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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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常高寺ふたたび

 
茶々姫をたどる汐路にて

若狭歴史民族資料館を訪問した後、侍女たちの墓所ほかいろいろと確認したくなり、常高寺にお参りしてきました。

○常高寺梵鐘
資料館で、寛永十(1633)年に初が京の三条釜屋で鋳造させ寄進したものとあり、見てきました。
鐘銘をみると、「藤原朝臣浅井備前守長政公之女子/常高院殿松巌昌栄賢女者/源朝臣佐々木京極参議高次公之婦人/也…」と刻印されているのが確認できました。

○常高寺の位牌
現在、常高寺さんに安置されてあるお位牌は三基あり、中心に初(「常高寺殿松巌栄昌大姉」)、向かって左に両親の浅井長政(「養源院殿天英宗清大居士」)と市(「自性院殿松月宗貞大姉」)の合同位牌、右に夫京極高次(「泰雲院殿前三品相公徹叟道閒大居士」)のものがあります。
ご住職さんのお話では、かつて火災で焼ける前には崇源院(江)の位牌もあった…とのお話だったので、火災でなくなってしまったのはきっと江の位牌だけではなかっただろうなあと思いながら、帰宅後に若狭歴史民族資料館でいただいた講演資料を見ていると、幸運にも懸案事項について史料が引用されてありました。

丸亀市立資料館所蔵の「若狭国守護歴代禄」という史料によると、当時常高寺に安置されていたのは初(「常高い院殿」)、浅井長政(「養源院殿」)、市(「自性院殿」)、茶々(「大虞院殿」)、江(「崇源院殿」)、秀頼(「嵩養院殿」)、徳川初(「興安院殿」)、栄昌院の七院歴代位牌、歴代将軍位牌、京極高次(「泰雲院殿」)以下歴代位牌が存在したそうです。

ここにも数少ない茶々姫のお位牌があったとは…うれしい驚きでした。
茶々姫だけでなく秀頼の位牌もあったとは、前記事の初の脱出劇と重なって、初の心情を思いやるといろいろと感慨深いです。

○常高寺で供養されていた人たち
ご住職さんと、かつて常高寺で供養されていた人たちのことについてお話していると、思いもかけず過去帳を見せてくださいました。実は、茶々姫が初に国松の供養を頼んだという史料から、初と国松の関係について何かヒントがないかと思い、国松を供養していたかどうかについてお伺いしていたのですが、国松のことだけではなくいろいろと名前のある方、ない方について発見がありました。以下、メモの一部です。

(朔日)  養源院殿天英宗清大居士 浅井備前守長政 天正元癸酉九月/至延宝元 百年 …浅井長政
(三日)  泰雲院殿前三品相公徹叟道閒大居士 大津宰相高次公/慶長十四己酉 五月 …京極高次
(四日)  興安院殿豊誉天清陽山大姉 京極道長(忠高)公室 台徳院殿息女/寛永七庚午三月 …徳川初
(五日)  高樹院殿日宝大姉 菊亭大将公内室 明暦三丁酉八月/栄昌尼公息女 …氏家古奈
(八日)  大虞院殿英岩大禅尼 秀頼公母堂 元和卯/五月 …浅井茶々
      嵩陽寺殿秀山大居士 秀頼卿 同上/五月 …豊臣秀頼
(十一日) 常照院殿明巌道光大居士 天明八戌申十一月/京極忠高公男 …?
(十二日) 玄要寺殿前若州太守羽林天慶道長大居士 京極若州公/寛永十四 六月 …京極忠高
(十三日) 徳源院殿前刑部特英道達大居士 寛文壬寅/九月 …京極高和
(十五日) 崇源院殿贈従一位昌誉和興大姉 台徳院殿ノ御台/栄昌公之姉(妹)/寛永三年/九月 …浅井江
(二十三日)満船院殿雲山知清大童子 秀頼公御息国松君/元和元乙卯 五月 …豊臣国松
(二十四日)自性院殿松月宗貞大姉 天正十一未/四月 浅井備前守室 栄昌公母堂 …織田市
(二十七日)当山開基常高寺殿松巌栄昌大姉 寛永十癸酉/八月 …浅井初

あとは、基本的に歴代将軍と高次系の藩主とその夫人の名前、そして歴代住職、七院の歴代院主などが並んでいました。
名前がなくて以外だったのは、高次の両親、弟妹たち。特に母(養福院)や龍(寿芳院)は大津城で共に暮らしていた時期もあるので意外でした。あと、初が何くれとなく面倒を見たという高次の次男高政も見当たらなかったです。
忠高の子だという「常照院殿」が誰かわかりませんでした。養子(もしくは実子)という高和の戒名は別にあるし…。一体誰のことなのでしょうか。

懸案の国松は、院殿号が一般的な「漏世院殿」と少し違いますね。その下は共通しているのですが…
ともあれ、きちんと忌日に供養されているようですので、やはり初との関わりは決して浅いものではなかった、ということでしょうか…
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若狭歴史民族資料館テーマ展「初 -戦国三姉妹-」

 

こちらの記事で取り上げたニュースを見てからずっと行きたかった、若狭歴史民族資料館のテーマ展へ行ってきました。大変充実した内容のテーマ展にもかかわらず、入館料の100円(大人一名)以外必要なく大変お得な展示でした。

○「な」と署名された初自筆書状


問題の書状、拝見して来ました。

『小浜市史』で予習してきた常高寺文書の他に、栄昌院文書にもおなじ署名のものがあり、一通に留まらなかったことがまず驚きです。
栄昌院文書のほうは、学芸員の有馬先生に解説いただきました。宛名が切封に掛かっており惜しくも不明ながら、頻繁に書状を交わしている相手で、近々会うことになっているらしい人物へ宛てたものだそうです。
内容はもとより、「しもまいる」と確かに初の侍女である「しも」の名が記されていますので、これは初の書状なのでしょう。
今回は写真展示で、しかも釈文はどこにもないらしく、有馬先生の研究が待ち遠しいです。

なお、初のことを「於那」と記した史料は丸亀にあり、「御鐺」と記した史料は常高寺関係のものだそうです。
後者について常高寺のご住職にお伺いしましたがご存知でなかったため、有馬先生しかご存知でないのかもしれません。

どちらにしろ、どれも一般人では見ることのできない史料だそうなので、こちらも早くこの目で確認できる日が来ることを祈っています。

若狭地方で「初」というのは次女を指すそうで(長女は「いち」だそうです)、初は自分の称として「初」を使っていたのではないかとのことでした。少なくとも若狭地方では、というお話なので、ひょっとしたら近くの湖北地方も…?実際に「初」と称していたのだとしたら、いつごろから使い始めたのか、その辺から絞れるかもしれません。

となると、徳川初の名前の由来について引っかかってきますが……古奈に続く初にとって「二番目の娘」という意味でしょうか?(古奈とどちらが年上でしたっけ…)
徳川初が初の二番目の娘となったために、称を「藤」と改めたということですと、特に矛盾がないのですがどうでしょうか。まだなんとも言えませんね。

○初の守り本尊弁財天像
初が生きていたころに作られたと推定される弁才天像。
初も弁財天を守り本尊としていたとは、浅井一門(特に女性)にとっての竹生島信仰の大きさが伺われます。

○初の侍女
小少将、新大夫、たき(多芸)、しも、ちゃぼ、楊琳、祖旭「七人の侍女」と呼ばれる侍女のほか、小宰相、たけ、あやや、きく、みむら(御室)など、初に仕えた侍女についてどのような働きをしていたかが解説されてあり、当時女性を主人に仕える侍女がどのように役割分担をして仕事をしていたかが偲ばれました。
戒名なども記されてありましたので、常高院墓地にある侍女たちの墓もそれぞれ特定できました。

○徳川初
テーマ展の図録に、徳川初が二度出産をしたようだが早世したらしい、という旨の記述を見つけて驚きました。しかし、図録を確認したのが帰宅後だったために、有馬先生にお伺いすることはできませんでした。また機会があればぜひお伺いしたいです。

○「大坂両御陣供奉御人数」
小浜市立図書館酒井家文庫所蔵の「大坂両御陣供奉人数」には秀頼・茶々姫と最期を共にした人たちが残されているそうですが、そのうち女房衆は「大蔵卿他女性四名」とありました。展示されていた頁が女房衆の記されていたところではなかったので確認できませんでしたが、またこちらもお伺いしてみたいです。

○「凌霄開山和尚伝 附開基伝」
常高寺所蔵のこの史料には、初が茶々(「阿姉」)や千(「令姪公」)と落城を共にするつもりだったが、従う家臣に諌められ、城を脱出したという内容がかかれています。
当時の様子を初の側から記した史料は他にありませんでしたので、興味深いです。

千については、千に仕えていた女房衆に交じって浅井家嫡女蔵屋夫人の血を引く海津局母子、秀頼の娘(のちの天秀尼)が城を出されていますので、秀頼・茶々・大野治長が相談して脱出させたというのが本当のところでしょう。
初についても、秀頼が「役立たずは出て行け」というようなことを怒鳴りつけたという話がありますが、秀頼が感情を露にする様子は他に見られませんので、そもそも秀頼が共に死のうとする叔母を道連れにしたくなかったというのが真意ではないかと思います。
「おきく物語」によると、初が大坂城を出たときには家臣に背負われていたということですので、脱出は諌められてというよりもっと力ずくだったのかもしれません。

○初の最期
初が死病に取り付かれたとき、御所の和子から使者(加藤理右衛門/『大内日記』)が下されています。このこともやはり和子にとって血を分けた伯母だからではないか、という思いがあります。
葬儀の際は、忠高が棺を背負い、高和(高次次男高政の子)が位牌を持ったということです。


 

豊国神社石燈籠

 
茶々姫をたどる汐路にて

『甲子夜話』に見る「豊国大明神石灯籠の覚写」
弐つ  寺沢志摩守殿(寺沢広高)
壱つ  速水甲斐殿(速水守久)
弐つ  羽柴肥前守殿(前田利長)
壱つ  右京大夫殿(右京大夫局)
壱つ  あいは殿(饗庭局)
壱つ  吉田豊後殿
壱つ  宮内殿(宮内卿局)
壱つ  大角与左衛門殿
弐つ  羽柴左衛門督殿(堀秀政)
弐つ  木下法印(木下家定)
弐つ  生駒讃岐守殿(生駒一正)
壱つ  杉原喜左衛門殿
壱つ  青木民部殿(青木一重)
壱つ  木下右衛門大夫殿(木下延俊)
壱つ  伊藤石見守殿
壱つ  桑山法印(桑山重晴)
弐つ  京極修理殿(京極高知)
壱つ  祐泉
壱つ  藤堂佐渡守殿(藤堂高虎)
壱つ  太田和泉殿(太田牛一)
壱つ  青木右京殿
弐つ  若狭宰相殿(京極高次)
弐つ  堀監物殿(堀直政)
壱つ  大野修理殿(大野治長)
弐つ  片桐主膳殿(片桐貞隆)
壱つ  大蔵卿殿(大蔵卿局)
壱つ  二位殿(二位局)
壱つ  佐竹殿(佐竹義宣?)
壱つ  伊藤丹後守殿
壱つ  羽柴美作殿(堀親良)
壱つ  三位殿(三位局)
壱つ  加賀国およめ(中略)(豊臣家女房?)
壱つ  堀田図書殿
今はこんなに残っていませんね。
写真は、治長寄進の石灯籠を確認しに行ったときに撮ったものです。
治長のは確認できましたが、他も刻字がだいぶ読みにくくなっていて…(磨耗した刻字読むのがかなり苦手です…)
そして、意外に多くの女房衆が石灯籠を寄進していて驚きました。

よめさんは、聚楽第の金庫番をしていたという女房のことでしょうか。
福田千鶴先生の『淀殿』では摩阿と同一人物か?と提起されていましたが、摩阿とは別人でしょうね。
そして、よく同一人物とされる秀頼の乳母右京大夫局と宮内卿局、二位局と三位局がこうして並んでいるのは大きいです。

現在確認できるのは、表にある八基だけでしょうか。
境内の奥にあるのか、現在に至るまでに多くがなくなってしまったのか…残念なことです。
 

「江と浅井三姉妹、そして戦国女性たちの戦い ~ドラマでは明かされない本当の物語」③

 
一応同タイトルを掲げて、明石にて三回目の講演をさせていただきました。

同じタイトルですが、毎回内容を変えております。
前回の反省点を踏まえてブラッシュアップしております。

しかし、毎回新たな反省点は留まるところを知りません。

初回の講演のご感想をいただいたのですが、系図…というか、人物の関係がとてもややこしいようです。
浅井家、京極家、豊臣家、徳川家…そして江の娘を中心に縁を結んでいる三姉妹。
「ここまでして浅井家の血を残していたのか…」
というご感嘆に、改めて本当にそうですよねえ、と思いました。

今年に入って江のことを改めて勉強しなおしているところですが、三姉妹の絆というものは物語的なところではなく、確かに強固に繋がっていたのだなあ…と強く感じます。
 

初の幼名!?

 
まさか、まさかの「初」が本名ではない…?
若狭歴史民俗資料館のテーマ展に関する記事で、別のところに驚いてしまいました。

1609年ごろに書かれた初の自筆書状も展示。禅宗の教義の内容について書かれており、江戸の東禅寺の嶺南和尚に質問した書状と推測されている。初の幼名は「御鐺(おなべ)」「於那(おな)」。書状には「な」の署名がある。(記事より引用)

以前、忠高の母山田氏(崎?)の名が「おな」だという話を聞いたことがあったのは、これと何か関係があるのでしょうか…。山田氏の名前は結局「崎」でいいのかな?

twitterのフォロワーさん情報によると、若狭歴史民像資料館の学芸員をされている有馬香織氏が、「な」と署名された書状を不思議に思って、江戸時代の若狭の書物や丸亀藩の史書を調べた所御鐺(於那)という名前が判明したというお話を講座でされたそうです。

そういえば系図以外で初の名前が見える一次史料って思い当たらないかも…
茶々姫は自身「ちゃ」と署名した書状や、秀吉が「おちゃちゃ」と宛名を記した書状があるし、江は「五」と署名した書状があるけれど…
初の場合は、江が宛名に書いた「しゃうもじさま」くらいしかないのでは…

是非、その書物を拝見してみたい!

そして、すごい書状を見に行きたくなりました。しかし、湖北からならともかく、ここからは遠いな…

「初」ゆかりの資料小浜で披露 肖像画や自筆書状など30点(2011年4月10日午前7時25分)
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/event_calture/27449.html
(福井新聞)

 小浜藩主京極高次の妻で、浅井三姉妹の次女・初(常高院)に関連した多数の初公開資料を並べたテーマ展「戦国三姉妹 初」が9日、小浜市の県立若狭歴史民俗資料館で開幕した。常高院の肖像画や、初の守り本尊「弁財天像」、自筆書状など貴重な資料が展示されている。5月8日まで。

 NHKの大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」に合わせ、初とゆかりの深い小浜をアピールしようと、同館が1年以上かけて準備した。

 肖像画「絹本著色 京極高次夫人(常高院)像」は、草花模様の小袖をまとい、片ひざを立て座っている常高院の姿を描いている。弁財天像は、常高寺の鎮守としてまつられ、今回初めて公開された。

 1609年ごろに書かれた初の自筆書状も展示。禅宗の教義の内容について書かれており、江戸の東禅寺の嶺南和尚に質問した書状と推測されている。初の幼名は「御鐺(おなべ)」「於那(おな)」。書状には「な」の署名がある。

 このほか、県指定文化財の地図屏風(びょうぶ)や市指定文化財の地蔵十王像など、16点の初公開(1点は修復後初公開)資料を含む計30点を紹介している。

 舞鶴市から訪れた辻和俊さん(74)は「肖像画はお初さんの人柄がとてもよくくみ取れる資料。ポスターなどで見たことはあったが、やはり本物は良い。友人を連れてまた来たい」と話していた。

 同資料館の学芸員、有馬香織さん(36)は「お初さんが小浜の人々にどのように慕われていたか、文化財を通して感じていただけたら」とアピールしていた。同展期間中の13、27日は休館。

…というわけで、驚きはとりあえず封印して明日の講演準備に戻ります。
 

第十四話「離縁せよ」【大河ドラマ感想】

 
実は前回から連続で見ました。
前回と今回、大野編も二回で終了でした。相変わらずのハイペースです。

①そういえば数え十二歳。
枕絵で柄にもなくひっくり返った、やっぱり腐っても(笑)御姫様育ちだった江。
まさか枕江が生娘のまま帰ってくる布石になろうとは。
少女マンガチックではありますが、確かにこの江はまだ数え十二歳。小学五年生くらいです。
当時、若くに婚約して、妙齢になったら輿入れするというパターンが普通だったようで、三歳で輿入れした江の娘(と言われている)珠も、実際に長女を産んだのは数えの十五歳でした。
例外的に、前田利家の妻まつは同じ数え十二歳で長女を出産していたりします。
この違いは彼女たちの実家など、後ろ盾の違いでしょうか。

②小牧・長久手の合戦
あっさりと小牧・長久手の合戦が終わってしまいました。
合戦シーンは今回も本陣の様子以外にはありませんでしたが、これは女性視点のお話ということなのでしょうか。
しかし、この合戦、市のこだわっていた「織田家を守る」という意味では結構重大事件です。
この講和を境に信雄と秀吉の関係が…「逆転」という言葉を使ってもいいのかどうか分かりませんが…信雄の立場が悪くなります。そして、このあたりを境に、三姉妹の身柄は完全に秀吉の管理下に置かれたともいえます。

②秀吉は父
これは、まるで三姉妹全員にとって秀吉が父のような言い方でしたが、秀吉が父(養父)となるのは江だけです。茶々・初は秀吉の保護下にありましたが、養女関係ではありませんでした。初の結婚も、秀吉の肝いりではありますが、初は秀吉の養女になって京極家へ嫁いだわけではありません。茶々姫はいわずもがなです。

そして、江が秀吉の養女となるのは、次の旦那様である羽柴小吉秀勝からです。『兼見卿記』の記事によれば、これは今回の舞台である天正十二年の翌年天正十三年に祝言があったとされていますが、今回の大河ドラマでは小和田説に従って天正二十年の輿入れになるでしょう。

④今週の龍子さん(笑)
「お手紙書きます!」→「…で、何を書くの?」
完全におとぼけキャラですね(苦笑)
私が想像していたお姉さんキャラとはちょっと違いますが、嫌いじゃないですむしろ好きです(笑)
いえ、もちろん本物の龍さんは京極家を背負って秀吉の側にいた訳ですから、もっとしっかりしていたはずですが!
そして、やっぱり背負うものがあってしっかりしなきゃ!と思っている女性に弱いと思われる秀吉はこのお龍さんをそれはもう大切にしたわけです。龍子さんの手紙を疎かにするなんてそんなことなかったと思います。

⑤羽柴秀次
秀次、初登場でしたね。
原作では江は秀次とも心を通わせていたように思いますが、どうなるのでしょう。
あんまり良いキャラに描かれないのかな…とちょっと不安になる今回でした。
(個人的に秀次好きなのですが。最近ご縁も多いし…)

⑥大坂城移り
茶々と初が、天正十二年八月に完成したばかりの大坂城に早速招かれていました。
これも小和田先生の『戦国三姉妹物語』の通りですが、更に宮本義己氏は『誰も知らなかった江』において、秀吉が前田利家の娘摩阿に対して「明年(天正十二年)には大坂に呼びます」と書き送った書状を例に挙げられています。
実際に茶々姫がこの当時大坂城にいた形跡というのは、『兼見卿記』天正十三年正月二十八日の記事にある「大坂ニちゃ/\方」がそうだという説もあります。ただ、これが間違いなく茶々姫本人だと断定できるかと言われると、難しいところです。
また、天正十四年十月一日にも『言経卿記』に茶々姫が大坂城の大政所を訪問したとされる記事があるのですが、これも確実に茶々姫を示すかどうか断定できません。
…つまり、この時期に確実に茶々姫や初がいたことを証明できる史料は未だ存在しないんです。
後に妻となる摩阿も呼ばれたのだから、名実ともに秀吉の管理下に置かれることとなった茶々も初も大坂城に呼ばれたであろう、というくらいなのが実情です。

この件に関してはコチラの記事をご参照ください。
→*天正十三年の茶々姫?(2010/11/24)
→*天正十四年の茶々姫?(2010/11/23)

⑦今週の茶々…とお寧
「お寧さまのお顔を見ると何も言えなくなってしまいます」
それはなんという恋ですか、などというアホなツッコミは置いておいて…
秀吉を挟んで悪しざまに描かれるお寧さんと茶々姫の関係、今のところは市の書状と江の(が秀吉に書かせた)書状の鉄壁に阻まれた状態ですが、良好ですね。
市をして「頭のいいそなたなら理解できよう」と言わしめた今回の大河の茶々姫。今のところ、お寧さんに対してもそれと矛盾するところのない態度です。

上のセリフを聞いたとき、私は真っ先に山路愛山の「淀君論」(『豊臣秀吉 下』)を思い出しました。

「我らの知る限りにては淀殿もまた高台夫人の言う所は善く聴きたるように思わる。」

「さるを秀頼一生の大事ともいうべき場合に高台夫人の善く淀殿をしてその心を翻さしめたるを見れば、我等は高台夫人の徳を思うよりむしろ淀殿の高台夫人に対する尊敬の心篤かりしを察せざるを得ず。」

という節です。
この記事は全体を読むといろいろと突っ込みたいところもあるのですが、しかし明治時代に書かれたこの記事は、読み返すと的を得ていると思われる表現がいくつも出てきます。
明治時代に此処まで茶々姫の評価に疑問を呈したのは山路愛山氏か、森銑三氏くらいなものですが、それでも男尊女卑の時代にも疑問符を呈した方がいらっしゃったというのは私にとって大きな驚きでした。

大河の原作小説ではお寧さんがそれでも本能的に茶々姫になじめずに江を可愛がるというシーンがあって、そこがすごく残念だったのですが…実際はどうだったのでしょう。
私は、さすがに鶴松懐妊が分かった時は、秀吉、お寧さん、茶々姫の驚きは半端ではなかったと思います。
この時ばかりは、お寧さんも複雑な気持ちになったでしょうし、秀吉がそんなお寧さんを気遣って聚楽第に移す様子も見られます。
当時のことを考えればそれは当然で、それでも平静でいられるような人が普通ではありません。

それでも、やはり普段は今ドラマで描かれているくらいの距離間であったのではと思います。
その意味で、茶々のセリフは今後二人の関係がどのように描かれるのか期待したくなるセリフでした。
 

第十三話「花嫁の決意」【大河ドラマ感想】

 
いつものように予約録画で安心していたら本放送を見損ねていました…
が、ようやく土曜日の再放送分で見ることができました。

金曜日に、のだめの映画版をやっていましたね。
うっかりその後に我慢できなくて後編のDVDを見たのですが(笑)、初の水川あさみさん演じる清良とのだめが会話するシーンがあって、喧嘩しないで仲良く普通にしゃべる二人にとても不思議な気分になりました(笑)

それはともかく…今回と次回の話については、あまり話を広げることができません。
流石に安土から山崎まで馬を飛ばしたことには驚きましたが(笑)

①江は本当に嫁いだのか?それは誰の意思で?
江は結局実際に佐治一成に嫁いだのか、嫁がなかったのか、大野へ行ったのか、行かなかったのか(福田千鶴先生は二歳で婚約、実際に嫁ぐことはなかったとされています)。
大野には伝承以外に江がいた痕跡がないことなども指摘されることがありますね。

そもそもこの婚礼は信長の意思だったのか(福田説)、信雄の意思だったのか(宮本義己氏)。
秀吉の意思ではなかったことだけは、なんとなく腑に落ちていますが…本当によくわかりません。

②二度目の櫛
櫛出ましたね!
前回伊賀越えの際に持たされていたけれど、特に活躍の場がなかった櫛の再登場でした。
今回も特に活躍しそうにないですが、茶々と江が離れるたびに象徴的に登場するようになるのでしょうか。
最後に、茶々と江の間で櫛が手渡されるのはいつのことになるのでしょう。
姉妹の絆を表わす江の遺品として、和子によって養源院におさめられたりするのでしょうか。ちょっと楽しみです。

③江の結婚承諾と一筆
流石に江の結婚と茶々姫を秀吉から守ることとを天秤にかけるのには無理があるようにも思いますが…。嫁ぐ流れは変えようがありませんので仕方ないですが、本当に守りたいのなら、今回の大河の江ならば、江が離れず傍にいるほうが安心なような気がします。

④今週の茶々姫
とりあえず新しい茶々の髪形がとても美しく可愛らしいのが嬉しいです。
「私がおるところが、そなたの家じゃと心得よ」というセリフもとても素敵です。

でも、このセリフも、前々回の「そなたたちは私が守る」というセリフも、江にはあまり信頼されていないような…
お寧さんに真相を明かされて「情けない」と泣く気持ち、私は分かります。

今回の江は守られる立場にいることを良しとしないキャラクターなので、茶々の言葉が空回りしてしまっていますけれども、実際の茶々姫はその言葉に忠実に動いていた人でした。
そして、実際の江もそれをよくわかっていたからこそ、養源院が今日まで伝わっているのでしょう。

北庄辺りからこのかた、三姉妹がゴネて事態をややこしくしているという展開が多いように感じますが、これからこのジレンマはどうなってゆくのでしょうか。
 

メッセージ返信 ~小倉鍋・海津局・饗庭局について

 
サイトのほうでメッセージを頂いたのですが、返信先が分からなかったのでこちらでお返事させていただきます。
ご覧いただけることを願って。

>4/16 22:40「あ」様

①小倉鍋について

私も仰る通りに思います。
まだ記事作成・整理など出来ていないためにただ名前を並べているのが現状です。
マイペースにではありますが、充分な史料がまとまり次第、順次記事の作成、訂正などを行っていく予定ですので、気が長い話ですがお待ちいただけると幸いです。

②海津局の戒名について

『戦国大名閨閥辞典』を出典に、先ほどまで「光源院」という院号だけ掲載させていただいておりました。
御質問をきっかけにもう一度手元の資料を漁ってみたところ、『東浅井郡志』および『地方別日本の名族―八 近畿編』の浅井家系図にて海津局の戒名が見つかりましたので、サイトのほうでも訂正させていただきました。
ありがとうございます。
(出典はおそらく三好家の菩提寺医光寺の過去帳などではないでしょうか。未確認ですが…)

饗庭局については、現在私が所持している史料・資料の範囲では戒名などが見つかりませんでした。
こちらは、姉海津局と混同されてしまっているというのも史料が少ない大きな原因の一つだと考えます。
ひょっとすると『江州浅井家霊簿』や『諸寺過去帳』、もしくは未発見の過去帳などに残されている可能性は高いと思います。
また、海津局には妹にあたる方ですので、三好家の過去帳などに並んでいるもしくはひっそりと追善供養されている可能性があります。
饗庭局については、湖西の海津にある宗正寺に供養塔があるということですので、ひょっとしたらそちらに何か残っているかもしれません。
また発見できましたらこちらで一番にお知らせできるかと思いますが、現在のところ可能性を並べるばかりで、明確なお答えをできません。

申し訳ありませんがご了承頂けますと幸いです。

(誤字訂正しました)
 

天秀尼の本名について考える

 
うちのサイトにも、「出典不明」として一般的に通っている「奈阿」と「千代」を載せていましたが…この出典が分からなかったので調べてみたところ、「奈阿」は千姫の孫の名前でもあるそうですね。

橋本政次氏の『千姫考』にも、千と本多忠刻の娘勝と池田光政の長女が「奈阿」といい、忠刻の甥本多忠平の妻となったとあります。

一次史料にあたろうと史料編纂所のデータベースをあたってみたところ、史料そのものは見れませんでしたが、『池田光政日記』に奈阿について書かれた個所をいくつか見つけることができました。

承応2年7月20日
池田光政、幕府年寄酒井忠勝を訪問し、長女奈阿姫の縁辺につき、本多忠義子息忠平に嫁がせる意向を上申する
承応2年7月23日
池田光政、奈阿姫縁辺、本多忠義子息のことにつき、長田十太を幕府年寄酒井忠勝へ遣わす、忠勝返事をする
承応2年9月5日
本多忠義、奈阿姫縁辺のこと、子息同心せざるゆえ返事延引するを謝す、忠義は同心する
承応2年9月12日
池田光政、奈阿姫縁辺のことにつき、幕府年寄酒井忠勝および幕府老中へ書状を遣わす
承応2年11月6日
池田光政、安井弥三兵衛を、長女奈阿姫に付属させる
承応3年4月11日
幕府、池田光政に長女奈阿姫と本多忠平との婚儀を許可する
承応3年4月21日
池田光政長女奈阿姫に付きたる者の覚
承応3年6月6日
池田光政長女奈阿姫、結納
承応3年6月晦日
池田光政長女奈阿姫祝言の道具、夜の内に遣わす
承応3年7月3日
池田光政長女奈阿姫、本多忠平へ輿入れする
明暦3年11月11日
池田光政、奈阿局年々不届の仕合につき、国元へ遣わす
万治3年5月19日
池田光政女奈阿・佐阿ほかに用を遣わす、 池田光政日記

奈阿は千との縁も浅からぬ人で、千の没後、追善供養のために写した経文が残っているそうです
紺紙金泥阿弥陀経

千と天秀尼も養母娘として浅からぬ縁、交流を持っていたので、この池田奈阿と混同されたようですね。
博物館に展示してあるような系図にも「奈阿」と載っているので、もやもやしていたのですがすっきりしました。


(4/17追記)
コメントで教えていただき、デジタル岡山大百科をチェックしました。

○「備前池田家系譜」
「本多能登守忠□(義)嫡男下野守忠平ノ御内室」
「光政公第一女」
奈阿姫君ト称」
「元禄十年十二月十一日卒」
「慈雲院殿梵音艸海大姉」

○「備藩先公墓記」
「慈雲院殿梵音性海大姉」
「第一女」
「諱名於名阿

○「池田系図」
「女子  本多下野守忠平室」

この三点で確認できました。
とおりすがりさん、ありがとうございました。
 

「江と浅井三姉妹、そして戦国女性たちの戦い ~ドラマでは明かされない本当の物語」②

 
昨日、ホテルエリアワン神戸にて行われた異業種交流会様の講演会にてお話をさせていただきました。
タイトルは前回同様「江と浅井三姉妹、そして戦国女性たちの戦い ~ドラマでは明かされない本当の物語」ですが、内容は前回よりテーマを絞り、三姉妹の紹介と最近の大河に合せたお話、そして「戦でも引き裂かれることのなかった三姉妹の絆」を主題にお話させていただきました。

(取り上げた主な内容)
・関ヶ原観戦前哨戦大津城講和
・関ヶ原合戦直後の緊張と千の輿入れ
・羽柴完子、徳川初を通じて
・大坂の陣で講和に奔走する初とその後ろ盾
・大坂城から江のもとへ逃がされた侍女とその一族
・"残された"養源院

講演後、お話の仕方やパワーポイントの使い方等アドバイスもいただき、大変勉強になりました。
この場を借りて改めてお礼申し上げます。

また来週お話させていただく機会を設けて頂いておりますので、今回の反省点を踏まえて更に分かりやすく楽しいお話ができるようにブラッシュアップに努めます。
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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