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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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「京極忠高の出生 ―侍女於崎の懐妊をめぐる高次・初・マリア・龍子―」(西島太郎氏)

 
こちらの記事で気になっていた論文をようやく拝読できました。
「お初、侍女懐妊に嫉妬」(2011年05月14日)
◆書状「跡取り、家来がかくまう」/松江の学芸員・西島さん確認◆

 NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」に登場する浅井三姉妹の次女・初をめぐり、夫の京極高次の跡取りを侍女が懐妊したことに激しく嫉妬したという伝承が高次の書状や当時の家臣の文書などで裏付けられたと、松江市の松江歴史館学芸員の西島太郎さん(41)=写真、滋賀県長浜市出身=が論文にまとめた。3月に同館の研究要綱で発表した。


 西島さんは、高次の書状などが残る滋賀県高島市勝野の磯野家を訪れ、代々の当主の事績を記録した「磯野家由緒書」などを調べ、書状の内容と照合した。同家では信隆という人物が高次に仕えていたとされる。


 由緒書によると、高次の侍女・於崎が1593(文禄2)年に跡取りの忠高を懐妊したところ、初姫は「御台之御嫉妬ニ而殺害之手立御座候」(嫉妬で殺害の企てをしている)という状態だったと記されていた。高次から忠高を預かった信隆は浪人となり、初姫の機嫌が和らぐ文禄4年まで幼子をかくまったとあった。


 由緒書や書状は30年近く前に、旧高島町史の編纂の過程で調査され、当時から忠高誕生について初姫が複雑な感情を抱いていた可能性は指摘されていた。だが、高次の書状2通に宛名はなく、他の1通には差出人すら記されていなかった。文面も「彼の者」「彼の事」などと当人同士でないと分からない書き方で、懐妊との関係を断定できなかったという。


 西島さんは書状の文字の欠けた部分を補ったり、於崎の実家の過去帳など他の文献も丹念に調べたりした。その結果、高次が出した相手は2通とも母マリアと推測できるとし、うち1通については懐妊した於崎とその子の扱いについて依頼するものと判明。もう1通は、高次が母マリアとの合意の下、家来の信隆に於崎とその子をかくまうよう指示したうえで、「見放すことはない」という証拠として母マリアに書状を出したと推測する。


 3通目の差出人は高次の妹で豊臣秀吉の側室、松の丸(龍子)とされ、宛先はマリアだという。高次が忠高と対面を果たしたものの、初の怒りを買った信隆を、高次が見放さないかと心配した龍子がマリアに自分の思いを伝えたとみる。


 磯野家に書状が残った理由として、京極家への再仕官を果たす有力証拠として集めたと推測している。西島さんは「由緒書にある『殺害』というくだりは、忠高をかくまった磯野家側の認識で、本当かどうかは分からない。ただ、高次やその母、妹の意向、磯野家は初が亡くなるまで再仕官できなかったことなどを考え合わせると、京極家における初の存在の大きさがうかがえる文書だ」としている。(成田康広)

この史料の存在は、実は同志様との情報交換で存在をうっすら存じていたのですが、詳しく拝見できる機会がありませんでした。今回丁寧に関連史料を提示してくださっているのでとても助かります。

○史料1、2 京極高次マリア宛音信

山田崎の懐妊が明らかとなり、崎の処遇について高次が母マリア(「大かもじ」、「大上様」)に問い合わせている書状とのことです。
論文では「大坂御つぼね」=初と解釈し、初との仲直りについて延々と書かれているように解説されています。が、同音信内に「大さか殿」として茶々姫が登場しますので、その女房=「大坂御つぼね」は大蔵卿局を指すと私は思います。
高次は崎を早急に誰かと結婚させて、ほとぼりが冷めた頃に忠高を引き取ろうとしていたようです。初以外の女性と子どもをなして、高次が気を使っている相手が初ではなく、大蔵卿局であるというところが気になります。大蔵卿局は初や江にとっても、流転を共にした身近な女性です。もちろん仕えている茶々姫の意向も気になります。
既に崎が懐妊したことを耳にして機嫌を損ねているのか、それとも他の理由で機嫌を損ねているのか…。実は音信を送っている相手の母マリアもどうやら、同件に関する高次の対応に納得がいっていない様子なのです。

この書状からは、マリアが何度も茶々に会いに行ったことがあったらしいことがわかります。このような緊急事態出なければ、普通に折々の挨拶を交わしていたのでしょうね。
そして、高次は「母でなければ」と頼っている様子からは、茶々が伯母を相応に敬っていた様子も伺えます。

○史料3 京極龍?音信

「満」と署名された音信ですが、論文内ではこれを「あこ」と署名された茶々姫書状と対比させて、「満」という侍女の名を借りた龍の書状ではないかとされています。
しかし、「あこ」と署名されたとされるものは、近年福田先生が「よど」ではないかという見解を出されておりますし、それまでにも侍女の名を借りて音信を出すことは不自然であるということは桑田忠親先生の頃から指摘されております。
発信者が龍ではないかと推測されたポイントですが、①高次を「侍従殿」、②秀吉を「上様」と呼ぶ③大坂在住の女性…ということですが、史料1、2からの流れで私はこれはマリアの書状ではないかと思いました。
文禄三、四年ごろといえば、龍が大阪城西の丸に屋敷をもらっています。ルイス=フロイスによれば、母マリアは常に龍子の傍にいたということですし、文禄三年、秀吉は龍を有馬の湯に誘うと共に、母もぜひ同行させてあげなさいという書状を送っていることからもマリアが龍の傍にいたことが偲ばれます。もしこの音信を出した主がマリアであれば、彼女の本名は「満」であったのでは…という新発見なのですが、残念なことにその結論に至るまでには、決め手にかけております。

○『磯野家由緒書』

この由緒書では、忠高の母山田崎の名を「おな」とし、後に「吉原様」と称したとあります。初の名前という「奈」「於那」「御鐺」と混同があるのでしょうか…。
この山田氏が懐妊したことを知って、初(「御台」)が母子の殺害を企てたという旨が書かれています。西嶋氏もおっしゃっておられますが、これはあくまで忠高を匿った磯野家の認識ですので、本当に初に殺意があったかどうかはわかりません。
また、初が生前に忠高を匿った磯野善兵衛という人の再仕官を拒んだ(善兵衛は忠高の命を守るために一度出奔しています)ということについては、私には初が妻である自分の立場・役割を無視して子どもを隠そうとしたというところに怒っているのではないかと思えました。
同由緒書には、京極龍についても記載があり、「太閤秀吉公之御簾中ハ、高次公之御妹ニ而」とあります。やはり妹説が強いようですね。

○山田崎

「山田家代々之法号録」二十一日条では、

  寛永二年乙丑十月
  玉台院殿明巌恵光大姉
  俗名於崎、号吉原、大津宰相高次君ノ妾、若狭守忠高君ノ実母ナリ、西近高嶋郡打下シ村住人山田与右衛門直勝公ノ女、孫助直政公ノ姉ナリ、後豊臣秀頼卿ノ士吉田治五衛門ニ嫁ス、子有、
  泰雲山玄要寺ニ御画像アリ、墓所不知、

「京極御系図」では「尾崎殿」。「尾」は「於」とおなじ敬称として使われているものと考えてよいものでしょうか。

史料1で吉田連次郎という人に崎を嫁がせようとしていた高次ですが、結局それはうまくいかずに、磯野善兵衛に託して菅浦に隠してしまったようですね。
ですが、初にも茶々にもこれらの史料以外で忠高を邪険にしている様子は見えてきません。
知善院所蔵の高次宛ての茶々姫音信からは、高次に礼を尽くしている様子も、忠高を嫡男として丁重に遇している様子も見えます。初は忠高を嫡子として養育し、忠高は磯野善兵衛が直訴するまで物心つかない頃の流浪を覚えていなかったようです。江からもらいうけた初にも「あに様」と呼ばせるなど、決して冷遇していたようには見えません。母ちがいの弟高政は、初と共に京や江戸に連れられて将軍に目通りさせたり、夜は相伴したりしたらしいです。正直、その様子から初が成さぬ仲の子を殺そうとしたというのはピンときません。

江にも、保科正之を懐妊した静を殺そうと江が追っ手を差し向けた話があります。
将来有望な若君が守られた話は、殺意の噂の証明にはなっても、実際に殺意があったかどうかは証明しないというところを気をつけなければならないと私は思います。

『磯野家由緒書』には茶々姫まで持ち出して、初が「大坂之権威ヲ以」山田崎を探索する触れを出したとまで書かれています。
しかし実際、崎が再嫁したのは秀頼の臣である吉田治五右衛門。茶々姫の懐に入ったも同然です。読む方向を変えれば、茶々姫や初の真意は崎の殺害にあったのではなく、一連のごたごたをうまく収めることにあったのではないでしょうか。


うーん、いろいろ思うところは多いのですが、うまくまとめられません…
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第十九話「初の縁談」【大河ドラマ感想】

 
「高次が自分の立身出世のために姉を秀吉に差し出している」と責めた割には、初も自分の縁談をまとめるために姉から秀吉の頼んでくれと言っていた辺りはどうなの、と思いつつ。

○茶々と秀吉の逢瀬

あそこは山里曲輪でしょうか?なんとなくそんな雰囲気。
茶々が最期に一連の場面を思い出したりするのでしょうか。ちょっとぐっときます。

個人的に、ここまで二人のなれそめを丁寧に書いていただけることがとてもうれしいです。
その割には、いつまでの龍子さんに「女は力のある男に弱い」と言わせるのは単なるミスリード??
とはいえ、今回の龍子の姉さん的なキャラクターは本当に好きなので、今後もこのままでお願いしたいです。

○茶々の覚悟

「私のおるところが、そなたの家じゃ」
この台詞は二度目の登場でしたが、やっぱりいい台詞です。

前回、江のために動いていたと思っていたのに実は江が茶々のために動いていたこともあり、今回は捨て身を覚悟で初のために動いていました。
でも、それでは納得しなかった秀吉がよかったです。
旗で見ている三成は、いろいろな意味でもやもやしているでしょうね…。「茶々姫を慕う」という余計な設定がなくても、一連の場面はもやもや~っとすると思います(苦笑)


新しい側室といちゃつく秀吉に怒って張り倒す茶々はとっても可愛かったです。
そりゃああそこまで本気で口説かれて信じられない、というか傷つきますよね、女として。
でも押して引いてという駆け引きでいえば、秀吉的には首尾よく運んでいるような…(笑)

ありえるありえないは別として、個人的になんか好きなシーンでした(笑)
 

第十八話「恋しくて」【大河ドラマ感想】

 
①氏「豊臣」と姓「羽柴」

「羽柴」あらため「豊臣」になったというよりは、氏が新しく「豊臣」となっただけで、姓は「羽柴」のままです。
秀吉自身が「豊臣秀吉」と名乗ったことが無い(文書類でしか登場しない)など、いろいろ指摘されていますが、すっかり定着してしまい、わかっていても改めるのはなかなか容易なことではありませんね…

②秀吉の出自

みんなにあきれられていた出自の話ですが、あれは秀吉が語り大村由己が記したという『関白任官記』という史料に出てきます。
秀吉は父方ではなく特に母大政所はもちろん、母方の祖父母の供養(祖父:栄雲院道円、祖母:栄光院妙円)に重きを置いていたらしく、文禄四(1595)年九月から慶長二十年まで、大政所の父母の忌日に交互に千僧会が営まれていたそうです。
このような出自の脚色は、自らの権威のためというだけでなく、自らが天皇のご落胤であるということによって、日秀など他の兄弟とは格差をつけ、自らの跡継ぎはその血を引く秀頼以外に存在しないと示すためのものでもあったそうです(河内将芳氏)。

③初と高次

私も初と高次…というか、三姉妹と高次は既に面識があったものと思います。
「京極御系図」によると、高次は本能寺の変の後、直接の血縁に無い市を頼って柴田家へ来たということですから、これが事実であれば、直接血縁のある三姉妹とは挨拶など直接顔を合わせる機会もあったでしょう。

「越前国主柴田修理亮勝家ヲ御頼有、勝家内室ハ信長公之御妹ニテ初浅井備前守長政之妻女也、常高院殿・淀殿・大御台様之御実母也 天正之初浅井滅亡之時織田家江御帰、其後勝家江御再嫁被成小谷之御方ト云、此由緒ニヨリ暫越前被成御座候、」(京極御系図)

…といいますか、この由緒でかくまってもらった経緯があるというのならば、京極家再興の思いは強くとも、浅井家に対してそこまで悪意を抱いていなかったのでは、と思えますね。
私としては、信長の生前に初との婚姻話があったのではと考えておりますので、市を頼ったのはその縁もあったのかもしれません。

ところで、初は大溝城に入ったのでしょうか。
高次の妻となったからには、人質として大坂城下にいたのではないかと思います。
おそらく既に茶々は女房として秀吉の奥御殿に入っていたでしょうし、秀吉の養女として秀勝の妻となっていたであろう江も大坂城下の屋敷にいたでしょうし(でも秀勝が蟄居していた間はどうしていたのでしょう…)、三人が親しく顔を合わせる機会は実は少なくなかったのではないかと思います。

④朝鮮出兵

家康の台詞としてはや登場しました。
いつもドラマなどでは鶴松の死と関連付けられて取り上げられることの多い朝鮮出兵ですが、信長にその意があったこと、秀吉は信長の意志を踏襲したのでは、という見方が採用されたのは珍しいように思います。
 

『江の生涯を歩く』

 
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『誰も知らなかった江』、『図説戦国女性と暮らし』以来久々に必読の一冊でした。
ところどころ貴重な史料の情報がありますし、縁の地めぐり関係の本の中では群を抜いてマニアックなところまで網羅してありましたので、未読の方はぜひぜひ。

以下、備忘録をかねて私の感想です。


①『長府毛利家文書』と子々

まえがきから初見の史料で驚きました。
慶長四年九月十三日付けの書状で、江が「江戸に下り秀忠の傍で暮らしたい、もし別の女性に子どもができれば、これから気のさわりになってしまうので…」(意訳)というかなり生々しい内容です。

慶長四年といえば、秀忠の次女子々(珠)が生まれた年で、九月であればどの説に従っても、子々が既に生まれています。福田説に従えば子々の生母は江ではなく、子々が江戸で別の女性を母に生まれたすぐあとのこの書状のように江が意志を示したであれば、それはそれで跡継ぎは自分が産むのだという江の意気込みや焦りが伝わってきます。
逆に江が子々を伏見で出産した直後であるならば、早速続けての妊娠を望んでいたということに。どちらにしろ、出産は大変なことなので、江の覚悟や意気込みが伝わってくることに変わりはありません。

大変興味深い書状でした。

子々といえば、その本名について、子々が姑にあたる織田永(玉泉院)に宛てた消息に「禰々」と署名していることから、「珠」と改名したのではなく、ずっと「子々」を使っていたのではないかと指摘されていました。出典は松尾美恵子氏の記事のようです。早速確認してみます。

②長政の「長」は信長の片諱か

長浜城歴史博物館の太田先生は、賢政が長政と改名したのは信長の片諱をもらったもの(一字拝領)であり、この時期が浅井家が織田家との同盟が成立した時期であるという持論をお持ちです。

長政の「長」が信長の「長」なのかどうかは、前々から疑問に思っていたのですが、この点に関しても桐野氏が明快に検討されていました。

”信長が「長」の字を与えたのは家臣たち(丹羽長秀、菅屋長頼など)に対してで、大名クラスの事例はないため、この時期、長政が信長に接近したかどうかは微妙である”
”信長が自分の諱を与えるとき、家臣には「長」を与えるのに対して、「信」は大名かその子弟、あるいは上級公家に限られている”(ともに本文より)

③江の岐阜出生説

こんなにしっかりと江の岐阜出生説が書籍に登場したのは初ではないでしょうか。
出されていた史料は『濃陽志略』、『安土創業録』でした。

私としては、大きく揺れているところです。
『歴史読本』がただただ待ち遠しいです。

④小谷寺裏の供養塔…

何度か参拝したことがあったのに、寺の背後に長政の供養塔があることを知りませんでした。不覚です。
次回参拝の際には必ず。

⑤織田信包という人

『誰も知らなかった江』で市と三姉妹を保護した人物として否定されてしまった信包ですが、やはりそうすると後年大坂城で重きをなしたことが気になってくるんですよね。
桐野氏は、信包が関ヶ原合戦で西軍についたために蟄居となっていたのを、江がとりなし、蟄居がとかれたということを紹介されていました。信包が江によって蟄居を解かれ、その後大坂で召抱えられたということであるならば、やはり姉妹間で連絡のやり取りがあったのだなあと偲ばれます。徳川と豊臣の関係が流動的であったということでもありますね。

⑥北庄落城前の大宴会に三姉妹はいたか

『柴田合戦記』をもとに、落城前夜の大宴会に三姉妹(「姫公」)が同席していたことは間違いない、とされていますが、私としてはこれもなんともいえません。
そうなると茶々姫による勝家の供養の日にちがずれていることがどうしても気になります。

⑦二十三回忌という節目~自性院

自性院が慶長十年に現在地に移り、市の院号にちなみ「自性院」と改称したことが紹介されていました。案外遅かったのですね。
慶長十年はちょうど市の二十三回忌にあたっているとのことで、二十三回忌といえば養源院も長政の二十三回忌の前年に建てられていることを思い出しました。何か関連があるのでしょうか。

⑧佐治家と江

桐野氏は通説どおり天正十二年に縁組が行われたとという前提で、「江が一成夫人になったとはいえ、大野城に下ったとは考えにくく、上方か安土辺りにいた公算が高い」、「秀吉は江を一成の人質として手もとに置いていたと考えるほうが自然である」とされています。

また、佐治為興が犬を娶ったときに信長から一字を拝領して「信方」と改名した事例を紹介し、先の長政の一字拝領説の否定に繋げておられます。

⑨伏見城と秀忠の妻江

『徳川実紀』で江が秀忠と婚礼し、そして千を産んだのが「伏見城」とされている件について、従来であれば、この時期にまだ伏見城が徳川家の管理下になっていないことから、伏見屋敷の間違いであろうとされていたのですが、桐野氏は逆に江が秀吉の養女であることを重く見て、伏見城説は事実であり、秀忠を婿として迎え、千の誕生時も秀吉の養女としてなお伏見城に居住していたとされています。

征夷大将軍になるまで「豊臣」として叙位を受けていた秀忠ですので、この説は確かに一理あると私は感じました。

⑩大坂の陣に対する江の思い

大坂の陣の前後の江について、「難波戦記」の記述を引用されていました。

「新将軍家(秀忠)の御台所、御和睦の事を喜ばせ給ふ、此の御方は秀頼公の御母堂(淀殿)と御連理の間柄故に、別けて御喜悦まし/\て」

この頃の江の動向については史料が知られていなさ過ぎて、あまりにも江が無関心だったなどと曲解されることが多く、個人的にそんなわけはないと思っていたのですが、こんな史料があったとは驚きです(「難波戦記」は知っていたはずなのに…)。江の喜びは事実であったらしく、『元寛日記』に江が喜びのあまり(「御台所御喜悦斜めならず」)大掛かりな猿楽を興行したことも紹介されていました。

結果的に家康の思う壺であった冬の陣の和睦ですが、和睦に奔走した初や江はそんなことは露知らず、本気で姉を案じて和睦を喜んでいたのだということが察せられます。

⑪孝蔵主は誰の使者か

大津城攻防戦の和議について、孝蔵主が茶々姫(「淀殿」)の使者として紹介されてありました。孝蔵主はこちらで何度も言っている通り、長年寧の女中頭として仕えた女性なので、厳密に言えば正しい記述ではありません。

但し、「高台院と淀殿」で跡部氏が「まさか北政所が西軍を益する行為に加担したはずはないという思いこみが、京極家の家伝執筆者をして孝蔵主を淀殿の使者と誤認せしめた可能性は消しがたいが、北政所と淀殿の緊密なやりとりのなかで大津城への孝蔵主派遣が決まったのであれば、その記述をまったくのあやまりと棄てることはできない。むしろ史実の一端を反映している可能性がある。」と論じられています。

なるほど、確かに孝蔵主の行動に当時の茶々姫の意志が反映されていないかというと、一連の行動に寧と茶々との綿密なやり取りがあったということですから、そこまでは言い切れません。

⑫千が秘蔵していた秀頼の遺品~大信寺

千が本多家に再嫁したのち、周清上人に依頼して行われた魂鎮めの祈祷の際に使われたのが秀頼の自筆神号でした。この件で千が実家を憚りながら、秀頼の遺品を大切に所持し続けていたことに感銘を受けたのですが、大信寺という忠長の墓所があるお寺には忠長没後に千から供養として寄進された袈裟があり、それはもともと秀頼が着用した陣羽織を仕立て直したものという伝えがあるそうです。あのようなギリギリのタイミングでの退城で、満足に形見分けもできなかったでしょうけれど、豊臣の面影を排除する幕府の方針の中、数少ない遺品を大切にしていた千にとって大坂城での生活は決してつらいばかりの日々ではなかったのだなあと感銘を受けました。

⑬高野山奥の院への誘い

鶴松や茶々姫の逆修塔があるらしい(でも最近「上臈」はとある別人なのではないかとも思っていますが)、高野山奥の院の地図がかなりわかり易く掲載されていました。江の供養塔もあります。
以前高野山に行ったとき、石田三成や明智光秀の供養塔は見ていたので、近くまで来ていたのに見逃したのだなあ…と改めて無念。ぜひこの本を片手にリベンジしたいです。

⑭本国寺日秀一族供養塔

待望の本国寺の完子供養塔が掲載されていました。
ぜひ直接お参りしたいところのひとつです。

⑮『誓願寺奉加帳』

誓願寺の項で、『誓願寺奉加帳』に三姉妹がそれぞれ寄進をした記録が紹介されています。これについては、野村昭子氏が『波上の舟 京極竜子の生涯』でも同様に解釈されています。ただ、私は「岐阜宰相様御簾中」が江であることについて異存はないのですが、他の二人について「大津様御局」を初、「御茶様」を茶々姫とされていることについて、これは別人ではないかと考えています。

まず初はまだこの寄進が行われたらしい時期(天正二十年前半とされる)に初の夫京極高次が大津城主になっていません。そして、鶴松の母となり、小田原合戦に従軍した後、ある程度立場を確立していたこの頃の茶々姫について不躾に本名を記さるのはありえないこと(記されるとすれば、「太閤様御上様」、「大坂御上様」辺りになるはず)、しかも「茶々」を省略して「御茶様」とする一次史料が他に見えないことがその理由です。
 

第十七話「家康の花嫁」【大河ドラマ感想】

 
茶々姫をたどる汐路にて

○小吉さん

天正十三(1585)年十月に「祝言」の記録が残っている小吉さん。これが江との婚姻を示すならば、すでに今回のうちに結婚してしまっているということに。永禄十二(1569)年生まれとのことで、茶々姫と同い年なんですね。ということは天正十三年時点で数え十六歳ですか。ちなみに江はようやく数え十三歳です。
「祝言」は十月で、先代秀勝が亡くなったのが十二月なのですが、病弱だった秀勝に代わる(生前だったことを思うと、更なる?)織田家とのよすがを江と小吉秀勝との婚姻に求めた…というのは考えすぎでしょうか。大義名分か、そのほかの意図があってのことか…それとも信雄による秀吉への接近だったのか…。

○秀吉の人質政策

歴代大河ドラマでも、小牧・長久手の合戦で家康に煮え湯を飲まされた秀吉が折れに折れて家康を上洛させたと描かれる一連の出来事。

今回は、夫と引き裂かれて無理矢理徳川家康の後妻にされる…といういつもの設定とは若干違いました。旭が兄のためになるならば、と進んで徳川家に嫁ぐという流れになっていたのがとても新鮮でした。さすがは女性目線の大河といったところでしょうか。

とかく「政略結婚の被害者」という描かれ方しかされなかったがために、正しくその役割も評価されなかった女性たちはたくさんいます。旭もその一人です。

政略結婚を嫌がった末に、母の病気にかこつけて聚楽第へ戻り二度と徳川家に帰らなかった、なんていわれていますが、「二度と帰らなかった」が正しくないことは『江の生涯』などで明らかにされましたし、聚楽第ができて、大名の妻子は人質として聚楽第に住まうことになっていったのですから、旭も普段は聚楽第とはいっても徳川家の屋敷にいたのではないかなあと思っています。母を訪ねていくことはよくあったでしょうけれども。
最期も、秀吉によってではなく、きちんと家康によって徳川家の夫人として丁重に葬られています(写真は菩提寺の東福寺南明院)。旭が家康夫人としてきちんと役割を果たしていたからこそではないかと思います。

余談ですが、旭の輿入れに際して、「乳母役」としてつけられた女性は四条隆昌の女房(「妻」とも「妾」とも)であった「茶々」という名前の女性でした。
婚礼に際し、筆頭女房の役割もある乳母の役に出自のしっかりとした女性がつけられるという好例です。
天正14年の茶々姫?(2010/11/23)

旭、大政所を家康に差し出した秀吉の人質政策については、跡部信先生の「秀吉の人質策――家康臣従過程を再検討する――」(『小牧・長久手の戦いの構造』)がとても勉強になりました。跡部信先生は、大阪城天守閣の学芸員さんで、あの「高台院と豊臣家」を書かれた方です。気が付かないうちに捉われている徳川史観に気づくことがあるかもしれません。私は気づかされた結果、旭の役割について考えるようになりました。ぜひぜひ。

○今週の茶々姫?と江

秀吉との距離がちょっと縮まったかな。
実際は、市や勝家が後を託した相手ですから、あそこまで仇としてみていたとは思いませんけれど、結果的に両親の死に関わっているというのは本当なわけで、丁寧に描くととてもドラマティックな二人だよなあと思っています(いつもそのあたりがすっ飛ばされるわけですが)。
今回は馴れ初めを丁寧に描いてくださるとのことで期待していたのですが、秀吉の描かれ方がひどかった分、どうなることかとハラハラしていました。江が早めに秀吉の養女になり、ここ数回の秀吉との関わりで大分挽回していますね。
茶々と一緒にこっそり断食していたエピソードや、今回の「茶断ち、茶々断ち」のエピソードはかなり私好みでした(笑)

ここ数回すっかり秀吉の参謀と化している江ですが、今後茶々が秀吉の寵を受けるようになることに対し、原作ではかなりご立腹してしまいます。
信長のときも、光秀のときも、勝家のときも、江は異常なくらい柔軟にその人物に対する思い込みを改め、理解を示し、馴染んでいました。今回も、秀吉と近い距離で描かれている江がキューピットになってもいいくらいだと思うのですが、なぜか今回はこれまでの展開と違って江が頑固になっているんですよね。「姉上は私が守る!」と誓ってしまったせいでしょうか。

それにしても、秀吉は憎いくらいに二面性(むしろ主によろしくない面)がいやというほど描かれているのに、家康が一貫して大人物に描かれているのはいささか不公平な気もします。後々舅と嫁の関係になるとはいえ、この時点で面識があった可能性は限りなく低く(もちろん伊賀越えを共にしたというのは大河の創作なので)、後に結果的に徳川の世を開く家康と江が入魂なのは、勝者の歴史だよなあ…と敗者に肩入れするものとしては正直複雑な思いです。

愚痴やら感想やら入り乱れていてすみません。
 

第十六話「関白秀吉」【大河ドラマ感想】

 
すっかり秀吉の名参謀状態の江ですが、今回は利休さんもノリノリでしたね。

○秀吉の姉妹

秀吉の家族が勢ぞろいしました。

大政所の「なか」、秀吉の姉「とも」という今では通説になってしまっている名前は、一次史料では実は確認できないそうです。「旭」ももともとの名前ではないだろうということで、歴代大河ドラマではいろいろな名前をつけられてきたのですが、今回は「旭」で通すようですね。

旭は、旭→小姫→江と豊臣家と徳川家を結ぶ重要な役割を果たした女性の先鋒で、実は重要な存在なんじゃないのかと思っている女性の一人です。

「とも」さんこと日秀は、三人の男児に恵まれながら長男秀次は秀吉と対立の末自刃、次男秀勝は若くして出兵先で病没、三男秀保は秀吉の弟秀長の養子となるもやはり若くして亡くなっています。
最初に亡くなるのは次男秀勝ですが、すでにその時点で秀勝の死を悼み出家したらしいことをこの間教えていただきました。秀勝が甲府から美濃に転封となったときに、日秀の嘆願によるものであったというエピソードを考えると、秀勝の死を悼んでの出家は充分説得力があります。
それにとどまらず秀次、秀保と悲劇は続くのですから、日秀も妹に負けず劣らずの厳しい人生だったことが偲ばれます。

しかしながら、秀勝と江の間に生まれた完子は無事成長し九条家に嫁ぎ、日秀の血は現代まで脈々と受け継がれています。日秀もこの孫娘のことを相当気にかけていたらしく、完子の夫忠栄の日記には、たびたび日秀が九条家を訪れている様子が記録されています。
忠栄の日記に見える完子と日秀の交流を見ていると、九条家に嫁ぐ以前から日秀と完子の間には交流があったように思われてなりません。完子は茶々姫の元で育っていたわけですから、今日考えられている以上に、完子を通して日秀と茶々姫の交流は盛んだったのかもしれません。

日秀が息子たちや孫たち、その縁者だけでなく、大坂の陣の後に秀頼やその母茶々姫の菩提をも丁重に弔っている背景にはこういった交流があったのではないかと考えています。

○初がキリシタンになった経緯

ドラマではすでに「耶蘇教」に興味津々の初でしたが、細川たまとの接点があったかどうかは定かではなく、実際は父方の伯母であり姑である養福院(マリア)の影響であったようです。

マリアは自分の子どもたちの改宗に努めていたようですが、高次の改宗に当たり、まず大坂で妻の初を口説いて改宗させ、その後高次を改宗させたといいます(『日本切支丹宗門史』、『イエズス会書簡集』/『京極家とキリシタン信仰』によると、高次の改宗が1601、2年頃のこと)。

マリアの子で唯一改宗しなかったのが秀吉の夫人であった龍ですが、『日本切支丹宗門史』によると改宗の意向は大きかった、とされています。改宗を拒んだ原因はなにより秀吉が禁教令を出していたことなのでしょう。秀頼を盛り立てる立場上、秀吉の禁教令を守っていたことは想像に難くありません。
しかしながら、大坂の陣で秀頼が亡くなって以降、幕府が取締りを始めていたとはいえ、家族みんながキリシタンであった中、最後まで改宗せずに誓願寺に帰依していた様子を考えると、龍自身が熱心に改宗を望んでいたというわけではないのかな、という気もします。
 

ご命日のお参り ~太融寺、大坂城山里曲輪

 

茶々姫をたどる汐路にて


茶々姫をたどる汐路にて

新暦ではありますが、五月八日といえば茶々姫の命日としてご供養が行われています。

今日は折角休日だったので太融寺と大坂城山里曲輪にお参りしてきました。


どちらもご命日らしくたくさんの方がお供えされたお花に囲まれていました。


太融寺では、小谷城址保勝会の会長さんや太融寺のご住職さんにご挨拶させていただきました。

茶々姫のお墓にお参りしているときに偶然お会いした保勝会の方にご縁をいただいたものです。


小谷城址保勝会の木村重治さんは、『復刻 浅井三代記』の著者さんでもあり、お名前はよく存じあげておりました。また、太融寺のご住職は『天涯の貴妃』のときに掲載された読売ウィークリーの記事に感激し、コピーを常に持ち歩いているほどです。

偶然お話を伺えてとてもうれしかったです。

お墓参りのつもりでふらっと出てきてしまったので、名刺も持っておらず大変失礼をいたしました。


大坂城山里曲輪のほうは、自刃の地の石碑と観音様と両所お参りしてきました。

石碑のある場所は実際の自刃の地とはだいぶずれているそうなのですが、茶々姫や秀頼への供養のための石碑であることには変わりないので…


観音様では毎年五月八日にご供養が行われているようなのですが、わたしがお参りした時にはすでにご供養は終わってしまっていました。

ですが、石碑のほうに比べるとお花がたくさん供えられ、丁寧にご供養された跡が見受けられました。


それにしても暑い一日でした…


ちなみに、今年旧暦で五月八日のご命日は新暦で六月九日にあたるそうです。

 

第十五話「猿の正体」【大河ドラマ感想】

 
特に今回は突っ込みどころもなかったのですが…

○秀吉と江

江は決して多くはない秀吉の養女の一人ですので、茶々に負けないくらい秀吉との縁が深い女性です。徳川家における江の地位にも、この豊臣家の女性という立場が大きく影響していると考えられ、「義兄」であるいじょうに「養父」としての秀吉を描いていた今回は、私としてはとても良い回でした。

twitterのTLで「秀吉は江のほうが市に似て美人だったので側室にしようとしていたという説があるらしい」という内容の書き込みが数件あったことが気になったのですが、これは史料に基づいた「説」ではなく、とある歴史小説の演出ですので…
茶々も江もはっきりと間違いのない肖像画は伝わっていませんし、数え十三歳の年に同じく養子の秀勝に嫁がせるわけですから、やっぱり娘という感覚であったというほうが、私はしっくり来る気がします。

○於義丸秀康

家康が秀康を嫌ったという面は描かれませんね。
出生に疑いを持っていたとか、容姿が気に入らなかったとか、いろいろいわれていますが、現在は母の出自に不足のない長丸(のちの秀忠)が最初から後継者扱いだったということが指摘されています(秀康の母は女中)。秀忠が特別偏愛されたというのではないようです。
秀康は信康亡き後、「長兄という扱いを受けなかった」いうよりも、「庶兄としての扱いを受けた」というところでしょう。
私は徳川家の中では秀康はかなり好きな武将なのですが、史料でも武勇に優れていたとも評価されていますし、決して秀忠に比べて劣ったところのある武将であったとは思いません。

○初かわいい

江が生娘で、先を越されなかったことに素直にほっとする初にすごく共感しました(笑)


明日から仕事の関係で週末まで東京へ行って参ります。
ちょうど今放送している回を見れるのは帰宅後になると思います。
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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