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完子と子どもたち

茶々姫をたどる汐路にて

完子の子どもたち(主に娘を追いかけていた時のツイート。
フォロワーさんにかなりいろいろと教えてていただきました。改めてありがとうございました。
出典が判然としなかった情報、新しい知見など勉強になりました。

大坂の陣の後、完子に及んだ影響もすこし伺うことができました。

完子の娘長女、次女の名前が「通君」「序君」というのは何が出典なんだろう…。三男道基(道昭)の幼名は千代鶴というらしい。長男康道は松鶴。跡継ぎの次男道房と四男増孝の幼名がわからない。道房はどこかに残ってそうなんだけど…。

posted at 00:59:11

福田先生曰く、多産の場合は生母を疑えとのことだったけれど、完子の四男三女はみんな完子の子っぽい…。末娘三女は瑞龍院日秀の請いでその弟子となって瑞龍寺を継いでいる経歴から完子の実子なんだろう。長男も間違いなく完子の子(写経が出てきたし)。

posted at 01:02:37

生年のわかっている長男康道と四男増孝でも十五歳離れている。三女も含めるとそれ以上ということに。でも、私と弟も十五歳離れているから問題ない。むしろ立て続けに産んでいるより信憑性があるかな。

posted at 01:05:15

長女の通子、道子は弟道房の妻長子(鶴)の混同のように思えなくも無い…「威公家伝」では鶴は「通子」になっていたからなあ…こだわりだすときりがありません。

posted at 01:49:01

長女が1613年生まれだとすると忠象より年下なんですね…

posted at 22:54:49

図書館で完子の娘たちについて史料を見てきました。両本願寺さんの系図に長女「通」、次女「序」の名前が確かにありました。西本願寺の跡継ぎが長女の所生ではないことが気になっていたのですが、娘三人を産んだ後二十歳で早世したようです。なるほど、納得。

posted at 17:45:09

嫁がせた時期から見ると、次女だと思っていた序のほうが長女…?系図によると、序が元和九(1623)年輿入れ、通は寛永二(1625)年輿入れとのこと。あ、「九条家譜」も序が長女になってる。

posted at 18:19:33

三女については、「瑞龍寺歴譜」が出典っぽいかな…。見てみたいけれど、日本古典籍総合目録のデータベースに引っかからず。序が長女とすると、三男松殿道基(道昭)と四男栄厳の間が七年ほどあいています。道基は慶長二十年生まれ。大坂の陣とかが関係しているのかしら…。茶々姫の娘だし…。

posted at 18:26:35

フォロワーさんに教えていただいたおかげで、完子の娘についていろいろとすっきりしました。この場を借りて御礼申し上げます!

posted at 18:27:36

冬の陣のとき、完子は千代鶴(道昭)がおなかにいたんですね。鐘銘事件が起こったときにはちょうどおめでたがわかってつわりに苦しんでいた頃でしょうか。いろいろと不安だったんだろうなあ。

posted at 18:32:26

従来の説、文禄元年完子誕生説に従っても、末子の三女日怡が生まれたときに完子は三十四歳。多少遡るかも、と言われていますが、あまり遡らないかもしれません。日怡の経歴から考えて、完子の娘だと思うし、三年年長の四男栄厳ははっきり母が完子だとかかれてあります。疑えばきりないけど。

posted at 18:36:58

この四男の誕生時期を考えると、完子が秀忠の養女待遇を受けるようになった時期がわかる…?明智玉さんとまではいかないけれど、やっぱり徳川家に憚るところがあったのかな…。そんなするっと豊臣の縁者が徳川の縁者になれたわけではないのかもしれませんね。

posted at 18:46:20

完子の娘たちについて、『真宗史料集成』の七巻にどちらも掲載してありました。九条家譜は、史料編纂所のデータベースの大日本史料稿本から調べました。

posted at 01:28:15

康道はさすがにあれだけ写経をおさめているところを見ると、完子の息子に違いないと考えています。通説の文禄元年でも数え十六歳ですから、私もそんなに早すぎるとは思わないんですよねえ…。

posted at 01:30:42

次女らしい通が数え十三歳で輿入れして十七歳で第一子を産んでますから、通説では数え十二歳で輿入れして十六歳で長男松鶴を産んだ完子とひとつしか変わらないんですよね。

posted at 01:36:11

「本願寺家系」に「光円(中略)室九条大閤幸家公女 通君 寛永二乙丑年御入輿 同九年十二月廿三日卒廿歳 号貞梁院(後略)」、「女子 勘姫寛永六己巳年二月十五日誕生 慶安元年播州亀山本徳寺/母九条太閤幸家公女」、

posted at 01:58:37

「同 寛永八年七月廿日生同九年十月丗日卒 母同上」、「同 同九年十月廿一日生同年十二月十一日卒 母同上」とあります。

posted at 01:58:51

三人の姫については「大谷嫡流実記」琢如上人の項に「御母関白幸家公御女成等院御方」とあり、朱書で「字序君」、「御母成等院尼 元和九年亥年八月卅日御入輿アリ」とあります。他の子どもたちの母についてはありませんでした。

posted at 02:02:06

そうですよねえ。例の母「高倉永家女」については、出典史料がわかりません。これが書かれてある事典にも結構誤りがあるらしいので、史料的にもやはり完子が母なのだろうと思います。異母という情報があってもこういうことがあるんですね。

posted at 02:07:08

なるほど、系図纂要という手がありましたね。確認してくればよかった…

posted at 02:07:42

「大谷嫡流実記」には見当たりませんでした。一応流し読みしたのですが、他の箇所にあったらごめんなさい。

posted at 02:09:21

子女はあります。母が載っている人と載っていない人がいました。「大谷~」のほうが裏方さんの情報が少なかった印象です。『公家事典』の情報、参考になります。ありがとうございます。

posted at 02:21:40

「通」は「みち」、「序」は「つぐ」って読んで良いのだろうか…

補記:「通」は「つう」だそうです。本願寺の図録より)

posted at 09:51:26


まだまだ調査続行中です。
『系図纂要』に長女序の産んだ末子宣政が、浅井左兵衛を名のったこともかかれており、大変興味深いです。
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関ヶ原合戦における茶々の人質統制役割?

田端泰子先生の『日本中世の村落・女性・社会』を読んでのつぶやきです。

「『大坂夏・冬の陣』に収斂される淀殿の役割」が再録されていましたのでチェックしましたが、内容についてはあまり変わっていなかったと思います。
あと、その前後の「豊臣政権の人質・人質政策と北政所」、「春日局に見る乳母役割の変質」も読みました。
あとは田端先生の『北政所おね』の記事などを巡って下のつぶやきが書かれております。
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田端先生はいろいろなところで関ヶ原合戦以前は寧が人質統制の役割を担っていたが、合戦の際は茶々が人質統制の経験がなかったために人質政策がうまくいかなかった、といわれているけれど、当時茶々は人質を統制する立場になかったのではないでしょうか。

posted at 22:10:54

むしろ、本丸に人質を集めるつもりであったのならば、茶々と秀頼も、旗頭として本丸に身柄を抑えられていた状態だったのではと思います。大津城攻防戦で茶々の使者饗庭局がなかなか動けなかったのも、孝蔵主のほうが自由に城に出入りできる立場だったからでは。

posted at 22:12:27

結局、大津城講和も、大津城開城が高次に西軍へ降服勧告するのと同義だったから、饗庭局は茶々姫の使者として動くことができたのはないかと思います。

posted at 22:14:05

茶々に人質をまとめる力がなかったから、と言われているけれど、どちらにも積極的に味方していない茶々が、西軍方にとってそもそも人質をまとめる立場だったのかというのがものすごく疑問。

posted at 22:15:27


たとえば、大坂の陣では、人質の一人であった明石全登の娘レジイナを可愛がり、婚礼の面倒を見るつもりだったという下りは先日紹介したとおりです。
そして、寧との交流断絶が否定されつつある昨今、寧やその女中に拠るアドバイスなどがなかった前提も崩されるべきでしょう。茶々姫の人質統制役割という点では、様々な視点より見直しが進められることを願います。

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茶々の身長、秀頼の人となり

茶々姫が170cm近くあったという説って、あの「伝淀殿像」から来てるんだ。信憑性はそんなものなのに、江の遺骨から推定された身長の話くらいまことしやかに囁かれているんだなあ…

posted at 16:12:11


らしいですよ。なあんだ、といった感じです。
そもそもはスポーツ報知の記事が出典だったそうです。

茶々姫をたどる汐路にて

この肖像については、桑田忠親先生が「淀君」(『戦国の女性』)で、「この画像は淀君の死後かなり年がたってからの想像画であるらしい」とその不確かさを伝えています。

又聞きですが、「長政と市の肖像画を参考に描かれたもの」と聞いたこともあります。
この肖像画が作られた頃には、茶々に対するネガティブキャンペーンもすっかり根付いていたのではないでしょうか。そういったものを加味しないで、本人の姿を映したものでない可能性が高いのに、これを基に美醜だの身長だの論議するのはやっぱりおかしなことだと思います。

浅井家に大柄な人が多かったから、茶々も大柄だったのだろうとまことしやかに言われていますが、同じ父母を持つ江が小柄な人であったことは、骨から実証されています。茶々や常高院が小柄であったはずがないという論は成り立ちません。

そういえば、ネガキャンといえば、どうしても貶める要素がない場合、下のネタを使うのが常套手段だそうです。茶々姫の素行に関する俗説や推して知るべし、です。

同じ桑田先生の論文では秀頼について「暖衣飽食、遊情に流れ、いたずらに肥満していた」と辛辣です。また、「豊臣に姓の秀頼をこんなに育てたのは、もちろん生母淀君の責任でもあろう」と茶々の養育にも辛口です。

二条城会見で秀頼の所作振舞が家康を驚かしたエピソードは、秀頼が巷で噂されているような人ではなかったということを偲ばせるエピソードです。また、積極的に文武に触れ、様々な一流人に教示を受けていたことも何度も取り上げているところです。
また、教えていただいたところによると、秀頼のエピソードとしてよく語られる「肥満していて馬にも乗れなかった」というものは、かの今川義元にもあるエピソードで、敗者を貶める常套句だったそうです。
秀頼は幼いころから前田利家が特別に用意させて馬に触れ、愛馬と共に広い大坂城を駆けていたことでしょう。

大坂の陣の秀頼は、徳川からの偽りの和議を何度も突き返し、はじめから城を枕に死する覚悟であったといいます。必要以上に強気に描かれる母茶々よりもはるかに誇り高く威厳のある態度でした。
茶々が江戸へ人質に下るという案について、茶々はこれを了承しましたが、これは誇りの中にも我が子が生き延びてほしいと願う母の心であり、また江戸には妹がいるという安心感があったのでしょう。
でも、母親を差し出すということも当時の秀頼にとっては誇りに反することで、これを曲げて拒否しました。

現代の感覚では、むざむざと豊臣家を滅ぼすような道を選んで…と言われてしまいますが、当時の感覚と現代の感覚は全く違います。秀頼は、家康を向こうに回して諂わず、秀吉の子であるという「誇り」を最後まで貫き通した一生であったと私は思います。

| ∟つぶやきまとめ | 20:00 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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玉造稲荷神社に秀頼像建立へ

折角人物像の見直しに迫る内容を含んだ記事なのに、タイトルで台無しです。
当時、当前の体制であった、幼い後継ぎが生母の後見をうけるということはマザコンと同義なのでしょうか?他ならぬ現在の価値観でおしはかられた結果の烙印だと思います。

そして当然のように関連ブログ記事に見える秀頼不義の子説…否定するのも疲れます。

でも、銅像建立には期待。制作中を見たところ、「精悍」とはいえふくよかな感じっぽいですね。
そもそも、体型について実際見た人が記録に書きとめていないけれど、どこまで本当なのでしょう。


 関白家の家督を継ぎ、大坂夏の陣を経て自害した豊臣秀頼の復権を図ろうと、大阪城の鎮守神、玉造稲荷(いなり)神社(大阪市中央区)境内に秀頼の銅像が建立されることになり、10月の完成に向けて制作が進められている。一般にはひ弱でマザコンのイメージが強い秀頼だが、専門家の間では「実際は帝王学を学び、人望も厚かった」として再評価を求める声も。2年後に秀頼生誕420年、3年後には大坂冬の陣400年という節目を控える中、関係者は「大阪再興のきっかけにもなれば」と期待している。

 玉造稲荷神社は大阪城の三の丸だった場所にあり、秀頼と母の淀殿も参拝に訪れた。境内には、秀頼を出産した際の淀殿の胞衣塚(えなづか)や秀頼から寄進された鳥居が今も残っている。

 今年は大阪城天守閣復興80周年にも当たることから、神社では、ゆかりの秀頼を顕彰し、太閤時代の大阪のにぎわいを取り戻そうと、銅像の建立を計画。文化勲章受章者の彫刻家、中村晋也さん(84)に制作を依頼したという。

 像は、台座を含めて高さ5・3メートル。衣冠束帯姿の精悍(せいかん)な姿を蘇らせる。中村さんは、鹿児島県のアトリエで制作を進めており、「大阪のみなさんに、親しんでもらえるような秀頼像を作りたい」と意気込む。

 秀頼は、天下統一を果たして関白の位まで上り詰めた父、秀吉に比べて存在感が薄く、淀殿の強い庇護(ひご)があったことからマザコンとみられがちだが、大阪城天守閣の北川央(ひろし)・研究主幹は「秀頼のイメージは、あくまで徳川史観に基づいたものだ」と異論を唱える。

 北川さんによると、実際の秀頼は、身長180センチ以上の堂々とした体格の持ち主で、幼い頃から帝王学を学び、頭脳明晰(めいせき)で人望もあった。史料「小須賀氏聞書(ききがき)」などには、京都・二条城で秀頼と対面した宿敵、徳川家康も、そうした面を認めていたことを示す記述が残っているという。

 「秀吉の像は各地にあるが、秀頼の場合、人生のほとんどを過ごした大阪がふさわしい。豊臣時代を見直す象徴になってほしい」と北川さん。玉造稲荷神社の鈴木一男宮司(63)は「淀殿の陰に隠れてひ弱という悪いイメージを払拭したい。銅像が、再び大阪の街を盛り上げるきっかけになれば」と話している。

| ∟書籍・論文・記事 | 13:03 | comments:16 | trackbacks:0 | TOP↑

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浅井鶴千代~三好直政の謎

干身様のところで、私の記事を紹介していただきました。ありがとうございます。
リンクしようかと思ったのですが、ブログの性格も少し違うので、直リンクはやめておきます。

紹介していただいた記事はこちら⇒『十六・七世紀イエズス会日本報告書』

記事の中で、私は大した検討もなく、浅井(三好)直政の妻明石全登の娘をレジイナの姉カタリナかと推測しましたが、干身さんはレジイナ自身が直政の妻では、と考察されています。そうかもしれないと思いました。
また詳しいことは改めて記事にしたいと思っていますが、例の『十六・七世紀イエズス会日本報告書』では、レジイナの経歴について簡潔にいうと、「城を逃れ、さまざまな経緯で家康に弁明し、釈放されたあと信仰に生きた」とあります。

その流れで夫直政といつ頃婚姻したのだろう…と考え始め、実は慶長六(1601)年、もしくは慶長十一(1606)年生まれだったという直政の生年を知り、母とされる海津局や祖母とされる浅井鶴千代との年齢の不合理にぶつかり、一晩うんうんと唸りながら考えておりました。

今回のつぶやきはその経緯です。

浅井明政の妻浅井鶴千代と宗正寺に入った海津政元の妻は別人なのか…。そうすると饗庭局との関わりはまた別の話ということ…?

posted at 13:30:37

昨日、海津局一家のことが気になりだして眠れなくなってしまった…。『寛政重修諸家譜』曰く、海津の息子直政は寛永七(1630)年没で没年が三十歳もしくは二十四歳ということは、生まれ年は慶長六(1601)年か慶長十一(1606)年。

posted at 16:22:07

その父政高は元和元(1615)年没で没年五十五歳ということは生年は永禄四(1561)年。直政が生まれたときは四十一歳、もしくは四十六歳。

posted at 16:24:17

政高と海津局の間にはあと三人娘がいる。これがみんな直政の姉だとして、直政が慶長六年生まれで、海津局三十五歳の子どもだったと仮定すると、海津局は永禄十(1567)年ごろの生まれ。海津局の母鶴千代の生年も不詳だけれど、天文二(1533)年には夫明政と寄進の記事がある…

posted at 16:29:17

若く見積もって天文二年に十二歳だったとしても、海津局を生んだのが四十過ぎになってしまう…。鶴千代と海津局の間に、どうしても一代抜けているような気がしてならない…。

posted at 16:34:31

もしくは、海津局と直政の間に一代抜けているのかもしれない…。

posted at 16:41:17

①鶴千代・明政―海津局(海津尼、政高妻)―海津局(海津、明政養女、田屋式部妻)―直政かなあ…と。もしくは②鶴千代・明政―饗庭局―海津局―直政も考えました。もう少し手がかりがほしいところです…

posted at 23:14:15


①宗正寺と浅井明政妻鶴千代・海津政元妻・饗庭局
鶴千代についての考察は、『高島郡志』を読んだ時に、浅井明政と同一人物とされていた海津政元の妻の没年が天正五年になっていたことに引っかかったものです。
鶴千代さんの没年は、『戦国大名閨閥事典』によると慶長七年で、戒名も記されています。これの出典が分かればもっとはっきりするのですが…。医王寺さんあたりの過去帳などが出典なのでしょうか。
境内には海津政元夫妻のものとされる供養塔があるという記載もありました。
浅井亮政の娘には、嫡女である鶴千代(浅井明政の妻)の他に海津政元の妻がいたということがうかがわれるのです。

では、鶴千代は宗正寺とは関係のない人だったかというと、宗正寺は開基が饗庭局と誤伝されるほど饗庭局に縁の深い寺院です。郡志曰く、饗庭局の位牌が寺に残り、『名墓録』に局の供養塔があることが書かれていたことは以前記事に取り上げた通りです。
鶴千代は、いろいろな系図によって浅井明政と鶴千代の娘とされています。

海津政元の妻と饗庭局は叔母姪の関係ということになりますが、かといって無関係ではありません。
政元妻と鶴千代の交流があり、饗庭局の帰依するところとなったというところでしょうか。

茶々姫をたどる汐路にて

②直政周辺について考えている経緯 その後
その後、干身さんのところでこの疑問をぶつけさせていただいたところ、「直政が三好を名乗ったのは外戚の姓だったから」という『寛政重修諸家譜』の記述を注目する視点をご教授頂きました。

茶々が千の退城に際し直政・海津局をつけ、江がその後大切に保護していた直政・道高の立場や待遇を考えると、直政は間違いなく浅井宗家の血は引いていたのだろうと思うのです。

海津局には上記のとおり娘が三人いますが、その中に直政の妻はいませんので婿養子でもない。そもそも二代婿養子(鶴千代の夫明政、海津局の夫政高)ですし、直政の妻は何度もここで出てきているとおり明石全登の娘です。
そして、「外戚」とある以上、母が三好を名乗る人物で、父が浅井を名乗る人物であるということと考えられます。
つぶやきの中で検討している海津局が二代いた説、海津局は饗庭局の娘であった説はこれにあてはまりません。

最も単純に考えるならば、直政は海津局の嫡孫であり、父が海津局の息子、母が三好氏であったと考えるのが一番整合性があるでしょうか…

≪今のところの仮説≫
浅井亮政―鶴千代(婿養子:明政)―海津局(婿養子:道高)―息子(妻:三好氏)―直政(妻:明石全登娘)―道高

医王寺と宗正寺の過去帳を拝見しに伺いたい…どちらも遠方ですが…

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第二十三話「人質秀忠」【大河ドラマ感想】

OPの茶々の役名が「淀」に変わっていてちょっとがっかりな私です。「茶々」も残してほしかったなあ。

○旭と秀忠

義理の母子として登場した二人ですが、『改正三河後風土記』では旭が家康に輿入れした際、秀忠とも母子の縁を結ぶ盃を交わしたことが書かれてあるそうです。ただ、今回のドラマのように秀忠が旭を訪ねた記録も、喪に服した形跡もないことから、福田先生はその信憑性を疑問視されています(『徳川秀忠』)。
しかしながら秀忠は幼いときから後継ぎとして扱われていたとされていますので、旭と養母子関係を築いていても不思議ではないかなと私は思います。

○秀忠の元服

今回、秀忠の身なりを整えたのは大政所でした。これは大政所とする説(『徳川実紀』、『御当家紀年録』、「家忠日記増補」、『幕府祚胤伝』)もしくは寧とする説(『木下氏系図附言纂』)の二つがあり、特に寧の研究に強い田端泰子先生は好んでこのエピソードをとりあげられており、その影響かどちらかというと寧説のほうが主流であるように思います。
この縁から寧と秀忠の個人的な交流が始まり、晩年まで続けられたとされています。私はこれを全面的に否定するものではありませんが、寧と秀忠の関係には江の存在が重きをなし、寧は江の養母として厚く遇されていた側面が少なくなかったのではないかと考えています。

大政所説は主に徳川方の史料、寧説は寧の実家木下家の史料なので、やはり寧説のほうが信憑性があるかなとも思いますが、こちらは編纂史料であるため、徳川系の史料が出展であれば誤記の可能性も否定できないかなと思います。特に、大政所は家康に上楽を促す際、一度徳川家へ出向いているという縁もありますので、大政所説も棄てきれません。

○石田三成

秀吉に引き続き、俄然三成の描かれ方が残念になってきました。三成ファンさんにはがっかりだと思います。
利休追い落としにここまで三成が関わるとは思っていませんでした。しかも、今から秀次の追い落としにも関わる伏線まで満載でしたね。
結局、将来江が嫁ぐ徳川家を主軸に据えて、それに対する秀吉や三成が残念な描かれ方をするのはやるせません。「悪役を作らない」のではなかったのでしょうか…?
三成の描かれ方に関しては今回は一昔前に戻ったような錯覚を覚えました。

○茶々の居所

茶々は天正十七年五月二十七日鶴松を出産後、八月二十三日に大坂城に移り、翌天正十八年二月に聚楽第へ移ったようです。茶々については、移った様子は描かれていませんでしたがこの通りの居所で描かれていました。劇中では江がこの間に大坂と聚楽第を更に往復していましたね。

○小田原従軍

小田原攻めへ赴いた秀吉は、寧宛に茶々を小田原へ遣すよう書状を発します。この書状は「あくまで寧を第一に立てたもの」としてしょっちゅうお目にかかる書状なのですが、今回はそれらしき様子はありませんでした。
福田先生は、同じ箇所に注目されて寧に対し、「寧に続いて自分の気に入るように働く女性」として茶々を挙げているところに注目されていました。寧と茶々の仲が悪ければ、このような書き方は逆に寧の神経を逆撫でしたはずで、秀吉がそのようなへまをするとは思えない、つまり少なくともこのとき、ことさらな対立関係になかったのではと考察されていました。
この茶々の従軍は、ドラマでもあった通り、鶴松に続く子の誕生を望んでのことではないかと言われています。もちろんそれも理由の一つではあったと思いますが、小田原従軍の後茶々の扱いがより重くなることを思えば、妾同然の「秀吉のお相手」としての従軍であったというよりも、遠征先での働き(後述)を期待した下向であったものと思われます。

また、「太閤さま軍記のうち」では茶々(「北の御方」)のほかに京極龍(「佐々木京極さま」)も同陣したとされています。今回のドラマでは龍の下向について何一つ触れられていませんでしたが、これも下向したとする説と下向しなかったのではないかとする説があります。
まず、茶々の小田原下向に関しては、関連文書が複数残っているのですが、その文書に龍の存在はうかがわれず、また龍の下校に関する文書はみあたりません。秀吉が寧に茶々を下向させるように伝えた文書にも龍については書かれていません。そして名護屋従軍の際の書状で平塚瀧俊は、小田原での茶々の従軍を吉例としてあげていますが、小田原でも同行していたはず、また名護屋では確実に同行している龍の従軍についての言及がありません。
とはいえ、「太閤さま軍記のうち」の誤記かというと、龍が小田原へ従軍したという記載はここだけにとどまらず、龍が大坂城西の丸の御殿の主となった下りでも小田原従軍と名護屋従軍の功績によるものであるとあります。
(「関東御陣・筑紫御陣、いかほどの御こころをつくさせられ。しかしながら、御しあはせよく、いづかたも御心のままにおほせつけられ、御しあはせよき御かたなり。大坂西の丸御殿たてをき、一緒をかまへをき申され候なり。」)
この記載からは、茶々や龍が従軍先で期待された働きを窺い知ることもできるのですが、龍の小田原下向が記録に登場しなかっただけという可能性も棄てきれません。

江はこの頃聚楽第の屋敷にいたでしょうから、小田原へは同行していません。すでに秀勝の妻であるならば豊臣の縁者ですし、何よりほかならぬ鶴松の叔母ですので、寧のもとに預けられた鶴松の様子を伺いにたびたび聚楽第へ訪問することはあったかもしれないなあとは想像します。

○石垣山城

江紀行に出てこなかったのがびっくり。次回に持ち越しでしょうか。
ドラマでは一夜城として登場しましたが、小田原へ下向した茶々が入ったのがこの城であると言われています。
茶々が使用したと伝承される「化粧井戸」跡もあり、ぜひ行ってみたいところの一つです。

この間テレビで取り上げられていましたが、今回ちょっと登場していた箱根にも秀吉が茶々を連れていったとされている縁の温泉跡があるそうです(確かこちらは非公開だそうです)。

| ∟江 姫たちの戦国 | 15:54 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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『十六・七世紀イエズス会日本報告書』

茶々姫をたどる汐路にて

今回は『十六・七世紀イエズス会日本報告書』を読んだときのつぶやきより。茶々の交流関係が明らかになり、人となりについても偲ばせる欠片がちりばめられていました。

茶々姫はキリシタンでもあった信長の娘の一人と仲が良く、いつもこの女性が側にいたらしい…。彼女のお陰で茶々姫はキリシタンに好意的になったとかならないとか。どの娘さんだろうか…

posted at 17:26:32

同じ場面で、茶々姫のことを「彼女が善良な性格で、少しも役に立たない喜捨や慈善事業に熱心である」と書かれています。キリスト教の史料なので、「少しも役に立たない」は余計ですが(苦笑)人柄に触れた描写ってすごく貴重です。キリシタンじゃないのに。

posted at 17:31:41

あと、茶々姫は人質として大坂城にいた明石全登の次女レジイナをめっちゃ可愛がってたそうです。戦が一段落したら、然るべきところへ嫁がせようとしていたらしいです。明石全登の娘といえば、海津局の子浅井(三好)直政の妻ですが、ということは直政の妻は全登の長女…?

posted at 17:40:46

レジイナは落城前に城を出されたっぽいです。各務氏同様、若い女性はもれなく城から出されてますよね。殉死している女房は若くても阿古御局(30代)くらい。

posted at 17:46:06

今でも茶々姫の命日に集まって供養されているという方たちのご先祖様にあたる侍女さんたちは、そういう方たちなのでしょうか…

posted at 17:52:19

茶々姫が結婚の面倒を見たことがはっきりわかっているのは、養女完子と姪の氏家古奈。果たされなかったけどレジイナもそのつもりだったのならば、他にもそういうことがあったのでしょうね。面倒見もよい方だっただったんですね…

posted at 17:53:28

茶々姫を追いかけはじめてん十年近く経ちますが、未だに茶々姫の人となりへの認識は改まるばかりです…。断片的にうかがい知れるばかりで、こういう方だったなんてとても断言できやしない。

posted at 17:56:30


信長関係特にお詳しいk2さんにお伺いしたところ、茶々と親しかった信長の娘は筒井定次の妻だった藤(秀子)ではないかというアドバイスをいただきました。

『筒井諸記』によると、藤は信長の十四番目の娘で、生まれは永禄十年、茶々は永禄十二年ですから、ほぼ同年代。茶々にとっては、姉妹の中では長女で、浅井の中では嫡女で、豊臣の中ではお袋様で……と肩肘張った環境の中で、数少ない信頼できる存在だったのではないでしょうか。

同じく交流があった人として成田甲斐が上げられますが、彼女に関しては茶々との関係を裏付ける史料が残念ながらないんですよね…茶々の周囲にはもっといろいろな人がいただろうに、歴史から抹消されてしまったことが多かったんだろうなあ…と残念に思います。


(追伸)
サイトのメッセージ欄から時々メッセージをいただき、ありがとうございます。
メッセージフォームの注意書きにあるとおり、お返事希望の方は、返信先のメールアドレスをご記入ください。返信先について何もご記入ない場合、お返事いたしかねます。どうかご理解ください。

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第二十二話「父母の肖像」【大河ドラマ感想】


茶々姫をたどる汐路にて

○西本願寺飛雲閣

西本願寺さんの飛雲閣の映像が聚楽第として登場していました。OPの資料提供に西本願寺が入っていましたね。
飛雲閣は聚楽第の御殿を移したものであるといわれています。

○大政所の病と旭

旭が徳川家から大政所の見舞いに聚楽第へやってきていました。ドラマ内では元気そうでしたが、このときの大政所の病は重かったらしく、一時危篤に陥ったとも言われ、快癒祈祷が各地で行われています。
旭が大政所の重病の知らせを受け、岡崎から上洛したのは天正十六(1588)年六月のことです。
従来、旭は徳川家に馴染めなかったため、これ以降徳川家には帰らなかったなどといわれていますが、ドラマ内で旭と家康との疎遠をにおわせる台詞は一切ありませんでした。そして、岡崎に帰る予定があるのかないのかも明言されませんでした。実際のところ、旭は同年九月に岡崎へもどり、再び上洛し、聚楽第で病没したそうです。
これも、聚楽第といっても、徳川家から離れたわけではなく、当時大名の妻子の集住が進められていましたので、聚楽第の中(「内野」)にあった徳川邸に住んでおり、そこで亡くなったのではないかと思われます。(参考:『江の生涯』)

○淀城と秀長

おそらく思いもかけず秀吉の子を妊娠した茶々ですが、なぜか男児を産むと明言していたところは、のちのち理由が語られるとはいえ思わず首をかしげるシーンでした。

鶴松出産以降、ずっと淀にいるように描かれることの多い茶々ですが、そして鶴松だけが跡継ぎとして大坂へ移り、寧の養育に置かれるように描かれていましたが、今回は鶴松とともに早々に大坂へ移っていました。ここは実は、最新の研究成果が反映されているところです(『淀殿』)。

淀城は茶々にとって産所であったと同時に、秀吉にとって京と大坂を結ぶ重要な拠点でした。秀吉の弟秀長によって普請され、広大な城郭が築かれたといいます。また、秀長は鶴松の後見でもあったようで、意外かもしれませんが、鶴松とともにあった茶々にとっても近しい人物であったようです。これまでは何かにつけ寧vs茶々の構図で描かれていたために、寧に近しいはずの秀長が茶々と縁があったはずが無いとされてしまっていたのでしょう。

ところで、淀城に関して、茶々が女ながら城主となったように描かれますが、これは正しい表現なのでしょうか。確かに淀城では茶々が唯一の女主でしたが、城主というのはやっぱり秀吉なのではと思いますが…素朴な疑問です。

○出産に駆けつけた人たちと父母の供養

出産シーンでおろおろする秀吉と江はとても微笑ましかったですね。今回の大河ドラマでは、この二人は親しすぎず対立しすぎず、このはしゃぎっぷりくらいの距離がとても自然に思います。

実際、出産に駆けつけた人としてあげられるのが浅井一族の浅井大膳介と茶々の弟正芸とされる蒼玉寅首です(『豊太閤の私的生活』)。しかし残念なことに、大膳介が特にどのような血縁であったのか、なぜ蒼玉寅首が茶々の弟とされるのかが出典がわからないために長年の疑問ですが、浅井の嫡女である茶々が秀吉の子を出産するという事態に、浅井の縁の人々が集められたというのはありうる話です。今回は初が同席せず、また江も実際には秀勝の妻になっていたと思われますが、この二人も実際淀に駆けつけていたのではないかと私は思います。織田家からも信包か有楽あたりが駆けつけていたかもしれません。

そして、茶々は無事嫡男鶴松を生んだあとに意を決して父母の供養を秀吉に願い出ていましたが、出産時の様子を見ると、生まれてくる子どもの母方の親戚として浅井家縁の人々が集っていることから、実際は既に父母の供養を願い出、許されていたのではないかと思います。茶々が懐妊した時点で、秀吉は浅井家に一定の地位回復を許したのではないでしょうか。

ドラマ内で登場した肖像画、長政のものは時任三郎さんのお顔でしたね。市も鈴木保奈美さんっぽかったのかな?北庄落城の回にも描いたのですが、ドラマ内で市が肖像画の姿をしたところを三姉妹は見ていないんですよね。そこをつじつま合わせればもっとよかったなーと思いました。

実はあの市の肖像画、同時に制作されたものであるという説と、実は後年制作されたものであるという説があったりします。実際はどうだったのでしょう…。

○落首事件

『淀殿』によると、天正十七(1589)年二月二十五日の夜、聚楽第の南鉄門(表門)に落首が貼られ、これを、奉行の前田玄以が密かに片付けたものの、秀吉の知るところとなり、番衆十七人が拷問さながらの処罰を受けたそうです。
江が「寺に逃げ込んだ者も処罰した」といったのは、関係者の中に本願寺に逃げ込んだ者がいたらしく、その身柄の引渡しや処罰に本願寺が大いに巻き込まれたようです。
番衆の中には、病み上がりの大政所の願いによって処罰を許されたものもいたようですが、老若男女百三十人近くが処刑され、秀吉の怒りのほどが伺われます。

落首の内容ですが、ドラマ内では茶々が懐妊したのは秀吉の子どもではないという旨のことが言われていました。ルイス・フロイスは一夫多妻を否定するキリスト教の関係者で、そのためか基本的に茶々について辛い記述が多いのですが、鶴松についても、秀吉の子どもではないと信じるものが多かったと後に記しています。

当時の厳しい奥御殿事情について、知識のある人は意外と少なかったようです。
実際に茶々に少しでも怪しいところがあれば、この騒動に巻き込まれ厳しい拷問の末に命を落としていたかもしれません。

○茨木城→淀城

ドラマ内では、大坂城から直接淀城に場面が転換していました。
実は淀城に移る前、天正十六(1588)年十月ごろに、茶々が茨木城に移されたことが福田先生(『淀殿』)によって明らかにされ、小和田先生(『北政所と淀殿』)にも採用されているのですが、その下りはありませんでしたね。挿入すれば「江紀行」のネタが増えたのに(笑)

○「淀殿と呼ばれ崇められ」…ません

茶々が生きているうちに「淀殿」と呼ばれたことが無いことは福田先生の指摘されるところです。
しばらく秀吉は対外的に「淀の者」「淀の女房衆」などと記し、朝廷は「淀の女房衆」と記し、公家や門跡は「淀の御上」「淀の御内」「淀の上様」などと記しました。
⇒茶々姫の立場と呼称①

ついでに、これ以降ドラマ内では茶々は「淀」と改名したように描かれるかもしれませんが、実際に茶々は亡くなるまで本名「ちゃちゃ」を使い続けています。秀吉も子どもたちの前では「おかかさま」「お袋さま」と呼んでいたようですが、茶々には「おちゃちゃ」と呼んでいたようです。
当時高貴な人が本名を名乗ることはあまり無く、本名の代わりに使われた称号のひとつが「淀」でした。茶々自身は、対外的な文書などで「淀」を使っていたのかなと私は推測しています。

しかも、周囲が茶々姫のことを呼ぶ・記す際に使われていた名前(称号)は茶々でも淀でもなく、「御上様」でした。少なくとも鶴松の誕生後から、晩年まで、豊臣家で「御上様」といえば対外茶々のことをさす呼称でした。吉田兼見も日記で茶々姫の事を記す際、「御袋様」と記した横にト書きで、「この方は御上様と呼ばれている」旨を記しています。

この感想記事は、茶々についての基本文献ともいえる福田千鶴先生の『淀殿』を主に参考にしていますが、この本で明らかにされたことの中で、ドラマ内で採用されている事柄と採用されていない事柄があり、その違いがいまひとつわかりません。時代考証の小和田先生が採用されているか否かかなあ…と思いきや、茨木城のようなこともありますし…謎です。

○高野山

最後に、「江紀行」に登場した高野山持明院。もともと「小坂坊」といい、浅井家の菩提寺だったそうです。

茶々姫をたどる汐路にて

奥の院にも、豊臣家墓域に茶々が生前建立したといわれる逆修碑や浅野長政が建立した鶴松供養塔があり、現在はおそらくなくなっているようなのですが、秀頼と茶々の供養塔もありました。
⇒高野山 茶々姫逆修碑(伝)、茶々姫・鶴松・秀頼供養塔
また、コメントで教えていただいたのですが、上杉家墓域にも秀頼と茶々の供養塔があるそうです。その建立の由来や縁が気になります。上杉家によって建てられたものでしょうか。

画像があることからお察しいただける通り、一度高野山を訪れたことがあるのですが、これらのうちどれひとつとして見つけられなかったので、また是非リベンジしたいところの筆頭です。

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第二十一話「豊臣の妻」【大河ドラマ感想】

茶々姫をたどる汐路にて

○「豊臣の妻」

今回の大河はときどき研究結果の最前線を採用されることがあるのですが、今回のサブタイ「豊臣の妻」もそのひとつです。福田千鶴先生が当時関白・武家の妻一人とは限らないことを前提に、史料から茶々がどのような扱いを受けていたかを検討され、単なる愛妾としての扱いではなく、正妻として扱われていたことを指摘されました(『淀殿 われ太閤の妻となりて』)。私がうだうだ申し上げるよりも読まれたほうが早いです。
この著書は茶々が正妻の扱いを受けていたことを明らかにすることに力を注がれていますが、たとえば茶々の呼称についてなど、史料に基づいて新しい知見が多く提示されていることで評価をされていますので、未読の方はぜひ。
今のところ、このような新知見を積極的に採用されているにもかかわらず、江の奇抜な行動などのせいか、それらも創作のようにみなされることが多くてもったいないなあ…と思います。

○聚楽第行幸

天正十六年四月十四日、後陽成天皇の行幸があり、寧がこの日付けで従一位の官位と豊臣吉子の諱を授かります。
時代は遡りますが、摂関期から院政期における女性への従一位授与について野口孝子氏による研究があります。それによるとその条件の一つが天皇の行幸の折に邸宅を提供すること、そしてもうひとつが后の母あるいは祖母、関白の母であることだったそうです。
聚楽第行幸より以前、天正十四(1586)年には近衛前子が秀吉の養女として後陽成天皇の女御となっています。
寧への従一位授与は、それ自体が特別な計らいであったというよりも、北政所としての古式に則った評価を受けたと考えるほうが適当なように思えます。

○秀吉の茶々への愛情

こればかりは誰にも明言できないと思うのですが、「『大坂冬・夏の陣』に収斂する淀殿の役割」で田端泰子先生が以下のように言及しておられます。
淀殿は鶴松を身籠り、男子を出産したことによって、初めて側室中第一の座を獲得したと考える。それまでに淀殿は特に秀吉の関心を引く存在ではなかったようである。懐妊が決まると淀城を修築させているのは、主君信長の命に対する尊重の念の現われと考えることができる。淀殿を偏愛したために淀城を作り、子を生ませたのなら、もっと淀殿に対する書状が残っていてもよいと思うが、秀吉の書状はほとんどがおねあてであり、淀殿に宛てたものはきわめて少ない。
この茶々が鶴松を生んだことが妻妾の中で重きを置かれる唯一の原因であるという点については、福田先生が鶴松の死後も茶々に対する扱いが変わらなかったことが指摘されています。
すでに鶴松は没しており、茶々は若君生母としての立場を失っているが、そうした茶々に(毛利輝元から)進物が贈られ、秀吉も「簾中」と称して返礼したところからは、茶々は子を失っても秀吉の正妻としての地位を失ってはいないことが明らかになる。(『淀殿』)
『淀殿』では平塚瀧俊の書状をとりあげ、茶々(「淀の御前様」、「御台様」)を名護屋に同行させることについて、秀吉が小田原のときも同行させ吉例があるのでと当時の秀吉の考えを記しています。

もちろん子の有無は茶々に対する扱いやその後の人生に大きく響くのですが、子の存在に女性自身についての評価隠れてしまうとしたらそれは公平なものとはいえないように思います。
また、信長に対する尊重の念というのならば、それは茶々に対してよりも実娘の三の丸に対してのほうが向けらるべきです(茶々に対して織田家ゆかりの人としての扱いがなかったかというとある程度はあったでしょうけれども…)。淀城の建築については鶴松の誕生だけではなく、その他の政治的背景も大きく関連するところです。
そして書状の少なさについては、まず茶々が落城までの十八年を過ごした大坂城が灰燼に帰したことを考慮されるべきでしょう。

田端論文では、秀頼を生んだ以降、宛名が「ちゃちゃ」から「おかかさま」に変化していることから、「側室から後継者の母親へと、認識が微妙に変化し、なによりも秀頼の成育を優先して考えるようになった」とされていますが、前後の文章からは愛情の対象が茶々から秀頼によりシフトしたように解釈されている感が否めません。秀頼の母となった後の扱いは、茶々自身の扱いが軽くなったというよりむしろ秀頼生母として重くなったと思われます。さらに、前述の通り茶々姫宛の書状が多く残っているとは言えず、比較は困難です。

私が言いたいのは、茶々が特別であったといいたいわけではなく、かといって改めて特に貶められる要素はないのではないかというところです。自分でも書いていてよくわからなくなってきましたが…

○茶々懐妊への動揺

父の仇であるはずの信長、信長の敵であるはずの明智光秀、秀吉と同じく父の敵であるはずの柴田勝家に三姉妹の中で誰よりも柔軟に対応し、秀吉の妻寧にも懐いているはずの江が、なぜか秀吉と茶々の話には過剰に拒絶……。特に、数回前から秀吉の近くで人となりを見、理解を深めていたという設定のはずなのに、どうしてもそこが腑に落ちない今回でした。

大坂の陣における初の働きを案じさせる、姉妹の仲裁を描くための演出だったのでしょうか。いくらなんでも、前触れもなく初が大坂城に現れることはなかったと思いますが…
そして、「豊臣の妻」というなら、秀勝の妻になる江も「豊臣の妻」なんですけどね。

いつも思うのですが、茶々懐妊について秀吉や寧の驚きはいろいろ描かれるのですが、肝心の茶々の驚きが描かれたことは余り見た覚えがありません(そもそも鶴松が秀吉の子ではないという穿った設定のものならばともかく…)。
秀吉が長い間実子に恵まれていないことは皆の知るところだったでしょうし、懐妊した茶々姫が誰より一番驚いたと思うのですが…

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第二十話「茶々の恋」【大河ドラマ感想】

茶々姫をたどる汐路にて

○聚楽第移徙、北野大茶会

秀吉の聚楽第移徙は天正十五(1587)年九月十三日、北野大茶会は同年十月一日のことで、田端泰子先生は、「京の町衆たちにこれ(聚楽第)をじっくり外から見物させようとの目的でなされたと思われる」とされています(『北政所おね』)。
同書によると、京・大坂に秀吉近臣の家臣団や大名の屋敷が建設され、近臣の妻子や大名家からの人質たちが住むといった形は、天正十七(1589)年九月に具体化したとあります。
初は天正十二(1584)年ごろ(福田説)から天正十五年ごろ(小和田説)までには京極家に嫁いだとされていますが、実際この頃大溝状にいたものか、茶々とともにいたものか、大坂や京の京極家屋敷にいたものか判然としません。
江もまた同じことです。秀勝は天正十五年に秀吉の怒りを買い、許されるのが天正十七年といいますが、肝心の江は秀勝の屋敷にいたものか、茶々の元にいたものかわかりません。
そもそも茶々自体、そして龍(龍子)も、ドラマのように大坂城にとどまっていたのか、聚楽第に同行したのかわかりません。通説では鶴松の誕生しか茶々の輿入れ時期を推測する要素がなかったため、鶴松誕生の前年天正十六(1588)年ごろをその時期とされていましたが、近年では茶々が秀吉の女房(もしくは妻)となったのはもっと早かったのではないかといわれています。鶴松が生まれて以降、茶々と鶴松は主に聚楽第に居を置いていたようですので、鶴松の誕生以前も茶々や龍の居場所は聚楽第が主だったのかもしれません。
この時、秀吉とともに聚楽第に入っていたのならば、北野の大茶会にも参加したのかもしれませんね。

○肥前の一揆と黒百合

北野大茶会のくだりで、「肥前の一揆」というワードがでてきましたが、これは「利家とまつ」で登場していた佐々成政の領国でした。この成政に関わって、茶々関連で取り上げられるのが「黒百合」の話です。
佐々成政が寧に献上した黒百合を巡って、寧と茶々の争いが繰り広げられるという伝承ですが、成政はこの肥前の一揆の責任を取って亡くなります。成政が亡くなる天正十六年閏五月、茶々は鶴松を身ごもってもいませんので寧と争うほどの力はありませんでした。この伝承が事実ではありえないことは、豊臣家の女性についての先駆者である桑田忠親先生(『淀君』)の昔から明らかにされていることです。
…が、面白おかしく寧と茶々の間柄を取り上げる際には、最近でもよく使われる素材なんですよねえ、これが…。困ったものです。福田千鶴先生の『淀殿』ではとりあげられてすらいないようなことなのですが、あえてとりあげてみました。ちなみに、江(茶々の妹)や正栄尼も登場する話です。
見るべき点があるとすれば、黒百合の話の舞台は聚楽第と思われますので、確かに寧、茶々はこの頃聚楽第にいたかもしれないというところくらいでしょうか。

○初の輿入れ

今更ですが、初と京極高次の縁談は信長の生前からあったものなのでは?と以前書きましたが、信長の京極家に対する意向だけではなく、高次の母マリアの意向もあったのでは、と思います。マリアは浅井久政の娘で、立場は三姉妹と同じ浅井家当主の娘です。浅井の血を絶やしたくないと思う心がマリアにもあったのではないかと思います。息子の妻に長政の娘を、とそもそも望んだのはマリアだったかもしれません。幸い三姉妹は浅井の血を引き、しかも織田の血も引いていますから、信長にとっても好都合だったために調った縁談だったのではないでしょうか。

○「お茶々様にはなんとしても幸せに…」

秀吉の死後荒波にのまれゆく茶々姫の将来を思うと、この言葉はいろいろ考えずにはいられません。
茶々が秀吉に嫁がなければ初が京極高次の妻となることもなく、江が徳川秀忠の妻になることもなかったでしょうし、浅井一族や旧臣の運命も大きく変わっていたでしょう。渓心院が京極家に縁の深い女性だったことを考えると、初の婚姻が茶々の口利きでなったという話はある程度信憑性のあることですし、江が豊臣家と徳川家のよすがとなったのも秀頼の叔母という立場も影響したと思われます。
そのあたりを考えると、やはり茶々が秀吉に嫁いだことは浅井縁の人々にとっては大きな契機であったとは思うのですが、肝心の本人があのような結末を迎えることを思うと、複雑な気持ちがします。
果たして秀吉にとついで茶々は幸せだったのでしょうか。あるいは幸せだったのかもしれません、でも僧でなかったかもしれません。
茶々を幸せにする、守る、というのならば、秀吉にはもうしばらく健やかに長生きしてほしかったと思います。思っても仕方のないことですが。

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