「お初、侍女懐妊に嫉妬」(2011年05月14日)この史料の存在は、実は同志様との情報交換で存在をうっすら存じていたのですが、詳しく拝見できる機会がありませんでした。今回丁寧に関連史料を提示してくださっているのでとても助かります。
◆書状「跡取り、家来がかくまう」/松江の学芸員・西島さん確認◆NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」に登場する浅井三姉妹の次女・初をめぐり、夫の京極高次の跡取りを侍女が懐妊したことに激しく嫉妬したという伝承が高次の書状や当時の家臣の文書などで裏付けられたと、松江市の松江歴史館学芸員の西島太郎さん(41)=写真、滋賀県長浜市出身=が論文にまとめた。3月に同館の研究要綱で発表した。
西島さんは、高次の書状などが残る滋賀県高島市勝野の磯野家を訪れ、代々の当主の事績を記録した「磯野家由緒書」などを調べ、書状の内容と照合した。同家では信隆という人物が高次に仕えていたとされる。
由緒書によると、高次の侍女・於崎が1593(文禄2)年に跡取りの忠高を懐妊したところ、初姫は「御台之御嫉妬ニ而殺害之手立御座候」(嫉妬で殺害の企てをしている)という状態だったと記されていた。高次から忠高を預かった信隆は浪人となり、初姫の機嫌が和らぐ文禄4年まで幼子をかくまったとあった。
由緒書や書状は30年近く前に、旧高島町史の編纂の過程で調査され、当時から忠高誕生について初姫が複雑な感情を抱いていた可能性は指摘されていた。だが、高次の書状2通に宛名はなく、他の1通には差出人すら記されていなかった。文面も「彼の者」「彼の事」などと当人同士でないと分からない書き方で、懐妊との関係を断定できなかったという。
西島さんは書状の文字の欠けた部分を補ったり、於崎の実家の過去帳など他の文献も丹念に調べたりした。その結果、高次が出した相手は2通とも母マリアと推測できるとし、うち1通については懐妊した於崎とその子の扱いについて依頼するものと判明。もう1通は、高次が母マリアとの合意の下、家来の信隆に於崎とその子をかくまうよう指示したうえで、「見放すことはない」という証拠として母マリアに書状を出したと推測する。
3通目の差出人は高次の妹で豊臣秀吉の側室、松の丸(龍子)とされ、宛先はマリアだという。高次が忠高と対面を果たしたものの、初の怒りを買った信隆を、高次が見放さないかと心配した龍子がマリアに自分の思いを伝えたとみる。
磯野家に書状が残った理由として、京極家への再仕官を果たす有力証拠として集めたと推測している。西島さんは「由緒書にある『殺害』というくだりは、忠高をかくまった磯野家側の認識で、本当かどうかは分からない。ただ、高次やその母、妹の意向、磯野家は初が亡くなるまで再仕官できなかったことなどを考え合わせると、京極家における初の存在の大きさがうかがえる文書だ」としている。(成田康広)
○史料1、2 京極高次マリア宛音信
山田崎の懐妊が明らかとなり、崎の処遇について高次が母マリア(「大かもじ」、「大上様」)に問い合わせている書状とのことです。
論文では「大坂御つぼね」=初と解釈し、初との仲直りについて延々と書かれているように解説されています。が、同音信内に「大さか殿」として茶々姫が登場しますので、その女房=「大坂御つぼね」は大蔵卿局を指すと私は思います。
高次は崎を早急に誰かと結婚させて、ほとぼりが冷めた頃に忠高を引き取ろうとしていたようです。初以外の女性と子どもをなして、高次が気を使っている相手が初ではなく、大蔵卿局であるというところが気になります。大蔵卿局は初や江にとっても、流転を共にした身近な女性です。もちろん仕えている茶々姫の意向も気になります。
既に崎が懐妊したことを耳にして機嫌を損ねているのか、それとも他の理由で機嫌を損ねているのか…。実は音信を送っている相手の母マリアもどうやら、同件に関する高次の対応に納得がいっていない様子なのです。
この書状からは、マリアが何度も茶々に会いに行ったことがあったらしいことがわかります。このような緊急事態出なければ、普通に折々の挨拶を交わしていたのでしょうね。
そして、高次は「母でなければ」と頼っている様子からは、茶々が伯母を相応に敬っていた様子も伺えます。
○史料3 京極龍?音信
「満」と署名された音信ですが、論文内ではこれを「あこ」と署名された茶々姫書状と対比させて、「満」という侍女の名を借りた龍の書状ではないかとされています。
しかし、「あこ」と署名されたとされるものは、近年福田先生が「よど」ではないかという見解を出されておりますし、それまでにも侍女の名を借りて音信を出すことは不自然であるということは桑田忠親先生の頃から指摘されております。
発信者が龍ではないかと推測されたポイントですが、①高次を「侍従殿」、②秀吉を「上様」と呼ぶ③大坂在住の女性…ということですが、史料1、2からの流れで私はこれはマリアの書状ではないかと思いました。
文禄三、四年ごろといえば、龍が大阪城西の丸に屋敷をもらっています。ルイス=フロイスによれば、母マリアは常に龍子の傍にいたということですし、文禄三年、秀吉は龍を有馬の湯に誘うと共に、母もぜひ同行させてあげなさいという書状を送っていることからもマリアが龍の傍にいたことが偲ばれます。もしこの音信を出した主がマリアであれば、彼女の本名は「満」であったのでは…という新発見なのですが、残念なことにその結論に至るまでには、決め手にかけております。
○『磯野家由緒書』
この由緒書では、忠高の母山田崎の名を「おな」とし、後に「吉原様」と称したとあります。初の名前という「奈」「於那」「御鐺」と混同があるのでしょうか…。
この山田氏が懐妊したことを知って、初(「御台」)が母子の殺害を企てたという旨が書かれています。西嶋氏もおっしゃっておられますが、これはあくまで忠高を匿った磯野家の認識ですので、本当に初に殺意があったかどうかはわかりません。
また、初が生前に忠高を匿った磯野善兵衛という人の再仕官を拒んだ(善兵衛は忠高の命を守るために一度出奔しています)ということについては、私には初が妻である自分の立場・役割を無視して子どもを隠そうとしたというところに怒っているのではないかと思えました。
同由緒書には、京極龍についても記載があり、「太閤秀吉公之御簾中ハ、高次公之御妹ニ而」とあります。やはり妹説が強いようですね。
○山田崎
「山田家代々之法号録」二十一日条では、
寛永二年乙丑十月
玉台院殿明巌恵光大姉
俗名於崎、号吉原、大津宰相高次君ノ妾、若狭守忠高君ノ実母ナリ、西近高嶋郡打下シ村住人山田与右衛門直勝公ノ女、孫助直政公ノ姉ナリ、後豊臣秀頼卿ノ士吉田治五衛門ニ嫁ス、子有、
泰雲山玄要寺ニ御画像アリ、墓所不知、
「京極御系図」では「尾崎殿」。「尾」は「於」とおなじ敬称として使われているものと考えてよいものでしょうか。
史料1で吉田連次郎という人に崎を嫁がせようとしていた高次ですが、結局それはうまくいかずに、磯野善兵衛に託して菅浦に隠してしまったようですね。
ですが、初にも茶々にもこれらの史料以外で忠高を邪険にしている様子は見えてきません。
知善院所蔵の高次宛ての茶々姫音信からは、高次に礼を尽くしている様子も、忠高を嫡男として丁重に遇している様子も見えます。初は忠高を嫡子として養育し、忠高は磯野善兵衛が直訴するまで物心つかない頃の流浪を覚えていなかったようです。江からもらいうけた初にも「あに様」と呼ばせるなど、決して冷遇していたようには見えません。母ちがいの弟高政は、初と共に京や江戸に連れられて将軍に目通りさせたり、夜は相伴したりしたらしいです。正直、その様子から初が成さぬ仲の子を殺そうとしたというのはピンときません。
江にも、保科正之を懐妊した静を殺そうと江が追っ手を差し向けた話があります。
将来有望な若君が守られた話は、殺意の噂の証明にはなっても、実際に殺意があったかどうかは証明しないというところを気をつけなければならないと私は思います。
『磯野家由緒書』には茶々姫まで持ち出して、初が「大坂之権威ヲ以」山田崎を探索する触れを出したとまで書かれています。
しかし実際、崎が再嫁したのは秀頼の臣である吉田治五右衛門。茶々姫の懐に入ったも同然です。読む方向を変えれば、茶々姫や初の真意は崎の殺害にあったのではなく、一連のごたごたをうまく収めることにあったのではないでしょうか。
うーん、いろいろ思うところは多いのですが、うまくまとめられません…