『太閤素性記』によれば、茶々は北野大茶会にも吉野の花見にも参加していたらしいです。秀吉の葬儀にも、寧と茶々は妻として参加。寧は150人を従え、茶々は130人を従え、その順は変わらず平穏です。龍の名は無かったけれど、従った人の中にいたのでしょうか。
posted at 02:56:36
茶々姫をたどる汐路にて茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)
Posted at 2011.11.30 Category : ∟つぶやきまとめ
『太閤素性記』によれば、茶々は北野大茶会にも吉野の花見にも参加していたらしいです。秀吉の葬儀にも、寧と茶々は妻として参加。寧は150人を従え、茶々は130人を従え、その順は変わらず平穏です。龍の名は無かったけれど、従った人の中にいたのでしょうか。 posted at 02:56:36 スポンサーサイト
Posted at 2011.11.30 Category : ∟江 姫たちの戦国
無事?終わりました。
一瞬で五年くらい進む場面もありましたが、ついていけなかった方も多くいらっしゃったのではないでしょうか。 とりあえず、私は最終回のテロップで「淀」ではなく「茶々」だったのは嬉しかったです。 「淀」の場面もありましたが、三姉妹を描いた作品ではあくまで「茶々」であってほしかったので。 でも、普通に江が佐治一成にあったのにはびっくりしました。福が林羅山にあったのにもびっくりしたけれど… いくらなんでも、当時の決まりでも、奥御殿では主(秀忠)がいなければ10歳以上の男子禁制のはずです。 ○龍の江戸下向 龍が元和年間に江戸下向したという史料はありませんが、おそらく寛永年間に家光に年頭の祝儀を贈ったという一件をもとにしているのかなあと思いますが、偶然にも最近これは龍の事蹟ではなく、初の事蹟であることを言及しました。 ![]() 龍は最後まで江戸に下ることなく、後家として西洞院の屋敷でひっそりと晩年を送っていたものと思われます。 神龍院でひっそりまつられ続けている豊国大明神に参拝したり、自身の再興した誓願寺に足を運んだり、時には寧のもとに足を運ぶことはあったと思います。 龍は、なんといっても秀吉の後家。豊臣の関係者ですから、易々と身軽に江戸に下ることは出来なかったししなかったと思います。 ○茶々が待ちわびていた秀頼の成人と千の懐妊 夫秀頼には、女房腹に二男一女の子がいます。 一方、千にも後夫本多忠刻との間に一男一女を儲け、他にも育たず亡くなってしまった子がいたといいます。 秀頼と千の間に子が出来なかったのは、二人の体質に問題があったようではなさそうです。 このことは昔から言われていて、だからこそ大坂城で茶々が千を秀頼から遠ざけたのだと謂れのない中傷をいくつも見てきました。 確かに、秀頼と千の子がいないことには、相性という問題もありますが、なんらかの不自然さを感じないわけではありません。ですが、私は茶々の研究者ですから、いわれなき批難を受けている茶々の側から弁護をしようと思います。 まず、茶々は秀頼を関白にするために、秀吉が遺した遺言、遺産や威光を有効活用して、当代一流の教師・教材を揃え、文武両道に育てていました。秀吉が遺した「秀頼を十五になるまでは大坂城から出してはならぬ」は、秀頼の周りにとっては、十五になれば成人なのだという覚悟を持たせた結果になったっと思われます。 秀頼が十一で千を迎える時には、待ちに待った秀頼成人の第一歩として大いに祝われ、その証として福島正則が秀頼に誓詞を出したという噂が立ったほどでした。 豊臣家にとって、それが徳川家康の孫であれ、秀頼がとうとう妻を迎える年齢になったということが大変に喜ばしかったのです。 ましてや、徳川と豊臣の間を気遣った江の肝いりで茶々のもとに送られてきた千。江もまた、豊臣から徳川へ縁を結ぶために嫁いだ身、茶々に江が豊臣と徳川を思う気持ちが分からないはずがありません。 そうした輿入れしてきた千は、若干七歳から十九歳で落城するまで…現在ならばまさに学生として様々な素養を学ぶ時期に、教育を受けた場所が大坂城でした。そしてその教育の全責任を負っていたのが茶々でした。 諸家から秀頼に対する贈答の席では、千に必ず同席をさせ、秀頼、秀頼の母茶々とともに、秀頼の妻として贈答の面倒を見て、礼儀作法を教えています。時には茶々が公家に口を聞いて、千の名で連歌会を催すということもありました。茶々の側近大蔵卿局を使って、千の取り次ぎをさせるなど、かなり厚く世話をしている様子が見えます。 茶々が千に気を配っていたのは、徳川家の娘という点ではなく、なにより秀頼の妻、将来の関白の妻として相応しいようにと教育を怠らなかったのです。 茶々の中には、秀頼はもちろん関白に相応しい男になってもらわなければ困る。千は、関白秀頼を支えるのだから、公家とのやりとりは必須。将来は寧(高台院)のようになってもらわなければ困る。そして、秀頼を継ぐ者は、二人の血を引いて、まだ豊臣家の中でしっかりと教育を受けさせなければならぬ。子女の教育を重んじる茶々にとって、それが茶々の信念だったのではないでしょうか。 秀頼が石という女房との間に長子国松を儲けたのは、千が成人する前のことです。茶々はこの子を秀頼の後継ぎではなく庶子として、大坂城から出してしまいます。国松にとっては、大坂城で育ったほうが良かったのか、出自を秘されてのびのびと、しかし大事に育てられたほうが良かったのかは分かりません。茶々は、国松を大坂から出す際、側近大蔵卿局縁の聡明な女性を乳母として国松につけました。これは国松に対する罪滅ぼしだったのかもしれません。 それでも、国松を秀頼の嫡子として迎える訳にはいかなかったのです。 それについては、徳川家への配慮といわれていますが、徳川家に対し、譲れぬところはきっぱりと拒否する茶々にしては、殊勝な態度すぎると思います。 国松を秀頼のこと認知しなかったのは、秀頼の嫡子は千が産んでもらわなければ困ると考えていたと私は思っています。千への教育はそのためのものでもあり、秀頼の血が子々孫々続いて栄えていくためには、生母の血、生母の実家の力もまた大切なのです。 もし、茶々が秀頼の子という存在に千の血が必要ないと思っていたのならば、国松はひっそりと城内で育てさせていたでしょう。秀頼の嫡男です。教育を重んじる茶々としては、秀頼に施した教育と同等のものを与えて、公家社会で遜色のない若君にしなければいけません。 それでも茶々は国松を大坂城から出しました。それはとりもなおさず、千が嫡男を生むことを待っていたからです。 このようなときばかり「徳川に憚って」といわれますが、そうではないでしょう。秀頼ほどの地位の男ならば、お手付きの女房衆の一人や二人いてもおかしくありません。 実際、年後で生まれた秀頼の姫は城から出しませんでした。姫には秀頼の家督を冒すことができないからです。 しかし、母親であるはずの成田石の身近に育てられた痕跡もありません。 後に姫が入寺する東慶寺には、養母千との交流が伺える跡がいくつもありますが、逆に生母との交流を偲ばせるものは何一つありません。供養の跡もないのです。天秀尼となった姫の墓の側にあるのは、天秀尼に仕えた乳母の墓なのです。 生母との絆の薄さ、千との厚い遣り取りから、私はこの姫は生まれてすぐに千のもとで育てられたのではないかと考えています。 茶々は、千を秀頼の正妻として、女房衆に生まれた子どもたちの嫡母として、成り立たせようとしていたのだということが伺われます。 落城時も、千の退城とともに大坂を脱出したといい(『聞書雑和集』)、その後江のもとで保護されたといいます(『太閤素性記』)。千と天秀尼の養母娘関係は、天秀尼の東慶寺入寺にあたって結ばされたように書かれていますが、実際は幕府の承認を受けたのがそのタイミングだったのでしょう。 三男といわれる秀頼の子は落城時三歳だったということで、そのときどのような状況にあったかまでは記録がなく、ここではこれ以上のことを類推することはできません。 ただ、浅井家の万福丸の他の兄弟同様、長子である国松だけ命を採られて、次男は寺に入れられるというやり方を踏襲していると思います。 秀頼・千夫妻の成長を待ちわび、その間に嫡男を望んでいたことは庶子国松への対応から分かります。その子が生まれていれば、徳川家との交渉も変わっていたはずで、茶々が千の懐妊を阻む要素がないのです。 ではどこから「不自然」と思われる介入があったのか…そこまでは語らずに今回はこの話を終わりたいと思います。 ○千の嫁入・和子の入内の時期 だいぶ話を膨らませ過ぎました。 千の婚礼が決まったタイミングは、家康の生前です。 本多忠政に嫁いでいた熊(父:家康の長男信康/母:織田信長の娘五徳)が家康の枕元で嫡子忠刻と千の縁談を願ったのが始まりだったようです。家康が亡くなったのが大坂落城の翌年ですから、早くから再縁話は決まっていたようです。 しかし、夫と死別した際、ある程度時間を置かなければ再縁できなかったようで(江が秀勝と死別した際も、三回忌を待って秀忠に再嫁しました)、実際に輿入れが行われたのは元和三年八月のことで、やはり秀頼の三回忌を待っての輿入れでした。 和子の入内に至っては、大坂落城前から本格的に動いており、正式に朝廷が入内の内旨を発したのが慶長十九年三月のことでした。流石にこれ以前からお后教育は始まっていたと思われますが。元和六年、入内のために上洛しましたが、此の時母代として阿茶局(家康の側室だったといわれる人。神尾氏従一位)がつき従います。この人は、秀忠の母代わりを務めていた女性で、おそらく都の知識も深かったのでしょう、その縁で和子の面倒をみるためにともに上洛したものと思われます。 ドラマ内では、大坂の陣が終わって、家康が亡くなって、いろいろバタバタと決まってしまったように見えましたが、どれもこれも、前々からの流れがあっての輿入れでした。 私は中盤が抜けているので、はじめて「和(まさ)」と読んでいるのを聞いて誰の事やら分かりませんでした(汗) 『幕府祚胤伝』では「諱名和子」「初松姫君」とありますので、松という名前だったのでしょう。 本名+子でとりあえずの諱とする場合もあるようですが、和子の場合これで通していたようなので、「和」が名前だったとは思えません。あるとしても、本名で公家読みはあまりしないので「かず」かなあと思います。 「和子」の読み方ですが、一般的に「まさこ」と読まれ、また「武徳大成記」ではそのまま「かずこ」と読み、「武徳編年集成」では「やわらけいこ」と読んでいるそうです。 「万天日録」の東福門院崩御の項では「数子」と書いているため、「かずこ」と読まれていたのかなあという気がしないでもないですが…(参考:『千の生涯』) この間『養源院の華 東福門院和子』を読みましたが、やはり江が実母である説を私は棄てられませんでした。 蔵王大権現の伝承のみを真実として、養源院や徳勝寺や和子の女房に見える和子と浅井家の繋がりを無視するのは公平でないように感じたからです。 前書では「胡散臭い表現」といわれていましたが、 「御所第八の姫君生れ給う。御台所の御腹にて後に御入内あり。後水尾院の中宮にたたせ給ひしなり。世に伝ふるところ、此姫君生まれ給ひし時、江戸中に異香馥郁たりしといふ。医官今大路延寿院道三こたびの御三ことさら御なやみつよくわたらせ給いしを、よく治療し奉りたりとて剣製の短刀を給ふ」 確かに、江戸に妙香が漂って…は現実感のない表現ですが、これは和子の後の出世をにおわせるものであって、その他全てまで疑わしいとは思えません。江にとって高齢出産で会ったのは事実で、だからこその「御台様の御腹にて」というわざわざの確認でしょうし、難産で会ったのならば医者に褒美があったでしょう。 私はこの難産の記載を見て、江の子なのだなあと思いました。 実は、妙徳院が母でも三十五歳の高齢出産らしいのです。江の出産年齢が高すぎるという出発点だったとしたら、行きつく先も何も変わらない疑わしい着地点ということになります。 もちろん、江が亡くなった際の物忌は気になりますが、私にとってはそれが決定打にならないのです。記述がないということは、記述がある以上に決定打にはなりにくいですから。「見つからないだけかもしれない」「亡くなってしまったのかもしれない」という可能性が捨てきれません。 ○初の乳母 御健在でしたね。 初の乳母は、おそらく生まれてから初も江も大蔵卿局が養育していたと思っているのですが(離れ離れになっていない限り)、やはり婚礼時には京極家の妻となるわけですから、相応の女性が乳母役として用意されたと思います。 ただ、此の人は長生きしなかったと思われます。 初の侍女として有名な女性たちの中で、筆頭侍女といわれる小少将は天正十七年、十三歳のころより初に仕えた女性だったそうです。彼女は初に代わって大坂城や江戸城など各地に使者として行き、その働きは茶々の大蔵卿局を彷彿とさせます。 若い侍女がこのような役割をしていたということは、おそらく初の乳母役として婚礼に従った女性は早くに亡くなっていたのでしょう。「うめ」さんのような女性はいなかったのだといわざるを得ません。 もしも長生きして活躍していたら、初の墓所を囲む中にお墓があったでしょう。 ○三姉妹の物語? 「江紀行」で三姉妹の肖像画を出して、三姉妹の物語として締めた感がありましたが(そのうち二枚は怪しい肖像画ですし…)、それにしては姉妹の絆を示すエピソードをスルーしすぎです…もっと丁寧に三姉妹を描いてほしかったです。 特に、紀行に出てきた養源院のエピソード。反豊臣の時勢のなか、廃絶から守った江の活躍は、姉妹の絆の総集編を流すにふさわしいシーンだったと今でも思っています。紀行でお茶を濁されてしまって残念です。 ツイッターでも書いていたのですが、折角前半をあのようにぶっとんだキャラクターにしたのなら、後半も変わらぬキャラクターで物語の傍観者にならないでほしかったです。本当に、途中から三姉妹が主役のはずなのに、江をはじめ傍観者に回ってしまって…三姉妹が主役でなくてもいいや、という感じだったのが残念でなりません。 一話は、素敵な長政公で本当にワクワクしました。この調子で、三姉妹を描いて下さったらどんなに画期的な作品になるだろうと、それまでの不安が吹っ飛んで楽しみでいっぱいでした。 もう一度、秀吉の晩年辺りからでいいので、作り直してほしいです… これで二度と大河という舞台で三姉妹が描かれる機会が無くなるなんて、残念すぎます。 茶々・初・江の三姉妹は、時代に翻弄されて、それぞれの居所は敵味方に別れてしまったけれど、そんな中でも絆が途切れることのなかった、とても素敵な姉妹です。 私が今年各所で使わせていただいた言葉…「戦でも絶たれることのなかった三姉妹の絆」、これを描いていただけると嬉しかったです。
Posted at 2011.11.29 Category : ∟つぶやきまとめ
Posted at 2011.11.28 Category : ∟つぶやきまとめ
『妙心寺史』に織田犬の二女継光院が森山の局と称して江、続いて子々(前田利常室)に仕えたとありますが、これは江と子々の繋がりを示す手掛かりにはならないものでしょうか。 posted at 22:41:54 「初め秀頼、生母淀君と大坂に居り、而して嫡母浅井氏北廟(きたのまんどころ)と称して、京師に居り、庶母京極氏、松城君と称して大津に居る。」『日本外史』、いろいろ誤りはあるけど面白いです。「庶母」という言い方はなるほど、と思いました。 posted at 21:59:49 『一話一言』に、「伝通院ハ大権現宮ノ御母公御台方御菩提所也、此寺一一ハ天寿院殿幷妹ハツ君京極宰相ノ室、大猷院殿ノ御二男鶴松君御位牌有之。」という記述があるそうです。やはりかつて伝通院に初(興安院)の位牌もあったんですね。 posted at 21:43:35
Posted at 2011.11.28 Category : ∟史料関係
史料編纂所で書き写してきたものと、『東浅井郡志』収録分を比較。
○馨庵寿松 史料編纂所:「預修馨庵寿松大姉 逆修/浅井千代鶴女/永禄十年二月三日/下野守大方殿」 東浅井郡志:「預修馨庵寿松大姉 逆修/浅井鶴千代女/永禄十年二月三日/下野守大方殿」 赤字の箇所が違います。どちらが正しいのでしょうか。 『東浅井郡志』の解釈では、父の次妻である馨庵寿松のために、正妻蔵屋の娘である鶴千代が供養塔を逆修した…というかなり不自然な解釈になっています。 普通に解釈するならば、下野守(久政)大方殿(母)である浅井千代鶴女が永禄十年二月三日に自らの供養塔を逆修したと読めますので、もともとは「千代鶴」だったのでしょう。 私は、これまで浅井千代鶴と尼子馨庵は別人だと思っていましたが、そもそも馨庵は尼子氏なの?というところにぶつかっています。 彼女が尼子氏出身であるという根拠は『島記録』にある「久政ノ御母ハアマゴノ息女ノ由」という一節だけなんですよね… 馨庵が竹生島を篤く信仰していたことは事実で、尼子氏もまた奉加していることと関係があるのかもしれませんけれど、自らの供養塔の逆修記事によれば、久政生母である馨庵寿松は浅井千代鶴女を名乗っていることは無視できません。 こういうことがあって、私は現在、馨庵寿松=浅井千代鶴女と考えています。 ○二位局? 「松清禅定門霊位/江州北郡渡邊与右衛門殿/天正十年六月五日/摂州大坂二ノ丸ノ内御タケ局ヨリ御立候/文禄三年六月五日」 これは、茶々の女房であった「御タケの局」という女性が、渡邊清という人を追善供養した記録です。忌日をみると、本能寺の変の三日後にあたり、その辺りのごたごたで命を落としたのでしょうか。 この人の子には渡辺筑後守勝、そして茶々の女房であった二位局がいます。 「御タケの局」というのは二位局の名のようです(もしくは母か姉妹で同じく茶々に仕えた人がいたのでしょうか?)。 落城のときに、いろいろ噂のある彼女ですが、秀頼が生まれた翌年には茶々に仕えており、古参の女房であったということは間違いなさそうです。 ○大蔵卿? 「玉巖宗珠禅定門/江州北郡ヲ田ニ村大蔵卿/天正十一年四月二十一日」 「秀譽安誓尼公 逆襲/江州北郡ヲタニ村大蔵卿/文禄三年六月五日」 『高野山浅井過去帳』にある以上、この「大蔵卿」は大蔵卿局のように思うのですが。 小谷の出身で、文禄三年には尼となっていたことになります。 ちなみに、天正十一年四月二十一日は賤が岳決戦があったときで、大蔵卿局は身内をこの日に亡くしてしまったと考えられます。孝蔵主のように尼姿で活躍していたということでしょうか。 千の乳母刑部卿局も、千の身替りで満徳寺で出家した後も「刑部卿局」として千の傍で活躍を続けていたようですし。 ○刑部卿局&くす 『高野山浅井家過去帳』から離れますが、満徳寺関係の史料を見る機会があったのでついでに。 『満徳寺由緒書』には「台徳院様(秀忠)御姫君(千)、大坂御城より一旦満徳寺え御入院遊ばされ、御離縁之御趣意相立、本多家え御再縁遊ばされ候、則御姫君(千)御替ため、形部局(刑部卿局)従。台徳院様(秀忠)御住職仰付られ、中興開山俊長(俊澄)上人と改名」と紹介されています。 刑部卿局を「浅井長政の娘」とする根拠がこの満徳寺関係の史料です。 『満徳寺過去帳』の十二日の項には、「慶安三庚寅五月/満徳寺中興大一房俊澄上/天樹院殿御乳人形部卿事/浅井殿末ノ息女 俊澄ハ刑部卿殿娘」とあり、『満徳寺代々上人法号』には、「満徳寺中興大一房俊澄上人 慶安三庚寅年五月十二日/江州小谷之城主浅井肥前守長政娘/御名郷部局と申上候、」また千の項に「天樹院様御かハリトシテ、浅井肥前守長政公の御息女、郷部卿局殿其カワリトシテ御入寺なされ、俊澄上人ト改」とあります。 結論からいえば、私はこの記述について、刑部卿局と江の混同であろうと考えています。 『満徳寺過去帳』には千の母である江も名を連ねているのですが、(十五日項)「寛永四年丁卯九月/崇源院殿一品大夫人昌誉大禅定尼/秀忠公御袋」とあります。江が亡くなったのは寛永三年ですし、「秀忠公御袋」は「家光公御袋」の誤りでしょう。 「浅井肥前」が「浅井備前」なのはいうまでもなく、江についても記述の不正確さが散見されます。 もうひとつ気になるのは、本当に刑部卿局が長政の娘ならば、過去帳等に長政の名が見えてもいいと思うのですが、私見の限り見つかりませんでした。同じく長政の娘とされるくすが再興した龍澤寺には浅井長政と思われる「浅井太守 天窓芳清大居士」の位牌(「本念宗心大姉」との合同位牌)が安置されています。 話はそれますが、くすは『三方郡誌』に「豊臣秀吉の侍女」、「秀吉の妾芳寿院(寿芳院の誤り)の乳母」と記されていますが、くす自身が発給した黒印状に「京こくさま(「京極様」、龍のこと)御内」とあることから龍の侍女であったことは間違いありません。くすを京極家の娘という伝承もあるようですが、おそらく「京こくさま御内」を誤解したものと思われ、逆にこの文言からくすが京極家の娘ではなかったことがはっきりします。 龍澤寺に豊臣秀吉の朱印状がのこり、また秀吉の木像や位牌があることも秀吉との関係を伺わせられます。 大坂城天守閣の『特別展 戦国の女たち ―それぞれの人生―』はこれらの史料から「秀吉側室松の丸殿(京極竜子)付きの侍女として秀吉に近侍したものであろう」と結論付けています。 ちなみに、この合同位牌、くす木像・発給黒印状、豊臣秀吉の朱印状・位牌・木像などについても『特別展 戦国の女たち ―それぞれの人生―』に書かれています。 実際に一度龍澤寺を参拝したのですが、その時にくす木像、秀吉木像、合同位牌、くす位牌、秀吉位牌を実際に拝見しました。他に、徳川歴代将軍合同位牌(「東照大神君(家康) 台徳院殿(秀忠) 大猷院殿(家光) 厳有院殿(家綱) 常憲院殿(綱吉) 文章院殿(文昭院殿、家宣) 有昭院殿(有章院殿、家継) 有徳院殿(吉宗) 淳信院殿(惇信院、家重)」)、歴代小浜藩主合同位牌(「空印寺殿(酒井忠勝) 広徳院殿(?) 有厳院殿(勇厳院、酒井忠直) 高台院殿(酒井忠隆) 放光院殿(宝光院、酒井忠囿) 霊苗院殿(酒井忠音) 実相院殿(酒井忠存) 霊岳院殿(酒井忠用) 樹徳院殿(酒井忠与)」)が祀られていました。当時お寺の方が後不在で、門徒の方に入れていただいたのでお話を伺うことができなかったのですが、過去帳などは残されていないのでしょうか。龍や父母の戒名など、残されていないか気になります。 失礼いたしました。くすについて、ちょっと気になるところがあったのでついでに。 一時、くすが転身して刑部卿局となったのだろうかということも考えたのですが、戒名も違いますし、それは無理がありますね。没年などはっきりすればよいのですが。 …とそういうわけで、満徳寺で刑部卿局が長政を供養したらしい跡が見えないのがひとつ。 千は早くに寡婦となり、秀忠の嫡女として徳川家で大きな影響力をもつ存在となります。刑部卿局はそんな千の傍で長く仕えていました。 その割に、江の姉妹という情報が満徳寺の記述以外に全く見られないことにさらなる不自然さを覚えます。 江の姉妹であれば千にとっては実の伯叔母にあたるわけで、そのような近しい女性が乳母となることも他に例のない不自然なことです。また、兄弟姉妹でなくとも、同族というだけで三好直政は江に憚り浅井姓を捨てたというくらいに、江の同族、外戚であることは重大なことでした。しかし、秀忠の嫡女の乳母という立場にありながら、刑部卿局についての記録には江との関係性が全く見えてきません。 最後に気になるのは満徳寺の記述にみえる「浅井殿末ノ息女」という書き方です。 長政の末娘は他でもない江その人です。小谷生まれか、岐阜生まれかという争点があるほどに、江は小谷落城と前後して生まれました。もちろん長政は、江が生まれた年の九月一日まで生きていたわけですから、ギリギリに別の女性が懐妊したとして翌年生まれたとすれば江より遅い生まれにはなります。なりますが、「末ノ息女」と言い切るからにはご落胤のような認知されない存在ではなく、江のことを指しているように私は思うのです。 これらの理由と、江についての記述の不確かさから、刑部卿局が浅井長政の娘であるという伝えは、江の出自と混同したものであると私は考えています。
Posted at 2011.11.27 Category : ∟つぶやきまとめ
小浜藩酒井家歴代当主の院号を調べるために『真宗山元派本山證誠寺史』をみていたら、「万里小路前大納言政房卿祖先充房卿御簾中者、秀吉公姫君ニテ、第十二世善光上人者、太閤御孫なり」という記述が。摩阿のことですが、養女分で嫁いだということでしょうか。善光は摩阿の子?いろいろ興味深い… posted at 22:55:30 @hanahime8787 若狭藩酒井家五代の院号が載っていただけでした。證誠寺に安置された位牌についての記録です。残念ながら戒名まではありませんでした。院号については、実は次回更新の際に記事に書かせていただいています。wikiに載っていない代の院号もありました。 posted at 01:52:48
Posted at 2011.11.26 Category : ∟江 姫たちの戦国
江が駿府に行ったことには、本能寺へ向かったり小田原に行ったりしていた往時の江を思い出します。
劇中の江ならば、朝鮮出兵時の名護屋にも、大坂の陣のときの大坂にも来そうなキャラクターでしたが、個人的にもし江がいたらどうなっていただろう、と興味をひかれるところにだけは江は来ませんでした。ちょっと残念です。 ○民部卿局 折角なので、民部卿局について。 福田千鶴先生が『江の生涯』で民部卿局と京殿は同一人物か?という可能性を提示されています。 『武功雑記』では秀忠の近くにいた女中として「御北殿、京殿、西殿、阿波殿、民部卿」…と、京殿と民部卿局が並行して登場します。 『武功雑記』は元禄九(1696)年成立だそうで、一次史料ではありませんので、これを以て断定はしかねますが。 江の乳母といわれますが、民部卿局に江の乳母と注記されている史料は一時史料でも編纂史料でも見たことがありません。 茶々の乳母が「大蔵卿局」、千の乳母が「刑部卿局」というので、そこから民部卿局は江の乳母では、という推測に留まります。 何度か書いていますが、乳母といっても、誕生時からの乳母というのではなく、婚礼に際し側近の女房として選ばれた女性であったのではと考えています。公家の女性で江に仕えた女性がいたようなので、民部卿局もそのような女性だったのかな、と想像しています。 ○ごう 後日改めて書きますが、千や乳母の刑部卿局に縁の深い満徳寺の史料を見ていました。 過去帳に将軍家の女性の名前が多く見えるのですが、その中に秀忠生母がありました。 (十九日項)「宝台院殿松誉貞樹大禅定尼/天正十七己丑年五月/西江殿」 「西江殿」とかいて「さいごうどの(西郷殿)」と読ませていることに、特に関係はありませんが江を「ごう」と読むことを連想して面白く思いました。 個人的に、家康の「何代も続くであろう」というセリフは、いつもの預言めいたな台詞で、ちょっと興ざめでした。 それにしても江の娘たちの影が薄いです。折角姫視点なのに。年賀の席に、和子いましたっけ…?せめて初(常高院)がいるのだから、初(興安院)はちらちら登場すればいいのに… 明日最終回ですね。養源院…出てこないだろうなあ… そして、感想記事に書くネタがあるかどうか…大問題です。
Posted at 2011.11.25 Category : ∟史料関係
![]() ○龍の供養と誓願寺 「大閤北御方佐々木京極女御」こと龍が再興に尽力し、帰依した誓願寺の過去帳。 一日の頁、「寿芳院殿月晃盛久禅定尼 寛永十一年甲戌九月」 大坂落城から時がたち、表の世界からは身をひそめた彼女が亡くなった日付が記されています。 墓所はかつて誓願寺内の塔頭竹林院にありました。 そこには東向きに並んだ三基の碑石があったそうで、南から茶々、龍、国松と並んでいたようです。 三基のうち、茶々のものは残らず、龍・国松の墓は明治三十一年の秀吉三百回忌の際、かつて豊国神社の広大な社域であった現豊国坦に改葬されて現在に伝わります。 龍の墓には表面に「寿芳院殿月晃盛久/佐々木京極女二世安楽」、左側に「元和元年□月十五日」と刻まれていたそうです。 この日付は龍の没年月日とはあわず、また龍(「佐々木京極女」)が「二世安楽」(現世と来世の安楽)を願った作ったとされていることから、逆修(生前に自ら作ったもの)であったと思われます。 ○龍による国松・茶々の供養 誓願寺の過去帳の二十三日の項には「漏世院殿雲山智西大童子/秀頼公ノ息 元和元乙年五月 寿七歳(八歳の誤りか)」とあります。これは大坂落城後に捕らえられ斬られた秀頼の庶長子国松です。 六条河原で無残にも、しかし堂々と亡くなった幼い若公の幼い遺体に手を差し伸べたのが龍でした。龍は誓願寺で懇ろに国松を供養し、国松が自分の死後も弔われるように、国松の墓の隣に自身の墓を造営したその日がおそらく元和元年某(七~十二)月十五日だったのでしょう。 竹林院にあったという茶々の墓については詳細が不明です。供養塔であったのか、茶々の勧めなどで龍のもとへ逃れた侍女たちが形見や遺髪を届けたものを納めた塚であったのか、想像はつきません。おそらく同時期に龍によって造営されたものでしょう。ここからも茶々と龍、二人の関係も偲ばれるようです。 さすがに茶々の墓碑が江戸時代を無事やり過ごし現代に残らなかったのは無念としか言いようがありません。 ○龍の晩年の呼称 さて、龍といえば、吉田社へ参詣した寛永六年の記録が(『舜旧記』)私見ではもっとも晩年の記録のようですが、こちらでも「松丸殿」と記されています。 亡くなる五年前のことで、龍が伏見城松の丸に住していた時代からかなり下っていますが、生涯龍が「松の丸」の号で呼ばれ続けていたことが分かります。 ○龍の晩年の活躍 ただ、龍が晩年まで表の世界でも健在だったかというと、私はそう思いません。 『大猷院殿御実紀』では寛永三年正月六日の項に『東武実録』をひいて、「松の丸(京極宰相高次内室。大御台所御姉)方より歳首を賀して。小袖二襲ささげらる。」という記録が見えます。 また、寛永五年二月三日の項には、同じく『東武実録』をひいて、「京極宰相の後室松丸の方より。歳首の賀として時服を献ぜられれば。御内書をつかはさる。」とも見えます。 二つの記録に誤りがあることは言うまでもありません。 「松の丸」ならば京極高次の妹で豊臣秀吉の後室です。「京極宰相高次内室。大御台所御姉」ならば常高院のことです。両者ともに、この二人が混同した記事というわけです。 であれば、この歳首を賀した人物は誰か。私は、これは常高院の事蹟だと考えます。わざわざ「京極宰相高次内室。大御台所御姉」、「京極宰相後室」とその身分を明かしてくれているからには、間違いないでしょう。 江の生前から大奥に出入りし、甥の家光に何くれとなく世話を焼いたりしたであろう常高院が、マメに歳首を賀すことはとても自然なことです。むしろ、これを龍の行跡としてしまい、初が家光に行った歳首の賀がなかったとされるほうが不自然です。 重大なことに、寛永五年の件は大日本史料稿文でもひかれていて、データベースで検索すれば、この年に「家光、豊臣秀吉側室松の丸殿の年始の祝儀物を進めしを謝す」と出てきます。 これでは、まさに徳川は豊臣の茶々と秀頼だけを滅ぼし、あとはよろしくやっていたと思われても仕方ありません。 寧は御台所江の養母として厚遇されていましたが、基本的に豊臣系の寺社(豊国神社、祥雲禅寺、瑞龍寺など)や人々は不遇な扱いを受けたことが少なくなかったわけです。 そのときも、龍はひっそりと西洞院の屋敷と誓願寺を通いながら、亡き人たちの菩提を弔いながら生きていたことでしょう。 ○落飾 「北政所」と号されてい寧は、落飾を境に「高台院様」と呼ばれるようになります(「北政所様」「政所様」も根強いですが) 龍は生涯「松の丸」と呼ばれ続け、墓碑が完成した時期には「寿芳院月晃盛久」という戒名を頂いていたようにもおもうのですが、「寿芳院」と呼ばれることはありませんでした。誓願寺に伝わる龍の肖像画は出家の姿ですが、これが寿像であったのか、いつの時代の龍を描いたものなのかがはっきりしません。 私は、寧や茶々、龍は同時期に飾をおとしたのではないかと考えています。 寧は院号を勅許されたこともあり、「高台院」の名で呼ばれる機会が多く、出家の有無は明らかです。 茶々や龍は晩年まで落飾したことが分かる号で呼ばれることはありませんでした。 一方龍は誓願寺に出家姿の肖像があります。茶々にはこれはありません。肖像とされるものはいくつかありますが、どれも伝承の域を出るものではなく、当時の茶々の衣裳に対する配慮とは全く違った肖像ばかりです。 晩年まで「松の丸」と呼ばれても、出てくる記事は秀吉の供養など。家内の後家の仕事です。 若くして夫を失い、方や「御上様」「御袋様」と呼ばれていることから、落飾が許されなかったとか、家康への再婚がすすめられようとしていたとか、大野治長と駆け落ちしようとしていたとか、とんでもないうわさに振り回されてしまい、方や同じく「松の丸殿」と呼ばれ続ているのに身辺がされることもなく出家したのだろうと受け入れられ… そんな龍のことをぼんやり考えていた一日でした。 ○蛇足:誓願寺の寄進記録 誓願寺ついでに、三姉妹が誓願寺に寄進をしたという件ですが「岐阜宰相御簾中」が江という点は大丈夫だと思われます。しかし、「御茶様」が茶々、「大津様御局」が初とされるのは正しくありません。 この時期の茶々は「若公御袋様」「淀の上様」「大坂二の丸様」などと呼ばれるべきで、名指しで記されたものは夫である秀吉からの音信以外にありません。「茶々」を「御茶」と略称している例もほかにありません。 この「御茶様」は茶々ではない別の女性です。ちなみに、豊臣家には「茶阿」という女房名の女性がいます。不躾な名指しは、女房名を疑うと良いかもしれません。 そして、「大津様御局」についてですが、この寄進が行われた天正十九年の時点で京極高次は大津城主ではありません。ですので、「大津様御局」が初であるはずがないのです。 この三名を三姉妹と比定し、寄進の順番に気を配っていらっしゃった本を拝読したことがありますが、そもそもが江以外別人ですので、成り立たないわけです。
Posted at 2011.11.24 Category : ∟つぶやきまとめ
太田浩司氏『浅井長政と姉川合戦』。「あざい」or「あさい」、市と三姉妹の小谷脱出、江の岐阜出生説、姉川合戦などに対する見解、実宰院に関わる「伝承」などが取り上げられています。おおむね、普段太田先生が話されていることですが、こうして本にまとめられると改めて確認できていいですね。 posted at 19:28:41
Posted at 2011.11.23 Category : ∟つぶやきまとめ
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