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茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)
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姫路では概ね政略結婚の犠牲となった悲劇の姫が恋愛結婚で幸せを手にしたというスタンスなんですよね…。お熊さんが家康へお願いしたという話はスルーな気がします。竹橋御殿の話ほどではないですが、忠刻に一目惚れしたって話も、面白おかしくという意味では竹橋御殿の話と同系統な印象なのですが。
posted at 13:04:30
姫路文学館着。これから山本博文先生の講演「お江と千姫」に参加して、特別展「江の娘 千姫展」を見ます。レジュメを拝見するに、長浜の山本先生の講演と被るところが多いようで、長浜の講演に参加できなかった私としては嬉しい限りです。
posted at 12:59:14
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| ∟講演会/展覧会 | 21:00 | comments:7 | trackbacks:0 | TOP↑
@hanahime8787 そのせいでエピソードや交わされた書状を見るに、京極家で育っても秀忠も江も初に気を配っていたようですね。記録は残っていなくても京極・徳川で肉親の愛情には恵まれていたように思います。若くして亡くなったのは不憫ですが。
posted at 19:27:20
@hanahime8787 そうですね。特に初は生まれた状況からして特殊なせいもあるかと。将軍家として地位を確立する前に、徳川家で育つことなく養女に出されたのは以降の徳川家の娘で見られない環境だと思います。そのせいで出生の記録も生母が抜けていたりちょっと変わっていますね。
posted at 18:41:33
@hanahime8787 そういう意味では、京極、徳川に縁が深く、当時を生きた渓心院の証言はとても貴重な史料ですね。彼女が偽りを記す意味も必要もありませんし。女性ならではの視点と語り口だと思います。
posted at 18:09:34
@hanahime8787 印象として、七夜の内くらい生まれてすぐに亡くなったのでしょうね。公家などの日記ではわりとそういう出来事が出てきますし。系図や編纂史料など、一次史料以外では夭折した子でもでも、誕生の一連の儀式を終えた子どもが記録に残っているように思います。
posted at 18:03:39
反論になるかわかりませんが、徳川初や氏家古奈についてまとめていて思ったのは、「子どもがいない」とされていても実際は何度か出産があったということは思っているよりもたくさんあったのだなあ、ということです。それだけ幼児が夭折するのが珍しくない時代だったのですね。
posted at 15:16:50
御本人も仰っておいでですが、朝覚=秀勝説より根拠が薄く、結局一番大きな根拠は「秀吉の生涯を考えて長浜時代に子どもがいるはずがない」というところのように見えます…。なるほど、茶々の年表に治長との密通の噂をわざわざ書かれる理由が察せられます。残念です。
posted at 15:14:36
長浜城から大河ドラマ講座の資料が届きました。太田先生は妙法寺の秀勝の墓を山内一豊の娘与祢のものではとお考えのようです。そして、朝覚(秀勝とされる人)は秀次たちの兄弟ではと。
posted at 15:12:19
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【華の姫】個人的に相馬との恋愛模様には興味を持てませんでしたが、悪評に毅然と立ち向かう後半の茶々、そして「人が何を言おうとまずは自分の瞳で相手を見なさい」(千に対して)という江のセリフが好きでした。鶴松を見殺しにした頃はどうなるかと思ったけれど、お寧さんのスタンスも良かった。
posted at 20:58:30
わたなべ 志穂『華の姫 茶々ものがたり』5 t.co/JcCOnlQ7 6 t.co/MtN0HeKz 初期のころは思いっきりぶーたれていましたが、巻を追うごとにぐっとくるところが増えるいい作品でした。特に秀頼が。千もよかったです。
posted at 20:53:58
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「相州鎌倉松岡過去帳」、「天秀和尚御局」こと「臺月院殿明玉宗鑑大姉」の記載や、豊臣家関係者、千周辺の人々がどの程度登場するのか興味があるのですが。また参拝したいなあ。
posted at 17:27:15
群書類従に収録されている「相州鎌倉松岡過去帳」は抜粋なんですね…。井上安代さんの『千姫』によると、二十三日に国松の「満世院殿雲山智清大童子」という戒名があるらしいのですが、八日に秀頼(嵩陽寺秀山大居士)と茶々(大虞院莫岩大禅定尼)の戒名が見えるのみでした。
posted at 17:12:23
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1・関ヶ原合戦と三姉妹 (○秀吉没後、世間から茶々に注がれた関心/○東西に翻弄される茶々/○戦乱の家中に伏見に留まる江/○初と大津城攻防戦 -大津城講話)
2・江の娘を通じた姉妹の交流 (○千の輿入れ -身重の中、江が千を伴い上洛した事情 -茶々と千の関係を史料に探る/○完子の輿入れ -完子の立場 ~豊臣の縁者?徳川の縁者?/○二条城会見 ~茶々の意向と秀頼の成長 -会見の是非は茶々の独断ではない -秀頼の疱瘡に当時の豊臣家を見る)
3・大坂の陣(○慶長十四年大仏再興に見る茶々-江ライン/○寧の覚悟 ~最期まで断たれることのなかった関係/○初の立場と覚悟/○江の心痛/○海津局、浅井(三好)直政母子 ~茶々から江へ~/○秀頼の子)
4・亡き姉妹の供養(○江による茶々の供養 -養源院一周忌法要 -茶々の寺をあえて再興した江の思い -高野山供養塔/○初による茶々・江の供養)
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この記述、現在語られる評価とは随分様相を異にしていますね。褒めすぎて疑いたくなるくらいです(苦笑)「日本全国ヲ領ス可キ正統ノ主タル秀頼ガ、賢明ニシテ知慮アル其母ニ教育セラレ、年長スルニ随テ智勇加ハルヲ見て、家康其死後世子ノ為ニ患フベキ強敵ヲ遺スモノトナシ…」(『日本西教史』)
posted at 14:14:49
| ∟つぶやきまとめ | 23:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑
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