ康道の時代か…。玉の兄本庄宮内道芳が家光の御家人にとりたてられた件で、康道が謝礼に訪れている…。思っていたよりもっと江に近しかった。


posted at 23:42:34


服喪を問題にするならば、家光と二者の間には江―完子を挟んでやっぱり血縁があるということになるのでは…。そして、道昭も「庶子」とあるので、完子所生か断定していいか悩んでいたけれど、家光と血の繋がりがあるということに。…とか現在考えています。


posted at 23:02:19


家光、松殿道昭が亡くなった時に諸大名から弔問を受けて、更に増上寺代参を取りやめ、九条道房が亡くなった時も弔問を受けて、紅葉山への御宮参をやめています。後者は特に「摂政の事(薨去)によりて御軽服なれば」とあり、前者も同様の行動から、道昭・道房両者が亡くなった時に喪に服している様子。


posted at 22:59:38



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[Twitter]興安院、長丸

 

初(興安院)のwiki、決めつけがひどいなあ。江戸出生説だし、葬儀は徳川家が営んだけど、追善供養は京極家で営まれたらしいのに。育たなかったけれど二度出産したらしいのに。忠高だって、初を一貫して「むげに扱っていた」とは言えないと思うなあ…「兄様」と呼んでいた話も入れればいいのに。


posted at 23:33:17


今でも普通に灸が死因のように書かれてあるところが多いですね…というわけで、支援!→「長丸の死とお灸について」(かとりぶたを側に置き) t.co/5ZLFyx35


posted at 21:08:20



 

[Twitter]伝通院、明智光秀

 

@hanahime8787 そうなんですよねえ…たぶん私も同じ所で見たのだと思うのですが、没年が違いますか…。貞松院は、私は徳川義直の継室佐井(津田信益女)かなあと思ったのですが、やはり没年が違いました。


posted at 23:15:42


そして「貞松院殿照誉高月大姉」…寛文七年九月三日没のこの婦人は誰だ…(伝通院)


posted at 18:00:25


伝通院の伝通院墓所と興安院墓所の間にある「松寿院」は徳川頼房の息女伊藤友次妻?名前は那阿とか津子とか出てくるけど、どうなのでしょう。某所では実父が田代梅坡芋で頼房の養女とあり、某所では幾都という女性の間に生まれた末娘ってことになっている…調べ直さなきゃ確認できないかな。


posted at 17:17:59


茶々と仲が良かった「信長の娘」だと思われる藤(秀子、筒井定次夫人)について、たまたまwikiを覗いたら、「実父は明智光秀であり、信長の養女としてから嫁いだともいう」とあってびっくり。この出典はなんだろう。


posted at 13:31:57


おや?前妻の子という正栄尼を除いても、光秀には煕子さんの他に妻妾がいたはず。子どももいたんじゃなかったっけ…? RT @sengoku_walker: 【ニュース】 光秀・ガラシャを大河ドラマに ゆかりの7市町 連携 誘致推進協「真の人物像伝えたい」 


posted at 02:09:13


素晴らしいコメントです!!茶々ファンな私の心にガツンときました(笑)本当に、その通りですよね。 RT @aotcy: 「歴史の敗者であっても、人間としては負けていない」という葉室麟さんの言葉に感銘を受けました(T_T)


posted at 02:06:19

 

御知恵を貸して下さいませ…(解決しました)

 
k2さんからアドバイス(というか解答)を頂き目出度く解決いたしました…
「賢固林院殿従二位(霊位?)」
だそうです。

「菊亭大納言」とのことですが、「系図纂要」曰く、「堅固林院月相義天」が今出川誠季の戒名ようです。
古奈が嫁いだ菊亭経季から五代後の当主だそうです。
 
茶々姫をたどる汐路にて

お力添え本当にありがとうございました。
そして、お騒がせいたしました。

(3/2)



どなたかこれ読めませんか?


読みやすいように見えるのですが、なにぶん私が刻字を読む能力に乏しく、難儀しております…
もしどなたか、一部分でも判読できましたら、よろしければ御知恵を拝借させてくださいませ。

(クリックで拡大します)
茶々姫をたどる汐路にて

ヨクローさんが読みやすいように加工してくださった画像を送ってくださったので、折角なので追加します。
ヨクローさん、ありがとうございます。

茶々姫をたどる汐路にて 茶々姫をたどる汐路にて 茶々姫をたどる汐路にて 茶々姫をたどる汐路にて 茶々姫をたどる汐路にて

 

祥雲院殿御霊屋

 
茶々姫をたどる汐路にて

先月のことなのですが、特別公開を利用して、妙心寺玉鳳院・隣華院へお参りしてきました。

玉鳳院の境内には、鶴松の廟所があるのですが、ようやく初めてお参りできました。
「妙心寺展」で拝観した可愛らしい鶴松の木像と、廟所が大切に祀られていました。
墓碑は思いのほか小さく、意外に思いましたが、保存状態はとてもよく、「祥雲院殿玉岩麟公神童/天正十九年/八月五日」と刻まれた文字もはっきりと読み取ることができました。

両院には縁のお位牌もあるとのことでしたが、残念ながらお参りすることができず、位牌の安置されているところを遠巻きに眺めることしかできませんでした。
いつか一度は手を合わせる機会があればいいのですが…
 

[Twitter]佐治史話

 

佐治奎介『佐治史話 : 日本史の流れに沿って』 t.co/NhcZtipB/史料でなく著作の書名だったのですね。失礼いたしました。そうなると、より根拠とされた史料の有無が気になるところです。


posted at 15:48:54


『佐治史話』で江が秀勝に輿入れした時期を天正十七年にしているというのを読んで、もしかすると完子の生まれが天正十七年か十八年だったのかしら、と考察。婚姻時期を比定する際の常套手段を逆に考えただけで、根拠はありません。完子の生年を『佐治史話』の著者がどこで知りえたのかも疑問ですし。


posted at 15:34:21

 

隆崇院殿(追記)

 
茶々姫をたどる汐路にて

隆崇院は徳川家光次男綱重の最初の妻です。慶安元年(1648)八月八日生まれ。
父は二条光平(完子の子二条康道の嫡男)で、生母は女五宮賀子内親王(後水尾天皇と徳川和子の娘)と、双方から江の血を引く女性です。
『幕府祚胤伝』によると、九条兼晴(完子の次男九条道房の養嗣子で娘婿)の養女であったといいます。

綱重(長松)は「四十二の二つ子」(父が大厄にあたる四十二歳になる年に二歳になる子どもで、親を殺すといわれ、余所にやる風習があった)だったため、千に預けられて養育されました。

ちなみに、長松の生母夏は、京出身の女中で、もともと鷹司孝子付きだったそうです。孝子は江の肝いりで輿入れしたことを考えると、家光時代の大奥ではやはり「大御台所」である江の影響が大きかったのだなあと感じます。

ついでに、徳松(綱吉)の生母玉(お玉の方)は本庄家の養女で、先日「ヒストリア」で生涯に渡り本庄家の家紋を使い続けていたことが紹介されていましたが、この本庄家も二条光平の家司だったりします。
玉は養家が江と縁があったこと、もともとお万の方付きの女中であり、この万が春日局亡きあとの大奥に大きな影響力があったことなど、単に「幸運」という曖昧な言葉で語るにはもったいない繋がりがありました。
同番組内では大奥内の女性同士のいじめのような描写もありましたが、当時は春日局が大奥を厳しく管理しており、また誰よりも春日局が家光の子女誕生を願っていたでしょうから、家光子女誕生を阻害する陰湿ないじめや嫌がらせは許されなかったのではないかと思います。

隆崇院は寛文九年五月十四日に亡くなりましたが、その墓所は三年前に千が葬られたばかりの伝通院にあります。
彼女の生前の名前はまだ調査中です。

隆崇院の輿入れは寛文二年九月に行われましたが、半年前の同年四月には妾の保良との間に綱重の長男後の家宣(虎松)が生まれています。
隆崇院の墓碑は、本理院と同じくらいの規模で建立されており、この扱いは隆崇院がこの家宣の養母であったためであると『徳川将軍家墓碑総覧』で言及されています。
また、東京都品川区にある善長山隆崇院という寺院は、家宣が隆崇院のために建立した寺院だそうです。
虎松は生後養子に出され外で育てられたといわれていますが、立派な墓碑を建てられ、追善供養のために寺院を建立する程度には(…ってかなりだと思いますが)隆崇院との交流はあったということでしょうか。
 

長女学と伝崇源院像

 
相変わらずぼちぼちとやってはおりますが、ここに書くほどまとまっていないネタが散逸しております。

最近は江の侍女、三姉妹の子女、地元の殿さま、家老についてあれやこれやと調べていたりしています。

千の行動を追いながら、改めて当時の長女、総領娘の存在感、力の大きさに驚いています。茶々姫を調べているときから感じていたことですが、千で改めて裏付けされた印象です。
庶出ではありますが家光の長女千代、また養女ではありますが、初にとっての古奈も同じ印象です。
私も長女なのですが、現代では不本意にも長女のほうが劣っているなんて言われてしまうこともあるというのに、面白いですね。
乳母研究も面白そうだと思っていますが、長女研究も面白そう。

その他、記事にするに足りないことがらを思い出したようにtwitterでつぶやいていたりします。

さて今回ですが、去年発見した古い記事をまだブログでとりあげていなかったのでそちらを。
戦国時代の女性の生き方とは 朝倉氏遺跡資料館で講座
(2011年8月21日午後6時32分)

 福井市の県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館で21日、公開講座「一乗学アカデミー」が開かれた。戦国時代の女性の生き方をテーマに同資料館前館長の水野和雄さん(64)が講演。NHK大河ドラマ主人公の江ら浅井三姉妹に関し水野さんは、父長政の地位向上に力を注いでいたとする独自の視点を披露し、家系を守っていく役目を担った戦国女性の強さを解説した。

 同アカデミーは同遺跡の発掘・研究の成果に関心を持ってもらおうと、3年前から開かれている。この日は県内の歴史愛好家ら45人が参加した。

 3月まで同資料館の館長を務めていた水野さんは、戦国時代に従四位下の地位を得ていた朝倉義景と浅井長政では、朝倉氏の方が格上だったと説明。それでも両者の同盟関係が同格として位置づけられてきたのは「江が生んだ徳川家光が、長政を破格の従二位中納言に推挙し、当時の明正天皇に追贈されたから」と指摘。明正天皇が江の娘、和子(まさこ)と後水尾天皇の間に生まれたことも背景にあるとした。長政の菩提(ぼだい)寺・養源院を淀殿と江が建築、再建したことにも触れ、「長政の地位向上には、娘の力があった」と解説した。

 また水野さんは、江を描いたとされる崇源院像(養源院蔵)が「尼僧姿であることに疑問がある」とした。江は夫の秀忠より先に亡くなっていることや、絵に秀吉を示す五七の桐や、織田氏を示す木瓜が描かれていることから「淀殿の可能性もあるのでは」と推測した。
聴きに行きたかったです。

一乗谷は一度登ったことがありますが、本当に大変で、何度も転んで泥まみれになりながら登りました。
凄さを体感したという意味では貴重な経験でした…

茶々姫をたどる汐路にて

聴きに行きたかったといえば、泉大津で跡部信先生の講演会があったんですよね。
是非行きたかったけれど、地味に遠くて断念しました。おもしろそうだったのですが。
 

[Twitter]本圀寺

 

本圀寺関係の史料、「秀吉側室浅井備前守長政之女生男子小字棄子(※鶴松)」の記述がありましたが、「天正十九年四月」付でした…。『豊内記』あたりが出典?鶴松は天正十七(1589)年五月二十七日生まれで、十九年八月五日には夭折してしまいます。1745~1819年の編纂だそうです。


posted at 02:12:42

 

[Twitter]「い」

 

件の書状はどうしても市のものだとは思えません。このまま定着してしまうのでしょうか…。そして、市の解説から早速江の名前が挙げられていなくて泣けました…不憫すぎる…/名無し書状 謎追う愉悦 筆跡・内容で絞り込み t.co/TWTaVBrF


posted at 22:04:41

プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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