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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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正栄尼の素性

 
別件で調べ物をしていたら、びっくりするような史料にぶつかってしまいました。
先日正栄尼の画像がある清涼寺の過去帳について取り上げたばかりなので、何か縁があったのかもしれません。

とりあえず引用します。

「天正記聞」
(調べると、「秀吉事記」一名「天正記聞」とあったのですが、同史料でしょうか)違うようです
光秀公前妻者、江州永原之城主永原大炊助嫡永原仁左衛門娘也、此腹生女子、母子共帰故郷、此女子成長而、秀吉家臣嫁渡部宮内少輔、生渡部内蔵助、宮内少輔死後、内蔵助母成尼、号渡部正栄大坂奥方女臈頭云随一、内蔵助儀於大坂冬夏之御軍法砌、御相談之席、軍術槍達人有武功、大坂落城之節、出城外戦、見掛城火、急帰城中、正栄妻子共入千畳敷、然處正栄云、武士之最後者、後世之評判先祖為面目間、内蔵助自害之體見届度由、内蔵助聞之悦、即席子共刺殺、腹十文字切、正栄大感介錯、内蔵助者、山城国一来寺城主、八万石、渡部出雲守孫、同宮内少嫡子也、正栄向娵云、其方者田丸城主之息女、我身者天下取之娘、於最後何掛人手乎、尤領掌而、両人共令自害、飛入焔中、傍人視之、雖為女身、勇将之子孫者、末後異常人、可為諸人之手本、甚感之、内蔵助妻者勢州田丸城主四万五千石、牧村兵部大輔娘也、正栄亦有娘、ツルト云フ、

明智光秀の前妻は、近江永原城主大炊助の嫡男仁左衛門の女である。
光秀とこの女の間に女子がいた。母子共に帰郷して女子は母の故郷で成長した。
その後、秀吉の家臣である渡部宮内少輔(渡辺昌)に嫁ぎ、渡部内蔵助(渡辺糺)を産んだ。夫の死後、糺の母は尼となり正栄と号し、茶々姫(「大坂奥方」)の一番の女房頭であったという。
糺は大坂の陣において秀頼の相談相手であり、また軍術や槍の達人であり、武功を重ねた。大坂落城時には、城を出て戦ったが、城に火がついたことを見ると急ぎ城へ帰った。
千畳敷には正栄と糺の妻子がおり、正栄はが糺に向かって、「武士の最期は後世の評判、先祖の面目となる。わたしが糺の自害の様子を見届けましょう」といった。これを聞いて糺は悦び、子どもたちを刺したのち自ら腹を十文字に掻き切った。正栄は大変感じ入り、糺を介錯した。
糺は山城国の一来寺(一乗寺)城八万石の城主であった。渡辺出雲守の孫で、その子昌の嫡男にあたる。
正栄は糺の妻にむかって、「あなたは田丸城主の娘、わたしは天下取り(光秀)の娘。最期は他人の手にかかることはあってはならない」と言った。妻は納得し、手を合わせると二人ともに城を焼く焔に身を投じて自害した。
そばで見ていた者は、「女とは言ってもさすが勇将の子孫、最期も普通の人とは違う。皆は彼女たちを手本にすべきだ。」と大変感じ入ったという。
糺の妻は伊勢田丸四万五千石の城主牧村兵部大輔(利貞)の娘である。
正栄にはまた娘もおり、彼女の名をツルと言った。
「牧村兵部大輔」こと牧村利貞は春日局の側近祖心尼の父に当たる人ですが、田丸城主ではないそうです。(http://www.murocho.com/aji/koboku/koboku4.html)「田丸城主」が正しいならば、糺の妻は稲葉道通の娘ということになります。

まとめてみました。

青字は『清涼寺過去帳より』)
永原大炊助 ━━ 仁左衛門 ━━ 明智光秀前妻 ━━ 正栄尼往相院西誉正栄大姉

渡辺出雲守 ━━ 宮内少輔(昌/源誉道把居士/妻:正栄尼往相院西誉正栄大姉〕) ━━ 内蔵助(糺)、正心院殿宝樹水庵大姉(ツル?)、永誉寿慶大姉

 糺(妻:牧村利貞or稲葉道通女)━━ 守、量寿栄薫信尼雲龍童子
                                     

某書で、正栄尼が浅井長政の娘であると受け取れる文章に悩んで数年…
正栄尼がまさか明智光秀の娘だとは思いもよりませんでした。

他の史料に見えないのは、やはり光秀の娘という経歴を当時はおおっぴらにはしていなかったのでしょうね。とはいえ、さすがに主である茶々姫がこれを知らなかったということはありえません。
さすがに光秀の娘であると出自を偽称するということはないと思いますが…

鐘銘事件の際、茶々姫の乳母である大蔵卿局、徳川家配下に家族のいる二位局とともに駿府へ使者として下ったのは、この血縁によるものもあったのでしょう。

細川忠興の妻玉(ガラシャ)は、自分は光秀の娘であることを憚って(正栄尼の異母妹ということになりますね)、大名夫人たちが茶々姫に面会する際に遠慮したという史料もありますが、茶々姫が明智光秀の縁者を遠ざけていたということはなかったことがわかります。
同時に、茶々姫のそばで育った江が福(春日局)を明智光秀の血縁だからと言って疎んでいたというのもまた事実ではないこともわかります。
 

第十二話「茶々の反乱」【大河ドラマ感想】

 
うわー、十三回を普通に見逃しました。予約録画もいつもの時間に設定しているので、土曜日の再放送までお預けでございます。
というわけで、講演会、最新回を踏まえてのお話ができません…しまった…

そんなこんなで一週間遅れですが、第十二回の感想?をば。

①三姉妹の鬢削ぎ(成人の儀)は誰が?

下着姿で暴れまわる…もとい、身づくろいする姿を見ながら、三姉妹の鬢削ぎはどんなだったのだろうと考えていました。

秀頼の妻千は十六歳ごろであっただろうと言われています。七歳で嫁入りしましたが、鬢削ぎを終えて実質的に妻になったとされています。千の鬢削ぎは、秀頼の背が大きかったのと、たぶん千は小さかったのとで、碁盤の上に千をのせて、秀頼が鬢をそいでやったという記録が残っています(「おきく物語」)。

今回は天正十一年秋ということで、設定上茶々は十五歳、初は十四歳、江は十一歳です。佐治家への嫁入り自体実現したかどうか微妙ですが、江はまだしばらく鬢削ぎはしなかったかもしれません。
初が京極高次と結婚したのは、高次が秀吉に所領を受けた天正十二年~十五年ごろだと言われています。ドラマでは普通にのんきそうに龍が出てきていますが、この頃龍は明智光秀や柴田勝家に加担してしまった高次のために秀吉に必死に働きかけている頃です。私は高次と初の結婚を、京極高吉から人質として織田家にやってきていた小兵衛(のちの高次)と織田家との絆を強固なものにするために信長が考えていたものだと考えていますので、高次の流転で婚姻話も危うくなっていたのかもしれません。そこは、龍の懸命な働きかけ、そして前回取り上げた『渓心院文』に見える茶々の働きかけによって、「筋目」通りに婚礼が行われたのだと思われます。
…話がずれました。むしろ、もう少し先の話をしてしまいました。
そうなると、初が結婚したのは天正十二年だとすると十五歳。適齢期ですね。初の鬢を削いだのは、叔母(姑)のマリアだったかもしれませんし、夫の高次だったかもしれませんし、姉の茶々姫だったかもしれません。

茶々はというと、天正十一年には既に十五歳でした。なんらかの婚礼話があったかどうかははっきりしませんが、既に鬢削ぎは市あたりの手で済ませていたかもしれません。もしくは、信長横死からそんな余裕もなく、まだ済ませていなかったとしたら、剃刀を持ったのはやはりマリアでしょうか、それとも保護者(夫)である秀吉でしょうか。

江は、秀勝との婚礼時(天正十三年/十三歳)でしょうか。この時は婚約どまりでもう二三年後のことかもしれませんね。これは、やはり養父母である秀吉や寧の手で鬢削ぎが行われたのでしょうか。
何も史料がありませんので、単なる想像ですが、ふと思いついたので…

②贈り物作戦など

これも茶々の心を懐柔するために秀吉が使った手としてよく出てくるシーンです。もちろんそれが史実かどうかは分かっていませんが。同じようなシーンを見た時、懐柔されていたのは茶々姫の乳母大蔵卿局でしたが、今回は初が一番に懐柔されていましたね(笑)

「市似」の話ですが、いくら茶々姫が長政似であっても、女子は成人するとやはり母に似てきますからね。私も全く似ていなかったとは思っていません。瓜二つではなかったでしょうけれども。
「似」つながりで、「信長似」設定の江。度々江の表情が信長のそれと重なって秀吉に見えるシーンが出てきています。病床の秀吉が夢の中で信長に会ったらしく、そのうわ言を利家が聞くという逸話があるのですが(『御夜話集』)、これはまさか江が駆けつけ来たりするのでしょうか。そういえば某漫画や小説でも、茶々に信長を見た秀吉が謝っていたなあ…

③秀吉の株回復?

みんなが「茶々様、初様、江様」と呼ぶ中で、「お茶々…さま」と呼ぶシーンがありましたね。現存している秀吉の手紙では、秀吉は茶々姫のことを「おちゃちゃ」と呼んでいますので、「茶々様」から「おちゃちゃ」に変わってゆくのでしょうか。秀吉のそばに上がった時点で「淀」に改名されてしまうのかと思っていたのですが、どうだろう。
もちろん現実に「改名」はされていません。対外的には「淀」の号を使っていたようですが、晩年まで豊臣家内では本名で署名されています。

個人的には、茶々のハンストと一緒にこっそりハンストしていた秀吉のエピソードが好きでした(お寧様にはバレバレでしたが)。なんていうか、今まで下品な欲望ばっかりしか見えなかったので、秀吉の「本気」が垣間見えて良かったです。

④江の(個人的な)株回復?

御馳走を目の前に、初と共においしそうに食べ始める江…しかし、膳に手をつけない茶々を見て慌てて箸を戻す。
個人的に、今のところ史実の江のほうがだいぶ好きなのですが、今回はこのシーンの江がとても可愛かったです。
勝家関係の時は、頑なな茶々と初とは対照的な江を初が姉同様の行動をとるように説得するというパターンでしたが、今回は逆でしたね。綺麗な着物を着たい、おいしい食べ物を食べたい初を江が姉を気遣って説得するパターンでした。なんか新鮮です。

④龍と三成

なんとなく二人のシーンが出てきたので。
この二人の関係についてはほとんど言及されることはありませんが、醍醐の花見の時、龍の輿を守っていた一人が「石田木工」こと石田木工頭正澄(三成の兄)だったりします。

しかし、つくづく残念なのが今回の大河も石田三成が茶々に思いを抱くという光秀の奥方にとても気の毒な設定。
秀吉とじゃれあう三成は好きですが…(そして最初から無駄に偉そうでないキャラクターも私は好きです)

⑥秀康(義)と秀忠(長)の初登場

今回は家康が良い人に描かれていますので、家康に愛されなかった於義丸こと秀康の描写が残念でしたね…。個人的に秀康は好きなので、それだけに残念です。
秀康について一般的な知識しかありませんが、福田先生の『徳川秀忠―江が支えた二代目将軍』を参考にご紹介すると、秀康は妾である万(小督局)を母に生まれますが、父に疎まれ(容姿が醜かったせいだとも、母万の貞操を疑ったからだとも)、弟を哀れに思った年の離れた兄信康の仲介でようやく認知されたと言われています。彼の嫡男秀直の妻は秀忠と江の娘(福田説では江の娘ではありませんが…)勝です。そして、勝の娘鶴が江の長女完子の息子九条道房の妻となりますので、江にとっては縁の深い人でもあります。
後に人質同然で秀吉の養子になるのですが、その関係で親秀頼だったとも言われていますが、事実はどうなんでしょうね。

あと、秀忠の幼名が「竹千代」で登場しています。最初「長丸」と言ったのを、嫡男にするにあたり「竹千代」と改めたことになっていますが、天正十九年まで「長」という名前で出てきているとのことですので、この時点での改名はおかしいですね。そもそも、福田説では「秀忠の世嗣としたの正当性を高めるために『秀忠が世嗣になるにあたり幼名を竹千代に改めた』とする経歴が付与されたものであろう」と、改名自体無かったとされています。
秀忠は秀康が豊臣の養子になる以前から世嗣としての扱いを受けており、その理由は「生母が正室の出ではないため」とされ(「パジェー日本耶蘇教史」)、の秀忠の母愛(西郷局)が正室に近い扱いを受けていたことが分かります。そのため、ケチをつける暇もなく嫡男信康の死後は秀康ではなく秀忠が嫡男扱いだったようです。

あと、コメントでこの時点での天正二年生まれの秀康はこのとき十歳のはず…ということを教えて頂きました…今回だけでも子役さんでよかったのでは…(苦笑)

⑤今週の茶々姫

「そなたたちは私が守る」と仰ったにもかかわらず、今回は妹や乳母たちを巻き込んだハンストを行うという、先週の決意とは裏腹な行動をしていました。でも、自分が妹たちを巻き込んでいると苦悩する表情がかなりあって、矛盾がそこまで気になりませんでした。
ドラマの設定ほど秀吉を仇と憎んでいるのであれば、その仇の慰みものにされるのはそりゃあ嫌ですよね。
でも、秀吉の庇護を受け付けないというのは、実はドラマ上での市(勝家も秀吉に三姉妹を託した書状を送ったとも言いますので勝家も)の遺志を無碍にしていたりするのですが……そこまで思い至るほどの余裕はなかったようです。

結局、千利休に説得されてハンストを辞めましたが、実はこれも時代考証の小和田先生説のとおり、「運命と思ってあきらめた」となっていますね。なんやかんやで小和田説にきちんと繋がるのはさすがだと思います。

補: 三姉妹の別れ…?/大坂城築城中

このあたりは内容的に次回、次々回の内容になりますので、備忘録としてタイトルだけ書かせてください。
 

第十一話「猿の人質」【大河ドラマ感想】

 
感想を書いた紙をなくしてしまい、もう一度見直しました。
初見の感想ではないのでご了承ください。

なにはともあれ、「人質」とは誰にとっての人質なのでしょうか。
茶々のこと?でも、誰にとっての人質?江にとって????
…と頭にハテナがいっぱいですが、大した問題でもないと思うので進めます。

前回の感想で北庄城爆発について書きましたが、地味に(?)爆発していたんですね。
すみません、気が付きませんでした…

①三姉妹の行先

北庄城から脱出した後、ドラマでは秀吉の本陣へ送り届けられています。
秀吉の本陣は「村井重頼覚書」によると愛宕山とのこと。醍醐の花見と同じ史料ですが、この戦いには前田利家が参戦していますので、信用してよいのではないかと思います。当時は分かりませんが、現在は越前市にある高さ103mの山だそうです。
それから、安土城に入って京極龍子(龍)に会いますが、安土城で龍の保護下にあったという説は、時代考証の小和田先生の説です(『戦国三姉妹物語』)。

1- 一乗谷へ逃れた後、秀吉によって安土城へ送り届けられる(『柳営婦女伝系』)
2- 「遥の谷」へ逃れた後、秀吉によっ安土城へ送り届けられる(『玉輿記』)
3- 越前大野へ逃れた後、秀吉によって迎えられる(『新撰豊臣実録』)
4- 京にいた京極龍に預けられる(「京極家年表」/小和田哲男『浅井三姉妹物語』、『常高院殿』)
5- 織田有楽斎に預けられる(「広瀬曾市氏所蔵文書」/桑田忠親『淀君』)
6- 織田信包に預けられる(新書太閤記)
7- 山崎城にて秀吉の庇護をうける(楠戸義昭『お江』)
8- 小谷城下実宰院にて叔母見久昌安尼の庇護をうける

この頃、秀吉が山崎城に拠点を置いていたことから楠戸氏は三姉妹の居所を山崎城と推測されました。
しかし、この頃勝家と結んだ信長の三男信孝は自刃させられますが、次男信雄は健在でした。信雄が秀吉と講和を結ぶ小牧・長久手合戦までは三姉妹の身柄は織田家縁の人間と考えられていたとされ(宮本義己氏はそもそも三姉妹の身柄が秀吉ではなく織田家の管理下にあったとされています)、一次史料ではないながらも安土城に身柄を移されたという説は妥当なものであろうと推測されています。

保護者については、ドラマに登場した京極龍のほかに、信長の弟織田有楽斎が挙げられています。これは、天正十八年の有楽斎宛千利休書状がその根拠です。手紙の内容は、「淀で御茶しましょう」という内容なのですが、有楽斎が常に淀城にいたかどうかまでは分からないこと、また天正十八年の文書なので、今回のドラマ内(天正十一年)まで遡ることは難しいことから、近年では疑問視されています。
織田信包については、これも小谷落城時に信包に預けられたであろうという『浅井三代記』や『総見記』の説によるものでしょう。近年宮本氏などによって小谷落城後に市と三姉妹が伊勢安濃津や上野などで預かられた説が否定されていますが、信包は大坂城時代にも茶々姫を支える存在の一人ですので、どこかで関わっている可能性は充分にあると思います。

ちなみに、この時龍が安土城にいたかどうかはわかりません。三姉妹が安土城に預けられたという史料から、保護した龍も安土城にいたのだろうということなのだと思います。ドラマ上では本人が「京極龍子」と名乗っていましたが、当時の女性の名前を鑑みて、「たつ」と名乗っていたのでしょう。後世、「子」が付されて系図に残されると言ったことはよくあり、初も「初」→「初子」、江も「督(ゴウ)」→「督(トク)」→「徳」→「徳子」と記されていますが、本名と異なることはご承知の通りです。ちなみに、龍は「龍子(竜子)」「辰子」という名で残っています。

そして、茶々の台詞で登場した「京極マリア」(長政の姉)ですが、これも当時「京極マリア」と名乗ったり呼ばれたりしたことはなかったと思います。ただ、彼女の本名が残っておらず(以前「慶」という名前がwikipediaに載っていましたが、これは渋谷美枝子氏が戒名〔養福院殿法山寿大禅定尼〕から推測した名前だと思われます。そして、今もう一度wikipediaを確認したところ、「福」という名前になっていましたが、これも戒名〔養院殿法山寿慶大禅定尼〕から推測したものでしょう)、残っている数少ない史料がキリスト教の史料であり、そこで彼女が「京極マリア」と書かれているために、現在ではその名前が一般的に使われています。あと、良く指摘されることですが当時は夫婦別姓ですので、いかなキリスト教徒であろうとも「京極マリア」と名乗ったり呼ばれたりすることはなかったようです。その京極マリアですが、安土で授洗し、京や大坂で布教活動に努めたと言われます。そのため、聚楽第→大坂城西の丸と居所を変えた龍と行動を共にしたと言われます。常に龍と生活を共にしていたかどうかまでは分かりませんが、秀吉の庇護をうける龍の傍にいたであろうと思われ、年若い龍よりもマリアのほうが三姉妹の保護者的存在だったのかもしれません。三姉妹を扱うならば、龍と一緒にぜひ出していただきたかった。

浅井家縁の庇護者候補として長政とマリアの長姉、昌安見久尼を挙げましたが、これは実宰院の寺伝によるものです。ただ、寺の伝承では小谷落城の際、三姉妹を保護したという内容になっています。ただ、小谷落城の後は市と共に織田家へ帰ったことが通説になっていますので、実は市も亡くなった北庄落城後のことではないかとも言われます。実宰院には茶々姫が作らせた昌安見久尼の木像があり、また秀吉の朱印状も存在し、更に寺院の跡目について秀吉が口出ししていることなどから実宰院が三姉妹とゆかりの深い寺院であることは間違いなく、小谷落城もしくは北庄落城に何らかの形でかかわっているだろうことが察せられます。寺伝に市の姿が見えないことから、小谷落城時、姉妹をまず見久尼に預け、市がまず織田家へ降って信長に娘たちの安全を保障させ、織田家で母子揃って引き取られた、もしくは、北庄落城後すぐに秀吉は加賀平定へ向かったとのことですので、とりあえず決戦地であった賤が岳からも近い実宰院に預け、改めて安土城へ引き取ったかのどちらかでしょうか。

なにはともあれ、このあたりについて書かれているどれもが一次史料ではないので、はっきりしたことは何とも言えないのが実情です。

②秀吉が茶々を傍に置いたわけ

前回、市の遺言で折角「一番長政に似ている」と言われたのに、今回結局市に似ているからという理由で秀吉に一目ぼれされてしまった茶々ですが、秀吉が茶々に目を付けたのはそれが理由だったのでしょうか。
やはり人柄が秀吉の好みだったのではないかなーなんて、思います。龍と茶々を比べると、どちらも実家や親族を一身に背負っていて、責任感の強い長女タイプです。お寧さんもどちらかというと守ってもらうタイプではなさそうです。これが原因で後の世に個性派ぞろいとか言われてしまうわけですが…。あくまで私の想像ですが、当時の事情を横に置いて「貴種好み」とか、「市の面影」とかよりもよっぽど私にとっては納得できる妻たちの共通点だったりします。

ドラマ内では、「絶対に許すことはない」と言われてしまった秀吉ですが、実際はどうだったのでしょう。親の仇であることは間違いないのですが、勝家や市がくれぐれも秀吉に三姉妹を頼んでいることから、三姉妹にも秀吉への恨みつらみなどは離さなかったのではないでしょうか。
結局、秀吉の最期までには茶々は妻となり、初は個人的に所領が与えられるほどに頼みとされ、江は娘となって徳川と豊臣のかすがいとして嫁ぐわけですから…

③「我ら姉妹はこの世に三人きりとなったのじゃ」 ~今週の茶々姫 其の壱

辛い台詞ではありますが、これは本当に茶々姫が感じていたことなのでしょう。
もしくは、この時からじわじわと思い知らされることになったのかもしれません。
毎回引用していますが、「我々はかばかしき親にも持ち候ははず、談合申候はん相手も候はぬに…」です。

④「案ずるでない、そなたたちはこの私が守る故ゆえな」 ~今週の茶々姫 其の弐

散々例に出している映画『天涯の貴妃』でも、北庄から妹たちをかばって脱出する茶々姫や、大坂落城時に侍女たちを逃がす茶々姫に涙腺崩壊した私ですが、とりあえず茶々姫が何かを守ろうとするシーンにめっぽう弱いらしいことが今回再確認できました(苦笑)
色々なドラマの茶々姫をご覧の方には実はこの台詞にも元ネタらしきものがありまして、『渓心院文』では、

「御姫様方(茶々・初・江)は、羽柴殿(が)御受取り(の)まま、ご秘蔵にて、御姉様へ御使いにて、御主とご一緒にならせられ候様にとの御事に候えども、御十三(十五歳)にても御智恵良く、ご内証無沙汰の様子、お聞き及びも御座候ゆえ、ご返事に斯様に御親様なしになりまいらせられ、お頼みなされ候うえは、如何様ともお指図次第なら、先ず御妹様方を御在り付けまし給わり候へ。そのうえにて、御主様の御事はともかくもと給わられ(候ヵ)を御喜び、急ぎ常高院様は、御筋目も御座候ゆえ、京極宰相高次様へ御遣りまし給わり候」
(姉妹は、羽柴秀吉が身柄を受け取り、大切にしていた。そのうち茶々へ遣いが来て、秀吉と一緒に暮らすようにとのことであった。しかし茶々は十五歳ながら賢く、まだこの話が正式に決まっていないことを聞いていた。秀吉が親代わりとなった以上、どのような指図にも従わなければならないというのならば、まずは妹たちの縁辺を調えてください。その上できちんと御返事をさせていただきたいと伝えると、秀吉は喜んで、早速初については筋目も整っているので、京極高次へ嫁がせることにした。)

今回は『誰も知らなかった江』の釈文を引用し、訳を参考にしました。他に『常高院殿』にも同じ個所が引用されているのですが、釈文が所々違ったりしています。違う写本なのでしょうか。良くわかりません。
なぜ長幼の順のとおりではなく、江、初の順に嫁がせたのかということが長い間疑問に思われていたのですが、初の侍女縁の『渓心院文』ではそれが茶々姫の意思であったと伝えています。
そして、早速嫁がせたのが初であるというところも、通説とは違いますね。『江の生涯』で福田先生が江が実際に佐治一成に嫁がず婚約に終わったと仰られていますが、それと通じるものがあります。そして、「筋目」という言葉。『誰も知らなかった江』では「家柄や血統」と解釈されていますが、私はやはりもともと信長によって考えられていた結婚なのではないかなと思います。その辺りがこの「筋目」という言葉に表れているのではないでしょうか。

⑤寧と龍

寧と龍の関係は、桑田忠親先生の頃から何故かかなり仲良しな解釈をされています。醍醐の花見の仲裁でさえ、龍が寧に代わって出しゃばりな茶々姫にぎゃふんと言わせた話になっていたり、仲裁した寧も龍の味方だったなんて展開にされてしまうことが往々にあります。
根拠は、関ヶ原合戦の折、寧の侍女(孝蔵主)が龍を救出したこと(龍の救出は寧の指揮の元茶々姫の共同で行ったものです。)、そして秀吉の死後湯立などを一緒に奉納していることくらいなのですが…。これはご近所に住んでいたのですから、交流がないほうが不思議です。
そもそも、一番の理由は茶々姫で、茶々姫を敵に回して二人が手を携えていたに違いないという解釈から来ています。そして、秀吉死後の茶々姫と二人の交流がないことが前提となっているようにも思います。これは、前回の記事に通じますので、よろしければご一読ください。
仲が悪かったと言いたいわけでは決してありません。特別ベタベタしていたわけでもないし、特別ドロドロしていた訳でもないだろう、と思うだけです。

でも、「秀吉の功績の陰にお寧さんあり」というのは、それは私も本当だと思います。

龍子の部屋(←リンクしてみました。ご覧になっていない方は是非)

公式サイトを見てびっくりしました。良いのか、NHK!
いや、私はそういうの大好きですけれども!
思っていたキャラクターとちょっと違うけれども、今大河の龍子さん、かなり素敵です(笑)

⑥予告 ~今週の(来週の?)茶々姫 其の参

初見から、今までで一番リピートしまくりました…
いいですねえ宮沢茶々様の打ち掛け姿…うっとりしました。美しい。
次回を見るのがずっと楽しみでした。
これを書いていなかったので見れませんでしたが(汗)

意外に時間がかかりました。火曜日の講演までに一通り見ておかなくては…
 

醍醐の花見

 
先日のヒストリア、録画時間の関係で途中までしか見れなかったのですが、また醍醐の花見の盃争いが取り上げられていたみたいですね。
すみません、頭ボケっとして書いているので文章へろへろかもしれません。後日直します。


出典として取り上げられていた「御夜話集」の記事はこちら。

だいごへ太閤さま御花見候事。其時御手懸衆京極殿と秀頼様御母儀様と盃あらそひのとき、政所様御噯、大納言様の御あつかひ候事。それゆゑ御花見つら/\に候由に御座候。其時村井左馬助、醍醐の宿にて利家様御供衆を御振舞申候事。色々物語有之事。

さらにこの史料の出典となっているのが、村井左馬助こと村井重頼の見聞録である「陳善録」であり、そちらでは

だいごへ太閤さま御花見事、其時、御手懸衆京極殿と、秀頼様御母儀様と、盃あらそひの時、政所様御噯、大納言様の御うへ様もあつかひ候事、其ゆゑ、御花見つら/\の由御座候、云々、

とあります。こちらが出典ですのでもちろん似たような記事です。


(醍醐の桜)
茶々姫をたどる汐路にて


①「陳善録」の盃争いの記事は信頼に足るものか?

要は、村井は醍醐の宿で利家のお供の方たちを接待していたので、この盃争いを自分では見てはいません。
ので、村井はその宴会で盃争いについても耳にしたのでしょう。
なお、この盃あらそいについて書かれた記録は、この「陳善録」を基にしたもの以外は見当たりません。花見の詳細を記した『太閤記』しかり、醍醐寺三宝院にいた義演准后の日記しかり他家の記録しかり。
村井が接待した利家のお供衆は、当然豊臣家の妻たちが盃をかわし合うプライベート空間にいることなど出来ませんでした。
この史料を「信頼の足る」と評価していいかは私は微妙だと思います。

②盃争いを考える

そもそも、自分の体の衰えを察した秀吉が、秀頼と妻たちを花見にさそったのですから、その理由は単純に慰安にとどまらないでしょう。妻たちの知恵を借りて、豊臣の今後を話し合う場でもあったはずです。
秀吉に何かあっても、寧、茶々、龍の三人は一番に秀頼を守り育てるように。花見は妻たちの結束、決意を確認する場でもあったはずです。桃宴の誓いならぬ桜宴の誓いです。
前田摩阿、三の丸あたりの再婚話もこのときに話題に上ったであろうことの一つではないでしょうか。

ヒストリアでは秀吉が輿の順に悩んでいた描写がありましたが、妻たちの序列は花見の輿の順よりも前から贈り物などで寧・茶々・龍という序列がはっきりしていましたので、今更悩むことでもなかったと思います。嫡男の母という肩書にはそれだけゆるぎない立場あり、我が子の権力に関わるため、自分の一存で遠慮するなんてこと軽々しくできませんでした。なにより、秀頼がいる以上、まず輿の順についてあんなに悩んだことはなかったはずです。あの頃の第一条件は、何よりも「秀よりなりたちやうに」の一言に尽きます。いくらプライベートな空間とはいえ、死の直前うなされながらも秀頼のことを案じていた秀吉自身がそのような安易な行動をするようには思えません。

秀頼については、後年の様子を見ていただけると分かる通り、寧は秀吉の遺言通り秀頼の邸跡から朝廷へ働きかけ、茶々はこれまた遺言の通り大坂城で秀頼の後見に尽力しました。そして松の丸殿は寧の居所荷ほど近い西洞院邸に住んでいましたが、秀頼がすくすく成長する様子を見守りに何度も大坂城を訪ねています。
龍の実家京極家にとっても、血縁である秀頼は大事な後継ぎに違いないわけです。

話は戻りますが、ここで龍が茶々姫とひと悶着を起こすことは、茶々姫の権力、そして妻たちの連携に挑戦することであり、それはイコール秀頼の権力にも影響を及ぼすという双方にとって危険なことでした。
龍もまた、京極家・武田家と難局をくぐりぬけてきた人ですから、描かれているような単純な行動を軽々しく起こすような方ではなかったと思います。

これを寧vs茶々の構図に当てはめられて、寧と龍は仲がよく、正妻寧をたてられない茶々が孤立していく…そんなふうに描かれることは一度や二度ではありません。桑田忠親氏でさえ、そう思われたのでしょう。
龍が寧と特別仲が良かった、行動を共にしていたといったことがわかる史料というのは、あまり存在しません。

逆に龍は孤児となっていた茶々の保護者の一人でしたし、茶々姫の異母姉のくすは龍の側近でした。龍の側には龍の母(茶々姫の伯母)がおり、一番身近で豊臣の奥御殿についていろいろと教えてくれた人だったはずです。小田原や名護屋に茶々と龍を伴ったのも、茶々と龍それぞれへの信頼や愛情というのはもちろんですが、この二人なら力を合わせて励まし合い、役割をこなすことができると考えられていたからではないでしょうか。
確かに、龍は子もいなかったのに再嫁を許されず、秀吉の後家として生涯を貫きます。これは、秀吉の寵愛が深かったというのももちろん、なにより実家が秀頼にとって叔母のいる京極家。秀頼が無事成長した暁には一番の親藩的存在になる家なのです。何度も秀頼の成長ぶりを見るために会いに行っている龍は秀頼を産んだ茶々姫を疎むどころかだいぶ期待していたのではないかと思います。

「女の愚かな行為」で片付けられるようなことを、本当に彼女たちが意図して行うだろうか。
その裏にはもっと複雑な事情が絡み合っていたかもしれないけれど、そのほとんどは「つくられた女」像に当てはまらないだろうか。

この争いを肯定して導き出される村井にとって言いたかったところは、なにより秀吉の女同士の争いを沈めた前田家のまつさんの功績だったのでしょう。事件をでっち上げたのが本人か、その接待で出てきた話かは分かりませんが…
 

清涼寺過去帳

 
別件で『東浅井郡誌』を見ていたところ、「清涼寺過去帳」に茶々姫の名前があるということでチェックしたところ、茶々姫以外にも様々な人の名前が並んでいたので、メモついでにまとめてみました。

データベースにある画像の文字がだいぶつぶれていたので、判読しにくい文字がかなりありました。誤字もあるかと思います。申し訳ないです。


二日
総見院贈大相国一品泰巌大居士 天正十壬午年六月/織田信長公
大雲院三品羽林仙巌大居士 織田信忠公
正翁宗誉 信長忠臣
晴月宗心 同上
一渓宗栄 同上

三日
中和門院 釈尊戸帳金灯篭御寄附

六日
高台寺殿従一位湖月心公大姉 寛永元年九月/太閤秀吉公政所  …寧

七日
往相院西誉正栄大姉 慶長廿年五月七日大阪討死/渡辺内蔵助母宮内妻 祠堂有之  …正栄尼
源大静閑信士 渡辺内蔵助  …渡辺糺
量寿栄薫信尼 内蔵助女  …渡辺糺女
雲龍童子 同上息  …渡辺糺息
智勝院桂宗春大禅定尼 大野大蔵卿/以上討死年月同上  …大蔵卿局

八日
華渓芳春禅定尼 慶長二十年五月/秀頼御局  …右京大夫局?
嵩陽寺殿禅右大臣泰巌  …秀頼
大虞院殿春巌大姉  …茶々姫
漏世院雲山智清大童子国松君

十二日
永誉寿慶大姉 慶長十六年六月/渡辺正栄並永原福左門女西暢真光妻?  …正栄尼娘?

十三日
祥雲院殿隆室盛大禅定尼 慶長十巳年十月/万理小路入道殿室加賀太守女  …前田摩阿

十五日
崇源院殿和興昌誉大禅定尼 寛永三年九月/秀忠公御台所  …江
東福門院 延宝六午年六月/台徳院姫君  …和子

十七日
正徳院殿慎室宗戒大姉 貞享二乙丑年七月/道三玄朔息女

十八日
国泰寺太閤秀吉公 慶長三年八月

十九日
後水尾院円成法皇 延宝八年八月
麗貞院殿従三位機爽俊公大姉 寛文十一年九月/九条道房公御室越前宰相一伯息女御キフ施主千日念仏○行  松平鶴(長子)

二十日
源誉道把居士 渡辺宮内正栄夫  …正栄尼夫

二十一日
正心院殿宝樹水庵大姉 万治四年二月/往相院女道三玄鑑室 …正栄尼娘?

二十三日
樹正院殿明室寿光大姉 寛永十一年五月小町中納言年常姉備前中納言浮田秀家室加賀大納言利家女諱於い決楼門並方丈建立ノ主人  …前田豪


みないろいろと注釈があるのに、秀頼と茶々姫には俗名など注釈がなかったのが印象的でした。
やはりこっそりと供養が続けられていたのでしょうか。
(その割には右京大夫局らしき人物には「秀頼御局」という注釈があるのですが…)

まとめには加えませんでしたが家茂までの徳川歴代将軍、英勝院、阿茶局、阿茶局母、家康娘松、綱吉女鶴、吉宗生母、前田利常などもありました。その他頻出した一族は、皇室、渡辺、池尻、蒲生、土方あたりでしょうか。
とにかく文字がつぶれて良くわからないところが多かったので、またリベンジします。
 

茶々姫の立場と呼称①(~慶長三年まで)

 
秀吉の没する慶長三年までの茶々姫の呼称等を今年表でチェックしている範囲でまとめてみました。

色分けは、
 オレンジが本名に由来する呼称
 赤が茶々姫の身分に関わると思われる呼称
 青が茶々姫の居所等に関わると思われる呼称(号)
 緑が茶々姫の実家に関わる呼称
 紫が子どもたちとの関係に関わる呼称
です。

福田千鶴先生は茶々姫が最初から秀吉の妻として近侍したとの見解をお持ちですが、やはり秀吉自身が茶々姫を「女房衆」と言っている(しかも小田原合戦のあたりまで)ので、最初は女房衆として秀吉に仕えたのではないかと私は思います。

しかし、鶴松が生まれて以降、豊臣家に近しかったと思われる人たちの記録には、茶々姫を「御上」や「上様」と記す様子が見えますので、茶々姫はやはり鶴松を身ごもってから、扱いは女房衆と一線を画するものを受けていたのでしょう。

その後、住居に由来する呼称などとともに、既に使われていた「御上様」のほか、「北の御方」「北政所」「御台様」などという呼称が出てきます。
しかも、「北政所」、「御台様」が初めて見えるのは鶴松の没後ですから、茶々姫の地位が鶴松の存在によるものだけではなく、やはり小田原在陣を境に盤石になっているように感じます。福田先生の仰る「小田原での功績」というのは確かに大きかったのかもしれません。

秀頼関係の音信から、茶々姫は鶴松や秀頼の幼いころ、「かかさま」と呼ばれていたらしいことが分かります。
しかし、秀吉がその頃の茶々姫に宛てた名は「かかさま」ではなく「御袋様」。
御袋様」は秀頼の生母を示す公的な呼称といった性質があるようです。
今回は秀吉の没した慶長三年までをまとめたので出てきませんでしたが、『兼見卿記』では茶々姫が普段「御上様」と呼ばれていたことを記しています。
公的には秀頼の生母である茶々姫は「御袋様」と記されていることが多いですが、実際は茶々姫自身を敬って「御上様」と呼ばれ続けていたようです。この「御上様」は茶々姫が鶴松を身ごもったころから使われ続けている呼称で、実は生涯を通して日常に使われていた呼称なのではないでしょうか。


  • 天正十三年
    一月十八日:「ちゃちゃ方」?(兼見卿記)

  • 天正十四年
    十月一日:「茶々御方」?(言経卿記)

  • 天正十七年
    五月二十七日:「淀の女房衆」(お湯殿の上の日記、言経卿記)
    五月二十七日:「淀ノ御内」(多聞院日記)
    五月二十七日:「淀ノ御上」(鹿苑日録)
    五月三十日:「御ふくろ」(お湯殿の上の日記)
    八月二十二日:「淀之上様」(北野社家日記)


  • 天正十八年
    二月九日:「殿下若公御母儀」(言経卿記)
    四月十三日:「よとの物(淀の者)」(五さ〔寧侍女〕宛秀吉音信/妙法院文書)
    五月:「北の御方」(太閤さま軍記のうち)
  • 五月七日:「淀之女房衆」(吉川広家宛秀吉朱印状/吉川家文書)
    五月下旬頃:「大さか殿(大坂殿)」(寧宛秀吉音信/篠崎文書)
    七月十日:「女房衆」(小早川隆景・吉川広家宛秀吉朱印状/吉川家文書)
    七月十二日:「よとの五(淀の御)」(寧宛秀吉音信/箱根神社文書)
    七月十四日:「御上様」(小早川隆景・吉川広家宛長束正家書状/吉川家文書)
    八月上旬:「おちゃゝ」(茶々姫宛秀吉音信/水野文書)
    八月上旬:「両人の御かゝさま」(鶴松宛秀吉音信/寺村文書)
    八月十六日:「御ふくろ」(お湯殿の上の日記)
    九月:「若君様御袋様」(櫻井文書)

  • 天正二十・文禄元年
    三月二十六日:「北政所」(太閤さま軍記のうち)
    四月二十五日:「よとの御前様(淀の御前様)」、「御台様」(平塚瀧俊書状)

  • 文禄二年
    五月二十二日:「にのまる殿(二の丸殿)」(寧宛秀吉音信/米沢文書)
    七月十三日:「大坂御袋」(時慶記)
    七月十六日:「御袋」(時慶記)
    八月三日:「浅井氏女」(時慶記)
    八月三日:「にのまる殿(二の丸殿)」(寧宛秀吉音信/山県公爵家文書)
    閏九月十二日:「二丸様」(駒井日記)
    十月四日:「二丸様」(駒井日記)
    十月二十五日:「おちゃ/\」(茶々姫あて秀吉音信/大橋文書)
    十二月九日:「二丸様」(駒井日記)
    十二月二十六日:「同(御拾様)御袋様」(駒井日記)


  • 文禄三年
    一月二十日:「若公御袋」(兼見卿記)
    一月二十九日:「同(「御ひろひ様」)御袋様」(駒井日記)
    二月四日:「二丸様」(駒井日記)
    二月五日:「二丸様」(駒井日記)
    二月十三日:「二丸様」(駒井日記)
    四月十七日:「二丸様」(駒井日記)
    四月二十一日:「御うへ様(御上様)」(駒井日記)
    四月二十二日:「二丸様」(駒井日記)
    四月二十八日:「御ひろひ様御袋様」(駒井日記)


  • 文禄四年
    三月一日:「御ひろいさまの御袋さま」(大阪城天守閣所蔵中大路甚介宛前田玄以文書)
    五月五日:「おかゝさま」(拾丸宛秀吉音信/前田侯爵家文書)


  • 文禄五・慶長元年
    一月十三日:「伏見」(義演准后日記)
    十二月二日:「御かゝさま」(秀頼宛秀吉音信/安田文書)
    十二月八日:「御ふくろさま」(茶々姫あて秀吉音信/原文書)

  • 秀吉の没する慶長三年まで
  • 慶長二年
    一月十五日:「秀頼御袋」(義演准后日記)
    三月二日:「御袋」(義演准后日記)
    三月二十日:「太閤御所ノ北御方」(義演准后日記)
    三月二十一日:「前関白秀吉公之北御方 江州浅井備前守御息女」(続宝簡集)
    四月二十日:「御上様」(生駒家宝簡集)
    五月十九日:「北政所」?(義演准后日記)
    九月六日:「秀頼御袋」(義演准后日記)
    九月二十四日:「北政所様」(鹿苑日録)
    十月二十六日:「秀頼公之御母儀」(鹿苑日録)
    十二月十二日:「北政所殿」?(鹿苑日録)


  • 慶長三年
    一月十三日:「秀頼御袋」(義演准后日記)
    三月十五日:「にしの丸さま(西丸様)」(太閤さま軍記のうち)
    四月七日:「秀頼御所御袋」(義演准后日記)
    四月二十四日:「御袋」(義演准后日記)
    五月十八日:「秀頼御袋」(義演准后日記)
    五月二十日:「御かゝ」、「かゝさま」(秀頼宛秀吉音信/大阪市役所文書)
    六月八日:「御袋」(義演准后日記)
    七月十一日:「御袋」(義演准后日記)



    十二月三十日:「御台所」(義演准后日記)
    この年:「浅井備前守長政女」(白鬚大明神縁起絵巻・本殿棟札)
  • プロフィール

    紀伊

    Author:紀伊
    茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
    ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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    メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

    悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
    …改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


    メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

    めのとめのと
    …茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
    千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
    …千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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