Posted at 2011.07.07 Category :
∟江 姫たちの戦国
朝鮮使節との会見シーンらへんはリアルタイムで見ていたのですが、見返すのが遅くなりました。さっきチェックしたら、次回がハードディスク容量不足で録画できていないことが判明。土曜日の再放送待ちです。
相変わらず三成のキャラクターが大変な逆行を起こしているのが見るに堪えられないのですが…このまま関ヶ原までいってしまうのでしょうか…
○朝鮮使節団聚楽第会見天正十八年十一月七日に行われた会見については、福田千鶴先生の『淀殿』で紹介された『懲毖録』という史料が出典になっていると思うのですが、その割には描き方がかなり偏っていたことが気になりました。
引用は 『懲毖録』(柳成龍著/曽我昌隆訳、新興書房、1966) より
(前略)秀吉は、わが使節にたいし、轎(かご)にのって殿中にはいること、笛とラッパを行列の先頭にたてること、堂上にのぼって礼式を受けること、などを承知した。秀吉という男はからだも小さく、容貌は平凡で、顔色はあさぐろく、とくにこれという威厳もない人間だったが、ただ目をひらけば目のたまは爛爛と光をはなち、人を射すくめるようだったという。使節を迎えたとき、かれは三重の席をしつらえ、はだかの床の上に南に面してすわり、紗帽をかぶり、黒の胴着をつけていた。
かれの家大が数名その席につらなっていたが、わが国の使節たちが到着すると、「これへ」と予定の座にすわらせた。
席上には宴会用の道具は用意されておらず、卓がひとつまえに置いてあり、そのまんなかに餅が器に盛ってのせてあるだけだった。酒は土器で汲みかわされたが、酒も濁っており、礼式ははなはだ簡単で、二三度さかずきがめぐってきたかとおもうと、はやおしまいになってしまい、これでは敬意を表すまもなければ、ことばをかわす機会もありはしない。
しばらくすると秀吉は、つと座を立ってしまい中にはいっていった。けれども家来たちはだれひとり動こうとしなかった。するといつのまにかひとりの男が平服のまま幼児を抱いて中からでてきて、大きな堂の中をぐるぐる廻りはじめた。みるとこれが秀吉だ。なみいるものはすべて平身低頭であった。やがて秀吉は縁側にでてわが国(朝鮮:紀伊注)の楽師たちをよび、さかんに音楽を奏でさせていたが、そのうち抱いていた幼児がかれの着物の上に小便をかけてしまった。秀吉は笑いながら側近のものを呼ぶと、中から
「かしこまりまして………」
と長い返事をして、ひとりの日本のおんながとびだしてきた。秀吉はおんなに幼児をわたし、その場で別の着物に着替えたが、まるであたりに人間なんぞいないとでもいうような厚顔不遜の態度であった。わが国の使節たちはその席で秀吉にわかれたのだが、そののち二度とかれをみることはできなかった。秀吉は正・副使にはそれぞれ銀四百両、書状官、通訳以下には資格におうじてみやげを与えた。
わが国の使節たちは帰国しようとしたけれども、秀吉は返事の手紙を与えなかった…(以下略)
まずは秀吉の客観的な見た目が書かれてあります。
いろいろな逸話でサル顔とその容貌に難ありのように描かれますが、朝鮮の使節は秀吉に対し、体は小さく肌は浅黒いが容貌は平凡。ただ、まなざしが常人とは違っていた、と証言しています。
聚楽第で行われた謁見ですが、まず秀吉は紗帽をかぶり黒の胴着という姿で使節を迎えています。諸大名と共に、秀吉も既に座して使節を出迎えた訳です。
お酌の次第は日本でも地方によって御作法が違いますので、なんとも云いかねます。
朝鮮の使節はもっと敬意を著わし、言葉を交わす機会がほしいと思っていたようですが、日本式では盃が二三度巡り、宴は一区切りついてしまったようです。
そこで秀吉は正式な謁見の儀は終わったため、席を中座して、平服に着替えた上で、朝鮮から着ていた楽師の演奏を聞かせてやろうと鶴松を抱いて連れてきたわけです。堅苦しい盃はおしまい、あとは楽に宴をたのしもうという秀吉なりのけじめだったのかもしれません。なにより、朝鮮の楽師という珍しい人たちが来ていたため、鶴松に見せてやりたかったという思いももちろんあったのでしょう。
しかし、決してドラマのように、いきなり公式の席で鶴松を連れ、朝鮮使節をないがしろにするような暴挙に及んだわけではありません。秀吉は秀吉なりにここは筋を通しています。
鶴松登場に対する日本の諸大名の様子も違って、ドラマでは正式な謁見の場に鶴松を連れてきたことに非難の目ばかりが強調されていましたが、実際この頃には嫡男としての広めは済まされていましたので、朝鮮使節が見た通り、「諸大名は即平身低頭だった」というのが事実だったのでしょう。朝鮮使節にも嫡男のお披露目、という側面もあったのかもしれません。
秀吉はぐるぐると鶴松をあやしながら部屋を巡り、縁側に出て朝鮮の楽師が奏でる音楽を聴かせていました。その最中、鶴松がおもらしをしてしまいます。まだ褓もとれぬ年頃、いつものことだったのでしょう。ドラマでは大慌てで家臣になんとかさせていましたが、実際には秀吉はただ笑って奥から女性を呼び、鶴松を渡し、自分ももう一度着替えたという、落ち着いたというか、手慣れた対応を見せています。この女性はまさか茶々姫自身ということはないと思うので、鶴松の乳母だったのではないかと考えています。
というわけで、言うまでもないかもしれませんが、奥から呼ばれて初めて女性が出てきておりますので、当然ながら宴の席に江はいなかったはずです(笑)もし女性の同席が許されるなら、誰より寧こそ同席すべき女性ですね。
秀吉の不遜ぶりを描きたいという意図があるのかもしれませんが、そのような曲解はちょっといただけませんねえ…
○鶴松の衣裳今回登場していた鶴松は、頭もちょんちょこりんに結って、小さい袴のようなものをはいていたように見えました。
実際はまだ袴着を迎えておらず、袿姿でよたよたと歩いていたのでしょう。
鶴松の姿は、三つの木像や肖像が伝わり、共通する姿から普段のどんな姿で生活していたかが伺われます。

最近彩色を直した左の像が見た目は分かりやすいですね。
どれも髪を結わえておらず、小袖や袿をまとって暮らしていたようです。
○魔の天正十九年の始まり秀長の死は、大河ドラマ『秀吉』の時に号泣した記憶が…
秀長といえば、以前から何度も書いているとおり、淀城修築を奉行した方で、そこで生まれた鶴松の後見でもあった人です。秀頼にとっての前田利家、鶴松にとっての豊臣秀長というくらい、秀長の死は茶々姫や鶴松にとっても大きな不幸であっただろうと思われます。
前年には妹旭をなくし、天正十九年には弟秀長、愛娘(養女)小姫、愛息子鶴松を相次いで無くし、寧も病に伏せる…
○鶴松の病朝鮮使節との引見の約十日後、鶴松が病で寝付いてしまいます。秀吉は二度に渡り北野社に平癒祈祷を命じますが、翌天正十九年になっても一進一退の状態だったようです。まだいとけない体で寝付いている様子を思うと、心が痛みます…。
一月二十七日、知恩院にて鶴松の病状について会合が持たれ、薬師選定についても話し合われています。
二十九日には、北野社だけに及ばず、賀茂社、祇園社、清水稲荷社などの諸社へ三百石ずつ寄進し病気平癒を祈祷させました。
予定されていた鷹狩りを延期まで鶴松の病にかかりっきりだった様子がうかがわれます。
閏一月、この延期されていた鷹狩りが行われましたので、其頃には病状が安定したのだろうと言われています。
とはいえ、六月に大蔵卿局の夫と言われる大野佐渡守が尾張で鶴松の病気平癒祈祷を営んでおりますので、その後もなにかと病がちだったのかもしれません。
口の中の病だったといいますが、喉が悪かったのでしょうか?喉が悪いと高熱も出ますし、体力も…
死病となったのは、寧と小姫と同じはやり病だったのではと言われていますが、この症状は腹痛だそうです。
冬の病で弱っていたところに、はやり病に襲われたのかもしれません。
とにかく、口中の病からは命を取り留めたわけで、秀長の「鶴松の病はわしが抱えていくで」という言葉は、非常にいいセリフだったと私は思いました。鶴松の後見だった秀長なら、本当にそう思っていたかもしれないなあ…と。
○小吉秀勝北条攻めの論功行賞で甲斐国を与えられた小吉秀勝。
これも、鶴松が回復して数カ月の間に、小吉の母日秀の願いで美濃岐阜城に移されます。遠方で会いづらいという理由だったといいますが、日秀にとって小吉は特に掌中の珠だったのでしょうか。
実際には既に小吉秀勝と夫婦となっているはずの江ですが、聚楽第も人質制度も既に充分機能していますので、甲斐にも岐阜にも行くことなく聚楽第邸にいたのでしょう。
今回の茶々の衣装も美しかったですね。山吹色の打ち掛け姿も鮮やかで綺麗でしたし、紅梅の打ち掛けも白が映えてとっても良かったです。