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第三十二話「江戸の鬼」【大河ドラマ感想】

江が江戸に行ってしまったら、私の乏しい知識関心は限界です。展開も相変わらずさして目新しいところが亡くなってしまいましたね…関ヶ原もあくまで豊臣vs徳川になりそう。残念だなあ。

今までもそうでしたが、今後は特に他の方の感想&ツッコミ記事を楽しみに拝読したいと思います。

○江の江戸下向と子々

『朝野旧聞襃藁』に慶長四年十二月江が江戸へ下向したという記載があるようです。
更に、『江の生涯』では「太田家文書」で、『江の生涯を歩く』では『長府毛利家文書』で江の江戸下向が慶長四年であったことが言及されています。
実際は劇中のようにこっそり(?)江戸に下ったわけではなく、秀吉の遺命と違えるため家康が茶々をはじめ公に伺いを立てての下向だったようです。家康が「他の女性に子が出来たら気の触りになるので」と言っているのが印象的な書状です。

前年の慶長三年に下向したのは、子々誕生の兼ね合いもあるのでしょうか。
『江の生涯』では母子関係の希薄さから子々は江の所生ではないとされていますが、個人的にはまだ何とも言えないです。
同書では名目上のこととされていますが、「象賢紀略」では「江戸御前様むすめ」と江の娘である旨の記述が、瑞龍院公親簡』では子々が加賀へ下向した際には江に進物があるとのこと…。同書に書かれているとおりに子々が慶長四年三月(『天徳夫人小伝』)、伏見で誕生ある説も否定してしまうには決定打が無いというのが、今のところの『長府毛利家書状』を踏まえた正直な感想です。
ちなみに、前述の『朝野~』では江(「若御台所」)が千を連れて江戸へ下向したという記載があるのみで、子々についての記載は無いようです。

子々と前田利常の子とされている光高については、子々の死後に光高の母(「筑州母儀」)が光高の縁談に反対したという記録があります(『細川家史料』)。この記録、解釈に間違いなければ光高は確かに子々の所生ではないことに…光高は嫡男なので、だいぶ驚きました。
その婚儀、本多忠刻と死別した千(「播磨之御姫様」/娘の勝かとも思ったのですが、勝は同年正月に池田光政へ輿入れしているんですよね…)との再婚話だったのですが(当然千も嫌がっています)、本当なら子々の実子ではなかったからかしら…と。

『江の生涯を歩く』でも言及されていましたが、姑であり義姉である玉泉院(織田永)宛の手紙で「禰々」と署名しているそうです(松尾美恵子氏の「『江戸の姫君』から『加賀の御前様』へ――珠姫の一生」)。本人は「ねね」という名前を通したのではないかという桐野氏のご指摘でしたので、私も現在のところ「ねね」(「子々」)を通すことにしています。

○大姥局

「おおばのつぼね」と読みますが、「姥」は乳母という意味で、まさに役割そのままの号をもつ女性です。本名は岡部かなといったそうです。
今度は嫁姑展開になりそうですが、姑である家康の妻築山殿や旭、秀忠の生母である愛(宝台院)が皆死去しているので、姑役割が大姥局に回ってきてしまったようです…気の毒な。彼女の縁者である静がのちに秀忠の妾となることからか…、大姥局が意図的に静を秀忠に添わせることになるのでしょうか。
この女性はどちらかというと、忠義者・賢女としてのエピソードのほうが残っているのですが…と思ったら、公式サイトにも載せられていますね。でもドラマでああいうキャラクターにしてしまったら台無しのような気がするのですが。

不遇な扱いをされる方はついかばいたくなる性分です…

当時の乳母は、大蔵卿局や春日局のように、養い君が成長したのちはその執事として側近くに仕え、養い君が権力の座についたときにはそれを支える存在として大いに活躍しました。大姥局もまたそのような存在だったのでしょう。
そのような当時の世相を考えると、貴人の乳母となる人を選ぶ基準には教養や利発さもとても重視されたことと思います。
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第三十一話「秀吉死す」【大河ドラマ感想】

茶々姫をたどる汐路にて
(醍醐寺三宝院唐門)

○秀頼

秀吉の秀頼に対する呼び方ですが、書状では「ひろい」→「おひろい」→「おひろいさま」→「秀よりさま」→「中なこんさま」と変化してゆきます。
実際はどう呼んでいたのでしょうね。

相変わらずドラマ内で江は呼び捨てですが。

秀頼と名乗りを改めたことについて、秀頼の動きに詳しい義演准后の日記では、それまで「御拾御所」と記されていたものが慶長元年十二月十七日の記事に「号 秀頼」と記されています。ちなみに、これより前の日付で秀吉から秀頼や茶々に出された音信には既に秀頼という名が登場します。

○秀頼と千の縁談

病床の秀吉の意向で、まだ幼い秀頼と江と秀忠の娘千の婚約が公に披露されました。
徳川家康・秀忠両名をに秀頼の後見を頼んでのことであったと言います。
『江の生涯』によると、この件は『浅野家文書』、フロイス書簡、『イエズス会日本報告書』などに見えるようです。

この時点における江の反応についての記録は見つかっていませんが、後年輿入れが行われた際、冷やかであった徳川方のなかで江が最もこの婚儀に積極的に関わっている様子からは、劇中のような冷やかな反応ではなかったのではないかと思われます。
(この件に関しては輿入れの回で改めてじっくり語りたいと思っています。)

まだ輿入れして三年ほど、秀頼との叔母甥としての記憶も鮮やかでしょうし、豊臣と徳川の結末を未だ知らない江にとっては、姉の子と自分の子の婚約はおおむね喜ばしいものであったのではないでしょうか。

江の豊臣家に対する私の考えについてはこちらの記事もご参照ください。
→*「植松三十里氏『自分がすべきことは何か… 大坂城と姉の悲劇になす術もない中で』」(2011/01/18)

○醍醐の花見

龍に対してこれまでになく注目している今回の大河ですが、注目していなくても扱われる好例の醍醐の花見の盃争いが採用されていませんでした。争いは無かったと考えている私としては喜ばしい気持ちですが、ドラマの方向性上の理由であえて無視されたのであれば少し複雑な気分です。

盃争いについて取り上げられているものは主に前田家の史料で、数もいくつかありますが、その大本となっているのが『陳善録』という村井重頼の見聞録という史料です。
当時の花見を記録した史料は他にいくつもあるのですが、盃争いについて書かれた史料はこの『陳善録』のみで、その点も信憑性が疑われている理由の一つです。
また、醍醐の花見は秀吉のごくプライベートな面々で行われ、前田家家臣である重頼は盃争いに参加していませんでした。醍醐の宿で利家の供をしていた人たちを接待しており、そこで耳にした話だということです。利家の供も秀吉の妻たちが一堂に会するその場にいたとは考えられず、その点も信憑性に疑問が残る話です。

なにより、この件で茶々と龍の仲がこじれた様子は全く見えず、秀吉の死後も秀頼の成長を案じて何度も大坂城に来訪し、度々書状を交していたらしい痕跡が見えることも、不自然と言えます。

趣旨の異なる何らかの出来事が又聞きのために尾ひれはひれがついて伝わったという可能性は充分考えられますが、秀頼のために結束すべき時期に、二人が不仲を噂されるようなことを不用意に行ったとはとても思えません。

醍醐の花見に対する私の考えについてはこちらの記事で詳しく取り上げております。よろしければご参照ください。
→*醍醐の花見(2011/04/08)

○初の所領と秀吉死後の龍

秀吉の死の直前、慶長三年八月八日に初個人に宛てて出された朱印状が残されています。また、『寛政重修諸家譜』にもこの所領についての記述があり、この所領宛がいがいかに注目すべき事柄であったかを表しているように思います。

その理由については、劇中で語られた龍の後を頼んでという意味も間違いなくあったようです。
この所領はそもそも天正十九年から慶長二年までの七年間龍の所領であったそうです。(「京極御系図」、「常高院様、御知行所書付」/大野正義「常高院の知行のゆくえ」)
個人的には、天正十九年に龍に所領が与えられたという事実もとても気になるのですが、七年間龍の生活を支えた知行を改めて初のものにするということに、龍の存在が関わっていないということは考えにくいと私も思います。

龍は秀吉の死後、京の西洞院にある屋敷で暮らすのですが、(大坂城を出て直接大津城に入ったと言われていますが、大津落城のあとすぐに西洞院の邸に入ったことを考えると、そもそも京に移住していた龍や母マリアたち京極家の女性が、戦を前に大津城に詰めたのではないかと考えています。)寧に秀吉の死後も所領があったことを考えると、改めて初に宛てがった所領のほかに龍にも所領があったのでしょう。もちろん茶々にも。

龍は伏見城松の丸に住んでいたことから「松の丸(殿)」と呼ばれていましたが、秀吉の死後も更に大坂落城後も長く「松の丸殿」と呼ば(記さ)れ続けます。ちなみに、寧は「(北)政所(様)」から出家を期に「高台院」とも記されることも年々多くなっていきました。茶々が最期まで出家していなかったと言われ、そのことに若干の疑問を抱いている私としては、「寿芳院」とは記されていない龍が出家したのはいつなのだろうか、と気になります。

○「淀の方」と醍醐寺三宝院

「淀殿」や「淀」という呼称を頑なに使われていた印象でしたので、醍醐寺の紹介で、茶々を「淀の方」と読んでいたのがとても新鮮でした。

ちらっとしか移っていませんでしたが、三宝院の庭園にある豊国社がちょっとだけ映っていましたね。
お寺の方に聞くところによると、前述の義演さん(三宝院の住職)が秀吉を悼んでひっそり建立したものだそうです。(江戸時代は「豊富稲荷大明神」というお稲荷さんにカモフラージュして乗り切ったそうです。)

境内では一般参拝者はカメラを構えることができませんし、あると分かっていても庭園の奥にあるためにあまり見えないので、一度じっくり拝見してみたい豊国社です。

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[Twitter]『大阪陣日本史蹟』

『大阪陣日本史蹟』では秀頼の享年が二十三、茶々の享年が四十三、つまり茶々は江と同年の1573年の生まれに。また秀頼の子国松、天秀尼は大坂落城時ともに八歳とあるのに、生母はともに成田五兵衛助直女とあります。この矛盾が示す通り、史料価値としては微妙なところが…


posted at 22:11:41

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鬼頭勝之氏著『裏から読む大坂の陣 善光寺・豊国社・お江与・甚目寺』

鬼頭勝之氏著『裏から読む大坂の陣 善光寺・豊国社・お江与・甚目寺』(ブックショップ マイタウン、2011年)の感想ツイートです。

鬼頭勝之氏著『裏から読む大坂の陣 善光寺・豊国社・お江与・甚目寺』を読んでいます。八月一日付で出版されたばかりのよう。いろいろ初見史料があって面白いです。

posted at 21:38:50

茶々の亡霊が家康他界の際に現れた話も。秀忠病の折には秀頼の祟りと噂されているし、既に秀頼や茶々を死に追い遣ったことに対する遠回しな非難が見えます。ちなみに茶々も夢で秀次の亡霊を見たという話があります。娘を嫁にという話があっただけに、知らぬ相手より罪悪感があったのでしょうね。

posted at 21:43:44

【裏から~③】高野山に、江の石搭が三つ存在することも紹介されています。奥の院・持明院・東南院。浅井家ゆかりの持明院にもあるんですね。知らなかったなあ。浅井家関係者で他の人のものはないのでしょうか。

posted at 21:47:27

【裏から~④】慶長三年、善光寺の如来を返す際に茶々姫の意志で行われたという「甲善本尊出現記」の記載も。その二年後、慶長五(1600)年には秀頼の名前で本堂を修築している縁の深いお寺です。(関連ブログ記事:『茶々姫と善光寺』 http://t.co/rIGHtQ5

posted at 21:52:24

【裏から~⑤】個人的には、『諸家高名記』の引用、「秀頼卿と申せしは江州浅井備前守長政の息女、容色美麗なるを、太閤きこしめしよばれて、淀の御やかたへむかへ給ひ、淀殿と申て偕老御かたらい、鴛鴦の契り、浅からざりししるしに、若君誕生なされて、秀頼卿と申せし也」のくだりが好きです。

posted at 21:56:09

【裏から~⑥】『諸家高名記』は享保八年の成立とあるので、語り口の柔らかさにますます驚きです。最近、茶々の容色をとにかく否定する方がいらっしゃいますが、享保に既に「容色美麗」と語られていた様子。とはいえ、美人でもそうでなくとも私の思い入れに変わりはありませんが。

posted at 22:01:45

【裏から~⑦】当時、熱田誓願寺の扁額(「当時建立 浅井備前守息女 内大臣秀頼公御母儀 為二世安楽也」)撤去の命を熱田上人が拒否し、家康秀忠に認められたという経緯も。撤去の命令があったとのことなので、生前には寂光院や歓喜光寺以外にももっと多くの扁額があったのでしょう。

posted at 22:12:41

【裏から~⑧】茶々関係では、他に「城方忠臣之図」という秀頼や諸将の肖像の中に茶々(「淀君」)の肖像がありました。流布しているどの肖像とも似ていないものでした。まだまだざっと見ただけなので、改めてじっくり読んでみます。

posted at 22:19:25

先ほどつぶやいた茶々姫の肖像が見られるページを発見しました。http://t.co/Yxl4A9T

posted at 23:33:09


⑤、⑥で触れた『諸家高名記』の記述は個人的に好きでした。
コメントで『徳川幕府家譜』にも「三女トモ隠れ無き美女」とあると教えていただき、二次史料では早くから三女の容姿について触れられた(しかも徳川方史料)があったのだと改めて驚いています。
昨今、「伝」の像や養源院の像を持ち出して茶々姫は美女ではなかったという人が妙に増えているように思うのですが、三女とも標準よりはおきれいな姫だったと私も思います。

⑦で熱田誓願寺について触れたのですが、偶然k2さんのブログでも同テーマが扱われていました。
慶長五年に火災に遭ったのち、茶々と江が協力して誓願寺の再建に尽力したという記事(「右大臣秀頼母淀殿与崇源院大夫人協心再建」)がとても印象深かったので、こちらでもご紹介させてください。

→* 「誓願尼寺」『泰巖宗安記』

| ∟書籍・論文・記事 | 13:35 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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第三十話「愛しき人よ」【大河ドラマ感想】

茶々姫をたどる汐路にて
(千姫神輿のある伏見御香宮神社)

○京極家、忠高を巡って

ちょうど西島氏の論文で読んだ辺りでいろいろツッコミどころがありました。

京極高次の嫡男忠高を産んだのは「妾」(「山田家代々法号録」、「磯野家由緒書」)である山田崎(「山田家~」、「京極家御系図」「磯野家~」では「おな」)という女性で、朝鮮出兵の際高次に従軍し、忠高を身ごもったそうです。

彼女を召したのが「秀吉のすすめ」というのは濡れ衣もいいところです。
西島氏の論文に紹介されている書状を見る限り、山田崎を懐妊させたことによる茶々や大蔵卿局の心象はおおむね悪くなっています。秀吉の勧めであれば二人の心象がここまで表だって悪くなることはないのではないでしょうか。
ついでに母マリア(浅井長政の姉、茶々たちの伯母)の心象も悪いようで、初と縁のある人々は揃って高次が山田崎を懐妊させたことに対しよく思っていなかったらしいのです。

おまけに、初が「側室」に乗っ取られること嫌がっていましたが、それもありえなかったりします。
書状によると、懐妊が分かった時点から崎の輿入れ先が模索されています。それはそれで気の毒な話なのですが…。結局、秀頼に仕えた吉田治五衛門という人に嫁したようです(「山田家~」)。
秀頼の家臣ということで、茶々か大蔵卿局あたりが手を貸したのかもしれませんね。

後に記された「磯野家由緒書」によると初が妬心から忠高を害するのではという噂が流れたようですが、結果的に初は嫡母として忠高をしっかり後見したようです。このことから一部の系図史料の中には、忠高の母を初とするものもあります。

資料:西島太郎「京極忠高の出生――侍女於崎をめぐる高次・初・マリア・龍子――」(『松江歴史館研究紀要』第一号、2011年)

○慶長伏見地震と火災と千

東日本大震災に配慮されて火災になっていましたが、原作では慶長伏見地震でした。『清正記』によると文禄五年七月十二日~十三日、深夜の地震だったようです。
秀吉は当時寧・龍や上臈衆・女房衆と庭にいたそうです。深夜ということなので茶々は秀頼を連れて屋敷内にいたのでしょうか。
指月の地にあった伏見城は崩壊し、木幡山への移転を余儀なくされました。

いらぬお世話ですが、千が生まれたのは翌慶長二年五月十日(『言経卿記』)もしくは四月十一日(『幕府祚胤伝』)、慶長元年四月十一日(『徳川実紀』)、場所は伏見城とも伏見徳川屋敷とも(福田説では産褥を避けて家臣の屋敷とも)いわれ、伏見城ならば婚礼同様、婿入りの形をとったために豊臣家で産んだのではとも考えられています。

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[Twitter]織豊期主要人物居所集成

【織豊期主要人物居所集成】天正十三年の『兼見卿記』の「ちゃちゃ方」は採用なしでした。新たなところでは、『九州御動座記』の天正十五年七月十日、備前岡山で秀吉を迎えた「姫君様」を茶々と解釈し採用されています。


posted at 16:32:35

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第二十九話「最悪の夫」【大河ドラマ感想】

江が「ずかずかと無礼であろう」と言ったことに、何よりも驚きを禁じ得なかった今回です(笑)

夜に三成が江を訪ねてくるとか、予知能力者が多すぎるとか、その辺はつっこんじゃいけないですね。
今回は1テーマ(しかも既出)のみ。

○完子について

劇中では、最初秀吉が江に徳川家に完子を連れて行っていいと言い、続いて徳川家康が江に完子を連れてきてもいいと言い、三成が茶々に対してそれに苦言を呈し、茶々は三成の意図とはまた別の意図で江に完子を置いて嫁ぐように…といった流れでした。

正直、誰が完子を置いていけと言ったのか、この辺りのことは全く史料が残っていません。
楠戸氏に言わせると、豊臣家の政略結婚のコマとして秀頼の役に立つように、茶々が秀吉を唆したということになっています。
これは本当に何度も言っているのですが、完子は秀吉ではなく茶々の猶子となっています。
江の子であると同時に秀勝の子です。豊臣の子として引き取られたのであれば、寧や祖母である日秀が引き取っていたのではないでしょうか。何より完子は秀吉の生前から茶々のもとにいるにもかかわらず、秀吉の影が全く見えてきません。
完子を託されたのが茶々だったのは、江が姉を選んで自分の意思で託したと私は思っています。

もちろん、可愛い盛りの娘と引き離されるのは悲劇です。並々ならぬ決意がなければ出来ないことなのは間違いありません。


完子の扱いと偲ばれる茶々姫とお督(お江)の交流(2010/12/06)

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[Twitter]『裏から読む大坂の陣 善光寺・豊国社・お江与・甚目寺』

先ほどつぶやいた茶々姫の肖像が見られるページを発見しました。t.co/Yxl4A9T


posted at 23:33:09


【裏から~⑧】茶々関係では、他に「城方忠臣之図」という秀頼や諸将の肖像の中に茶々(「淀君」)の肖像がありました。流布しているどの肖像とも似ていないものでした。まだまだざっと見ただけなので、改めてじっくり読んでみます。


posted at 22:19:25


【裏から~⑦】当時、熱田誓願寺の扁額(「当時建立 浅井備前守息女 内大臣秀頼公御母儀 為二世安楽也」)撤去の命を熱田上人が拒否し、家康秀忠に認められたという経緯も。撤去の命令があったとのことなので、生前には寂光院や歓喜光寺以外にももっと多くの扁額があったのでしょう。


posted at 22:12:41


【裏から~⑥】『諸家高名記』は享保八年の成立とあるので、語り口の柔らかさにますます驚きです。最近、茶々の容色をとにかく否定する方がいらっしゃいますが、享保に既に「容色美麗」と語られていた様子。とはいえ、美人でもそうでなくとも私の思い入れに変わりはありませんが。


posted at 22:01:45


【裏から~⑤】個人的には、『諸家高名記』の引用、「秀頼卿と申せしは江州浅井備前守長政の息女、容色美麗なるを、太閤きこしめしよばれて、淀の御やかたへむかへ給ひ、淀殿と申て偕老御かたらい、鴛鴦の契り、浅からざりししるしに、若君誕生なされて、秀頼卿と申せし也」のくだりが好きです。


posted at 21:56:09


【裏から~④】慶長三年、善光寺の如来を返す際に茶々姫の意志で行われたという「甲善本尊出現記」の記載も。その二年後、慶長五(1600)年には秀頼の名前で本堂を修築している縁の深いお寺です。(関連ブログ記事:『茶々姫と善光寺』 t.co/rIGHtQ5


posted at 21:52:24


【裏から~③】高野山に、江の石搭が三つ存在することも紹介されています。奥の院・持明院・東南院。浅井家ゆかりの持明院にもあるんですね。知らなかったなあ。浅井家関係者で他の人のものはないのでしょうか。


posted at 21:47:27


茶々の亡霊が家康他界の際に現れた話も。秀忠病の折には秀頼の祟りと噂されているし、既に秀頼や茶々を死に追い遣ったことに対する遠回しな非難が見えます。ちなみに茶々も夢で秀次の亡霊を見たという話があります。娘を嫁にという話があっただけに、知らぬ相手より罪悪感があったのでしょうね。


posted at 21:43:44


鬼頭勝之氏著『裏から読む大坂の陣 善光寺・豊国社・お江与・甚目寺』を読んでいます。八月一日付で出版されたばかりのよう。いろいろ初見史料があって面白いです。


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第二十八話「秀忠に嫁げ」【大河ドラマ感想】

茶々姫をたどる汐路にて
(大坂城二の丸〔南の丸〕跡付近:豊国神社)

秀吉の(いつもの)晩年の描写にもうお腹いっぱいですー。苦しい。

どうしても市が茶々を「淀」なんて呼ぶのがしっくりこないです。
秀吉も最後まで「お茶々」と呼んでいたのだから、市も「茶々」で通させたらいいのに。

○大坂城から伏見城への移徙

茶々が拾(秀頼)の伏見城移徙に難色を示したのは文禄三年四月の中頃のことです(『駒井日記』)。鶴松が二歳のときに上洛して亡くなったことから、拾の移徙を案じてのことであるのもその通りです。
劇中ではその後茶々と拾をおいて寧と龍が伏見城に移ったようですが、この二人も実際すぐには移っていないようです。
寧が伏見城に移ったのは同年八月十三日のことですし(『兼見卿記』)、龍は文禄五年七月十二日には伏見城松の丸に入ったようですが、文禄三年二月に大坂城西の丸に御殿を与えられたばかりで、すぐには伏見城に入っていないでしょう。結局、茶々姫と拾が伏見城に入ったのは文禄三年の十一月二十一日のようです。

○秀頼の呼称

「御子」と呼ばれていましたが、たぶん「若公(わかぎみ)」と呼ばれることが多かったんじゃないかな…思います。

○江と秀忠の結婚

『徳川実紀』では文禄四年九月十七日に婚礼が行われたそうです。場所は伏見城とも伏見徳川屋敷とも言われます。『実紀』では「大御台所を太閤養女として。公を御聟に定められしともいふ。」との注記もあり、江が豊臣と徳川を結ぶ鎹としての役割を大いに期待されていたことが分かります。

劇中ほど秀吉との仲がこじれていたら、このような役割は期待されなかったでしょうね。
当時の結婚観として、「豊臣の家を出て徳川の人間になる」というような考え方とは違っていたと思うので、私は江は秀吉に無理矢理に嫁がされたというよりも、本人も相当の覚悟をもって豊臣から徳川に嫁いだものと考えています。

次から次に嫁がされているようで、秀勝と秀忠の間には四年ほどブランクが。
縁談や準備もろもろを考えて、秀勝の三回忌以降に話が本格化したのではないでしょうか。
秀勝とは離縁したわけではなく死別だったので、相応の期間が必要だったのでしょう。

○江と秀頼

秀勝の死後、江がどこで過ごしていたかという問題にも関わるのですが、今作の江は秀勝屋敷に留まっていたのか、秀次に近しく、実の甥である拾の存在を若干倦厭している風でした。
完子の養育こともありますし、私はやはり茶々のもとに帰っていたのではないかと思うので、江にとって拾はもっと近しい存在であったのではないかと思います。
(江と完子が秀勝屋敷に留まっていたなら、完子は日秀に育てられることになったのではないかなあ…と思うのです。)

とりあえず、江はずっと「拾」と呼び捨てでしたが、実の甥でも実際はまさかそんなことはなかったと思います。
(時に秀吉まで呼び捨てでびっくりします)

○聚楽第

一切を取り壊したと出ていましたが、確か一部残っているはずです。文禄五年の五月九日に拾上洛の際、聚楽第が使用されています(『言経卿記』、『義演准后日記』)。

○瑞泉寺

まだ参拝したことがありません。是非一度伺いたいです。

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第二十七話「秀勝の遺言」【大河ドラマ感想】

間があいてしまいました。
この回以降、なんというか、私的な事情もあったのですが、私自身ぽっきりくじけてしまった感があります。
とはいえ、見届けると決めた以上は見届けます。
この回は確か東京出張中にリアルタイムで見ていたので、一か月前のメモを見ながらの感想です。

○秀勝を喪って

残念ながら、私は秀勝の死に悲しむ江にあまり共感できませんでした…
怒りや悲しみのポイントが理解できないといいますか。

それはそうと、江は普通の格好でしたが、この時代の喪服事情ってどうなっているのでしょうか。
泣いて秀勝の位牌の前にいるばかりで、喪に服している様子が今一つ分からなかったのですが。

初がわざわざ出向いて慰めに来てくれているというのに、江の態度はちょっと初がかわいそうになりました。哀しいのは分かるけれど…

○完子

「完」と書いて本名(幼名)「さだ」はありえないですねえ。
寧の「寧子」のように、幼名+「子」で仮の諱とする例もあるようですが、それでも公家読みをそのまま幼名にってのはどうでしょう。
「完子」は従三位あたりになったときに与えられた諱で、公家読みで「さだこ」と読むようです。とすると、もし幼名が「完」ならば「みつ」と読んだほうが通称(本名)っぽいでしょうか。
東福寺さんでは「寛子」という名前も残っているようですが、「ひろ」だったのかしら…と思いつつ、決定打はありませんでした。
もしくは、「さだ」とするとしても漢字は単純に「定」のほうがよかったかな。

○江と秀勝

一応、秀吉と寧夫妻にとってはドラマ上ではこの時点で江も秀勝も養子なのですが、何故か寧は江だけを呼び捨てて秀勝は「秀勝殿」と呼んでいました。
粗を探しているつもりは全くないのですが、むしろ秀勝のほうが夫秀吉にとって甥という近しい間柄なのになあ…と。

○今週の茶々姫

名護屋在陣中はまったく無視でしたねー…残念。
江が同行していないからということなのでしょうけれど、秀勝の死が茶々に伝わり、茶々から江に伝わるという過程を、その過程で起こるドラマを見てみたかったです。
一昔前の大河ドラマでは、主役がいない場面も丁寧に描かれていたような記憶があるのですが…

懐妊が分かり、大坂に帰ったところで傷心の江と対面。
史実では、茶々は文禄二年の正月以降に大坂へ帰ったらしいことが分かるのですが、詳しい時期は分かりません。
文禄元年の十二月時点で妊娠が発覚していないというのも若干不自然なので、既に名護屋で妊娠がはっきりしていて、安定期(二月~四月ごろでしょうか)に入ってから大坂へ戻ったのでしょうか。
茶々が大坂に戻ってから、寧が名護屋の秀吉に宛てて茶々の妊娠を知らせる遣いを走らせてたようですが、秀吉は既に知っていたんですね。「自分の子は鶴松だけ」というクールな文面で有名な寧への返信ですが、名護屋でひとしきり喜んだ後でいろいろ考えて冷静になっていると考えれば、ちょっと納得です。

話はドラマに戻ります。
さすが茶々姫というべきか、なのかさすが宮沢さんというべきか、茶々が江を慰めるシーンはとてもよかったです。こういう姉らしいシーンはとても好きです。
惜しいのは、鶴松を亡くしたことを例に挙げて江を慰めるのだったら、鶴松を亡くした茶々姫の悲しみももう少し丁寧に描いてほしかった…ということです。

○朝鮮出兵と秀吉

一番残念だったのが、この辺りの秀吉の描き方に全く新しいところが見られなかったことでした。
折角以前信長時代からの長期の展望だったという解釈が示されたにもかかわらず、秀吉の独断専行で朝鮮出兵が推し進められたようにしか見えなかったのは本当に残念でした。
あちらへの配慮があるのかもしれませんが、この辺りの事情もいろいろな面があったわけですから、描き方もいろいろあっていいと思います。いろいろあってほしいです。

秀頼誕生で戻ってきた秀吉も、もうすっかり見飽きたプロトタイプな秀吉でした。

○おひろい

秀吉は秀頼が生まれて六日後に寧へ宛てて、赤子の名を「ひろい」とすること、誰も「おひろい」と呼んではいけないとしています(「高台寺文書」)。しかし同年十月二十五日付茶々宛音信では既に自ら「おひろい」と記しています(「大橋文書」)。
劇中では「ひろい」と呼ばれていましたね。秀頼と秀次の娘の縁談が出て以降なので、十月以降なのは確かですが、微妙な時期です。

○秀頼と乳母

秀頼誕生後に秀吉から茶々へ宛てた手紙には、茶々の母乳の出を案じる手紙(「大橋文書」、「森文書」)があります。秀頼が茶々自身の母乳を与えられていたのは事実です。

かといって、乳母がいなかったわけでは決してありません。
のちに秀頼に殉じることになる右京大夫局、大坂の陣で有名な木村重成の母とされる宮内卿局を始め、正栄尼、佐々内記母、高橋古也など、秀頼の乳母として名が残る女性は幾人もいます。
なかには前田利家の妻松のように乳母と言っても養育係や名目上の乳母であった女性もいたことでしょうけれども、後の働きを見ると、少なくとも右京大夫局は早くに秀頼の乳母として近侍していたと思われます。秀頼も茶々の母乳で足りないときなどは乳母の母乳を与えられたことでしょう。
そもそも、秀吉が鶴松の徹を踏まないためにも、秀頼のために盤石な養育体制を整えないはずがありません。

ドラマではこの件について茶々の独断で決めたような描かれ方でしたが、実際はどちらかというと秀吉の意志だったのではないかと思います。浅井家の総領娘として生まれた茶々にとって、乳母が我が子に乳をやるというのが常識でありステータスだと考えていたのではないでしょうか。
茶々自身、初が年子(もしくは二つ下)で生まれていますし、大蔵卿局の母乳で育ったのでしょう。でも、市の母乳を与えられたこともあったかもしれません。
生母から完全に離されて育った子はともかく、傍で育った子女が全く乳母の母乳だけで育つということは私たちが思っているよりも少なかったのではないかと考えています。

…さすがにドラマのように、いくら姉妹や侍女とはいえ人前で肌をあらわにしなかったでしょうけれども…

そしてまだいとけない秀頼と茶々姫の姿に、江が不吉な予感を抱いたことに個人的にはがっかりでした。秀頼が誕生した時には、打算のない喜びに包まれていたと思いたいです…

○秀頼と秀次の娘

文禄二年十月一日、秀吉は前田利家夫妻を通じて秀頼と秀次の娘の縁談を秀次に持ちかけます。秀吉の申し出に秀次は最初不快を示したようですが、夫妻の仲立ちでこれを承諾しました。
その直後、秀次は茶々宛に手紙を出し、この縁談について何か書き送ったようです。その返信が残っており(「福田寺文書」)、秀次の娘との縁談を寿ぎ、息災を喜ぶ内容が記されています。
それから秀次事件の直前まで進物や書状のやりとりがあったようです。まだ幼い秀頼や秀次の娘を挟んで、来るべき慶事に向けて交流を深めていたことが偲ばれます。

| ∟江 姫たちの戦国 | 09:16 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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