大河ドラマが北庄落城でしたので、これを機会に北庄落城についての史料をまとめてみました。
自分用の備忘録的記事なので、大変読みづらいですが申し訳ありません。
四月二十一日柴田勝家、合戦より北庄へ帰還(『賤岳合戦記』)。
落城を前にし、中村文荷斎または徳庵に命じて信長より拝領した天下の名物の道具を広間から書院にまで飾り立てる(『賤嶽合戦記』、『柴田勝家始末記』)。
四月二十三日午前、攻鼓を止め、前日夜、山中にて「御子息権六殿」、「玄蕃允」を生け捕られたことを聞き、城中静まる。柴田方、城門を守るが打って出ず(『太閤記』)。
勝家は
①市に対し、城を出るように打診するが、
②市はこれを拒む。(『賤嶽合戦記』、『太閤記』)
また、
③④⑤三姉妹を城から出すことを勝家に相談し、勝家もこれを了承する。(『賤嶽合戦記』、『太閤記』)
夜、酒宴が行われる。(『賤岳合戦記』、『太閤記』)
勝家と市、天守(「殿守」)に上がり、夜明けまでまどろむ。
四月二十四日柴田勝家、越前北庄城にて妻など数人を刺殺し、天守に火を掛けた後切腹して果てる(『兼見卿記』)。

(西光寺 柴田勝家・市墓所)
早朝、まず勝家は死骸を敵に発見されないように、家臣(小島若狭守、中村文荷斎/『太閤記』)に命じて城に火を掛けさせる準備をする。『賤嶽合戦記』では戸障子を集めて焼草とした、『太閤記』では天守の下に草を敷いたとも、『川角太閤記』では天守に火薬を積ませた、「日本耶蘇会年報」では各室に乾燥した藁を大量に積んだ、「東印度会社遣日使節見聞録」では、宴会をした部屋に多くの材木を運び入れたという。
その後勝家は家臣に、自らの遺骸を火にかけた後、秀吉と講和し生き延びるように言ったが、家臣らはこれを拒み勝家に殉じることを誓った(「日本耶蘇会年報」「日本西教史」)。
そして市(わずか数カ月前に娶った:「日本耶蘇会年報」)を介錯し、そののち子女や侍女を介錯した(『賤嶽合戦記』、『太閤記』、「毛利家文書」)。市のほか、十二人の妾、三千(十)人の女房とするのは『秀吉事記』、二、三人とするのは『渓心院文』。
その後、城に火を掛けさせ、自刃した。「日本耶蘇会年報」は市や侍女たちを介錯した短刀で自身の腹を十文字に掻き切ったとし、「秀吉事記」では中村文荷斎に介錯させたとする。
家臣はその後天守(五重:『太閤記』、『新撰豊臣実録』、『続本朝通鑑』/九重:「毛利家文書」、「遊佐落合覚書」)にのぼり、勝家に殉じた。その数は三十余人(『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』:申の刻に殉じる)、また八十人とも(「毛利家文書」、「遊佐落合覚書」、「祖父物語」、『新撰豊臣実録』、『続本朝通観』)
勝家らの死骸は灰となり見つけられなかった(『賤嶽合戦記』)。
・勝家の年齢:「既に六十歳となりし」(「日本耶蘇会年報」)、「六十二歳」(『新撰豊臣実録』)、五十七歳(『続本朝通鑑』、『武家事記』)、五十八歳(『北畠物語』)
(様々な異説)
・天守に詰めさせた火薬に引火して天守がが爆発し、瓦が秀吉の本陣から十町の場所まで飛んできた(『川角太閤記』)。
・「小早川家文書」では勝家の自刃を辰下刻とし、「毛利家文書」では寅刻に羽柴軍が城攻めに取り掛かり、午刻に城へ乗り込み、悉く城兵の首をはねたとする。
・勝家は自刃の前に、七度討って出、天守へ登ると敵勢に向い、自分の切腹を見て後学にされよというと、まず妻子や一類を刺し、申下刻八十余名(七、八十名:「遊佐」)と共にが切腹した(「毛利家文書」、「遊佐落合覚書」、「祖父物語」)。
・前田利家が講和を斡旋し、秀吉の了解を取り付けた後、本陣愛宕山から北庄城へ向かうときに北庄城に火が掛かり、勝家の死を知った(「村井重頼覚書」)。
・筒井順慶が旧交のよしみにより勝家へ降伏を進めた。中村文荷斎・太田徳庵に会い、勝家が上京して剃髪し、佐久間盛政が皆に変わり切腹すれば、権六郎勝久に和泉か伊賀一国を与える旨の約束を秀吉に取り付けたことを話す。勝家、これを聞き一笑に付し聞き入れなかった(「増補」筒井家記)。
・佐久間盛政が、柴田勝豊と共に秀吉方へ翻意する(『柴田勝家始末記』)。
・佐々成政(「サヽ蔵介」)離反(「帰忠」)によって二十三日に柴田勝家が死すとの噂が流れる(『多聞院日記』)。
・徳庵という法師が城内を調えて後、勝家に従い自刃する(「豊鑑」)。
・二十八日牛刻に勝家は城内に火を掛け切腹する(「江州余呉庄合戦覚書」、『可観小説』)。
・では、勝家の自害を二十一日(『寛政重修諸家譜』)。
・太田徳庵が市を介錯する(「増補筒井家記」)。
・中村文荷斎が勝家・市ともに介錯する(「祖父物語」)。
・切腹の場所を広間とする。市は勝家の自害を見届け、続いて自害した(『柴田勝家始末記』)。
・秀吉に市を奪おうという意図があったという俗説を乗せるのは「祖父物語」、「十竹斎筆記」。
四月二十五日秀吉、焦土と化した城内を検めさせる(『太閤記』)。
但し、『川角太閤記』、「老人雑和」では、前田利家が秀吉に勝家が逃亡していないかどうか確認することを勧めたが、秀吉は勝家が必ず自害しただろうと、遺骸を検めず、その足で加賀を平定しに向かったとする。
①市について・勝家の妻(「北の方」)は、信長の妹で市(「いち」)という。
信長が市を娘分として浅井長政に嫁がせ、五人の子を産んだ。男子は信長に殺され、市と三姉妹は信長のもとに送られた。その後市が三姉妹と共に勝家のもとに嫁いだ折、天下一のお生れ付きだったので、みな色めきたったという(『賤嶽合戦記』)。
・「増補筒井家記」に、市の供養碑(「石碑」)が養源院内にあることが記されている。
②勝家の退城勧告に対する市の返答(意訳)「小谷落城で浅井から織田に落ち延びたからこのような憂き目を見るのです。また生き延びれば人々の笑い草になりましょう」(『賤嶽合戦記』)
「去秋の終わりに
岐阜より参り、こうなるのも前世よりの宿業ですので今更驚くことではありません。城を出ることは考えてもおりません。しかし、三人の娘は城から出してください。父の菩提を弔わせ、また自らの菩提を弔ってもらうためです。」(『太閤記』)
「かつて長政と死を共にしなかったから、今またこのような目にあうのです。今また命を惜しめば、また名を汚すでしょう。しかし、三人の娘は菩提を弔わせるために助けてください。」(『新撰豊臣実録』)
「かつて恥を忍んで小谷から落ち延びました。今また同じ辱めを受けるなら命を発ちます。ただ、三人の娘はまだ幼く、生きて夫(「長政」)の菩提を弔わせたいと思います」(『続本朝通鑑』)
③市と三姉妹の別れ市が三姉妹だけで城から出るようにいうと、茶々姫(「姉君」)は「いやです、母と死出の道を共にします」と泣くのを、中村文荷斎が無理やり引っ張って三人を城より出した。(『太閤記』)
④秀吉への言付・勝家が富永新六郎という侍を付けて三姉妹を秀吉の陣所に送り届けた際、秀吉に宛てて、三姉妹が自らの子ではなく長政の「愛子」であり、また信長の血縁=「主筋」であるのでよろしく取り計らうようにと伝える。秀吉はこれに対して、主筋の姫を疎かにはしないので安心してほしい、と勝家に返答した(『賤嶽合戦記』)。
・市が信長に厚恩のある秀吉ならば、三姉妹を悪くは扱わないだろうと自筆の書状を添え、三人を一つの輿に乗せて秀吉方へ送り届けた(『渓心院文』、『以貴小伝』)。
⑤三姉妹の北庄退城・柴田勝家の妻は信長の妹で浅井長政の後家だが、浅井長政の娘は二人(この二人は茶々〔「大坂秀頼ノ御袋」〕と江〔「江戸将軍ノ御台所」〕を指すが、三人の誤り)あり、
乳母の才覚によって無事に城を出ることが出来たという(『当代記』)。
・市が信長に厚恩のある秀吉ならば、三姉妹を悪くは扱わないだろうと自筆の書状を添え、三人を一つの輿に乗せて秀吉方へ送り届けた。侍女たちも残らず伴をさせ、自らも御三の間まで見送った。その時の市は実年齢(三十七歳)にも関わらず、二十二、三ほどの若々しさに見えたという。市が姿を見せると、敵軍も道をあけ、姉妹を載せる輿と女中を通した(『渓心院文』、『以貴小伝』)。
・勝家、三姉妹に
富永新六郎をつける(『賤嶽合戦記』)
・三姉妹に家臣
富永新六、
奥村金次郎を添えて秀吉に送ると、秀吉は粗略には致しませんと返答した(『柴田勝家始末記』)
・中村文荷斎に命じ、
上村六左衛門を伴にさせて、末森殿(勝家姉)と共に三姉妹を逃がす。「乱」の後、
越前大野に逃れていた三姉妹を秀吉がを迎える(『新撰豊臣実録』)。
・中村文荷斎の計らいで、三姉妹を
一乗谷へ逃がす。秀吉、これを聞いて急いで三姉妹を迎え、安土城に送り届ける(『柳営婦女伝系』)。

(一乗谷)
・中村文荷斎により城を出され、
遥の谷へ逃す。秀吉、これを聞き急いで三姉妹を安土城へ送る(『玉輿記』)。
・中村文荷斎が三姉妹を城外へにがした(『続本朝通鑑』)。
※『太閤記』では上村六座衛門は姉末森殿と娘に伴し、二人と共に命を絶ったたとあるので、三姉妹は中村文荷斎の計らいで、富永新六郎に伴され逃れたと思われます。
⑥勝家の親族・上村六左衛門に伴わせて姉末森殿、その娘(『柴田勝家始末記』では佐野の方と娘蝶〔末森殿〕)を逃がす。その後、北庄落城を知り、逃亡先で二人の自害を助け、六左衛門も自刃する(『太閤記』、『新撰豊臣実録』、『続本朝通観』、『柴田勝家始末記』)。
・中村文荷斎に命じ、上村六左衛門を伴にさせて、末森殿(勝家姉)と共に三姉妹を逃がす(『新撰豊臣実録』)。
『柴田勝家始末記』では、末森殿を勝家と佐野の方(佐野六郎女)の娘で名は「蝶」、勝家の養子勝豊の妻とする。また、佐野の方との間に六之助、作次郎、某の三人の子があったとする。勝豊と蝶の子国丸(天正十年二月三日卒)は西光寺に葬られているとする。
・『武家事記』では、佐久間盛政とともに捕らえられた権六を「嫡子」とする
・『賤嶽合戦記』では「おくに」を十六歳になる勝家の子とし、盛政と共に捕らえられた子息とする。
⑦生き残った語り部身分が高く、弁舌さわやかな老女一人が語り部として生き残り、目撃した顛末を詳細に羽柴方で語った。(「日本耶蘇会年報」)
落城時、数人が気後れして火を逃れ脱出したが、この者が後にこの時のことを語った。(「日本西教史」)