浅野長政の遺品は寧や秀頼に形見分けされているのに、清正の形見分けに二人の名前がない。というか、全体的に人数が少ない。全て書かれているわけではないのだろうか。清正の形見分けが寧や秀頼になかったとはあまり思えない。
posted at 09:12:07
しかし、ご他聞にもれず関ヶ原~大坂の陣の間は足早に駆け抜けますね。この十五年という時間はとても神経を使ったしんどい期間だったと思います。様々な家が関ヶ原からガラッと世代交代しているのも重要なポイントなのですが。
posted at 01:33:37
茶々姫をたどる汐路にて茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)
Posted at 2011.09.30 Category : ∟つぶやきまとめ
浅野長政の遺品は寧や秀頼に形見分けされているのに、清正の形見分けに二人の名前がない。というか、全体的に人数が少ない。全て書かれているわけではないのだろうか。清正の形見分けが寧や秀頼になかったとはあまり思えない。 posted at 09:12:07 しかし、ご他聞にもれず関ヶ原~大坂の陣の間は足早に駆け抜けますね。この十五年という時間はとても神経を使ったしんどい期間だったと思います。様々な家が関ヶ原からガラッと世代交代しているのも重要なポイントなのですが。 posted at 01:33:37 スポンサーサイト
Posted at 2011.09.29 Category : ∟つぶやきまとめ
松江歴史館の図録『松江藩主京極忠高の挑戦』がきました。初関係の収穫は無かったけれど、件の論文関係の史料や忠高の後妻園文英関係が勉強になりました。「満」書状はマリア書状ではないのかなあ。そうだとしたらマリアの名前が明らかになるのですが。 posted at 15:12:45
Posted at 2011.09.29 Category : ∟江 姫たちの戦国
![]() 前回の記事虚しく、普通~に大蔵卿局(劇中では「サキ」)が活躍していましたね…だいぶがっかりしました。この頃の大蔵卿局については、前回の記事で書いてしまいましたので、よろしかったらご参照ください。 ![]() 小山評定で流れを決定づけたのが福島正則ではなく細川忠興だったこととか、真田幸村は「幸村」でいくのか~とかいろいろ細かいことはありますがとりあえずその辺は不得意分野なので横に置いておいて… ○大津城攻防戦講話交渉 秀吉の生前から豊臣家で大きな力を持っていた侍女孝蔵主は講和のために二度大津城を訪れており、二度目には茶々の使者として大蔵卿局ではなく饗庭局(「あいばどの」)、もしくは海津局(「京極御系図」、「大津籠城合戦記」)、海津尼(『譜牒余録』、『寛政重修諸家譜』)という侍女が大津城に遣わされています。 京極家の史料ではこの孝蔵主を茶々の使者としていますが、孝蔵主は寧に近似していた女性で、『筑紫古文書』(筑紫家)や『関ヶ原陣輯録』(毛利家)など、京極家以外の家ではきちんと寧の使者と記録しているようです。 この辺りに詳しい跡部信先生は、講和交渉が寧と茶々の連携で行われたものであれば、茶々の意志であるという面もあったのではないかと仰っておられます。そうであれば、当時のきわどい情勢下で不用意に動けなかったために一度目は直接自らの侍女を赴かせることができなかったのかもしれません。 とはいえ、孝蔵主が動いたこの一件に茶々の意志だけに注目して、寧の意志を無視することはできません。 ここでは何度も記事に書いているので、今更な感じもしますが、大蔵卿局に代わり、使者として茶々から派遣された饗庭局は浅井宗家の血をひく女性です。海津局はその姉を指し、海津尼はおそらく二人の母を指すと思われます。 ただこの辺り、伝わる系譜では年代的に矛盾がありどこか一代抜けていると私は考えているのですが(鶴千代――海津殿――海津局・饗庭局のような気もしています)、この一家から使者が選ばれたことは間違いないと思われます。大蔵卿局が動けない中、あえて彼女たちの中から使者が選ばれたのはやはり血縁を重んじて講和を進めようとした面があったのでしょう。 この一家に関しては別記事で詳しく考察記事を書いております。 ![]() ○初・龍(龍子)の働き 最後の江紀行で、『凌霄開山和尚伝 附開基伝』に水くみや炊き出しを行っていたという記述がある旨の紹介がありました。他に、『渓心院文』では城内では初が主導して女中たちとともに日夜玉を鋳させていたという記述もあります。また、『磯曳網』という史料には矢や弾丸が袖にあたっても驚かず侍女たちとともに水くみや炊き出しにあたったという一節があるそうです。 劇中で初は鎧姿でしたが、これは大坂の陣で茶々が鎧姿だったという記録を参考にしているのでしょうか。 「大津籠城合戦記」によると、このとき龍(「松ノ丸殿」)をはじめとして、高次の母マリア(「宰相殿御母堂」/後の泉源寺殿、養福院)、初(「奥方」)、高知の妻(「修理殿奥方」)が城内にいたとあります(「譜牒余録」にも同内容の記述があるようです)。 また、孝蔵主の遣わされた先は初その人であったといいます。 初は孝蔵主に会い、自分も龍も高次が越前で翻り大津に帰ってから対面していないため高次の思いは分かりかねること、そして高次に直接会って事の次第を伝えるように孝蔵主に伝えます。しかし高次は孝蔵主には会わず、交渉が一端暗礁に乗り上げたようです。 そうこうしているうちに龍の女中二人に砲撃が直撃して亡くなり、龍は何とか和議を受け入れるように高次に願い出たといいます。 龍が高次の頑なな気持ちを説得したということは、寧・茶々・龍の三人で講和に至らしめたと言ってもいいように思います。 鎧と言えば、劇中では小袖打掛姿でしたが、龍のものと伝わる具足が伝わっています。武田元明の娘を出産した家に伝わるものだそうです。元明の妻だった頃これを着用したものと思われますが、この後京極家は若狭へ転封となります。もしかすると大津城攻防戦でもこれを身につけ、転封の後、お世話になったこの家へ鎧が伝わったのかもしれませんね。 龍の侍女が死傷し、本人が気絶したシーンがありましたが、先ほどの「大津籠城合戦記」だけでなく、「立花事実記」に龍(「松丸殿」)の女中が二人微塵になり、龍が気絶したという記述があるようです。 この件に関しては、大坂夏の陣で茶々の侍女が大砲に直撃し死傷したという逸話ととても似ており、逸話の混同を気にしているところですが、龍に関しては京極家の史料、立花家の史料と複数あるようです。 ○寧・龍の出家 孝蔵主派遣のシーンで登場していましたが、もはや出家していて高台院を名乗っており、びっくりしました。 朝廷より高台院の院号を下賜されるのはこれより三年後、慶長八(1603)年十月三日のことになります。それまでは豊国神社への参拝は続けているものの、「北政所」、「政所」以外の呼称が見当たらないことや、他に出家している形跡が見えないので、おそらく出家も院号勅許の前後ではないでしょうか。 最近は寧の京都転居よりもこの出家の時期が注目されつつあります。 龍も落飾後の肖像画が残っていますが、いつ頃落飾したのか記されていません。龍は死去の記録最後まで院号の「寿芳院」ではなく「松丸殿」の呼称で呼ばれ続けています。茶々の出家もしくは落飾の有無も含めて、彼女たちの去就は謎の一つです。 ○熊麿=忠高 そういえばこの頃、京極家では高次の子熊麿(生母は妾山田崎)を大坂に人質として送っているのですが、出てきませんね。東軍に翻った後、熊麿はどうやって助かったのでしょうか。その辺も磯野家の功績と関係があるのでしょうか。 大津城講和については、跡部信先生の「高台院と豊臣家」(『大阪城天守閣紀要』第34号)、もしくは「高台院と淀殿」(学研『図説戦国女性と暮らし』)をご覧になることをしつこくお勧めいたします。
Posted at 2011.09.22 Category : ∟講演会/展覧会
Posted at 2011.09.21 Category : ∟江 姫たちの戦国
○明智玉
ガラシャこと玉さん退場回でした。歴代稀にみるとっても綺麗な玉でした。 ドラマのように「最後」が分かっていれば、現実でも気の利いた別れが出来るのかな、とか物思いにふけりつつ。 この時、ドラマで出てきた光千代の兄忠隆の妻千世(前田利家の娘)は玉によって千世の実姉豪の嫁ぎ先宇喜多邸へ逃がされたといいますので、実際は「最早逃げ場はない」という状況以上に、玉自身の覚悟が大きかったのかな、と個人的に思います。 細川邸に来たのは長束正家・増田政盛の軍勢で、彼らはこの時秀頼の名を大義名分に掲げていたといいます。 同じ日、石田三成は豊国神社へ内密に参拝していました。 ところで、玉の異母姉にあたるであろう正栄尼はこの時すでに大坂城にいたのでしょうか。玉と交流があったのかどうか、気になります。 ○上杉攻め 慶長五年六月十五日、秀頼が大坂城西の丸に家康を訪問し、黄金二万両・米二万石・宝刀・茶器を送ったと「板坂卜斎覚書」にあります。 この件をもって、茶々がこの時点では家康を信頼していた、または信頼していなかったがどうすることもできなかった、などと様々に言われていますが、そこまでは史料にもおそらく書かれていないことなので、なんとも言えないというのが現実です。 ただ一つ言えることは、出兵の直前に秀頼をわざわざ西の丸へ訪ねさせていることから、この一件は秀頼方(主に茶々)の強い意志を感じるということです。信頼していた、という単純な動悸以外を考えるならば、秀頼のお墨付きを与えて大軍を動かす会津征伐を「公儀」の軍事行為とすることで家康の独断を抑えようという狙いがあったかもしれません。 どちらにしろ、先の細川邸の一件と合わせてみるまでもなく、後に東軍西軍と呼ばれる両者ともに、大義名分として秀頼の名を掲げていたのですから、それは大混乱だったでしょう… ○豊臣対徳川? 前回まで結構あからさまに「豊臣対徳川」で進めたきていたような気がするのですが、今回いろいろな人物がやたらと「豊臣と徳川の争いではない」という旨の台詞を口にしていました。 今思うと、あからさまな大義名分ではありますが、後に小山評定と言われる場でで福島正則たちがこれを確認した上で家康に従っていることから、この大義名分は豊臣系武将を動かすために思いのほか重要な要素だったようです。 福島正則、加藤清正たちは石田三成を襲撃した七将ですが、「秀頼大事」の思いが浅かったというわけでは決してありません。二条城での秀頼と家康の会見における清正の働きは言うに及ばず、福島正則の大坂の陣に際しての対応などにその辺りが偲ばれます。 ○関ヶ原合戦と大蔵卿局の物語 大蔵卿局は家康が大坂を発ったこの頃身柄を拘束されています。 大野治長も大きく関係している事件で、三姉妹に焦点を当てたこの作品で取り上げられないのが不思議なのですが(劇中では一応秀頼・茶々と家康の対面シーンで確か大蔵卿局の姿がなかったように思いますが…)、前年に家康暗殺事件の実行犯として治長が結城へ流されており、母の大蔵卿局はこれに連座したものと考えられています。 義演が拘束中の大蔵卿局へ進物をしていることから、蟄居していたのは京だったのでは、と考えています。 大蔵卿局は茶々の乳母であり側近中の側近ですから、茶々は大蔵卿局の赦免のために様々な働きかけを行ったと思われますが、功を奏さず大蔵卿局の拘束は長引きました。 この頃、家康が会津へ発する直前、寧が京より大坂へ下向しました。『時慶記』によると、大蔵卿局の赦免のためであったとされています。交渉は首尾よく運んだ模様で、寧の在坂は二三日に留まっています。 寧による交渉の結果、治長は許されそのまま東軍として関ヶ原に参陣、宇喜多勢と戦い戦功をあげました。宇喜多秀家夫妻は秀頼にとって義兄・義姉ですから、考えれば皮肉な展開です。 一方、大坂城には七月十七日の夕刻毛利輝元が秀頼を守護する名目で西の丸に入り、大坂城は西軍の拠点となります。治長が東軍に属しているため大蔵卿局は大坂に帰ることができなかったのではないかと思います。 八月七日に義演が大蔵卿局宛に音信を送っていますが、秀頼や茶々の名代としてというわけではなかったようですので、まだ京にいたのでしょう。義演は同時に豊臣家老女のひとり、主に寧の近くで活躍していた茶阿局宛にも同時に音信を送っていますので、寧に保護されていたようにも見えます。 大蔵卿局が大坂城に復帰したことがわかるのは、関ヶ原合戦が終わったのちの、十月二十日になります。秀頼宛の進物の取次として大蔵卿局に文が送られたことが記されていますので、この頃までには大坂城の秀頼と茶々の元へ戻っていたようです。 大蔵卿局は茶々だけでなく三姉妹にも近い存在であったらしいことが偲ばれます。京極家において侍女の崎を母に忠高が生まれた際も、どうやら大蔵卿局が機嫌を損ねていたらしいことが読み取れます。 おそらく次の回に取り上げられる大津城攻防戦の際、上記のような状況でしたので大蔵卿局は茶々の使者として動けませんでした。ただ、寧の使者孝蔵主に情勢を聞きながら、初の身を案じるところは大きかったことだろうと思います。 ○茶々の苦悩 大蔵卿局と引き離され、また次から次に動いていく時勢のなか秀頼を守る茶々でしたが、さすがに心労が祟ったものか、この頃体調を崩しています。 慶長五年二月のことですが、見舞の返礼の使者を務めたのが大蔵卿局ではなく二位局であることから、この時点でも大蔵卿局は茶々の側にいなかったらしいことが分かります。 いろいろリアリティに欠けるなあと思う場面が多いですが、あの困り果てている宮沢茶々姫の様子に、当時の茶々も実はこんな風だったのかもしれないなあと思っています。 ○秀頼の成長 秀頼の祈祷を行っている醍醐寺三宝院の義演が二月の日記に秀頼の様子を記しています。 当年数えて八歳になった秀頼が何事もなく健やかに成長していることに喜び、諸人も秀頼様の健やかな成長に安堵しているという内容です。 秀頼の健やかな成長に、秀頼の成長を見守る周囲の人々の様子、苦悩の中秀頼を守り育てる茶々の苦労が偲ばれます。 ○家康の大津城訪問 「京極御系図」によると、会津へ発った足で家康が大津城に高次を訪問し、吉光の小脇差を贈ったとあります。また、この時妻の初(「御内室様」)・龍(「松丸様」)も家康にまみえたとあります。『寛政重修諸家譜』にも、高次・初(「室」)・龍(「松丸」)・高知が家康に拝謁するとの記述があります。 そして、高次は弟高知を関東へ向かう家康に従わせ、山田大炊を人質として関東へ送りました。一方西軍方にははじめ養子の喜六郎を、のちに改めて嫡子熊麿(忠高)を人質として大坂へ送っています。 高次にとってもこの時点で東軍に属する=豊臣を離れるという考えはイコールではなかったのでしょう。大津城決戦・関ヶ原合戦の一ヶ月ほど前にあたる八月十六日、豊国社へ参拝に訪れていることからもそれが伺えるのではないでしょうか。 (追記)「関原一乱志」に「石田の所業は秀頼卿を盛りたてるためにならないことを案じて」という記述がありました。 ○江の行方 劇中では既に江戸に移っている江ですが、史料では鍋島直茂の邸に移るよう言い含められていたとあります。大坂にも屋敷はあったようですが、自身秀吉の養女とはいえ秀忠との娘たちと大坂にいるのは流石に危険ですし、伏見の屋敷で間違いないと思います。
Posted at 2011.09.20 Category : ∟つぶやきまとめ
秀頼と宇喜多家がどの程度関係があったのかを考えていました。慶長四年の祈祷・返礼記事に一緒に登場するのを知ってから地味に気になっていたりします。前田家との関係も思ったより深そうだし… posted at 21:55:12 志賀の陣から大坂の陣まで戦関係があまり得意ではないので、関ヶ原周辺も女性関連くらいしか分からなかったりします…これではいかん、と思いつつ。感想記事書きながら頭を抱える場面もちらほら。自分の考え等を書き記す言い回しなども難しいです。見苦しい弱音でごめんなさい。 posted at 21:49:25 子々が亡くなったとき、二条康道が喪に服したようです。「御母方姑歟」と有るのですが、母方の姑?母方の血縁者という解釈で大丈夫でしょうか。一応大坂の陣後なので、康道の母完子が秀忠の養女扱いになっているかもしれませんが、子々と姉妹からだったからこその服喪だと考えていいようにも思います。 posted at 00:27:44 改めて史料確認。加賀郡北中條村に子々(「中納言様之御前様」)の化粧殿があり、子々の氏神が山王社だったため化粧殿内に社殿、米を寄進したそうな。光高誕生の際も、この山王社へ宮参りの予定があったが、健康上の問題で取りやめになったという話も。子々と光高の関係を偲ばせる貴重な史料ですね。 posted at 00:20:24
Posted at 2011.09.20 Category : ∟江 姫たちの戦国
![]() (伏見城治部少池) 久しぶりの大河記事です。 市がナレーションで寧を「お寧様」と言っていました。ナレーションってどういう位置づけなのでしょう。市その人というよりもちょっとメタ的な立場なのでしょうか? ○大蔵卿局、大野治長、前田利家夫妻 正確にはこの時期ではなく、秀吉の生前から茶々の乳母は「大蔵卿局」として史料に登場します。 慶長二年四月に定められた大坂城城門掟で「大蔵卿」とあり、慶長三年三月十五日に行われた醍醐の花見では和歌に「大蔵卿」と署名し、また四月の秀頼参内に従った際の記録には、秀頼乳母右京大夫局(「うきやうの大夫」)とともに「大くら卿」とあります。 私の把握している範囲で最古は、天正十七年九月に北野社へ巻数をおさめた記事に見える「大蔵卿」ではないかと思われます。この頃「大蔵卿局」と呼ばれるようになったのであれば、養い君である茶々がこの年の五月に鶴松を産んでおり、八月に大坂城へ移され嫡男として披露されていることと関係があるのではないでしょうか。 今回、少しだけ前田利家が出てきていました。大蔵卿局の息子である大野治長はこの利家を慕い、頻繁に通っていたらしい様子が前田家の史料で伺われます。後年、利常に代替わりした後のことですが、前田家に対して助力を求める書状を治長が送っている理由の一つに、この頃からの縁が関係しているのではないかと考えています。 利家の死はかなり大きな転機なのですが、出番が少なすぎて残念でした。 この辺りは『利家とまつ』を見ろということでしょうか(笑) 利家の最期の場面に、きちんとまつらしき女性が映っていたことに『利家とまつ』の名残をなんとなく感じました。 だったら利家もまつも相応に出てきてほしかったです。 利家は秀頼の傅役であり、史料の中でもなんども秀頼を抱いている姿が描かれています。その妻であるまつは田端泰子先生によると秀頼の乳母の立場であり、その立場で醍醐の花見に席を連ねたとされています。 子々の名前について松尾美恵子さんの論考を読みたくて購入した『おまつと利家』に小林千草さんの論考が掲載されているのですが、そんなまつの秀頼に対する変わらぬ思いがあったという視点で書かれておりとても面白かったです。 ○秀吉の形見 『太閤記』などによると、脇差が高次(「大津宰相」)に形見分けされています。「京極御系図」によると吉光ではなく桶屋正宗だったそうです。 この頃の高次の心境ですが、彼も福島正則や加藤清正たちと同じく、この時点ではまだ「豊臣対徳川」というところになかったのではないでしょうか。 戦の際大津城にいる妹の龍は、その後何度も大坂城に秀頼を訪れています。また、秀頼の庶子国松を預かったのも京極家です。 東軍に属する=秀頼を見捨てるというところまで結論付けていなかったように思います。 家康だけでなく秀忠(「江戸中納言秀忠」)にも「枯木之絵」が形見分けされています。 かなり最初のほうに名前が出てくるのですが、これは養女江の夫であることも多分に影響しているのでしょうか。婿入りの形で婚姻させたという記録もあるくらいですし。 ○三成襲撃事件 三年前に笠谷和比古先生の講演を聴講しに行ったことがあるのですが、三成襲撃事件の際に三成が逃げ込んだ先は家康の邸ではなく、伏見城治部少丸にある自分の邸だそうです。家康がかくまったというのは「大歴史家」の誤解だと仰っていました。 伏見城には五奉行しか入ることができず、また治部少丸自体衛星のような位置関係にあったそうです。 治部少丸の屋敷に立て籠った後、出るに出れなくなった三成と、入るに入れない襲撃した七将(加藤清正・福島正則・浅野幸長・蜂須賀家政・藤堂高虎・黒田長政・細川忠興)たちの仲介をしたのが家康だったということでした。 笠谷先生は寧と茶々の対立はあったという立場の方で、その点では同意できないのですが、このお話は面白くとてもよく覚えています。 ○寧の京都移住 大坂城西の丸にいた寧が京都に移った件ですが、移住先は「秀頼卿御城」と称された豊臣家の屋敷(京都新城、現在の仙洞御所)でした。 小説などでは茶々が追い出したなんて悪意を込めて描かれることも少なくない一件ですが、そもそも寧は秀吉の生前から大坂にいた時期よりも京にいた時期が長く、朝廷や公家に独自のコネクションを持っていたものと考えられます。移住先も豊臣家の邸であること、秀吉生前の寧の役割、秀吉の遺言などから、現在ではこの移住は秀吉の生前からの構想によるものであるという見解が一般的です。 間もなく家康が西の丸に入るため、寧が家康に譲り渡したとも言われますが、関ヶ原合戦の際西軍方はこれを「家康がお寧の邸を乗っ取った」とも言っており、真偽はよく分かりません。 劇中で寧自身が今後は「秀吉の菩提を弔う」と言っていましたが、実際に出家するのはもう少し先のことになります。それまでも寧は月命日などにはほぼ豊国神社へ参拝して追善を欠かしませんでした。 「別々になっても心はひとつ」というセリフについては、まさにその通りで、月命日の参拝など秀吉の菩提弔いはもちろんのこと、この後も寧は京の屋敷を拠点として朝廷や公家を相手に「秀頼の身が成り立つように」懸命な活動を続けます。 大坂城で生母茶々に見守られながら、京では「まんかかさま」であるお寧に支えられ、また龍にも見守られ、秀頼は成長していきます。 ○子々 一般的には幼名子々、後に珠とされていますが、劇中では最初から珠でしたね。ややこしくないように意図的にされたものでしょうか。 結局、実際には珠と改名したのでしょうか。 ○江の憂鬱 秀吉の養女として秀忠の妻となった江と、あくまで侍女である大姥局。おのずから立場が違う二人です。 おまけに、秀吉の養女でありまた秀勝の妻であった江ですから実際に豊臣家のことについて江は心を痛めていただろうと思います。嫁ぎ先のことだけ考えろ、というのは時代錯誤な台詞で残念でした。 あまり詳しくないのですが、確か早くに母を亡くした秀忠の母代わりになったのは阿茶局だったのではなかったでしたっけ…? 乳母はあくまで乳母であり、母とはまったく立場が違う、というのが私の考えです。
Posted at 2011.09.19 Category : ∟講演会/展覧会
「京極忠高の出生――侍女於崎をめぐる高次・初・マリア・龍子――」が記憶に新しい松江歴史館さんで、京極家の展示・イベントをされるそうです。
「松江創世記 松江藩主 京極忠高の挑戦」 ![]() 松江歴史館の特別展「京極忠高の挑戦」行きたいなあ~!西島さんが論文で取り上げた書状や磯野家由緒書、山田家の過去帳とか見たいものだらけ。忠高の後妻園文英とか恥ずかしながら初めて知りました… posted at 12:28:10 丸亀からもかなり展示物が来てるみたい…ひょっとしたら「於那」「御鐺」の史料もあったりして…。でも湖北以上に遠いなあ。せめて図録出ないかなあ… posted at 12:31:07 図録出ていました。早速注文します。 出来れば現地に見に行きたかったのですが、松江遠い…。 電車苦手が各所に影響を及ぼしております… 展示一覧も出ていたので、気になるところを。 6 山田家代々之法録 上記論文にて取り上げられた史料の一つ。 二十一日条に 「寛永二年乙丑十月/玉台院殿明巌恵光大姉/俗名於崎、号吉原、大津宰相高次君ノ妾、若狭守忠高君ノ実母ナリ、西近高嶋郡打下シ村住人山田与右衛門直勝公ノ女、孫助直政公ノ姉ナリ、後豊臣秀頼卿ノ士吉田治五衛門ニ嫁ス、子有、/泰雲山玄要寺ニ御画像アリ、墓所不知、」 と山田崎の記録がある史料。 7 京極高次自筆史料 上記論文にて取り上げられた史料の一つ。 母マリア宛の音信とされている史料。懐妊した崎の処遇と、茶々や大蔵卿局への執成しを頼んでいる史料。 8 京極龍子侍女書状 上記論文に手取り上げられた史料の一つ。 差出人は、私は龍子の侍女ではなくてマリアではないかと思っている史料です。 「満」と署名してあり、これがマリアの名前だとすると大発見なのですが。 9 磯野家由緒書 上記論文に手取り上げられた史料の一つ。 初が忠高を疎んじていたという逸話を記す。 この史料そのものを見たことがないので、ぜひ見てみたいもののひとつです。 23 文英尼公肖像画 忠高の後妻という園文英という女性の肖像画。 お恥ずかしながら忠高に後妻がいたとは存じ上げず、興味津々です。 56 京極御系図 『新修丸亀市史』に収録されているものと同じでしょうか。 もちろん他にも貴重な史料が展示されている模様です。 初の「於那」「御鐺」に関わる史料もないだろうか気になります。 詳しくはリンクからご覧になれますので、ご参照ください。 展覧会に合わせて講演会も行われるようです。 どれも聴講に伺いたい気持ちは山々なのですが、遠方であきらめざるを得ないのが無念すぎます… 10/8(土) 13:30~15:00 「お江の時代と京極家」 会場: 島根県立会館 多目的ホール 定員180名(予約制) 講師: 太田浩司氏(長浜城歴史博物館 学芸員)/NHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』時代考証スタッフ 聴講料: 300円 10/15(土)13:30~15:00 「松江藩主京極忠高がめざしたもの」 会場: 松江歴史館 歴史の指南所1・2 定員90名(予約制) 講師: 西島太郎(松江歴史館 学芸員) 聴講料: 100円 ギャラリートーク ①9/23(金・祝) ②10/9(日) ③10/22(土) 担当: 西島太郎(松江歴史館 学芸員)
Posted at 2011.09.18 Category : ∟書籍・論文・記事
今年の7月に出版された、千の生涯を描いた作品です。 わざわざ植松先生に送っていただき、早速その日のうちに拝読させていただきました。 なんと、『めのと』に引き続きこちらでも巻末の参考文献に私のサイトURLを掲載していただいています。 お役に立ったかどうかかなり微妙なので、大変恐縮するばかりです。 千を通して千自身、そして千の周囲の人々が負う悪名にまつわる話がとても印象深いです。 特に茶々は大変好意的に描いていただいており、茶々を描いた作品の中でもかなりお勧めです。 豊臣家内部では、京のお寧さんとの連絡伝達が大変重要な要素を占めており、それもとても面白かったです。 個人的には、千の乳母である刑部卿局についてこれまでこれといった思い入れを持てなかったのですが、この作品で徳川の人間でありながら豊臣の人々とも近くにいた女性として、難しい立場が良く描かれており大変好感をもちました。 「茶々が千の裾を踏んで退城を阻止していた」と言ったとされる千の側近松坂局の記録については描かれておらず、「悪名」を扱った作品だけに、植松先生ならこの証言をどう解釈されるか拝読して見たかったという思いもあります。まずなにより、それが事実として採用されていなかったことにはなにより胸をなでおろしましたが。 あと、落城の同月末に記録されている千の京都見物。この作品の千がどんな様子でこの見物にのぞみ、京の街並みを見たのか…それも読んでみたかったです。 …いろいろ贅沢ですね(笑)やはり文庫ではいろいろ心残りが。単行本で拝読したかったです。 秀頼の子たちの母として石が登場していますが、千の侍女出身という設定で、終始千の身近に描かれています。なんと求猒も出てきます。 千が大坂を去るシーンは、千を描いた作品の中でも屈指の名シーンだと思います。 千の退城シーンから最期に至るまで、坂崎直盛がとても男前でした。 小説の感想記事が難しいです。 語りつくせない部分も多くあり、語ってはもったいない部分も多くあり。 ともかくいち茶々ファンとしては、是非読んでいただきたい作品です。
Posted at 2011.09.17 Category : ∟講演会/展覧会
寿松さんの正体や蔵屋さんとの混同を解きほぐすのが最近一番の関心ごとです。
講演がなければ見に行けなかったかもしれない展示。 縁があったものとじっくり拝見させていただきました。面白かったです。 京極つながりで、長浜でも、丸亀関係文書をぜひ見てみたいなあ。 (メモ)長浜城歴史博物館蔵慶長六年大音孝則(市左衛門)宛片桐且元書状。木之本浄信寺、竹生島復興の際、寺社奉行の且元が義弟孝則や雨森長介に補佐を命じた書状。 posted at 09:33:32 阿古な父井口経元が戦死したとされる享禄四年の箕浦河原の合戦で怪我をした三田村又四郎への礼状も。亮政の時代に阿波へ移住したらしい経緯が気になる。移住しなかった三田村氏との関係も。 posted at 09:39:02 「浅井日記」の浅井氏系図。改めて見るといろいろ面白い。万福丸が長政に先んじて早世とか誤りも多いけれど。またゆっくり見てみよう。 posted at 09:47:26 徳源院蔵京極家系図。高吉の項に「内室浅井下野守祐政娘」、高次の項に「母浅井下野守祐政娘 清源院殿」、「内室浅井備前守贈正二位大納言長政娘」とあり。 posted at 09:54:34 ②龍は高次の次に「女子 太閤 秀吉公北方号松丸殿」と記載。そのあと、高知、氏家内膳正妻、朽木兵部少輔妻、そしてなぜか八条智仁親王北方が最後に。 posted at 09:58:41 そのあと、二十六代に高広がきて、二十七代に忠高。「母浅井備前守贈正二位大納言長政女 号常光院 内室ハ 秀忠公の御娘 号貞安院殿」「慶長十九年冬秀頼公大坂篭也時蒙家康公之御内意以常光院為和睦之使属無事」とあり。 posted at 10:05:21 徳源院蔵京極高次像。肖像画に比べていかつい顔立ちです。 posted at 10:09:37 一周回って浅井日記(「浅井合戦日記」)。ここでは久政の生母が浅井氏北向殿、長政の生母が馨庵寿松になっている…。しかも「九十九」とあるのは享年…?長政母は間違いだろうけど、久政母の謎は深まるばかりです… posted at 10:18:17 実宰院の件も、良く確認すると「実宰庵縁起」ではなく伝承って書いてあったんだなあ。実宰院がある平塚にはもちろん、北野にも実宰庵に逃れる道中を語る口伝があるみたいだけど、そういうのは相手にされないんだろうか。 posted at 10:24:47 ありゃ、待って。寿松さんは二十六で久政を生んでて、久政は四十九で亡くなってるんだから、小谷落城後も生きていない限り享年九十九も無理があるなあ。 posted at 10:27:37 |
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