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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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[Twitter]姫路

 

姫路文学館の売店で植松三十里先生の『千姫 おんなの城』がたくさん用意されてました。これは素敵なことです。


posted at 13:19:02


姫路では概ね政略結婚の犠牲となった悲劇の姫が恋愛結婚で幸せを手にしたというスタンスなんですよね…。お熊さんが家康へお願いしたという話はスルーな気がします。竹橋御殿の話ほどではないですが、忠刻に一目惚れしたって話も、面白おかしくという意味では竹橋御殿の話と同系統な印象なのですが。


posted at 13:04:30


姫路文学館着。これから山本博文先生の講演「お江と千姫」に参加して、特別展「江の娘 千姫展」を見ます。レジュメを拝見するに、長浜の山本先生の講演と被るところが多いようで、長浜の講演に参加できなかった私としては嬉しい限りです。


posted at 12:59:14

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「江の娘 千姫」展

 
茶々姫をたどる汐路にて
(小石川伝通院 千墓碑)

表題の姫路文学館の特別展と、同地で催された山本博文教授の講演会「お江と千姫」へ行ってきました。
一生懸命メモしながら見ていたんですが、図録がありました。
以下、備忘録を兼ねて長々と。

○千姫姿絵(弘経寺蔵)

有名な千の画像。特別展では「江戸城竹橋御殿時代の落飾した千姫を描く寿像(生前の作)と伝わる」と説明されていましたが、山本先生のお話では、この姿絵は江戸初期の風俗画に近いため、生前の千のままとはいえないのでは、と仰っていました。

○伝崇源院像(養源院蔵)

山本先生もこの画像は江ではないのでは、と仰っていました。衣裳の桐の紋については言及され、豊臣家の女性ではと仰っておいででしたが、桐の紋については言及されませんでした。

○秀信と完子

関ヶ原合戦の話の中で秀信の話がありました。秀信は世間でも織田家においても冷遇されていたところ、秀次の死をきっかけに、秀吉によって重用され岐阜城主となったというお話でした。(実際は秀次ではなく秀勝没後のようですが…)やはり、完子が秀信に縁づいたとすればこのタイミングだと考えるのが自然ですね。

完子については、小吉秀勝と江の婚礼、完子誕生、茶々に引き取られるタイミングなど、従来の説のままお話されていました。これについては、小吉秀勝死去から江の秀忠への輿入れまでひとくくりに語られることが多いですが、実際はご指摘の通り朝鮮出兵までに完子が生まれ、父母の養育のもとで育ち、父小吉秀勝の死をきっかけとして茶々に引き取られた(「小吉死後、秀頼卿母堂為猶子養育也」/『慶長日件録』)ということになると考えています。『駒井日記』の「岐阜宰相様御内様」、「岐阜中納言様御内様」が江と完子だとするならば、文禄三年二月三日の時点で母子はともにいたようですので、江も秀勝の死後、茶々の庇護に入ったと考えられます。

○帥法印歓仲書状 書写山行事宛(大阪城天守閣蔵)

七月八日付で、茶々(「大坂二之丸様」)の安産祈祷を書写山円教寺に依頼した文書です。七月八日というタイミングを見るに、解説の通り秀頼誕生時のものと考えて間違いないと思われます(鶴松の誕生日は五月二十七日、秀頼の誕生日は八月三日)。

円教寺には本多家廟所があり、千の後夫本多忠刻や嫡男幸千代の石塔があるそうです。

○芥田五郎右衛門拝領品々

芥田家に伝わる大仏梵鐘鋳造にかかる褒美の品々。箱、袴、笏の実物と纓、袍、巾子の写真が展示されていました。拝領の日時は慶長十九年四月十九日とあります。

○伝豊臣秀頼所用陣中床几(大阪城天守閣蔵)

足座の裏に「慶長十六辛亥年霜月吉日」の文字があるそうです。「慶長16年(1611)と言えば、これまで淀殿の反対で実現しなかった家康との会見が京都二条城で行われた年である」との解説がありましたが、これでは茶々が長年反対していたように見えてしまいます。

茶々が反対したのは慶長十年五月のことで、「秀頼が十五になるまで大坂城を出してはいけない」と秀吉が生前に遺言しています(慶長十年当時秀頼は十二歳)。また、この時豊臣家恩顧の大小名が秀頼の上洛に反対していたらしいことも茶々による判断の背景に加えられるべきでしょう。

二条城会見が実現した慶長十六年、家康は慶長十年の段階で使者を頼んだ寧をあきらめ、織田有楽斎を大坂城への使者としています。しかし寧は今度は家康の使者としてではなく自分の意思で再び大坂城を訪れ、会見に応じるべき旨を訴えたらしいことは注目されます。周知の通り、寧は会見当日も秀頼に同席しました。
また、上洛当日実際に秀頼の道中を守った加藤清正や浅野幸長は、慶長十年の時点では秀頼の上洛に反対したであろう豊臣恩顧の大小名に名を連ねていますが、十六年の時点では秀頼の安全を身命を賭して守ることを誓い、茶々に会見に応じるよう働きかけています。
会見の是非を茶々が独断で決めていたのではないというところは、今後見直されるべきだと思います。

○大坂冬之陣図・大坂夏之陣図(岡山大学付属図書館蔵)

夏之陣図で、勝山の辺りに「浅井周防守」の名前が結城権之介・武田永翁とともに見えました。冬の陣では城外で戦ったためか名前が見えませんでした。

○千姫観音胎内物(豊臣秀頼自筆六字神号、慶光院周清上人自筆願文)

秀頼自筆の神号は、見たところ結構な走り書きで記されています。『千姫 おんなの城』で秀頼と千が戦を前に互いに自筆の神号を交すシーンがありますが、実際この字を見ていると、そういった差し迫った状況で書かれたものかもしれない、と思います。

千が本多忠刻に嫁いだ後、子宝に恵まれるよう秀頼に祈願したこの願文は有名ですが、ここまでじっくり見たのは初めてでした。御神体として籠められているのは秀頼の自筆神号のみですが、願文には祈願する対象として茶々(「御ふくろさま」)が登場していることに驚きました。
講演では、徳川家による秀頼への仕打ちが、秀頼が恨みを抱いて当然と当時思うものであったのではという解釈でした。井上安代氏の『千姫』では、千にとって頼みにするべき、祈願すべき相手が秀頼その人だったという解釈でした。
私は、千が秀頼や茶々の助命のために使者として徳川家に降されたにもかかわらず、役割を果たせなかったことに対して千が負い目を感じているのでは、と思っています。

○天秀尼

千方より東慶寺へ送られた書状が何点か。解説では、千が落城後に天秀尼を養女としたことのみが紹介されていました。

『聞書雑和集』では天秀尼の生涯に触れ、千が大坂を出る際にともに落ち延びたとあります。そして、書状に見る千と天秀尼の交流や、生母との交流、もしくは生母を供養した記録が見られないことなどから、私はそもそも天秀尼は幼少より千の子として育ったのではないかと考えています。

茶々は秀頼の長子国松が生まれた際、乳母をつけて常高院(初)に預けています。そして生母成田石は以降も「女房衆」、「妾」という立場でした。彼女の動向について史料が皆無と言っていいほどであることも彼女の立場を偲ばせられます。
秀頼ほどの人が妻以外の女性と通じるのは決して特別なことではありません。ましてや国松や天秀尼が生まれたのは千が成人する以前のことです。それでも茶々は千以外の女性に子が生まれたことを良しとせず、結果千の秀頼の妻としての立場は少しも揺らぐことがなかったわけです。

天秀尼が女児であったために大坂城から出されることがなかったという従来の認識に間違いはないと思われます。ですが、秀頼の長女なのですから、悠々と生母と生活していたかというとそれは違うと思います。生まれてすぐ、もしくは千が成人した後に千の子として大坂城で養育を受けていたのではないでしょうか。千と天秀尼の絆の深さ、生母との縁の薄さを私はそのようにとらえています。
そのような実績もあって、大坂落城後、のちの天秀尼は幕府から正式に千の養女と認められるに至って、現在「養女となる」という表現になっているのではないかと思うのです。

○奈阿姫奉納浄土三部経 四巻(弘経寺蔵)

以前千の孫奈阿について記事を書いたときに取り上げた経文です。
千の娘本多勝が池田光政との間にもうけた長女を奈阿といって、千の後夫本多忠刻の甥にあたる本多忠平に嫁ぎました。しばしば天秀尼の本名が「奈阿」とされるものがありますが、これはこの孫娘の名前を混同しているのではないかと思われます。
嫡女であり、また同じ本多家に嫁いだ身として縁浅からぬ間柄であり、この孫奈阿が千の死後納めた経文がこれになります。
実物を見たのは初めてだったので、興味深く拝見しました。

○天樹院御影裏書控

千の肖像は上記の姿絵のほか、「本多平八郎姿絵屏風」が使われますが、千もまた将軍家の嫡女に生まれながら、正式な肖像が現存しません。
しかし、この控が伝わるということはかつては肖像があったようです。裏書によると千の没後供養のために作られ、勝から奈阿へと伝わったとあります。控には千の姿がえがかれるべきところに輪郭が描かれているのみですが、これを見るに晩年の尼姿だったのかなという印象です。

茶々姫をたどる汐路にて
(知恩院 千供養塔)

分骨されたという弘経寺にもいつかお参りしたいです。
 

[Twitter]興安院、朝覚

 

@hanahime8787 そのせいでエピソードや交わされた書状を見るに、京極家で育っても秀忠も江も初に気を配っていたようですね。記録は残っていなくても京極・徳川で肉親の愛情には恵まれていたように思います。若くして亡くなったのは不憫ですが。


posted at 19:27:20


@hanahime8787 そうですね。特に初は生まれた状況からして特殊なせいもあるかと。将軍家として地位を確立する前に、徳川家で育つことなく養女に出されたのは以降の徳川家の娘で見られない環境だと思います。そのせいで出生の記録も生母が抜けていたりちょっと変わっていますね。


posted at 18:41:33


@hanahime8787 そういう意味では、京極、徳川に縁が深く、当時を生きた渓心院の証言はとても貴重な史料ですね。彼女が偽りを記す意味も必要もありませんし。女性ならではの視点と語り口だと思います。


posted at 18:09:34


@hanahime8787 印象として、七夜の内くらい生まれてすぐに亡くなったのでしょうね。公家などの日記ではわりとそういう出来事が出てきますし。系図や編纂史料など、一次史料以外では夭折した子でもでも、誕生の一連の儀式を終えた子どもが記録に残っているように思います。


posted at 18:03:39


@hanahime8787 「御誕生があった」とありますので、早世なのだと思います。


posted at 17:32:40


反論になるかわかりませんが、徳川初や氏家古奈についてまとめていて思ったのは、「子どもがいない」とされていても実際は何度か出産があったということは思っているよりもたくさんあったのだなあ、ということです。それだけ幼児が夭折するのが珍しくない時代だったのですね。


posted at 15:16:50


御本人も仰っておいでですが、朝覚=秀勝説より根拠が薄く、結局一番大きな根拠は「秀吉の生涯を考えて長浜時代に子どもがいるはずがない」というところのように見えます…。なるほど、茶々の年表に治長との密通の噂をわざわざ書かれる理由が察せられます。残念です。


posted at 15:14:36


長浜城から大河ドラマ講座の資料が届きました。太田先生は妙法寺の秀勝の墓を山内一豊の娘与祢のものではとお考えのようです。そして、朝覚(秀勝とされる人)は秀次たちの兄弟ではと。


posted at 15:12:19

 

[Twitter]華の姫

 

【華の姫】個人的に相馬との恋愛模様には興味を持てませんでしたが、悪評に毅然と立ち向かう後半の茶々、そして「人が何を言おうとまずは自分の瞳で相手を見なさい」(千に対して)という江のセリフが好きでした。鶴松を見殺しにした頃はどうなるかと思ったけれど、お寧さんのスタンスも良かった。


posted at 20:58:30


わたなべ 志穂『華の姫 茶々ものがたり』5 t.co/JcCOnlQ7 6 t.co/MtN0HeKz 初期のころは思いっきりぶーたれていましたが、巻を追うごとにぐっとくるところが増えるいい作品でした。特に秀頼が。千もよかったです。


posted at 20:53:58

 

氏家古奈の生涯と大坂城の女性たち(三宝寺墓碑・供養塔)

 
茶々姫をたどる汐路にて

三宝寺、氏家古奈(菊亭)墓碑。
今回は古奈についてのメモ書き代わりにまとめてみました。

父は氏家卜全の息子行広(荻野道喜)、大坂の陣では豊臣方の将として活躍し、茶々が自害する際、その介錯を務めた人として知られています。
母は京極高吉と泉源寺殿(本名不詳。洗礼名マリア、浅井久政の娘、養福院)の娘西津殿(本名不詳)。生年も不詳です。『新修丸亀市史』本文中ではなぜか龍の姉という記述がありますが、一般的には次妹とされています。
また、古奈の生母について西津殿ではないとするものがありますが、古奈が建立した三宝寺に父母の供養碑(「松林院殿妙山養全霊儀〔氏家行広〕 慶長二十卯年五月八日/松雲院殿高岸樹清日浄霊〔西津殿〕 慶安二年五月十五日」/写真を撮りそこないました…)を建立していること、同じく『三宝寺霊簿』の「松雲院殿高岸寿清日浄/日宝女君御母 慶安己丑歳 五月(十五日)」という記載、『渓心院文』の「さい相様はめいご様ゆへに」という記述などから、生母は西津殿でいいと思われます。

兄弟については出家していた三男を除く三人(左近・内記・八丸)が大坂の陣の際自害し、姉妹については姉は京極家家老赤尾出雲守(浅井家家老赤尾清綱の子)の妻、妹は京極高政の妻となったそうです。

その生い立ちは『渓心院文』に詳しく、誕生直後に常高院(初)に引き取られ養育されたそうです。常高院が江戸へ下る際にもこれに従い、江戸城で謁見も許され、初の子として三百石の朱印を受けたとあります。また、常高院は遺言状(「かきおきの事」)で忠高に対し、自分亡き後古奈の後を託し、常高寺で営まれた常高院の葬儀には古奈も自ら参列するなど、その母子関係が偲ばれます。
三宝寺には高次・常高院の供養塔(下)もあり、また常高院の供養のために京に常高寺を建立し、木像を納めています。常高寺にある日蓮像は古奈が祖母である泉源寺殿の供養のために作らせたもので、泉源寺殿を模してつくられたものであるといわれています。

茶々姫をたどる汐路にて
(三宝寺供養塔/左:京極高次、右:常高院)

古奈が菊亭経季へ嫁ぐ際には、茶々(「大坂御袋様」)の世話で大変立派な祝言が行われたことが記され、古奈が茶々からも大変可愛がられていたことが知られます。大坂の陣の後、残党狩りが激しい中建立された三宝寺の供養塔は大変有名で、古奈と茶々の関係を伺うことができます。

茶々姫をたどる汐路にて
(三宝寺供養塔/「嵩陽寺殿秀山大居士」、「漏世院殿雲山智西大童子」、「大虞院殿英岩大禅定尼」)

また、古奈は千とも交流があったらしく(「御馴染みの御古奈様御あとの事に御座候へば」)、古奈の跡目について滞りなく相続が行われるように特に千が口添えをしています。
千と古奈が知り合ったのは二人の輿入れの時期から考えて大坂城にいたころと考えられ、ここからも当時の千の立場、茶々と千の関係が伺い知れます。

輿入れの後、古奈も何度か出産したようですがいずれも早世したそうで(「御古奈様度々御誕生御座候へども、御育て御座なく」)、信長の孫にあたる(母が信長の娘月明院殿秋岸浄仲大禅定尼)徳大寺公信の子公規を養嗣子として迎え、養兄弟京極高政の子高和の娘宮(美屋、高林院殿玉栄日光大姉)を公規の妻としました。

『三宝寺霊簿』には「高樹院殿林堂日宝大姉/当山初祖資助大旦那 六十一歳/明暦三丁酉八月(六日) 六十一歳」、同寺墓碑には「高樹院殿林堂日宝大姉/明暦三丁酉年八月六日 六十一歳」とあり、『常高寺過去帳』には「高樹院殿日宝大姉 菊亭大将公内室 明暦三丁酉八月/栄昌尼公息女」とあり、これに従うと古奈は明暦三(1657)年に六十一歳でなくなったということですから、慶長二(1597)年の生まれとなります。

古奈の生母を西津殿ではないとするのは、西津殿の没年について柴田氏の論文で慶安二年が慶長二年(古奈の生年と同じ)となっている誤植によるものでしょうか…
また、『新修丸亀市史』では西津殿の没年が慶長十一年と記載されていますが、これは末妹の朽木元綱妻の没年との混同と思われます。

参考:
『渓心院文』、『京極御系図』
柴田伊左衛門氏「京極の女達」
大野正義氏「戦国の三姉妹」、「女達の知行の行方」
『常高院殿』
渡辺江美子「織田信長の息女について」

 

徳川初と小石川伝通院墓所

 
茶々姫をたどる汐路にて

先日、伝通院にお参りしてきました。
目的は千のお墓参りですが、妹である初(興安院)のお墓にもお参りしてきました。
しかしながら、伝通院の案内にも初のお墓についての記載はなく、その意外なほどの存在感の薄さに驚いてしまいました。
位牌も、大(伝通院)や千、そして家光の妻鷹司孝子のものは安置されていましたが、初のものはないんですね。現存していないだけでしょうか。
常高寺には現存しませんが位牌があったそうです。

初は夫である京極忠高とは不仲であったといわれています。
その最期も初の侍女が秀忠に忠高の薄情を訴えるほどで、葬儀には京極家の参列は許されなかったといいます。
子どもがいなかったのも不仲の証のように言われますが、実は二度ほど懐妊をしていたそうです(「若狭守様(忠高)御祝言以後御前様(初)両度御誕生あそばされ候へども甲斐なく御子様失せ参らせられ候」/『渓心院文』)。また、病も忠高の薄情に初が心を痛めたためとも言われますが、『渓心院文』には二度目の出産の後患ったとされています。だからといって夫婦仲が良かったとは言えませんが、幼いころから忠高と初はともに育ち、「あにさま」と読んで育ったといいますから、不仲説はそんなに単純なものなのだろうか…と疑問に思うところはあります。

あと、個人的に初について気になっているのは、秀忠の娘の中(和子は除く)で初の院号だけが異質なところです。

千(天寿院、天樹院)
子々(天徳院)
勝(天崇院)
初(興安院)
和子(東福門院)

初は、千の輿入れの同月(慶長八年七月)に伏見で誕生し、生後すぐに初(常高院)に引き取られました。
豊臣と徳川の間にたつ京極家で、しかも初(常高院)の手で育てられた初が(ややこしい…)、姉である完子や千を、伯母である茶々を、従兄である秀頼を、大坂落城までの豊臣をどのように見ていたのかもちょっと気になるところです。

 

[Twitter]醍醐寺過去帳

 

「醍醐寺過去帳」に秀頼の項があるらしいです。「豊臣秀頼公」で忌日は「元和元年五月七日」担っている模様。ちなみに、秀吉も秀次も信長も家康もあるようですが。


posted at 01:30:47

 

[Twitter]東慶寺

 

「相州鎌倉松岡過去帳」、「天秀和尚御局」こと「臺月院殿明玉宗鑑大姉」の記載や、豊臣家関係者、千周辺の人々がどの程度登場するのか興味があるのですが。また参拝したいなあ。


posted at 17:27:15


群書類従に収録されている「相州鎌倉松岡過去帳」は抜粋なんですね…。井上安代さんの『千姫』によると、二十三日に国松の「満世院殿雲山智清大童子」という戒名があるらしいのですが、八日に秀頼(嵩陽寺秀山大居士)と茶々(大虞院莫岩大禅定尼)の戒名が見えるのみでした。


posted at 17:12:23

 

関ヶ原合戦・大坂の陣と三姉妹の絆

 
先日、「関ヶ原合戦・大坂の陣と三姉妹の絆」というタイトルで一時間半ほどお話させていただきました。
大河効果で私のような者にお話をする機会を幾度か頂きましたが、今回でとりあえずひと段落かな、と思います。とても残念ですが…

またこのような機会を頂ける事を願いながら更に研鑽を積んでいく所存です。

(当日の講演内容)
1・関ヶ原合戦と三姉妹 (○秀吉没後、世間から茶々に注がれた関心/○東西に翻弄される茶々/○戦乱の家中に伏見に留まる江/○初と大津城攻防戦 -大津城講話)
2・江の娘を通じた姉妹の交流 (○千の輿入れ -身重の中、江が千を伴い上洛した事情 -茶々と千の関係を史料に探る/○完子の輿入れ -完子の立場 ~豊臣の縁者?徳川の縁者?/○二条城会見 ~茶々の意向と秀頼の成長 -会見の是非は茶々の独断ではない -秀頼の疱瘡に当時の豊臣家を見る)
3・大坂の陣(○慶長十四年大仏再興に見る茶々-江ライン/○寧の覚悟 ~最期まで断たれることのなかった関係/○初の立場と覚悟/○江の心痛/○海津局、浅井(三好)直政母子 ~茶々から江へ~/○秀頼の子)
4・亡き姉妹の供養(○江による茶々の供養 -養源院一周忌法要 -茶々の寺をあえて再興した江の思い -高野山供養塔/○初による茶々・江の供養)

いつもこちらやtwitterで書いていることをまとめました。
時間の割に、かなり詰め込み過ぎですね(苦笑)
準備の過程で自分の考えを整理することができてとても助かりました。

まだ見ておりませんが、あんなに温厚だった大河の茶々が急激に従来のイメージに近づいて行っているとのこと、残念です。
この無念さをばねにまた頑張っていきたいと思います。
 

[Twitter]賢明ニシテ知慮アル其母

 

この記述、現在語られる評価とは随分様相を異にしていますね。褒めすぎて疑いたくなるくらいです(苦笑)「日本全国ヲ領ス可キ正統ノ主タル秀頼ガ、賢明ニシテ知慮アル其母ニ教育セラレ、年長スルニ随テ智勇加ハルヲ見て、家康其死後世子ノ為ニ患フベキ強敵ヲ遺スモノトナシ…」(『日本西教史』)


posted at 14:14:49

プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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