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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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徳勝寺(加筆)

 

茶々姫をたどる汐路にて


本日改めて徳勝寺へお参りしてきました。

何度かお墓へはお参りしたことがあったのですが、本堂のほうへはご住職さんのご案内で初めて上がらせていただきました。


○「(中央)崇源院殿一品夫人昌誉和興仁清大禅定尼/(左)高台寺殿従一位湖月紹心大禅定尼/(右)常高寺殿松岩栄昌大姉」位牌


うわさの合同位牌です。


ご住職さんのお話では、徳勝寺が再興された際、将軍御台所である江の実家の菩提寺として再興されたため、茶々の供養が出来なかったのだろうというお話でした。

その通りだと私も思います。徳川の世で、お位牌が残らなかったから茶々が浅井長政の娘ではないというのはあまりにも現実的でないです。


でも、このメンバーに寧が入っているというのも若干気になっています。豊臣家のお位牌は別にあるのに、姉妹の位牌に寧の戒名があるのはちょっと不自然です。

…すると、上の説でいくと、寧が長政の娘ということになるのでしょうか。ありえませんね(笑)

私としては、同じ秀吉の妻ということで、ここでも寧と茶々の混同が起こっているのではないか…とも疑っています。やはり寧の戒名がある位置には、茶々が来るのが一番自然です。


○「東福門院/明正院」位牌


江たちの合同位牌の右手に安置されていたのが、江の血を引く二人の合同位牌でした。

「徳勝寺授戒帳」によると、もともと江の位牌を安置したのは東福門院その人であるといいます。

そのゆかりといい、この位牌といい、浅井家と東福門院の間にはやはり深いゆかりを感じます。


○浅井三代位牌

(左)「徳勝寺殿前備州太守救外宗護大居士」…亮政

(中)「甲堅院殿前野州太守丘嶽良峻大居士」…久政

(右)「養源院殿正二位天英宗清大居士」…長政


○「(右)國泰寺殿雲山峻龍大居士 台閤秀吉公/朝覚大居士 次郎秀勝君」位牌


秀吉と石松丸秀勝と言われる「次郎」の合同位牌です。

安置されている中では古い印象を受けました。

知善院といい、「朝覚」の位牌を複数見たことがとても印象に残っています。


○「楓樹院殿秋色儀天大居士」


他に浅井家重臣一族の位牌や姉川合戦戦没者の位牌などがありましたが、明るさや位置の関係上あまり戒名を確認できませんでした。

この「楓樹院殿」の位牌は赤尾清綱のものであると教えていただきました。

後年に子孫の方が徳勝寺におさめにこられたそうです。


他に、浅井長政夫妻木像、浅井亮政夫妻木像、浅井三代木像を見ることが出来ました。何度か特別展などで拝観したものです。

それにしても、三代の妻の中で阿古の姿だけ見ることが出来ないのは、肖像画を探している身からしてもさみしいことです。どこかに阿古の像か画像が眠っていないものでしょうか。


お位牌については、江と初以外に浅井家の女性のものであると判別することが出来ませんでした。

どなたかわからない戒名の中にあるのかもしれませんが、重臣一族のものが多かったので、伝わっていないようにも思えます。


もちろん、三代と蔵屋夫人のお墓にもご挨拶しました。
茶々姫をたどる汐路にて

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留目鹿島神社(加筆)

 

茶々姫をたどる汐路にて

『近江浅井氏 小谷城と城下をゆく』によると、鶴松の病気平癒祈願にで五十石の寄進を受ける、茶々の疱瘡治癒の際には立願米二百石の寄進を受けるなど、茶々との縁が深い神社。


亮政が小谷築城の際現在地に勧請したとされ、また浅井三代、豊臣家、徳川家の信仰も厚かったと由緒書に伝わります。

当時は「田川大明神」と称する神社だったそうです。


鹿島神社文書に鶴松の祈祷、茶々の祈祷双方記録が残っているようです(『東浅井郡誌』より)。

(一)増田長盛等連署書状

 今度若公様(鶴松)於御本復者、最前之御立願米可令社納候、其上重而五拾石可有御奉加赴被仰出候 被得其意、可被抽懇祈候。於神前耳卯茂不可有油断事専用候。恐々謹言。

 

 八月三日                    増田右衛門尉

  (天正十九年)                     長 盛(花押)

                           小出播磨守

                                 秀 政(花押)
                            伊藤加賀守
                                 秀 盛(花押)
                            寺澤越中守
                                 弘 政(花押)
                            石川伊賀守
                                 光 重(花押)
                            民部卿法印
                                 玄 以(花押)
 鹿島神主

(二)木下吉隆書状
 大坂御ふくろ様(茶々)ほうそうを被成御煩候付而、無異議早速被成御本復候様にと被成御立願候條、被得其意、於神前御祈祷候て、御札可有進上候。八木弐百石分被仰出候。目出可寺納之旨、其時分重而可令申候。恐々謹言。
 猶以御立願相叶候者、右八木を以、可有御造営之由候。

 十二月七日                     木下半介
  (天正十九年)                       吉 隆(花押)

 鹿島
   社人
鶴松が亡くなって四カ月が経過していますが、「大坂御ふくろ様」からこの頃茶々が大坂にいて、鶴松の死後も亡き若公の生母として遇されている様子が分かります。

鶴松の死の数カ月後に茶々は疱瘡を患いますが、やはりそれだけ気落ちがひどかったのでしょうか。
痛々しく思います。
 

北野に伝わる[浅井家侍女]盛秀の伝説と墓

 

茶々姫をたどる汐路にて

長浜に来ています。


以前取り上げた[浅井家侍女の墓]の展示が行われている五先賢の館に行ってきました。

小谷城麓の小さな墓石 ~「北ノ方」盛秀の墓(2010/05/25)


展示では、北野地区の言い伝えを詳しく紹介されていました。


(墓石の刻字)
「 渓 盛秀禅定尼 元亀四癸酉年 四月四日」


北野では、この盛秀が小谷落城の際姉妹を逃がした人物として語り継がれているそうです。


小谷を脱出し、池奥というところの民家で姉妹を古い野良着に着替えさせて北野へ降りた道は、今でも「こじき坂」と呼ばれているそうです。

姉妹はその後北野から田川堤を下って平塚の実宰院へ逃れ、匿われました。そのとき三人の侍女が姉妹の供をし、その中の一人が盛秀であったということです。


盛秀も、実宰院に住むよう言われましたが、姉妹の足手まといになってはと実宰院を離れ北野に戻り、尼となり暮らしました。盛秀の住まいは小谷城を頭上にのぞむ地にあり、毎日姉妹の無事を念じて暮らしたといわれています。

しかし盛秀はその後突然亡くなり、その死を悼んだ北野の人々によって懇ろに葬られたそうです。



この伝承は実宰院の寺伝とも一致する興味深い内容でした。

姉妹を逃し実宰院に届けたという伝承については、昭和五十五年の一月九日付(盛秀の墓が発見されたとき)の新聞記事も展示されており、古いものであることが偲ばれます。


先日書いた記事の通り、『淡海国木間攫』にはこの墓石について「浅井長政北ノ方ノ墓ナリト」と記されているそうです。

ただ、地元では上記の伝承どおり侍女として今日に伝わっています。

姉妹を連れて逃げたという事跡が彼女を「侍女」として語り継がせているのかもしれない…、と私は思いました。


盛秀の没日である元亀四年四月四日は、小谷落城の同年九月一日を五ヶ月ほど遡りますが、ここから実は早い時期に姉妹は小谷を逃がされ実宰院に入っていたのではないかとのことです。


姉妹の反応についても伝承で触れられており、盛秀が北野へ去る時に、離れるのを嫌がって「一緒に暮らそう」と懇願したと伝わっています。


三人の侍女のうち、一人は大蔵卿局でしょうか。饗庭局あたりもいたかもしれません。


展示では、『絵本太閤記』の該当部分の挿絵が展示されていました。

長政と別れる三姉妹が描かれているのですが、一人の侍女が赤子の江を抱いています。

(『絵本太閤記』の成立時期は1800年前後だそうです)

 

秀吉と有馬温泉

 
茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫をたどる汐路にて

録画していた『ビーパップハイヒール』を見ていたら、7/21放送回のテーマが有馬温泉だったようです。

そのなかで、有馬温泉と関わりの深い豊臣秀吉とのエピソードも取り上げられていました。
1400年も前から歴史書に登場し、菅原道真や豊臣秀吉など歴史上の人物たちに愛されたといわれる有馬温泉。なかでも、秀吉は有馬温泉が災害に見舞われるたびに復興に尽力するなど、この地とのつながりが深かったという。1995年の阪神・淡路大震災がきっかけで、温泉街のほぼ中心地にある極楽寺の下からは豊臣秀吉専用の「湯船」が発見された。しかし、天下人ともあろう秀吉の湯船の真上に、なぜ、わざわざ極楽寺が建てられたのか? そして、なぜ、湯船は人知れず、400年もの間、地下に眠り続けていたのか? 秀吉と有馬の人々に秘められた、歴史に埋もれたミステリーを田辺先生が解き明かす。(番組HPより)
以前有馬に行ったときに極楽寺に立ち寄ったのですが、そのときはゆっくり訪れる余裕がなく、そのとき慌ててとった画像が↑です。

番組で取り上げられていた内容を要約すると、

・有馬が大火災、慶長の大地震で大きな被害を蒙った際、秀吉が有馬の復興に大金を投じたため、有馬の人々からの人望が厚かった
・秀吉の死の3か月前に「湯船」が完成したが(但し、秀吉自身はその「湯船」には入れなかった模様)、その後徳川家によって極楽寺の下に埋められてしまった(極楽寺は浄土宗の寺で、葵の紋が施された什物もあるなど、徳川系の寺であるという説明でした)
・有馬の人々が口伝で秀吉の「湯船」について語り継いできたが、時とともに伝説化した
・阪神淡路大震災の際、秀吉の「湯船」が発見された

…と言った感じです。

有馬には「ねね橋」と言われる場所があり、その近くには非常に愛らしい寧の像があります。

茶々姫をたどる汐路にて

隣には「太閤橋」があり、大きな通りを挟んだところに秀吉の像もあります。

茶々姫をたどる汐路にて

秀吉から「西の丸五もじ」こと京極龍への手紙から、龍とその母マリアもこの地を訪れたことが分かっています。

個人的には、茶々も来たことがあるんだろうなあと思っているのですが、残念ながら記録には残されていません。草津には秀吉が茶々を連れて入ったと言い伝えられている温泉が残っているようなのですが、有馬にはそういった痕跡がなく残念です。


更新頻度が遅く、間が空いてしまい申し訳ありません。
ちょいと私的な事情でしばらくゆっくりブログ記事を書いている余裕がなさそうな感じです。
放送から遅れてしまいますが、大河ドラマの感想は順次書いていきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
 

第二十六話「母になる時」【大河ドラマ感想】

 
ようやく完子が生まれました。よかったよかった。実際は末娘の生年から考えて、遡るとしても三年ほどかな、と思います。三年さかのぼるとたしか末娘を産むのが三十八歳くらいになります。三十過ぎたら御褥すべりといわれますが、この時代意外と高齢で出産している女性も多いので驚きです。通説通りだと、三十五歳ごろの出産となり、母江が和子を産んだ年齢と同じになったはずです。
名付けは次回ですね。納得のいかない名前ですが、まあその話は次回に…

秀勝が斬られたときはどうなるかと思いましたが、傷が原因で病になったような解釈で良いのでしょうか。
しかし、北庄、小牧・長久手に引き続きまたしても江の戦嫌いが足を引っ張っていますね…
「戦嫌い」を描くのはいいのですが、どうしても娘のわがままに見えて仕方がないのは私だけ…?
だから「戦を起こす人」である秀吉がどうしても悪役になるし、このままだと関ヶ原も石田三成が「戦を起こす人」になってしまうんだろうなあ…

愚痴はともかく。今回は主にスルーされまくっている茶々姫の名護屋行き関連について。

○茶々姫の名護屋行き

ドラマ内では、その理由を「次の子がほしいから」としか語られませんでした。実際に拾(秀頼)が出来た時の秀吉の反応は、「自分の子は鶴松だけなので、次の子はお茶々だけの子に」というものでした。がっつり子作りのために茶々を名護屋に連れていくぞ!…というほどのものでもなかったようです。

ではなぜ茶々が連れて行かれたのでしょうか。
その理由は、実はこの時同じく同行していた(厳密に言うと龍のみ別に名護屋へ下ったのですが…)京極龍についての記載で伺うことができます。茶々が拾を懐妊し、大坂へ帰った後、秀吉の奥向きを差配したのは龍でした。龍は、この功績を買われて、大坂城西の丸に御殿をもらいます。
奥向きの差配―「いかほどの御こころをつくさせられ。しかしながら、御しあはせよく、いづかたも御心のままにおほせつけられ、御しあわせよき御かたさまなり。」―それは決して、奥で秀吉の機嫌を取るだけの役目ではなかったということです。
茶々は、小田原従軍でこの役割を立派に果たしたがために鶴松の母とは別に、妻としての地位を内外に認められるようになりました。そもそも茶々が名護屋に従軍した第一の理由も、やはりここにあると私は考えます。

もう一つは験担ぎ。福田千鶴先生の『淀殿』で紹介されているとおり、茶々の動向は当時「吉例」と考えられていました。「首尾よく勝利をおさめた小田原合戦でも茶々がいた。此度の唐入りも茶々がいるから勝利するに違いない」ということです。
実際そうであったというよりも、そのように秀吉が触れ回って兵を鼓舞したのでしょう。天武天皇が黒雲に吉兆を占って兵たちを鼓舞した逸話のようです。控えめに考えても、吉例のシンボルにする程度には茶々に人を引き付けるものが備わっていたと考えてもよいのではないでしょうか。
しかし、幸か不幸か、懐妊して茶々は途中で名護屋から大坂に帰ってしまいます。結局、唐入りが首尾よく運んだとはいえない結果になってしまいました。皮肉なことに、秀吉が作りだしたであろう「吉例」は実際のものとなり、逆に働いてしまったようにも思えます。

○茶々と姫路城・厳島神社

茶々は、名護屋の道中、秀吉に伴われて様々なところに行っています。
後に姪であり嫁である千が暮らす(秀吉も一時居城とした)姫路城では木下家定邸に泊り、厳島神社にも参詣したようです。自らの名で寂光院を再興した茶々姫にとって、思い入れ深い平家に縁深い厳島神社はどう感じられたのでしょうか。
各地で何日か滞在しながら二カ月ほどかけてゆっくりと名護屋へ進みました。

○大政所と秀頼

大政所重篤の報を聞き付け、秀吉は天正二十年七月二十二日に名護屋を発ち大坂に帰りましたが、同日の大政所の最期には間に合いませんでした。
憔悴しきっていたであろう秀吉を、鶴松の死を共に経験した茶々はどんなふうに名護屋で出迎え、慰めたのでしょうか。茶々が拾を懐妊したのは、秀吉が大政所の葬儀を終えて十月十日ごろに名護屋に帰ってきてからです。大晦日、秀吉は茶々と共に名護屋城で毛利輝元からの歳暮を受け取りました。拾の懐妊は、この間どれだけ茶々が心を尽くして秀吉を励まし支えていたかを偲ばされます。

そういえば、伏見宝福寺には秀吉と茶々姫が参拝して秀頼を授かったという子授け石がありますが、名護屋付近にもそのような縁の場所があったようななかったような…
茶々姫をたどる汐路にて
 

第二十五話「愛の嵐」【大河ドラマ感想】

 
ハードディスクの容量限界に気がつかずうっかり見逃すところでしたが、なんとか再放送前に気が付き見ることができました。録画をしているといつでも見ることができると気が緩んでしまってダメですね。反省。

○「なんでも思い通りになると思うのか!傲慢なおなごじゃ!」

秀次が江に対して言った台詞。ちょっと共感してしまいました…(苦笑)

○鶴松臨終

利休の死に押されてあっさり済まされてしまいました…(二人の死には半年ほど間があるはずなのですが…)
茶々姫をたどる汐路にて

七月九日に秀吉の養女小姫(織田信雄娘、徳川秀忠許嫁)が病死。うつる病だったのか、基本的に聚楽第に居を置いていた鶴松が同月十七日に大坂城へ向けて聚楽第を発しました。しかし既にこの頃に既に鶴松は体調を崩していたようで、大坂までたどり着けず、道中の淀城に入ります。同じ月の末には、寧が腹痛で寝込み、加持祈祷が行われ、医者も手配されています。この一連の病が同じものだったのでは…と仰るのが福田先生の説です。寧は病中にも関わらず、翌八月三日には側近の孝蔵主を鶴松のため淀城に遣わされました。

八月に入り、秀吉は北野社・春日社・興福寺へ鶴松の病平癒祈祷を行わせます。この春日社には茶々の名が刻まれた石垣があるとのことで、この時茶々も鶴松のために寄進をしたものと思われます。

しかし、周囲の人々の尽力虚しく、八月五日、鶴松は目的地であった大坂城に入ることなく、生まれた淀城で短い命を終えました。秀吉は鶴松の最期を看取った後、淀城で髻を落とし、東福寺常楽院へ移り二夜三日籠ります。このとき、諸大名も秀吉に習って髻を落としました。その後、秀吉は清水寺に移り家督を秀次に譲ることを表明します。その後、有馬へ湯治に出かけてしまいます。
加藤清正が秀吉の嘆きを慮って、鶴松逝去直後の見舞い控え、翌九月になってようやく大坂城に秀吉を見舞に訪れたというエピソードが秀吉の憔悴ぶりを伝えています。

鶴松の葬儀は妙心寺で行われ(傅役石川光重の縁との説を教えていただきました)、初七日にはまた妙心寺で経が読まれた際、鶴松の戒名が「祥雲院玉巖惠麟台霊」と定められ、南禅寺・天龍寺・建仁寺・東福寺に送られ、そちらでも懇ろに経が読まれたといいます。

その後も秀吉・茶々夫妻は鶴松を失った悲しみを忘れることなく、追善供養を続けました。
→*鶴松の追善供養(2010/12/18)

秀吉の嘆きは様々に筆を尽くされていますが、一方の生母である茶々の悲しみはほとんど見えません。同月十七日、北野社に「御正体」を懸けるようにと沙汰したことが残るのみです。史料にはほとんど描かれることのなかった茶々の悲しみ――こんなところに、女性の記録の少なさを痛感します。

「鶴松が生きていたら。」
鶴松はこんなふうに語られることの少ない人物です。
でも、鶴松が生きていたら。秀頼は一人で重い荷を背負うことはなかったでしょう。
茶々の背負う責任の大きさも長さも、違っていたかもしれません。
鶴松こそ、もっと惜しまれてしかるべき存在だと私は思います。

○朝鮮出兵

信長時代からの計画という視点を打ち出しておきながら、結局鶴松を失ったことがきっかけになったように描かれてしまっていました。残念です。そして、誰もが秀吉の計画を馬鹿馬鹿しいと蔑み、秀吉だけが暗君の評価になっていく…。私は特に秀吉贔屓というわけではないつもりなのですが、やはりこれだけ扱いに不公平が生じると、やりきれない思いがします。
石田三成についても同じく。
今回は結果的に徳川家に反するものはこうなってゆく運命なのでしょうか。その後に茶々姫も続いてゆくのでしょうか…
 

第二十四話「利休切腹」【大河ドラマ感想】

 
朝鮮使節との会見シーンらへんはリアルタイムで見ていたのですが、見返すのが遅くなりました。さっきチェックしたら、次回がハードディスク容量不足で録画できていないことが判明。土曜日の再放送待ちです。

相変わらず三成のキャラクターが大変な逆行を起こしているのが見るに堪えられないのですが…このまま関ヶ原までいってしまうのでしょうか…

○朝鮮使節団聚楽第会見

天正十八年十一月七日に行われた会見については、福田千鶴先生の『淀殿』で紹介された『懲毖録』という史料が出典になっていると思うのですが、その割には描き方がかなり偏っていたことが気になりました。
引用は 『懲毖録』(柳成龍著/曽我昌隆訳、新興書房、1966) より

(前略)秀吉は、わが使節にたいし、轎(かご)にのって殿中にはいること、笛とラッパを行列の先頭にたてること、堂上にのぼって礼式を受けること、などを承知した。秀吉という男はからだも小さく、容貌は平凡で、顔色はあさぐろく、とくにこれという威厳もない人間だったが、ただ目をひらけば目のたまは爛爛と光をはなち、人を射すくめるようだったという。使節を迎えたとき、かれは三重の席をしつらえ、はだかの床の上に南に面してすわり、紗帽をかぶり、黒の胴着をつけていた。
 かれの家大が数名その席につらなっていたが、わが国の使節たちが到着すると、「これへ」と予定の座にすわらせた。
 席上には宴会用の道具は用意されておらず、卓がひとつまえに置いてあり、そのまんなかに餅が器に盛ってのせてあるだけだった。酒は土器で汲みかわされたが、酒も濁っており、礼式ははなはだ簡単で、二三度さかずきがめぐってきたかとおもうと、はやおしまいになってしまい、これでは敬意を表すまもなければ、ことばをかわす機会もありはしない。
 しばらくすると秀吉は、つと座を立ってしまい中にはいっていった。けれども家来たちはだれひとり動こうとしなかった。するといつのまにかひとりの男が平服のまま幼児を抱いて中からでてきて、大きな堂の中をぐるぐる廻りはじめた。みるとこれが秀吉だ。なみいるものはすべて平身低頭であった。やがて秀吉は縁側にでてわが国(朝鮮:紀伊注)の楽師たちをよび、さかんに音楽を奏でさせていたが、そのうち抱いていた幼児がかれの着物の上に小便をかけてしまった。秀吉は笑いながら側近のものを呼ぶと、中から
「かしこまりまして………」
と長い返事をして、ひとりの日本のおんながとびだしてきた。秀吉はおんなに幼児をわたし、その場で別の着物に着替えたが、まるであたりに人間なんぞいないとでもいうような厚顔不遜の態度であった。わが国の使節たちはその席で秀吉にわかれたのだが、そののち二度とかれをみることはできなかった。秀吉は正・副使にはそれぞれ銀四百両、書状官、通訳以下には資格におうじてみやげを与えた。
 わが国の使節たちは帰国しようとしたけれども、秀吉は返事の手紙を与えなかった…(以下略)
まずは秀吉の客観的な見た目が書かれてあります。
いろいろな逸話でサル顔とその容貌に難ありのように描かれますが、朝鮮の使節は秀吉に対し、体は小さく肌は浅黒いが容貌は平凡。ただ、まなざしが常人とは違っていた、と証言しています。

聚楽第で行われた謁見ですが、まず秀吉は紗帽をかぶり黒の胴着という姿で使節を迎えています。諸大名と共に、秀吉も既に座して使節を出迎えた訳です。
お酌の次第は日本でも地方によって御作法が違いますので、なんとも云いかねます。
朝鮮の使節はもっと敬意を著わし、言葉を交わす機会がほしいと思っていたようですが、日本式では盃が二三度巡り、宴は一区切りついてしまったようです。

そこで秀吉は正式な謁見の儀は終わったため、席を中座して、平服に着替えた上で、朝鮮から着ていた楽師の演奏を聞かせてやろうと鶴松を抱いて連れてきたわけです。堅苦しい盃はおしまい、あとは楽に宴をたのしもうという秀吉なりのけじめだったのかもしれません。なにより、朝鮮の楽師という珍しい人たちが来ていたため、鶴松に見せてやりたかったという思いももちろんあったのでしょう。
しかし、決してドラマのように、いきなり公式の席で鶴松を連れ、朝鮮使節をないがしろにするような暴挙に及んだわけではありません。秀吉は秀吉なりにここは筋を通しています。

鶴松登場に対する日本の諸大名の様子も違って、ドラマでは正式な謁見の場に鶴松を連れてきたことに非難の目ばかりが強調されていましたが、実際この頃には嫡男としての広めは済まされていましたので、朝鮮使節が見た通り、「諸大名は即平身低頭だった」というのが事実だったのでしょう。朝鮮使節にも嫡男のお披露目、という側面もあったのかもしれません。

秀吉はぐるぐると鶴松をあやしながら部屋を巡り、縁側に出て朝鮮の楽師が奏でる音楽を聴かせていました。その最中、鶴松がおもらしをしてしまいます。まだ褓もとれぬ年頃、いつものことだったのでしょう。ドラマでは大慌てで家臣になんとかさせていましたが、実際には秀吉はただ笑って奥から女性を呼び、鶴松を渡し、自分ももう一度着替えたという、落ち着いたというか、手慣れた対応を見せています。この女性はまさか茶々姫自身ということはないと思うので、鶴松の乳母だったのではないかと考えています。
というわけで、言うまでもないかもしれませんが、奥から呼ばれて初めて女性が出てきておりますので、当然ながら宴の席に江はいなかったはずです(笑)もし女性の同席が許されるなら、誰より寧こそ同席すべき女性ですね。

秀吉の不遜ぶりを描きたいという意図があるのかもしれませんが、そのような曲解はちょっといただけませんねえ…

○鶴松の衣裳

今回登場していた鶴松は、頭もちょんちょこりんに結って、小さい袴のようなものをはいていたように見えました。
実際はまだ袴着を迎えておらず、袿姿でよたよたと歩いていたのでしょう。
鶴松の姿は、三つの木像や肖像が伝わり、共通する姿から普段のどんな姿で生活していたかが伺われます。
茶々姫をたどる汐路にて 茶々姫をたどる汐路にて 茶々姫をたどる汐路にて
最近彩色を直した左の像が見た目は分かりやすいですね。
どれも髪を結わえておらず、小袖や袿をまとって暮らしていたようです。

○魔の天正十九年の始まり

秀長の死は、大河ドラマ『秀吉』の時に号泣した記憶が…

秀長といえば、以前から何度も書いているとおり、淀城修築を奉行した方で、そこで生まれた鶴松の後見でもあった人です。秀頼にとっての前田利家、鶴松にとっての豊臣秀長というくらい、秀長の死は茶々姫や鶴松にとっても大きな不幸であっただろうと思われます。

前年には妹旭をなくし、天正十九年には弟秀長、愛娘(養女)小姫、愛息子鶴松を相次いで無くし、寧も病に伏せる…

○鶴松の病

朝鮮使節との引見の約十日後、鶴松が病で寝付いてしまいます。秀吉は二度に渡り北野社に平癒祈祷を命じますが、翌天正十九年になっても一進一退の状態だったようです。まだいとけない体で寝付いている様子を思うと、心が痛みます…。
一月二十七日、知恩院にて鶴松の病状について会合が持たれ、薬師選定についても話し合われています。
二十九日には、北野社だけに及ばず、賀茂社、祇園社、清水稲荷社などの諸社へ三百石ずつ寄進し病気平癒を祈祷させました。

予定されていた鷹狩りを延期まで鶴松の病にかかりっきりだった様子がうかがわれます。
閏一月、この延期されていた鷹狩りが行われましたので、其頃には病状が安定したのだろうと言われています。

とはいえ、六月に大蔵卿局の夫と言われる大野佐渡守が尾張で鶴松の病気平癒祈祷を営んでおりますので、その後もなにかと病がちだったのかもしれません。

口の中の病だったといいますが、喉が悪かったのでしょうか?喉が悪いと高熱も出ますし、体力も…
死病となったのは、寧と小姫と同じはやり病だったのではと言われていますが、この症状は腹痛だそうです。
冬の病で弱っていたところに、はやり病に襲われたのかもしれません。

とにかく、口中の病からは命を取り留めたわけで、秀長の「鶴松の病はわしが抱えていくで」という言葉は、非常にいいセリフだったと私は思いました。鶴松の後見だった秀長なら、本当にそう思っていたかもしれないなあ…と。

○小吉秀勝

北条攻めの論功行賞で甲斐国を与えられた小吉秀勝。
これも、鶴松が回復して数カ月の間に、小吉の母日秀の願いで美濃岐阜城に移されます。遠方で会いづらいという理由だったといいますが、日秀にとって小吉は特に掌中の珠だったのでしょうか。
実際には既に小吉秀勝と夫婦となっているはずの江ですが、聚楽第も人質制度も既に充分機能していますので、甲斐にも岐阜にも行くことなく聚楽第邸にいたのでしょう。


今回の茶々の衣装も美しかったですね。山吹色の打ち掛け姿も鮮やかで綺麗でしたし、紅梅の打ち掛けも白が映えてとっても良かったです。
 

金剛山幡岳寺(高島市)について

 
湖西で行きそびれている場所の一つに、幡岳寺があります。幡岳寺は、柴田勝家と市の供養のために勝家の甥佐久間安政が建立したといわれているお寺です。

幡岳寺には勝家と市の位牌が残っているとされ、是非一度参拝に伺いたいと思いいろいろと調べていたのですが、位牌が安置されている位牌堂はご一族の方しかお参りできないとか。そして、市の位牌も現存していないそうです。残念。
→*幡岳寺

こちらのブログの筆者様が書かれた論考がWEB上で見られるということでしたので、拝読してきました。
→*佐久間氏関係論考-1「柴田・佐久間・吉原氏の系譜 近江高島、幡岳寺資料を中心にして」

論考内に貴重な幡岳寺過去帳が引かれてありましたので、勝家夫妻の項について引用します。

「幡岳寺殿籌山勝公大居士  天正十一年四月二十四日」

   柴田勝家。命日は北ノ庄城落城の日である。幡岳とは勝家の号と言われている。

   位牌も現存している。 

「東禅院殿直伝貞正大姉   勝家公御室   十九日」

   勝家の室と言うのであるならば、幡岳寺の建立意図からしてもお市の方であろう。 

   命日が勝家と違っているが。
他は佐久間家や柴田家の関係者で、茶々姫に関係の深そうな人は見えませんでした。

市の命日が違っているのが気にかかりますが、論考内で指摘されているとおり、幡岳寺の建立が勝家と市の供養を目的としているのならば、単なる記載ミスでしょうか。寺伝等を拝見したことがないので分かりかねますが、幡岳寺にて供養されるべき「勝家公御室」が市とは別人である可能性はないのでしょうか……と疑問を抱いてしまいましたが、十九日に亡くなった勝家の妻ともいうべき人物が浮かんでこない限りこればかりは考えてもどうしようもありません。

命日が違っていると言えば、後年茶々が勝家のために追善供養を営んだ記録も、命日の二十四日ではなく二十一日となっていることを指摘していただき、気になっています。とはいえ、こちらは追善供養が行われた日なので、何らかの事情があって二十四日に出来なかった、もしくは避けたとも考えられますが。

ともかく、以上のことから考えると、決して得られるものが多い参拝とは成り難いようですが、それでもご一族の方が建てられた菩提寺、やはり一度は手を合わせに伺いたいです。
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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