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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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[Twitter]養源院

 

養源院のお位牌や過去帳…境内すら追い立てられるようにしか拝観出来ないもの、とても拝見できる気がしない。過去に活字化されてもいないみたいだし…。いつか養源院に残る貴重な史料の数々を開示していただけるといいな…。


posted at 21:16:39

 

[Twitter]東京

 

明日は国会図書館に行く予定です。お恥ずかしながら、初国会図書館です。


posted at 00:33:38

増上寺の江位牌の件、確認したらご提供された方に最勝院のものとおっしゃっておられました。でもお寺ではやっぱり増上寺って仰ってたなあ(苦笑)


posted at 18:12:47


伝通院は、初の目だたなさに驚いた。お墓もちょっといりくんだところにあるし、案内もない。主な埋葬者にもない。江の娘なのに。お奈津の方とか亀姫のほうがマイナーじゃないかなあ。


posted at 17:50:48


浄土寺墓地で三好家のお墓を見つけましたが、古くても天和年間の御子孫のお墓のようでした。二つは井桁紋だったので間違いないですが、三つ目が手がかり少なく微妙。寛永十八年没の性岳院殿、宝暦十一年没の全真院殿ともに、医光寺位牌の当主の戒名ではなく、なにも分かりませんでした。残念。


posted at 16:28:28


丸亀藩京極家下屋敷跡、京極稲荷神社なう。偶然通りかかりました。


posted at 15:34:50


江のお墓に初参り。私としては、世が世なら…と立派なお墓を見て悲喜こもごも。


posted at 14:39:54


増上寺には江の位牌はないそうです。でも千葉の医光寺には増上寺の位牌の写真があったと思うのだけど。はて。長丸と個人的に思い入れのあるお伝の方のは見つけました。


posted at 14:31:55


伝通院に千と初を訪ねてお参りしてきました。徳川歴代の女性たちのお墓がたくさんあって思いの外長居してしまいました。大と孝子とともにまつられていた千の位牌にも手を合わせてきました。そういえば孝子さんも江にはゆかりの深い方ですね。


posted at 13:57:45


@amnkrm 東京に竹生島縁の弁天堂があるとは、初めて知りました!ありがとうございます。いつか伺ってみたいです。


posted at 17:09:44


@chatiguri ありがとうございます。一応調べてみたのですが、お寺の方に直接伺ったことで、ネットなどに情報がありませんでした。持っている情報だけは持参する予定なのですが…。


posted at 01:03:08


荏原というところにある浄土寺さんの墓地に三好家の供養塔が三基あるとのことで、できればそちらはお参りしに行きたい思っています。戒名あまり分からないと見分け付かないかもしれない…。一応メモはもっていきます。


posted at 00:05:23


でもついでに増上寺の江と伝通院の千のお墓参りをしてこようと思っています。三好家の菩提寺浄土寺さんは私の準備不足で今回は無理でした。残念。


posted at 00:04:03


 

[Twitter]片桐且元

 

既に世に出ている事柄でも、視点を変えれば全く印象が変わってくるということを何度か経験しました。思い入れというフィルターによるものもあるけれど、知らぬうちに世の中の別の歴史観に染まっているのだとしたら、そんな違った視点もあっていいのではないかと思いました。史実を捻じ曲げない程度に。


posted at 09:52:13


改めて中村武生先生のブログを拝読。片桐且元の退去について「茶々の信頼にこたえなかった。茶々は多数の神仏に誓ったのに出仕せず、退城した。」と書かれてあり、同じことを茶々が悪く且元は被害者のように書かれることが多いので胸に響きました。 t.co/0uFtxnIM


posted at 09:47:04

 

講演会愚痴 ~秀吉没後の茶々の去就について

 
茶々姫をたどる汐路にて
(京都豊国神社の大野治長寄進燈籠。件の噂が事実だったらこの寄進も存在しなかったでしょう)

北川氏の講演会行ってきました。
いろいろ収穫はあったのですが、オチが茶々と治長の駆け落ち話だったことに落ち込んでいる真っ最中です。
正確にいえば、徳川家康との結婚を秀吉の遺言として、実現していれば姉妹で義理の母娘の関係だったね~という話のオチだったのですが…

徳川家康との婚礼話がある史料として「内藤隆春書状」や『多聞院日記』、『看羊録』を引いておられます。
「内藤隆春書状」は茶々と治長が密通し、その咎で治長が斬られるところを宇喜多秀家に匿われて高野山へ逃げ込んだという内容。『多聞院日記』は秀吉の書置で慶長四年九月十日に茶々と家康の祝言が行われる予定であったのが、治長が茶々を連れて高野山へ駆け込んだという内容。『看羊録』は秀吉の遺命で茶々を妻にしようとしていたところ、茶々が治長と通じ妊娠していたために怒り、治長を関東に流した上に途中で死を与えたという内容です。

いろいろ言いたいことがありますが、祝言が予定されていたとされる九月十日の三日前、九月七日に家康襲撃未遂事件があります。前田利長が首謀者とされ、実行犯として前田利家に近かった大野治長と土方雄久が捕らわれます。また、浅野長政も共犯として加わったともされ、前田家や浅野家が家康寄りに転じるきっかけになったともされています。
捕らわれた大野治長が流されたのは下総結城で、蟄居の末、関ヶ原合戦では東軍に属し、宇喜多秀家隊を相手に戦功をあげています。茶々を連れて逃げる前に家康暗殺未遂の容疑で捕らわれ、しかも匿ったとされる宇喜多秀家と関ヶ原で対峙しているわけです。もちろん、道中で死んでいれば豊臣家の家臣として活躍はおろか、関ヶ原合戦にも参戦できません。
関ヶ原合戦後、戦功を賞され録を受け豊臣家に復帰しますが、治長は秀頼の名代として豊国社参拝や参内、諸大名への折衝など、様々な活躍を見せています。そのような不行跡が事実であれば、世間の治長に対する信用があるはずもなく、この活躍もなかったはずです。
そもそも事実であったかどうかも怪しい「家康暗殺未遂事件」の実行犯?という容疑だからこそ、首謀者のレッテルを張られた前田家から芳春院が人質に出されたことなどもあって、関ヶ原合戦の後豊臣家に復帰できたのであって、秀吉の妻かつ秀頼の母たる「御上様」茶々との密通が実際にあったのだとすれば、それこそ斬り捨てられる、もしくは良くても蟄居は免れ得ないはずです。

一方、治長に連れられ逃れたという茶々自身も、九月七日に家康、十日に松梅院と大坂城で会い、贈答を受けています。
茶々と家康の祝言が秀吉の遺言といいますが、内容から察するに、『多聞院日記』、『看羊録』に書かれた記事の「もと」は同じ噂だと思われます。秀吉の遺命であれば、他の遺命同様、実際にその情報に接したであろう武家の記録に見えないことは不自然です。またその遺命に反した茶々に何の咎めだてがなかったことや対処らしきことがされなかったことも不自然です。
そもそも、茶々と家康の婚姻が秀頼の将来を考えての処置であれば、既に秀吉の枕元で既に秀頼と千の婚約が取り交わされています。
『看羊録』の言う通り、茶々を家康に嫁がせて、利長を秀頼の乳父とするという内容も、まだ大きな影響力を持つ前田利家が健在の秀吉生前としてはおかしな話です。
もしも遺言が実在したとしても、その遺命は家康にとっても不都合なことではなかったでしょうか。遺言が実行されていない=茶々に非があるというのは、あまりにも早計です。
それにしても関ヶ原合戦で西軍方が家康が大坂城西の丸に入ったことについて、寧の住居を奪ったと弾劾しておきながら、家康と茶々の婚姻話には触れてもいないのはやっぱり不自然に思います。
私はこの遺命の存在自体疑問に思わざるを得ません。

茶々が出家しなかったことも、家康との婚礼を考えて秀吉が許さなかったのだともおっしゃっておられました。そもそも、最後まで出家落飾しなかったというのも、事実なのでしょうか。寧も秀吉の死後すぐに出家したわけではありません。龍もまた然りです。像主に疑問の残る肖像を根拠にしているのならば、雁金屋に残る色目を控えた衣裳の注文記事に伺える落飾の気配のほうがまだ説得力があるように私は思います。

この頃確かに大坂で騒ぎがあり、公家たちがそのことを日記に記し、朝廷からも様子を伺う使者が立てられていますが、これは家康暗殺未遂事件に関わるものでしょう。
豊臣家のうちでこのような不行跡があったなら、その直後に寧が大坂城を出て京都へ移るということもあり得ないと思います(寧が豊臣家を見捨てて大坂を出たのではないことは今更言うまでもありません)。何より、そんな治長の母である大蔵卿局の赦免のために寧が動くこともなかったでしょう。母大蔵卿局もまさに茶々本人の名代、側近として最期まで活躍し続けています。彼女のゆるぎない忠義もまた、治長の汚名が事実ではないことを示す根拠の一つです。

治長と茶々の駆け落ちの噂は、家康暗殺未遂事件、秀吉の遺言による秀頼と千の婚姻、治長が茶々にとって絶大な信頼を寄せる大蔵卿局の息子というあまりにも近しい人物であったこと、秀吉を喪った茶々の今後への世間の関心…当時存在していたこれらの事情が人の噂の中で複雑に絡み合った結果のものといえましょう。そういった背景こそもっと注目されるべきだと思います。

北川氏の記事はいくつも拝読したことがありますが、茶々の身辺についてそのような考えをお持ちだとは全く知らなかったので、だいぶショックでした。最終盤に動揺しておろおろしてしまいました。質問時間もなかったのでご真意を質す時間も機会もなく。残念です。

最後以外の講演内容は、最近の新見解を取り入れられたものでした。特に『渓心院文』をふくむ『誰も知らなかった江』の影響を強く感じました。福田本については、ところどころ異なる見解の紹介として話題にのぼることがありましたが、ほとんどその見解については採用されていないなという印象でした。あと、完子の生まれた時期についての見解など、いつもお世話になっている方のブログをチェックされているのかしら、とふと思ってしまう場面が何度かありました。

個人的な収穫は、天秀尼について、生母が成田氏であること、また千(「北方」)が養うと記されている史料を改めて確認できたことでした。
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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