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2011年10月 | ARCHIVE-SELECT | 2011年12月

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[Twitter]史料

『烈祖成績』には、「大虞院 関ヶ原記大全、大虞院秀頼所生浅井氏、淀殿ト世称ス、秀吉公薨後大虞院ト号ス」となっております。秀吉の薨去後落飾して「大虞院」と号していたのではないでしょうか。相変わらず周囲からは「御上様」「御袋様」と尊称されますが…


posted at 01:48:55


〔『徳川和子』〕京極忠高の継室となった円光院文英についても。後水尾天皇に仕え、後の後光明天皇を生んだ壬生院光子の妹で、最初中和門院(近衛前子)に近侍したのちに、忠高の継室となったが、ほどなく忠高が歿したために薙髪して京にもどったようです。


posted at 01:13:06


『徳川和子』を見ていました。あまり出典が載っておらず確かめられないのですが、寛永六年四月十一日に皇子高仁親王(真照院)、光融院、そして崇源院(江)のために密かに相国寺衆に施食を行ったそうです。養源院の件を考えても、江―和子ラインは固いとやっぱり思います。


posted at 01:06:55


私は茶々姫研究がメインですが、井口阿古―茶々―完子のラインと、大蔵卿局、海津局と饗庭局姉妹周辺を最近本気出して調べています。というわけでさすがに源平は語れません…あの辺は見るほうが楽しいです。今年からの流れでお話を頂くのですが、どうやって断ろう…


posted at 01:02:18


論文中の過去帳の写真で、市の戒名が見切れていました。(二十四日条)「自性院殿松月宗貞大(姉)/天正十壬年四月/名ハ於市女歳三十七才」。三姉妹の祖母井口阿古さんの供養の様子も知りたい…阿古さんの画像眠っていないだろうか。


posted at 00:59:13


お世話になっている方に、養源院関係の論文を頂きました。養源院には「養源院過去帳」のほか、「養源院御由緒書」というものも残っているんですね。是非いつかお目にかかりたい…。


posted at 00:58:17


余興であったという解釈はとても面白く思います。それが真実であったかどうかまでは断言できませんが、引用させていただいた部分については、全面的に肯定します。話を広げられたところにも、豊臣家の女性たちの覚悟にも。


posted at 00:50:43


諸田玲子『美女いくさ』/「その場にいなかった下級の者たちが噂を小耳にはさんでおもしろおかしくいいふらしているようだが、若い頃ならいざ知らず、この期に及んで競争心をむきだしにするほど女たちも浅はかではなかった」醍醐の花見の盃争いを、茶々と龍の余興と解釈したのはこの小説だったんですね


posted at 00:49:29


寛永五年二月三日、家光が龍からの年頭の進物に礼書を発した件(『史料綜覧』)について、『徳川実紀』を見てみると「京極宰相の後室松丸の方より」とあり、龍と初の混同が見えるわけですが、どちらかというとこれは「松丸の方」=龍ではなく、「京極宰相の後室」=初のことじゃないでしょうか?


posted at 00:50:54

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見逃していた京極龍関係記事~龍所用具足など

茶々姫をたどる汐路にて
龍の最初の夫武田元明の墓(海津宝幢院)

高次の姉(妹とも)竜子の特設展 小浜・若狭歴民で足跡たどる
(2011年8月11日午前11時42分)

 福井県立若狭歴史民俗資料館が所蔵している貴重な文化財を限定公開する特設展「初と京極高次」が10日、小浜市の同館で始まった。高次の姉(妹とも伝わる)竜子(松の丸殿)が着用したと伝えられる具足や、竜子と深いかかわりのあった一族に関する資料を展示。竜子が小浜に残した足跡をしのばせている。

 同館は浅井三姉妹の次女お初(常高院)や夫の高次、竜子が登場する今年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の放送に合わせ、お初や高次にまつわる資料の展示を1月から始めた。来館者から「ほかの資料も見たい」との要望があったことから、竜子に関する資料も加えて計17点が並んでいる。

 竜子は若狭を治めた武田元明に嫁ぎ、3人の子どもをもうけたとされる。本能寺の変で明智方に味方した元明が自害させられた後は、豊臣秀吉の側室となった。秀吉が没してからは高次のもとに身を寄せ、関ケ原の戦いの際はともに大津城に籠城(ろうじょう)した。また小浜市の神宮寺に10年ほど住んだ時期があり、出産の際に産湯に使ったと伝わる井戸が地元に残っている。

 竜子が着用したとされる具足は、同寺の近くにある河野家が伝えてきた。同家は竜子が頼りにしていた地元の有力な一族。具足の胴の周囲は1枚の皮で作られ、右脇のみが継ぎ目になっている珍しいつくりで、同館によると、現存している室町時代の同様の具足は数少ないという。胴には同家の家紋が入っている。同家に伝わる徳川家の家紋のある熨斗目(のしめ)や、同家あての書状もある。

 このほか、お初の菩提(ぼだい)寺である常高寺を開山した槐堂(かいどう)周虎和尚が、師の雲居希膺(うんごきよう)和尚から弟子の証しとして贈られた袈裟(けさ)など、お初や高次に関係する人物の資料も展示している。

 特設展は9月13日までで、竜子にまつわる資料の展示は24日まで。25~9月3日はお初の直筆書状と袈裟、4~13日はお初の別の直筆書状と地蔵十王像を展示する。同館はお初や高次に関する資料の展示を11月末まで続ける予定で「今後はお初の侍女たちにまつわる資料の展示なども行いたい」としている。

残念ながら、展示が追加されているのを知らず、見損ねてしまいました…
しかしいくつかは丸亀で拝観出来ましたので、幸運でした。
とくに具足について詳細が書かれた記事です。

弘誓寺観音像、33年ぶり本開帳 若狭町、京極竜子とゆかり
(2011年9月16日午後7時11分)

 浅井三姉妹のいとこ、京極竜子(松の丸)とゆかりが深い福井県若狭町東黒田の弘誓寺(ぐぜいじ)で16日、観音堂本尊の菩薩坐像(ぼさつざぞう)が33年ぶりに本開帳された。厳かに法要が執り行われ、区内や近隣の檀家らが手を合わせた。法要や関連行事が18日まで行われる。

 開帳されたのは、町の文化財に指定されている「如意輪観世音菩薩坐像」。公開期間が短い半開帳は17年前に行われているが、本開帳は1978年以来となる。

 この日は、近隣の曹洞宗の寺の住職や僧侶らが集まり、午前10時から法要が始まった。普段は閉ざされている厨子(ずし)が開けられると、観音像が姿を現した。読経に続き、区内の児童3人が観音像などの由来を紹介する「縁起拝読」を行った。区民だけでなく、近隣の寺の檀家らも訪れ、鈴を鳴らしながらの「梅花奉詠」など一連の仏事が進められた。

 弘誓寺は大同年間(806~810年)の創建とされ、若狭観音霊場第八番札所にもなっている。戦国の世に生きた竜子は、浅井三姉妹の父である浅井長政が叔父にあたり、若狭守護だった武田元明に嫁いだ。次男の源治郎は同寺に隠匿して養育させたと伝えられている。観音堂は竜子が寄進した浄財を元に建立されたという。

 17日には法要のほか、地元女性らによる江戸時代の料理再現や、山車曳(ひ)きなどが関連行事として行われる。18日も法要が営まれる。

京極の系図などでは、京極家の女性がよく「たつ」→「龍子」「辰子」、「はつ」→「初子」、「宮」→「美屋子」、「いち」→「伊智子」「伊知子」となっているので、龍子もやっぱり龍にしたほうが浮かなくていいと思うのですが。
それはそうと、龍もなかなか注目される機会の少ない女性ですので、これを機会に縁の場所が知る機会を頂けるのはありがたいことです。

ところで、龍が産んだ二子が木下家の長男・次男になったという話は何がもとになっているのでしょうか?
出生年などから、これらはおおむね否定されているようですが、そもそもその話がどこから出てきたやら、と首をひねっております。

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浅井三姉妹 初と京極展

春に見に行った若狭歴史民俗資料館の展示物を中心に見ることができました。

○江の手紙

徳川初(「御ひもし」、「若さ御ひもし」)宛書状。
新発見とありますが、「つま」と署名した書状として一部で知られています(福田先生の講演でも取り上げられていました)。
この書状から、「京極御系図」の江が「つま」と改名した説が採られていると思われます。

学芸員の先生は侍女の名を借りたのでは、とも仰られていましたが、どうなんでしょうか。
茶々の「あこ」、龍の「まん」、江の「つま」と侍女の名を借りたとする説をとるものは三例ありますが、どれも茶々があこの名を借りて出したという仮説を肯定した上での説です。この件が疑問視されている以上、侍女の名を借りた説を採るのは危ういように思います。

茶々の書状については、桑田忠親先生が署名を「あこ」と読み、福田千鶴先生が「よと(淀)」と読まれましたが、「あこ」説はまだまだ根強いようです。しかし、書状の中で秀頼を呼び捨てで書いてあることは、侍女の名で書状を出すにしては不自然な点で、茶々の直筆とする根拠の一つとなっています。

今回の江の書状については、「とゝ様も我身も、そくさいの御事にて候まゝ」と、「我身」という言葉を使っているところが江の自筆書状であるように感じました。

○京極龍

龍については、雛皮包一枚胴具足(伝松の丸着用)、『山路秀正等連署状』が出ていました。

具足はいつかブログで取り上げた龍のものと言われる具足です。めったにお目にかかれない貴重なものです。
武田元明とともに身を寄せていた若狭の旧家に伝わるもので、実際龍が身にまとったとすれば、その由来から武田元明の妻だった時期に身に付けたものが伝わったか、もしくは大津城籠城のときに身につけたものが、高次が若狭に転封となった後に下げ渡されたものだろうと考えています。

山路秀正等連署状は、龍の意向によって土地の保障を認められた旨の書状ですが、慶長十年八月二十八日付のこの書状でも龍は「松之丸様」と記されています。
龍が伏見城松の丸に住んだのは一時のことでしたが、龍は松の丸から移住して後も長く「松の丸」の号で呼ばれていたようです。

○常高院

常高院関連の、こちらも滅多に御目にかかれない史料が展示されていました。
当然活字化もされていないので、このような機会でもなければたとえ一部でも見ることができないというのはもどかしい限りです。
複写でも、写真でも、全文見ることのできる機会がほしいです。ガラスを隔てた目の前に実物があるのに…

>『凌霄開山和尚伝 附開基伝』(江戸時代)
「栄昌公(常高院)ハ正親町院御宇永禄十一年江州小谷城ニ於イテ誕生。小字ヲ御鐺君ト云フ。父ハ浅井備前守長政、母ハ織田信長卿ノ妹於市ナリ」
「第三姫ハ佐々木京極大津宰相高次公ニ嫁ス。即チ栄昌公也」(本文は前頁に渡っているため確認できませんでしたが、「第一」が茶々、「第二」が江となっているようでした)
「豊臣秀吉、高次公ノ婦トナサシメ、容端麗、婦徳柔順ナリ」
「栄昌公内営ヲ守ル。矢砲飛テ両袖ニ中ルトイヘドモ、婉柔ノ姿ヲモノノカズトセズ、武烈ノ志ヲ奮ヒ、仁ヲ以テ物ニ向行キ艸偃或ハ近宦ノ女ト飯ヲ炭キ、水ヲ汲ミ、諸軍ノ飢渇ヲ弼ク。」

手書きで写したので、誤りがあったらすみません。
若狭歴史民俗資料館の有馬先生が仰っていた「常高寺関係の史料」がこの史料だったようです。若狭歴史民俗資料館でも展示されていましたが、違う頁でした。当時、本文を書き写さなかったのですが、常高院が茶々(「阿姉」)や千(「令姪公」)と落城を共にするつもりだったものの、家臣に諌められ城を脱出したという箇所が開かれていたようです。ここでも何度か取り上げています。

>『若狭守護歴代禄』(文化八年)
大坂の陣について『凌霄開山和尚伝 附開基伝』を元にしたと思われる記述がありました。
「慶長二十年之乱戦、栄昌ナホ浪華城内ニ在リ、落城ノ覃、阿姉並令姪公等列座高僧ト同ジク焼滅ヲ誓ヒ、少シモ動カズ。臣某ニヨリ屡シ嫌諌シテ石辟陥穽ヲ超エ万軍之最中ヲ脱ス。(中略)栄昌公若州ヘ帰リテ休雲濱城之西丸ニ棲ム。□歳、又東武江ヘ遊ビ、偶大将軍秀忠卿家光公ニ謁ス。和睦偽謀之事、半ば恨ミ半バ欣ブト話ス。」

>『系譜 自高和公 至高中公四代』(寛政四年)
「常高院ハ大御台様崇源院様御姉、又初姫君様台徳院様姫君興安院殿ハ京極若狭守忠高室」

>『京極家物語書留』(明治十六年写)
「大津御篭城之時、常光院様とも殊ノ外御働キ遊バサル。女中御手相手ニ鉄砲の玉を御手御鋳リナサレ、鉛ノ足にて錫之御道具を遊バサレ候テ、其の後城之道具にも錫之道具に過たるものハ無シとの御意にて、若狭にテも錫之道具多く御扱なさるべき旨申シ伝へ候」

>『佐々木京極家記録』(江戸時代)
(忠高)「母贈大納言浅井備前守長政女名初子薙髪後号常高院也」
この記録が編まれた時点で「初子」という名で記されています。逆に、「初」の名が記されている史料は今回これだけでした。

>『御朱印御系図并御道具』
「大津御篭城之時常高院様より京極修理様江発進し候御文三ツ」
「大御台様より興安院様江発進し候御文二通」

後半は今回公開された「つま」書状のことのようですが、前半によると、常高院から義弟京極高知に送られた文が三通京極家に伝わっていたようです。現存していないようなのが残念です。

○浅井作庵

弟作庵について、パンフレットで「淀殿并関東大御台所ノ連枝」という記述のある『武徳編年集成』を紹介し、経歴を詳しく紹介しています。

展示されていた『難波戦場冬の陣図』では、生玉口に「浅井周防守」の名前が見えました。
先日姫路で見た岡山大学付属図書館蔵の『大坂夏之陣図』では、勝山の辺りに「浅井周防守」の名前が見えましたが、冬の陣図では作庵を確認できませんでした。今回は、冬の陣図で確認できましたが、夏の陣図(丸亀市立資料館蔵「大坂夏の陣絵図」)で確認ができませんでした。

また、『玄要寺過去帳』が展示され、寛文元年五月十六日に「禅徳院殿実岩道意居士 京極作庵公」の記載がありました。玄要寺に墓所があるとも言われますが、実際に現存しているものは子孫の墓のみで、作庵の墓所は現在確認することはできないそうです。実際に玄要寺墓地で探してみましたが、だいぶ荒れてしまっていることもあり、残念ながら見つけられませんでした。

○京極高政・高和の生母

高次の次男、高政の生母は小倉新兵衛の姉で、常高寺では「安毛」という名で記されていました。
今回、資料館に展示されていた系図に「梅野」と記されていたため、学芸員の先生にお尋ねしたところ、『村松家文書覚書』という史料によるものだそうです。
同史料によれば、高和の生母は本庄氏の女で「小泉」とあるそうです。この女性は『御記録控 自高和公 至高中公』にも見え、「母ハ家女房 名ハ小泉 本庄氏ノ娘 延宝四丙辰年七月廿三日死去 法名玉泉院玄清日證」とありました。

○京極伊知子

京極忠高の娘で、多賀常良の妻。子高房が一時高和の養嗣子となった女性です。
『玄要寺過去帳』の万治三年四月二十七日に「寿昌院殿茂林宗繁大姉 多賀七良右衛門内室/伊智子」とあり(『佐々木京極系図』では「寿性院」)、夫妻の墓所が玄要寺墓地に現存します。

そういえば、若狭地方では長女を「いち」といい、次女を「はつ」という話を伺いましたが、この伊知子も同時代的には「いち」だったと思われ、この話を思い出しました。

徳川初が「初」だったのは、常高院が自らの名を譲ったといわれていますが、長女=古奈、次女=初だったのだろうか…とちょっと考えておりました。

○パンフレット

解説では主に通説が採用されていました。
・龍が茶々と醍醐の花見で盃を争ったこと
・高次が関ヶ原合戦で豊臣と徳川を天秤にかけた末に徳川へついたこと
・高次が東軍へ翻意した際茶々が慌てて使者を送ったがこれと会わなかったこと
・大坂の陣で「姉淀殿と妹江が対立を余儀なくされ」たこと

お話を聞いていて、初や江については大河で取り上げられるまでほとんど研究されてこなかったけれど、茶々は既に調べつくされているというようなことを仰っておられました。
初や江に比べれば、確かにそれはそうなのですが、多くは最初から批判的な目線で論じられ、公平に理解されているとは思えません。茶々の実像に迫るには、その重ねられた成果以上にうず高く積った誤解に阻まれ、初や江よりもかえって理解することは難しい人なのではないかと思います。
初や江の研究がまだ始まったばかりなのだとしたら、初や江から見た茶々を知る機会もまだまだあるということだと私は思っています。血を分けた姉妹ですから、実像や人となりを知るという意味ではより重要な手掛かりが眠っているのかもしれません。

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[Twitter]丸亀

茶々を勉強していると言うと、茶々は調べ尽くされているよね~という反応をされてしまいがちです。でも、正しく評価されている気は全くしません。もちろんわたしも。


posted at 13:47:28


丸亀資料館の展示を見てきました。これから玄要寺の墓所にお参りしてきます。ご住職がお留守で、本堂をお詣りできないのは残念です。


posted at 13:44:33



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[Twitter]愚痴いろいろ

@maacccooo そうなんですか!いいなあ。わたしも一度お参りに行きたいです。


posted at 23:18:53


@hervorruf はい、とっても残念でした。朝廷が出てきたときに、お寧さんがくるかと思ったのですが…お寧さんなくして秀頼の関白就任の希望はなかったと思います!


posted at 23:15:38


北野社は、まずお寧さんの御声がかりがあって、それに応えて茶々が秀頼の名で行った作事です。当時の豊臣家の関係が良く分かるいい事例なんです。東寺も、金堂を秀頼が、隣の講堂をお寧が再興しているんですよね。茶々と秀頼の二人三脚ではなく、お寧も含めた三人四脚の場面がたくさんあるんです。


posted at 23:12:26


やっぱり、どうしてもテーマによってある程度都合のよい史料に固まってしまうから、批判というか、検証が必要になりますよね。どういう史料、というところをあまり説明しないテレビなどでは、ついこれが真実!と語りがちですが。


posted at 23:07:22


@yukufumu そうなんですよね。結局戦記などしか残っていないから、本当はどうだったかという確定は難しいんですよね。どういう立場で、どういう意図で書かれたものか、気を配らなければいけないので大変です。


posted at 23:05:04


最初に「お江ちゃん」が茶々についていろいろ言ってくれてたのは良かったです。そうだそうだ!とテレビに向かって同意しておりました(笑)


posted at 23:01:11


二条城会見も、当初茶々が会見を拒んでいたことに対しよく批判されますが、結局会見が実現して、家康が成長した秀頼を見たがために豊臣家の行く末があぶなくなったのだから、茶々の考えは間違いではなかったと私は思います。


posted at 23:00:13


あれじゃあ真田さんの作戦を茶々がフイにしてしまったと反感を招くではないですか…!確証のあるマイナス要素以外入れるのやめてください(><)あと、「伝淀殿像」で茶々の容姿を語るのも説得力がないので勘弁してください。


posted at 22:55:11


茶々が秀頼の出陣を拒んだって話はどれから引っ張ったんだろう?秀頼が「討死する覚悟だった」と載せているのは『豊内記』ですが、こちらでは速水守久が既に敗色が濃く、無謀な出陣となるので「出陣の機にあらず」と秀頼を止めているのですが。


posted at 22:53:30


@ranranren33 『武功夜話』という本にあります。一次史料ではないですし、偽書扱いする方もいて、信憑性が高いとは言えないのですが、信長関係で好んでは利用されている史料です。


posted at 22:46:45


養源院の「淀殿画像」について、検証の結果浅井吉政…だったかの夫人画像と推測される旨の記述を見た覚えがあるのですが、どこで見たのかさっぱり思い出せません…どこだったかな…此処かな…?うーん。


posted at 21:32:19


メモ:〔養源院過去帳・位牌〕浅井吉政(「英峯院俊嶽義雄居士」)、政堅(「超勝院建誉空山居士」)、利政(「見松院常和不寒居士」) t.co/9I5dWUSz


posted at 21:27:11

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第四十四話「江戸城騒乱」【大河ドラマ感想】

九話ぶりの感想です。久しぶりにオンタイムで見ました。
前回大坂の陣が終わったので、気楽に見ることができると…安心は気が早かったようですが。
我ながら茶々がメディアで扱われることに怯えすぎですね(苦笑)

○茶々から江への書状

現在、処分されてしまったのか茶々と初、江の間で交わされた書状はほとんど残っていません。
ただ、初の侍女小侍従は何度も三姉妹の間を往来していたといいますし、江が茶々の依頼を受けて家康に働きかける様子や、江の出産の報を受け取る茶々など、絶えず交流が続いていたことは間違いありません。
「茶々や千と心中するつもりであった」とも言われる初ですが、秀頼にそれを許されず、落城直前に家臣に担がれるようにして城を出ました。
千は退城の際、秀頼の直筆神号を胸に抱き、秀頼の陣羽織を送られ、それを抱いて脱出しました。
初もまた、姉の形見をいくつか持っていたのでしょう。江への手紙がその中にあったとしても、私は少しも不思議に思いません。

署名が「よと」でなく「ちや」だったのは良かったです。
しかし、あの内容はかなりいただけません。
おおむね「戦を招いた私が悪い」、「家康・秀忠はやるべきことをやっただけ」、「徳川を恨むな」というような内容だったかと思いますが、なんという都合のよい内容…茶々ファンから言わせていただければ「そんなばかな」って話です。
茶々は秀吉が亡くなってから十七年間戦を回避したんですよ?
冬の陣の講和をはじめ、茶々からすれば徳川方の対応に騙されたと思った部分もあったはずです。
茶々は茶々で、自分の信念があってあのような結果となったのだから、自分が悪いと言ってほしくなかったし、鐘銘事件や講和問題など、家康や秀忠の非道を責めるべきだったはずです。そのような状況でも、姉妹の仲が揺らぐことがなかったことが、三姉妹のすごいところなのに。
泣き所だったのかもしれませんが、テレビを前にポカンとしてしまいました…

○「元和」

ドラマ上でも、一般的にも「げんな」よ読まれていますが、先日とある史料(仮名文字の書状)を見ていた際、「げんわ」と書かれてあり、驚きました。
当時から「げんな」と読まれていたのでしょうか。たまたま、その書状だけが「げんわ」となっているのでしょうか。

○寿芳院

寧とともに、出家姿で登場した寿芳院こと京極龍。
しばらく見ていないのですが、「寿芳院」としては初登場だったのでしょうか?

一般的に、秀吉没後に出家したといわれますが、史料上では彼女は亡くなるまで「松丸殿」と呼ばれています。
出家だった、と書かれている史料を見たことがありません。

龍が出家していたとする根拠の最たるものは、肖像画だと思いますが、一体どの時点で出家したのかは全くもってわかりません。

寧は朝廷から院号を勅許されたこともあって、出家した後、寧は史料に「高台院」としてしばしば登場します(それでも「政所」として記録もされていますが)。
その点、史料上出家していたという記録がないことは、茶々と龍に共通しています。
ただ、茶々は出家姿の肖像画がないために、「出家しなかった」といわれています。

私は、茶々は秀吉の死後落飾していたのでは、と思っているのですが、龍と比較して見ても、やはりその思いを強くするばかりです。

○初と徳川

劇中では、大坂落城後、秀忠と対面した初は特に秀忠を責めることもありませんでした。

初が、落城まで大坂城に留まっていたことは徳川方にとって不都合なことであったようで、初が秀頼の命で城を出たあと、同行した者たちに、「我々が徳川から処罰されることを覚悟せよ」と言ったとあります。
初が落城直前まで大坂城にいたのは、他ならぬ茶々と秀頼の助命のためそのものであったということです。
初は出家の身とはいえ、京極家と縁が切れた訳ではありません。下手をすれば京極家に類が及びます。
徳川からすれば煙たいだけのそんな行動が全く罰せられなかったのは、これは江の意向(威光)があったのだろうと私は考えています。江の思いを背負って、初は茶々を救いにやってきていたわけです。

「凌霄開山和尚伝 附開基伝」によれば、大坂落城後、秀忠と家光を前に、初が「半ば恨み、半ば欣ぶ」と言ったとされています。まず姉や甥を奪われたこと、そして偽謀に自らを利用したことに対する恨みを訴え、そのあとに徳川家としてめでたいことですが、ということなのでしょう。まず恨みから述べているところに、強い意志を感じます。将軍、将軍世子を前に、姉を喪った悲しみを隠さなかった様子からは、権力者を向こうに回して一歩も引かぬ心の根の強さ、そしてなにより姉妹の絆の深さをとても感じられるエピソードでとても好きなのですが、ドラマでは残念ながら採用されませんでした。
特に初は秀頼の子国松との関わりも大きかったですから、国松を殺されたことにも人一倍思う所があったでしょう。
きっと彼女の仏堂では、父母、夫の位牌に続き、姉茶々と甥秀頼、甥の子国松の位牌を守るようになったのではないでしょうか。
劇中では江ばかりが茶々の死をおおっぴらに嘆き悲しみ、初の悲しみはあまり描かれませんでしたが、実際は最期まで茶々の側にいた初のほうがきっと「姉を失った」という実感が大きかったのではないかと思います。
江は、海津局や天秀尼など縁の人々の身柄を引き受けたり、初や千、海津局たちと話したり、姉が遺した養源院を守るうちにしみじみと悲しみを感じたのではないでしょうか。

○千と徳川

大坂落城後、千が家康や秀忠にどのような感情を持っていたか、知るすべは少ないです。
家康から千の侍女松坂局(「ちよぼ」)に宛てた文によれば、千は関東に帰った後しばらく伏せっていたらしいことが分かります。
大坂落城直後の慶長二十年五月の末、千が京都見物をしたという史料があります。これは、徳川が豊臣から千を取り返したことを京の人々に知らしめるパフォーマンスという面が多分にあったようです。実際、著名な寺院を参拝している中で、豊国神社へは「忌中」として参拝を許されませんでした。また、江戸へ帰った後に伏せっている様子から、千本人としては、とても見物気分ではなかったのでしょう。

とはいえ、家康が千を案じていたことは事実のようで、家康は大坂落城後から死去まで松坂局宛に少なくとも三度千の様子を案じる音信を発しています。宛先が乳母の刑部卿局などではなくまだ若い松坂局であったのは、彼女が特に家康との縁が強かったからでしょうか。また、元和二年には千方(おそらく松坂局)から家康へ千の様子を知らせる返信が送られたようです。家康の死去までには、千の心境もだいぶ落ち着いた様子が見受けられます。

また、秀忠に対する千の感情は、家康に対するものより更に知るすべがないのですが、後年、書状のやりとりがされている様子から、少なくともその頃には普通の親子並の交流があったようです。
そのほか、晩年になりますが、千が自らの法名選定の際、徳川を守るという意味を込めてほしい、と願ったという逸話があります。秀忠の嫡女として、千は徳川家に大きな影響力があったようですし、秀頼たちの犠牲の上に成り立つ徳川を、もしくは犠牲の上に成り立つからこそでしょうか、晩年は大切に思っていたようです。

本音は当人に聞いてみないと分かりませんが、少なくともドラマほど「父秀忠、許すまじ」という感じではなかったのだろうと思います。

○以下、ただの感想

この辺はただの愚痴などです。
江に「武家のならい」を説きながら、自分は豊臣に憎しを全開させるとかどんな矛盾ですか!
噂通り、大河ドラマの福はひどいキャラですね。江が頬を張ってくれて正直清々しました。よくやってくれた、江。

駿府行きだって、まず主の了解なく持ち場を離れることだけでも大問題で、それが駿府までいってしまったというのだから、本来なら罰せられてもおかしくないはず。
江戸城をこっそり抜け出して駿府城へ行くのは、確か一般的に福にとっては命がけの行動として描かれるような相当危険な行為だと思うのですが、まるでおとなりのご隠居に訴えに行ったような感じしかしませんでした。
家康も特に怒りませんでしたね。他の作品ではとりあえず福の身勝手を怒るはずなんですが。

なんだか、もう豊臣のことはおしまい!で、全く茶々が出てこない予感が…(幽霊で出られても困るけど…)
折角なので、豊臣の痕跡を消そうとする中で、江が必死に養源院を守るエピソードが見たかったのですが…無理かなあ。

国松も、あっさり死んでしまうのではなくて、龍が刑場から国松の遺骸を引き取る様子を描いてほしかった。とてもいいシーンになると思うのですが。
天秀尼も千とともに逃げる描写がなかったということは、江が身柄を預かるのもスルーかな…残念。
相変わらずせっかく江や三姉妹を描いているのに、魅力的な素材を取りこぼしまくりです…

あと二回ですか…茶々が関わらなければ気楽に見れるので、これはオンタイムで見届けたいと思います。
逆に茶々が関わっている部分(感想記事が抜けている部分)は私の言いたいことがいっぱいあるので、ゆっくり埋めていきます。

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茶々の出生と徳勝寺合同位牌の謎

茶々が浅井長政の嫡女であることは今更言うまでもありませんが、何故か近年茶々には長政の子ではないのでは?とする俗説が見られるようになりました。
茶々の生涯を追いかけていると、亡き家族の菩提供養や、浅井一族・家臣の面倒を見ていることなど、長政の嫡女として疑う余地はありません。
小説『茶々と○○』シリーズでは、信長と市の娘として描かれていますが、このような小説はともかく、実際まことしやかにささやかれているのには正直疑問に感じざるを得ません。

wikipediaなどでも、『浅井三代記』に茶々誕生の記事がないことや、徳勝寺に茶々のみ位牌がないことなどを例に、茶々が長政の娘ではないという説が書かれていました(さきほど確認したら、『浅井三代記』に関する記述は無くなっていました)。

ちなみに『翁草』における茶々の年齢に関する記述は「元和元年五月八日、大坂城中に於て生害し給ふ、于時四十九歳。〔割註〕或は四十歳三十九歳共あり、別本に淀殿は天正十一年柴田勝家自殺のとき十三歳、同十七年十九歳にて、秀吉公の側室と成給と云、此の説によれば四十五歳なり。」とあり、四十九歳説以外にも数多く挙げられています。ただし、長政の亨年や妹たちの生年などから、四十九歳以外の説はありえないことから四十九歳説が採られ、近年まで定説となっていました。
この生年も茶々が長政の娘ではない説の根拠とされていますが、同書には茶々を長政の娘(ただし、次女と記録)、また同書に引用されている「永夜茗談抜萃」では長政の長女と明記されています。

『翁草』については、先ほど述べた通り、姉妹の順に揺らぎが見られたり、江が秀忠との間に産んだ子女についても長丸を含めた「八人」としていることなど、記述の整合性には疑問点があります。近年これが見直され、亨年四十七歳説(永禄十二年生まれ)が採られていることは井上安代氏の『豊臣秀頼』や福田千鶴氏の『淀殿』に見える通りです。ただ、これも市の輿入れを永禄十年とし、その上で「八白土星」に該当する年が永禄十二年であることから特定されているようで、市の輿入れ年前提が崩れると永禄十二年説以外でも当てはまるというのは楠戸義昭氏の指摘されるところです。
(私は、信長の生前に茶々の輿入れの話が見られないことから、天正十年までに適齢期に達していなかった=そんなに早い生まれではなかったと考えています。)

そこで、『浅井三代記』の茶々に関する記述についてですが、私が見た限り、三代記には茶々のみならず、三姉妹とも誕生の様子は描かれていません。落城時に長政の遺言とともにその存在が記されているのみです。
「此時御子五人有、内三人ハ女子二人ハ男子なり。(中略)一人ハ秀吉卿ノ妻ト成、秀頼卿ノ御袋、一人ハ相国秀忠公ノ御台、大猷院殿家光ノ御袋、一人ハ若狭宰相高次ノ妻ト成給フ」
「御子」というのはおそらく長政の子という意味で、市の子とまでは明記されていません。また、『浅井三代記』の記述自体誤りも見られ、史料として用いる際に注意を要するとされています。しかし、この記述を見る限りでは、茶々の生まれに疑問を感じるものはなさそうです。(見落としがありましたらご教授いただけると助かります)

続いて、徳勝寺の位牌についてですが、私もこれは気になっていたため、先日徳勝寺へお参りし、位牌を拝見して参りました。
「初や江の位牌はある」とされていますが、厳密に言うとあるのは江・寧・初の合同位牌です。中央に江の戒名(「崇源院殿一品夫人昌誉和興仁清大禅定尼」)があり、右に寧(「高台寺殿従一位湖月紹心大禅定尼」)の戒名、そして左に初の戒名(「常高寺殿松岩栄昌大姉」)が刻まれています。
徳勝寺に寧の位牌があることは、特に不思議なことではありません。秀吉によって小谷城下にあった徳勝寺は長浜城下に移転され、当時の徳勝寺住職は嫡子であった於次秀勝の師を務めるなど徳勝寺と羽柴家との関係は深く、秀吉や朝覚(次郎。一般的に石松丸秀勝と同一人物とされている人)の合同位牌もありました。
ただ、不自然なのは、江・初・寧三人の合同位牌であったという点です。中央に御台所であった江の戒名があることは特に不自然ではありません。ただ、姉妹関係である初と江だけ、もしくは養母子関係であった江と寧だけならまだしも、江や初とともに寧の戒名があることを不自然に思うのです。
やはり、本来此処に入るべきなのは茶々の戒名ではないでしょうか。「秀吉の妻」という立場で、寧が茶々と混同され、寧の戒名が記されているようにしか思えないのです。

もともと、江の位牌は寛文十二(1672)年に和子によって納められたものであったと『徳勝寺授戒帳』に記されています。ご住職さんに伺うと、この年徳勝寺が再興された際、将軍御台所である江の実家の菩提寺として井伊家によって再興されたため、茶々の供養は出来なかっただろうというお話されていました。そのとき、既に初も寧も亡くなっていましたが、当初は江個人の位牌が作られたようです。

くどいようですが、徳勝寺で寧が供養されているのがおかしいのではありません。当初は寧個人の位牌があった可能性は充分に考えられます。その後、何度か移転再建をくりかえす中で(その際過去帳などの当時の史料も散逸してしまったとか…)、長政の三人の娘の菩提を弔うために、合同位牌が作られたと思われますが、その際、ともに秀吉室であった茶々と寧が混同され、姉妹の位牌に寧の戒名が刻まれたのだと考えます。(もしもともと寧の位牌があったのであれば、それを茶々のものとして混同されたのではないでしょうか)

徳勝寺の位牌に茶々の戒名がないから長政の娘ではないのでは?という理屈が通用するのならば、では寧は長政の娘なのか?ということになります。もちろん、いくらなんでもこれはありえません。

これが、徳勝寺の位牌を実際に拝見して抱いた私の考えです。
(徳勝寺にお参りした際の記事にもちょっと書いたのですが、改めてまとめました。重複するところがありますがご了承ください。)

茶々姫をたどる汐路にて
徳勝寺にある案内掲示。再興の経歴、羽柴家との関係なども記されています。

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[Twitter]大坂落城ののち

秀頼の娘、天秀尼は千と逃れた後、江が身柄を引き受けていたといわれています。彼女の助命が叶ったのは千と江、母娘の力の賜物だったようです。それにしても、茶々姫退場をきっかけに気楽に大河を見れるようになるって、我ながらどれだけメディアが怖いんだろう(苦笑)


posted at 23:25:57


実際、江が大坂の陣について知ったのは初の情報もあっただろうけど、なにより千とともに戦火から逃れてきた海津局に聞いたのだと思います。それから江は海津局を傍から離さないので、初を含めて三人で思い出話に花を咲かせたことでしょう…


posted at 23:24:22


秀忠とのわだかまり、うやむやのうちに仲直りじゃなくて、翌年の養源院法要も秀忠の反対を押し切って営むところまで描いてほしかったです。天秀尼もでてこないんですね…。


posted at 23:23:03


眠れないのでこんな時間に失礼します。『康道公記』読んだけれど、朝廷儀式のことばかりで少しも私的な記事がなかった…康道の性格が偲ばれます…。実直な人だったようです。九条家については、道房のほうが書いてくれていそう。出版してくださらないかなあ…


posted at 04:31:45



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茶々の侍女各務兵庫女の去就

私はまだ追いついていないのですが、先週とうとう大河ドラマでは大坂落城を迎えたとか。
折角なので、この機会に大坂の陣にまつわる茶々周囲の女性「各務兵庫女(かがみひょうごのむすめ)」を改めて紹介したいと思います。
茶々の素顔を垣間見る一助となれば幸いです。

○「淀殿不便ヲ加ヘ退カシメント…」

各務氏は森家家老各務元政の五女でした。
その出自も手伝って、直接茶々に目見えを許される立場にありました。

大坂の陣を控えたある日、各務氏は茶々に呼び出されます。茶々は、まだ年若い各務氏の命を不憫に思い、各務氏に大坂城を出るように言いました。
茶々にとっても各務氏はそれだけよく知った近しい侍女であったのでしょう。
しかし各務氏は「鬼兵庫」と呼ばれた武将の娘。この時茶々の勧めを固辞し、小脇差を腰に差して覚悟のほどを茶々に示し、退城を拒んだという逸話が『武功雑記』に紹介されています。

大坂の陣を前に、茶々はあくまでも秀頼の天下に拘って徳川への反抗を続けたように描かれますが、実際年々豊臣恩顧の諸大名はその多くが死没し、もしくは代替わりをして徳川家の縁戚となっていました。
それでも可能性のある大名家へは断られることを覚悟の上で加勢を依頼し続け、時勢に爪弾きされた牢人たちの力を借りるなど、最後まで勝つための尽力を怠りませんでした。
しかしながら、戦を前にして各務氏ら侍女を逃がさなければいけないほど、茶々は豊臣の不利を察して追い詰められていたようです。おそらく、この時茶々が声をかけたのは各務氏だけではなかったでしょう。特に、若い命を惜しんで各務氏に退城を勧めたとのことですので、将来のある若い侍女は優先して声をかけられたのではないでしょうか。

各務氏は、このときは城を出ることを固辞しましたが、いつの時点か不明ながら落城までには城を出て生き延びています。
落城の直前に城を出た常高院に従わされたのか、京で固唾をのんで見守っていたであろう京極龍を頼ったものか、後に京極家に縁を得て、京極高知(長政の姉泉源寺殿の次男。京極高次の弟)に仕え、その妾となり、一男一女に恵まれています。
命を惜しんで城を出るよう言われても頷かなかった彼女ですので、茶々はおそらく初のことや、京極に逃がした弟周防守(作庵)、また脱出させた国松の後を頼む形をとって、各務氏を退かしめたのかもしれません。

(各務氏については『萩の御前』>「女官/女房/侍女」>「各務兵庫女」をご参照ください。)

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[Twitter]秀頼の父

註として、秀頼の実の父を「且元とする説もある」と書かれていて、これには驚きました。講談などでそのような記述があるのでしょうか?占い師や治長を相手に挙げるものは後世に書かれた講談等で見たことはありますが…


posted at 22:00:02


久々にwikiを見ました。当時から秀頼は治長の子であるという噂があった、とありますが、「当時」実際にあったのは、鶴松が生まれた時のことをフロイスが後年記録した際、「秀吉のこと信じるものはいなかった」と書いていることと、秀吉の死後に治長との密通が噂されたことです。


posted at 21:57:21

| ∟つぶやきまとめ | 23:39 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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