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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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第一話感想補足「小谷城は炎上したか?」

 
今日、長浜城歴史博物館から「大河ドラマを3倍楽しむ講座」第一回のレジュメと講座内容を書き起こしたものが届きました。
この講座は毎月長浜で行われているのですが、大変人気のある講座で、次回からは事前申し込みが必要になったそうです。
…とはいえ、去年とは違い今年は遠方となってしまった私にとって、さすがに月一度の参加というのは厳しく、今回のレジュメは本当にありがたいです。
次回からもいただけるのでしょうか?是非お願いしたいです。

さて、講座内容の書き起こしを読んでいて、第一話の感想で書き忘れていたことが。
それは、小谷城が落城時炎上したか?ということです。
書き起こしによると、今回の大河ドラマでは控えめに櫓だけ燃えていたとのこと。
一般的には、小谷城は炎上していない、というのが通説です。この根拠となっている『史跡小谷城跡環境整備事業報告書』もありがたいことに講座史料に添付されていました。

しかし、太田先生はこの通説にも疑問を呈されています。
「小谷城の最後の城主は、浅井長政ではないのです。秀吉なのです。秀吉が、落城後の整理をしているかもしれない。焦土を捨てているかもしれない。そう考えると、本当に燃えていないのかは、一考に値するとは思いますが。」

私も、実は2年前まで通説を無条件に信じていました。
しかし、2年前の秋に受けた仲川靖さん(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査担当主幹/当時)の講座で太田先生も指摘されている点を伺い、その時はじめて炎上した可能性を知りました。

当時の記事が残っていますので、よろしければ。
→*「信長の城づくり 長政の城づくり」(20091004)

「難攻不落」と言われた大坂城で最期を迎えた茶々姫は、「難攻不落」(参照記事より)の城で生まれたのですね。しかし、どちらの城も落城しているんですよね…
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「江と浅井三姉妹、そして戦国女性たちの戦い ~ドラマでは明かされない本当の物語」

 
本日、日本経営調査士協会関西支部樣の普及講演会にて、上記のとおり題する講演をさせていただきました。

講演内では、対立関係がよく取り沙汰される茶々姫と寧、江と福、茶々と江、茶々と龍、茶々と千の関係について、様々な事例から見直すことを試みました。

こうしてブログやサイトの記事などを書くということも難しいですが、分かりやすくお話するということもとても難しいことですね。
みなさんがみなさん、歴史に関心のある方ばかりではない環境で、反省点がたくさんありました。とても勉強になりました。
次の機会にはもっと分かりやすく、内容も欲張らずにお伝えできればと思います。

拙い話を聞いていただいた方々、本当にありがとうございました。
 

寂光院木像に茶々姫を思う

 
寂光院の建礼門院像についてダイナゴン様のブログを拝見して、早速確認してみました。

確かに土橋治重氏の『平家物語 物語と史蹟を訪ねて』(成美堂出版、1972年)の寂光院の項に以下の記述がありました。
寺には建礼門院の木像や阿波内侍の張り子の像と伝えるものがあるが、木像は寺の本堂を修理した豊臣秀吉の未亡人北政所の姿であり、張り子の像のほうが建礼門院の姿である、と明らかにされている。

(まず、「明らかにされている」という表現から何かを参考にされているように思うのですが、その出典先が明記されていないのが何より残念です。)

寂光院本堂の修理をしたのは寧ではなく茶々姫です。やはり「豊臣秀吉の未亡人」ということで、茶々姫と寧を混同しているとしか思えません。

茶々姫は、奈良県立美術館の伝茶々姫像と、養源院の「浅井長政卿室」の肖像の二つがありますが、どれも実際の茶々姫の姿を映しているとは言い難いものがあります。

寧や龍の出家姿の肖像に対して、茶々姫は秀頼の養育・後見のために出家は許されなかったともいわれます。しかし、寿桂尼など、夫の死後出家してなお「大方様」と呼ばれ、幼い息子たちを貢献している例もありますので、秀頼の養育・後見の役割と茶々姫の出家しないということを結びつけるのは早計に過ぎるのではないでしょうか。

実際、秀吉の死後に市井で徳川家康や前田利長との再婚説が囁かれたこともありますから、その時点では秀吉生前そのままの姿だったのでしょう。
しかし、雁金屋の注文票の研究で、秀吉の死後(少なくとも慶長六、七年頃には)寧や茶々姫は、揃って赤系などの鮮やかな色目の衣装を避けていた傾向が見られるそうです。出家剃髪とまではいかなくとも、落飾していた可能性が伺われます。

現在茶々姫の肖像と言われている画像は、二つとも鮮やかな赤色の入った衣装を身にまとっています。
画像は秀吉生前の茶々姫の姿には見えませんし、やはり生前に実際の容貌を描かせたというのではなく、秀頼肖像のように死後想像で描かれたもの、もしくは別人の肖像ということでしょう。

淡交社『寂光院』によると、秀吉病没の翌年、慶長四年から四年にかけて、茶々姫の寄進で本堂などが再興されたそうです。

茶々姫をたどる汐路にて

もし、茶々姫の容貌をモデルに建礼門院の像をつくったということではなく、「本堂を再興した豊臣秀吉の未亡人」そのものの像であるのならば、慶長の早い段階での修築であるにもかかわらず木像が尼姿であるのは興味深いところです。

平成十二年の火災で当時の木像を含め全焼してしまったのが本当に残念です。
現在は新しく建礼門院と阿波内侍木像が造られていますが、これは焼失前のものを再現されているものなのでしょうか。現在の建礼門院木像は、かなり端正な顔立ちでしたが…

焼失前の木像、画像ででもどこかに残っていないものでしょうか…
 

第十話「わかれ」【大河ドラマ感想】

 
一週間遅れで北庄落城…相変わらずひどい秀吉でした。

北庄落城に関して、備忘録的に史料をまとめてしまったので、そちらを踏まえて感想を中心にさらっと。

①賤ヶ岳合戦
前回を見ていると、三姉妹が散々足を引っ張って時機を逃したようにも受け取れますが、実際は雪が解ける春を待っていたと言われます。
浅井と織田の合戦も、山崎合戦もそうでしたが、今回の大河はおおむね戦闘シーンが短いですね。
女性目線ということで、江の目に入らない戦の詳細はカットされているのでしょうか。

②浅井家での暮らし、柴田家での暮らし
浅井家での生活が一話、柴田家での生活が二~三話と大変短いのが印象的でした。実際、今後も三姉妹の(特に佐治家での生活も描かれるであろう江の)生活はめまぐるしく変わってゆくので、その波乱万丈さを思わせる短さです。

③当時の市
当時、市は「小谷御方」と呼ばれていました。複数の史料でその呼称が登場します。
織田家に敵対した浅井に縁のある呼称で呼ばれていたのは不思議ではありますが、市がこれを拒んでいた様子もありません。実際に住んでいる場所ではない号と言えば、茶々姫が短期間しか淀城に住んでいなかったにもかかわらず、後年まで「淀」の号で呼ばれていたのと似ていますね。

③石田三成
私の見た限りですが、北庄に三姉妹を救出に来る人は大概大河の主人公(『秀吉』では秀吉だったし、『利家とまつ』では利家でした)なのですが、今回は三成でした。
浅井家に対して、かつての主君として格別の思い入れがあるという設定のようで…。今回の大河は残念ながら、三成が茶々に想いを寄せるという設定になっているようなので(もういい加減この系統の話はお腹いっぱいなのですが)、その布石なのでしょう…。
しかし、関ヶ原合戦の理由を茶々への想いなんてされてしまったら、正直三成が気の毒です。史実の三成ファンの方にはもっと気の毒です。余計に茶々姫が嫌われるから正直やめてほしい…。

④三姉妹の退城
ドラマ内では三姉妹それぞれ輿を用意されていましたが、『渓心院文』、『以貴小伝』では三姉妹が一つの輿で城を出たという描写があります。市が「御三の間」まで見送り、秀吉に直筆の書状を送ったという逸話も同じ史料にあり、これを参考にされたものと思われます。
三姉妹と市の別れのシーンというと、『太閤記』では茶々姫(「姉君」)が自分も市と共に死にたいと縋る逸話がありますが、北庄から生き残った人が語った史実かどうかは分かりません。

⑤市の遺言
『太閤記』、『新撰豊臣実録』では、「父(浅井長政)の菩提を弔うこと、また自ら(市)の菩提を弔うこと」(『続本朝通鑑』では長政のみ)を臨んで三姉妹を逃がしたとされています。
ここで勝家の菩提を弔うことがどの史料にも出てこないのは、やはり姉妹と勝家は正式に養子関係になかったかことの証左でしょうか。それとも秀吉に敵対したため、勝家のことが史料に残らなかったのでしょうか。
最期のシーンは有名な肖像画を思わせる衣装でしたが、肖像画を書かせたであろう茶々姫をはじめ娘たちがあの衣装をまとった市を見てません。落ち延びた人が姫たちに語ったという設定なのでしょうか。

⑥「我々はかばかしき親にも持ち候ははず、談合申候はん相手も候はぬに…」~今週の茶々姫
北庄落城で、両親とも失ってしまった三姉妹ですが、このとき長女茶々姫は数え十五歳でした。市の遺言どおり、一族の菩提を弔うこと、妹たちの将来、そして後々茶々姫を頼って集まってくる浅井一族や旧浅井家臣を担うことになります。まさに大蔵卿局と手探りで生きていく人生の始まりです。
市だけでも生きてくれていれば、茶々姫はもっと心安らかな人生を送れたのではないか…とつい思ってしまいます。いろいろと丸投げされてしまったようで、茶々姫ファンとしては釈然としなかったりします。
市は茶々に姉妹で一番長政に似ていると言いました。大抵この評価はマイナスの意味(美人な市似ではない)で使われるのですが、私はプラスの意味でそう思っています。今回も信長似の江に対して長政似な茶々という対比ではありますが、これまでほど悪意を感じなかったのでやっぱり嬉しいですね。父を大事に思っている茶々は、長政似だと言われてきっととても嬉しかったんだろうなあと思います。

⑦三姉妹はいつ城を逃れたか
前回記事にかいた前田摩阿は、乳母の阿茶子(少将)の機転で北庄を脱出したということになっているのですが、これはおそらく勝家の留守中ではないかと思っています。そして同年代の娘がある市の意向もあったのではないでしょうか。北庄落城後、三姉妹が前田家の府中城に預けられたという説がたしかあったと思うのですが、これが真実なら摩阿の件も関係しているんだろうなあと思います。
三姉妹も、もしかすると早いうちに北庄城から出されていた可能性もあるのではないでしょうか。敗戦の報を聞いた市が真っ先に一乗谷やら越前大野(という説がありますので)に非難させて、勝家の帰還後に承諾を得て、勝家や市から秀吉へ三姉妹を保護するよう依頼や交渉があって、秀吉が迎えをやった…ということではないかと思うのです。しかし、まだ確信を持っているわけではないのでとりあえず保留。

⑧市との別れ
扉を挟んでの別れのシーンは、長政との別れのシーンと同じでした。一貫した演出なのでしょうか。大坂城での茶々と初の別れのシーンもあのようになるのでしょうか。そんなの絶対泣く。
市や勝家の自刃シーンはありませんでしたね。信長もありませんでしたし、今のところ長政だけ…?光秀もだったかなあ。女性の自刃は切腹ではなく、胸か喉を突くかたちだったかと思いますが、茶々姫の最期もあんな感じになるのかな。

そして、今後は市の出番はほぼナレーションだけになるのでしょうか。(江の「私が死んだら母上に会えますか?」から、最終回は出演もするだろうと予想)正直、茶々姫の人生を市が見たらどう思うかというのは個人的にすごく気になるというか、実際見てほしいと思うのでその辺は丁寧に描いていただけると嬉しい。

しかし、今回は絶対泣くだろうなあと思っていたのに、結局泣けずじまいでした(『天涯の貴妃』でも泣いたのになあ…)。グっときていたんですが、やっぱりときどき不自然なまでの江の存在感が…流れをぽっきりおるような展開が多かったかなあ。私の気のせいかもしれませんが。

二話から子役なしでやってきた大河ですが、ようやく他の作品でも子役でなくなる時期が近づいてきました。茶々姫でいうと、大概北庄落城までが子役さんなことが多いですね。『利家とまつ』では豪華にも幼少期、少女期、そして瀬戸朝香さんと三段階ありました。私もこの辺までは子役がよかったなーと思いはしますが、これからきっといい感じになっていくんじゃないでしょうか。

そして、次回予告に龍(龍子)さんが登場していました。お姉さん然とした鈴木砂羽さんのかっこいい感じが割と私の龍のイメージに近いので、楽しみです。素敵な女性に描かれるといいな。盃争いも、姉妹げんかチックなら許せるんだけど。

とりあえず、最近毎回回想シーンで長政さんを見れて、それはとても幸せです(笑)
 

北庄落城 天正十一年四月二十一日~二十五日

 
大河ドラマが北庄落城でしたので、これを機会に北庄落城についての史料をまとめてみました。
自分用の備忘録的記事なので、大変読みづらいですが申し訳ありません。


四月二十一日
柴田勝家、合戦より北庄へ帰還(『賤岳合戦記』)。
落城を前にし、中村文荷斎または徳庵に命じて信長より拝領した天下の名物の道具を広間から書院にまで飾り立てる(『賤嶽合戦記』、『柴田勝家始末記』)。

四月二十三日
午前、攻鼓を止め、前日夜、山中にて「御子息権六殿」、「玄蕃允」を生け捕られたことを聞き、城中静まる。柴田方、城門を守るが打って出ず(『太閤記』)。
勝家はに対し、城を出るように打診するが、市はこれを拒む。(『賤嶽合戦記』、『太閤記』)
また、③④⑤三姉妹を城から出すことを勝家に相談し、勝家もこれを了承する。(『賤嶽合戦記』、『太閤記』)
夜、酒宴が行われる。(『賤岳合戦記』、『太閤記』)
勝家と市、天守(「殿守」)に上がり、夜明けまでまどろむ。

四月二十四日
柴田勝家、越前北庄城にて妻など数人を刺殺し、天守に火を掛けた後切腹して果てる(『兼見卿記』)。

茶々姫をたどる汐路にて
(西光寺 柴田勝家・市墓所)

早朝、まず勝家は死骸を敵に発見されないように、家臣(小島若狭守、中村文荷斎/『太閤記』)に命じて城に火を掛けさせる準備をする。『賤嶽合戦記』では戸障子を集めて焼草とした、『太閤記』では天守の下に草を敷いたとも、『川角太閤記』では天守に火薬を積ませた、「日本耶蘇会年報」では各室に乾燥した藁を大量に積んだ、「東印度会社遣日使節見聞録」では、宴会をした部屋に多くの材木を運び入れたという。
その後勝家は家臣に、自らの遺骸を火にかけた後、秀吉と講和し生き延びるように言ったが、家臣らはこれを拒み勝家に殉じることを誓った(「日本耶蘇会年報」「日本西教史」)。
そして市(わずか数カ月前に娶った:「日本耶蘇会年報」)を介錯し、そののち子女や侍女を介錯した(『賤嶽合戦記』、『太閤記』、「毛利家文書」)。市のほか、十二人の妾、三千(十)人の女房とするのは『秀吉事記』、二、三人とするのは『渓心院文』。
その後、城に火を掛けさせ、自刃した。「日本耶蘇会年報」は市や侍女たちを介錯した短刀で自身の腹を十文字に掻き切ったとし、「秀吉事記」では中村文荷斎に介錯させたとする。
家臣はその後天守(五重:『太閤記』、『新撰豊臣実録』、『続本朝通鑑』/九重:「毛利家文書」、「遊佐落合覚書」)にのぼり、勝家に殉じた。その数は三十余人(『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』:申の刻に殉じる)、また八十人とも(「毛利家文書」、「遊佐落合覚書」、「祖父物語」、『新撰豊臣実録』、『続本朝通観』)
勝家らの死骸は灰となり見つけられなかった(『賤嶽合戦記』)。

・勝家の年齢:「既に六十歳となりし」(「日本耶蘇会年報」)、「六十二歳」(『新撰豊臣実録』)、五十七歳(『続本朝通鑑』、『武家事記』)、五十八歳(『北畠物語』)

(様々な異説)
・天守に詰めさせた火薬に引火して天守がが爆発し、瓦が秀吉の本陣から十町の場所まで飛んできた(『川角太閤記』)。
・「小早川家文書」では勝家の自刃を辰下刻とし、「毛利家文書」では寅刻に羽柴軍が城攻めに取り掛かり、午刻に城へ乗り込み、悉く城兵の首をはねたとする。
・勝家は自刃の前に、七度討って出、天守へ登ると敵勢に向い、自分の切腹を見て後学にされよというと、まず妻子や一類を刺し、申下刻八十余名(七、八十名:「遊佐」)と共にが切腹した(「毛利家文書」、「遊佐落合覚書」、「祖父物語」)。
・前田利家が講和を斡旋し、秀吉の了解を取り付けた後、本陣愛宕山から北庄城へ向かうときに北庄城に火が掛かり、勝家の死を知った(「村井重頼覚書」)。
・筒井順慶が旧交のよしみにより勝家へ降伏を進めた。中村文荷斎・太田徳庵に会い、勝家が上京して剃髪し、佐久間盛政が皆に変わり切腹すれば、権六郎勝久に和泉か伊賀一国を与える旨の約束を秀吉に取り付けたことを話す。勝家、これを聞き一笑に付し聞き入れなかった(「増補」筒井家記)。
・佐久間盛政が、柴田勝豊と共に秀吉方へ翻意する(『柴田勝家始末記』)。
・佐々成政(「サヽ蔵介」)離反(「帰忠」)によって二十三日に柴田勝家が死すとの噂が流れる(『多聞院日記』)。
・徳庵という法師が城内を調えて後、勝家に従い自刃する(「豊鑑」)。
・二十八日牛刻に勝家は城内に火を掛け切腹する(「江州余呉庄合戦覚書」、『可観小説』)。
・では、勝家の自害を二十一日(『寛政重修諸家譜』)。
・太田徳庵が市を介錯する(「増補筒井家記」)。
・中村文荷斎が勝家・市ともに介錯する(「祖父物語」)。
・切腹の場所を広間とする。市は勝家の自害を見届け、続いて自害した(『柴田勝家始末記』)。
・秀吉に市を奪おうという意図があったという俗説を乗せるのは「祖父物語」、「十竹斎筆記」。

四月二十五日
秀吉、焦土と化した城内を検めさせる(『太閤記』)。
但し、『川角太閤記』、「老人雑和」では、前田利家が秀吉に勝家が逃亡していないかどうか確認することを勧めたが、秀吉は勝家が必ず自害しただろうと、遺骸を検めず、その足で加賀を平定しに向かったとする。


①市について
・勝家の妻(「北の方」)は、信長の妹で市(「いち」)という。信長が市を娘分として浅井長政に嫁がせ、五人の子を産んだ。男子は信長に殺され、市と三姉妹は信長のもとに送られた。その後市が三姉妹と共に勝家のもとに嫁いだ折、天下一のお生れ付きだったので、みな色めきたったという(『賤嶽合戦記』)。
・「増補筒井家記」に、市の供養碑(「石碑」)が養源院内にあることが記されている。
茶々姫をたどる汐路にて

②勝家の退城勧告に対する市の返答(意訳)
「小谷落城で浅井から織田に落ち延びたからこのような憂き目を見るのです。また生き延びれば人々の笑い草になりましょう」(『賤嶽合戦記』)
「去秋の終わりに岐阜より参り、こうなるのも前世よりの宿業ですので今更驚くことではありません。城を出ることは考えてもおりません。しかし、三人の娘は城から出してください。父の菩提を弔わせ、また自らの菩提を弔ってもらうためです。」(『太閤記』)
「かつて長政と死を共にしなかったから、今またこのような目にあうのです。今また命を惜しめば、また名を汚すでしょう。しかし、三人の娘は菩提を弔わせるために助けてください。」(『新撰豊臣実録』)
「かつて恥を忍んで小谷から落ち延びました。今また同じ辱めを受けるなら命を発ちます。ただ、三人の娘はまだ幼く、生きて夫(「長政」)の菩提を弔わせたいと思います」(『続本朝通鑑』)

③市と三姉妹の別れ
市が三姉妹だけで城から出るようにいうと、茶々姫(「姉君」)は「いやです、母と死出の道を共にします」と泣くのを、中村文荷斎が無理やり引っ張って三人を城より出した。(『太閤記』)

④秀吉への言付
・勝家が富永新六郎という侍を付けて三姉妹を秀吉の陣所に送り届けた際、秀吉に宛てて、三姉妹が自らの子ではなく長政の「愛子」であり、また信長の血縁=「主筋」であるのでよろしく取り計らうようにと伝える。秀吉はこれに対して、主筋の姫を疎かにはしないので安心してほしい、と勝家に返答した(『賤嶽合戦記』)。
・市が信長に厚恩のある秀吉ならば、三姉妹を悪くは扱わないだろうと自筆の書状を添え、三人を一つの輿に乗せて秀吉方へ送り届けた(『渓心院文』、『以貴小伝』)。

⑤三姉妹の北庄退城
・柴田勝家の妻は信長の妹で浅井長政の後家だが、浅井長政の娘は二人(この二人は茶々〔「大坂秀頼ノ御袋」〕と江〔「江戸将軍ノ御台所」〕を指すが、三人の誤り)あり、乳母の才覚によって無事に城を出ることが出来たという(『当代記』)。
・市が信長に厚恩のある秀吉ならば、三姉妹を悪くは扱わないだろうと自筆の書状を添え、三人を一つの輿に乗せて秀吉方へ送り届けた。侍女たちも残らず伴をさせ、自らも御三の間まで見送った。その時の市は実年齢(三十七歳)にも関わらず、二十二、三ほどの若々しさに見えたという。市が姿を見せると、敵軍も道をあけ、姉妹を載せる輿と女中を通した(『渓心院文』、『以貴小伝』)。
・勝家、三姉妹に富永新六郎をつける(『賤嶽合戦記』)
・三姉妹に家臣富永新六奥村金次郎を添えて秀吉に送ると、秀吉は粗略には致しませんと返答した(『柴田勝家始末記』)
・中村文荷斎に命じ、上村六左衛門を伴にさせて、末森殿(勝家姉)と共に三姉妹を逃がす。「乱」の後、越前大野に逃れていた三姉妹を秀吉がを迎える(『新撰豊臣実録』)。
・中村文荷斎の計らいで、三姉妹を一乗谷へ逃がす。秀吉、これを聞いて急いで三姉妹を迎え、安土城に送り届ける(『柳営婦女伝系』)。
茶々姫をたどる汐路にて(一乗谷)
・中村文荷斎により城を出され、遥の谷へ逃す。秀吉、これを聞き急いで三姉妹を安土城へ送る(『玉輿記』)。
・中村文荷斎が三姉妹を城外へにがした(『続本朝通鑑』)。

※『太閤記』では上村六座衛門は姉末森殿と娘に伴し、二人と共に命を絶ったたとあるので、三姉妹は中村文荷斎の計らいで、富永新六郎に伴され逃れたと思われます。

⑥勝家の親族
・上村六左衛門に伴わせて姉末森殿、その娘(『柴田勝家始末記』では佐野の方と娘蝶〔末森殿〕)を逃がす。その後、北庄落城を知り、逃亡先で二人の自害を助け、六左衛門も自刃する(『太閤記』、『新撰豊臣実録』、『続本朝通観』、『柴田勝家始末記』)。
・中村文荷斎に命じ、上村六左衛門を伴にさせて、末森殿(勝家姉)と共に三姉妹を逃がす(『新撰豊臣実録』)。
『柴田勝家始末記』では、末森殿を勝家と佐野の方(佐野六郎女)の娘で名は「蝶」、勝家の養子勝豊の妻とする。また、佐野の方との間に六之助、作次郎、某の三人の子があったとする。勝豊と蝶の子国丸(天正十年二月三日卒)は西光寺に葬られているとする。
・『武家事記』では、佐久間盛政とともに捕らえられた権六を「嫡子」とする
・『賤嶽合戦記』では「おくに」を十六歳になる勝家の子とし、盛政と共に捕らえられた子息とする。

⑦生き残った語り部
身分が高く、弁舌さわやかな老女一人が語り部として生き残り、目撃した顛末を詳細に羽柴方で語った。(「日本耶蘇会年報」)
落城時、数人が気後れして火を逃れ脱出したが、この者が後にこの時のことを語った。(「日本西教史」)
 

完子の墓地・位牌確認/東福寺

 
東福寺の九条墓地にあるのでは、と噂には伺っていた完子の墓地が確認されたそうです。
やはりこの間遠巻きに拝見した中に、完子の墓地があったのですね。
14日~16日までお墓と位牌のお写真が公開されていたそうで、14日はまだ京都にいたので、見に行けなかったことを大後悔中です。

記事によると、九条墓地にある宝篋印塔の花差しに完子の院号である「天真院」と刻まれており、開山堂に安置されている高さ60センチのお位牌にも院号が刻まれていて、完子のものであると確認されたとのこと。
他にも、「九条康道」が月忌や一周忌、七周期に供養した写経が確認されたとのことですが、これは「二条康道」の誤りでしょうか(九条道房は完子より先に亡くなっているので…)。後の文章に「長男」とあるので、やはり二条康道でしょう。(というか、添付画像を見たら本人の「藤原康道」という署名がありますね^^;)
完子と康道の母子関係も間違いなさそうに思います。

久しぶりに大河ドラマの影響で、すばらしい再発見が行われて嬉しいです。
やはり時節柄、完子は江の娘として注目されていますが、千姫と同様、もしくはそれ以上に茶々姫と長く時間を共にしその養育(教育)を受けた姫ですので私としても注目せざるを得ません。
どこかに完子の肖像も残っていないものか期待しています。(茶々姫の祖母阿古さんも…)

この調子でこっそり秀頼や茶々姫を供養していたことなどが発見されないものでしょうか…
(完子もどこかで供養をしていたのではないかと思っているのですが…)



完子関連記事:「完子の扱いと偲ばれる茶々姫とお督(お江)の交流」
 

第九話「義父の涙」【大河ドラマ感想】

 
前回からマイナーチェンジした江(の髪形)、ようやく第九話に追いつきました。
地震の影響で先週は放送を中止していた大河ですが、一週間遅れで再開されるようですね。

①悪役を作らない…?
最近の秀吉の悪役っぷりがひどいですね。
秀吉がただの戦好きのように描かれているし、市への思慕(私はこれ自体疑問なのですが)も下品に描かれていていて残念です。
秀吉の非道さを茶々の前で言い聞かせているし…どうなの?これ?

②今週の茶々姫
実は前回地味に一人だけ勝家を「父上」と呼んでいなかった茶々でしたが、今週は自然に「父上」と呼んでいました。先週、茶々姫が勝家を見直すまでの過程が丁寧に描かれていてそこは嬉しかったです。
毎度頑なになる茶々姫が、市に説得されるシーンは地味に好きです。今回は徹底的な戦嫌いから、父の散り際への美学を知り、なんとなく大坂の陣へのフラグが一本立ったような感じでしたね。
今回も、江を説得する場面が市でなく、自身気持ちを切り替えた茶々だったのが良かったです。

③話して聞かせた結果…
市が勝家に、「娘たちには話して聞かせるようにしております」と言って三姉妹に事情を説明したとたん、「戦は嫌!」と意固地になってしまったわけですが…。前回で上に立つ者としての教えを勝家から受けたはずなのに、三姉妹の駄々で明らかに柴田家の家臣は振り回されていましたね。
個人的に、三姉妹が戦を嫌っていたのはそうだと思います。その理由が小谷落城であり、北庄落城なので、この時点ではトラウマ形成中なはずなのですが。
というか、三姉妹とも明らかに勝家の敗戦前提で話しているように思えて…それはとっても違和感。
やみくもに「戦はダメ!」といい、お手紙作戦の流れになるのは、『北条時宗』をちょっと思い出しました。

④幻?の摩阿姫
この頃には、前田摩阿が北庄にいました。
前田利家から人質同然で、佐久間十蔵の婚約者として北庄に入っています(とはいっても結果的に前田利家は柴田勝家の命に背き秀吉勢を攻めないのですが…)。
おそらく、人質とはいえ、佐久間十蔵の婚約者として城に置かれていたわけですから、市や三姉妹との交流もあったでしょう。
摩阿はその後、おそらく茶々姫より早く秀吉の側室となります。体が弱く、実家にいることが多かったと言いますし、あまり関わりは指摘されませんが、同じ北庄から脱出した縁から、茶々姫とはなにかしら交流があったかもしれません。北庄脱出後、一時期前田家の府中城に置かれたという説もありますし…(『利家とまつ』ではこのときに大局〔佐脇良之妻〕が茶々姫の乳母になったと描かれていましたね)

それはともかく、ときどき時任長政さんの回想シーンが出てきて長政ファンとしては嬉しい限りです。
すっかりお市さんは冷めたご様子ですが…
 

西本願寺・安楽寿院・宝福寺・建仁寺 ~京都冬?の旅 7日目

 
最終日です。
マイPCからブログを打てる便利さバンザイ。

①西本願寺
・事前申し込みの書院・飛雲閣拝観。
・書院は以前、伏見城の御殿を移築されたものだとされていましたが、修築にあたっての調査で、移築された形跡は認められなかったそうです。公式な対面所である「鴻の間」の上座には壁に逆遠近法で描かれた絵が使われていて、目の錯覚を利用して上座の人間を大きく見せる効果があるそうなのですが、体の小さかった秀吉が自分を大きく見せるために作らせたものであると当時は言われていたそうです。そう言われると、信じてしまいそうな逸話ですが、伏見城との関係を否定されている今や、その逸話も史実ではなかったということに…「言い伝え」というものの扱いの難しさを感じました。
・念願の飛雲閣も拝観しました。こちらは聚楽第の屋敷を移築したものと言われているところです。玄関が無く、屋敷は池に囲まれ、当時は橋もかかっていなかったため舟でしか入れなかったお屋敷。池に映る屋敷が、ゆらゆらと雲が飛んでいるように見えたところから「飛雲閣」と名付けられたとか。京の三名閣(金閣・銀閣・飛雲閣)のなかで、飛雲閣だけが左右対称でないのですが、これは各階の上座の上に二階や三階がこないようになっているそうです。また、二階は三十六歌仙が描かれているところから「歌仙の間」、三階は「摘星楼」というそうです。
茶々姫をたどる汐路にて

②安楽寿院
・秀頼の名前で慶長十一年に再建された新御塔(多宝塔)、鐘楼などが再建され、多宝塔は現在近衛天皇安楽寿院南陵となっています。安楽寿院さんのHPによると、鐘楼も柱や梁に当時の材が残っているそうです。
茶々姫をたどる汐路にて

③宝福寺
・秀吉と茶々姫が子授け祈願をされたと伝わる伏見のお寺。当時近くに舟入場があり、交通の便が良く、子授けの御利益で大変栄えていたそうです。当時、秀吉と茶々姫が子授け祈祷の際跨いだとされる陰陽石がお堂に安置されています。御堂のご本尊も、境内のお地蔵さんも子授けのご利益があり、現在でも子授けの御利益を求めて多くの方が参拝されるそうです。
・茶々姫との縁が伝わる貴重なお寺ですので、うかがうだけでも…とお邪魔したところ、親切な檀家さんがお寺のご住職と奥様に取り次いでくださり、陰陽石を拝見させていただくことができました。茶々姫が結んでくださったご縁に感謝。
茶々姫をたどる汐路にて

④御香宮神社
・こちらの表門が伏見城大手門の遺構とのことですが、関ヶ原合戦以降に作られた徳川時代の大手門である可能性を先日教えていただきました。
・御香宮神社と言えば、千の誕生祝いに奉納されたという神輿。お祭りのときに出されるものなので、もちろん目にすることはできませんでしたが、当時の長女、総領娘という立場の重さに想いを馳せておりました。
・本殿は慶長十一年徳川家康によって再建されたものとのこと。家康が豊臣家に散在させるために寺社修築を勧めたという従来の説に則るなら、豊臣家にお金出させそうなのになあ…と思っていました。千姫神輿の件といい、こちらは特に家康の思い入れ深い神社だったのでしょうか。逆に、豊臣家側も、家康に言われるままに寺社修築にお金を出していたのではなくて、秀吉の遺言や茶々姫の思い入れ、そして寺社勢力との付き合いなど、きちんとした意図をもって修築する寺社を決めていたということでしょう。

⑤建仁寺
・正伝永源院。細川家歴代に縁があり、また織田有楽斎とも縁の深い寺院。今回の特別拝観に併せて参拝しました。
・墓地には有楽(正伝院殿如庵有楽大居士)、清?(雲仙院殿蓬岡清寿大姉、平出政秀女)、長好(有楽次男頼長息)、一条昭良室(頼長女)、細川家歴代、福島正則と家臣たちの墓(供養塔)がありました。福島正則は正伝永源院に寓居し、「朝鮮鐘」を寄進しているようです。
・本堂には有楽の木像が安置されていました。大きめの木像で、有楽が七十歳の時に作らせたものだそうですが、若い姿でつくらせたらしく、出家姿ですがしわ一つありませんでした。その傍にはお位牌がたくさん置いてあり、その中には信長のものであろうお位牌も見えました。他は判読できませんでしたが、有楽の一族のものでしょう。
・茶室如庵のレプリカが庭園に再建されているのですが、その床の間には有楽の肖像が掛けられていました。あと、堂内には織田信包の肖像も。とても穏やかな表情をされているのが印象的でした。
・ほかに、有楽が秀次から拝領した千利休作の象牙茶杓など有楽の茶道具、二位局あて家康書状、土井大炊助宛有楽書状、有楽あて福島正則書状などが展示されていました。
・私が特に気になったのは茶々姫侍女二位局宛の家康書状で、家康に宛てて二位局が「孫二郎」という人物の安否を尋ねたことに対し、家康が心配ない旨の回答をし、また自分の体調がおもわしくないので秀頼(「ひてよりさま」)に会いたい(会いに来てほしい)、ということをしたためた内容でした。いつ頃の音信なのでしょうね(日付はなし)。
・建仁寺方丈。慶長四年に安国寺恵瓊が安芸安国寺から移築したものだそうです。本坊内庭園に恵瓊の首塚があるとか。時間的に拝観することができませんでした。また、現在修築中で外の様子も見ることはできませんでした。ご本尊は、和子(東福門院)寄進の十一面観音菩薩像だそうです。
・建仁寺摩利支天堂。天文十六年織田信秀によって再建されたそうです。今まであまり意識していなかったのですが、そういえば信秀は茶々姫の祖父にあたるんですね……とーっても今更ですが。浅井ばっかり気にし過ぎていました(苦笑)
・個人的には平重盛の六波羅邸もしくは平教盛邸の門を移築したと伝わる建仁寺勅使門も気になりました。来年の大河ドラマが楽しみです^^

万事繰り合わせ一週間ほど休みをとり回りましたが、龍安寺、仁和寺、等持院、真如堂、歓喜光寺、伏見常高寺など伺いたいところはまだまだありました。さすが京都です。
清涼寺、曇華院は清涼寺霊宝堂特別拝観の際に伺えれば、と思っています。
 

淀・小野・醍醐 ~京都冬?の旅 6日目

 
①與杼(よど)神社
・慶長十二年に秀頼の名前で拝殿、本殿が再建され、狛犬四頭が奉納されています。パンフレット「淀、水上の城下町」によると、本殿は昭和五十年に焼失していまったそうです。宮司さんによると、ほかの拝や狛犬は当時のものが現存しているそうです(狛犬の土台は新しいものになっています)。
・こちらには神輿が残されているそうですが、装飾の豪華さから、豊臣家の奉納ではないかとおっしゃられる方もいらっしゃいます。伏見御香宮神社の神輿が伏見で千が誕生した際に奉納されたものであることを考えると、與杼神社の神輿は淀城で鶴松が誕生した際に奉納されたものかもしれません。場所柄、與杼神社の再建を志したのは茶々姫だと思われますが、特にそのような鶴松の縁もあったのではないでしょうか。

②豊臣淀城跡
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・当時の淀城跡を示す石碑が妙教寺さんの境内にあります。
・妙教寺さんの地名は「納所(のうそ)北城堀」、また「納所南城堀」という地名もあり、当時の城郭を偲ばせます。
・妙教寺さんで、「淀、水上の城下町」というパンフレットを頂きました。有料(\100)ではありますが、淀の歴史が纏められており、値段以上の価値があると思います。
・隣には江戸淀城の城主となった稲葉氏の祖として、稲葉正成(春日局斎藤福の夫)を祀った稲葉神社がありました。

③随心院
・茶々姫のもうひとりの子、完子縁の寺院。彼女がこちらの薬医門、大玄関、表書院を寄進しました。随心院では施主として「天真院尼」=「九条家縁の女性」とされ、それが羽柴小吉秀勝と江の娘であり、茶々姫の養女である完子であることは示されていません。wikipediaでも「天真院尼」の詳細はわからないとされていますね。なぜでしょう。
・完子の供養塔。
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表に「天真院従二位本光円成大姉」、裏に「九条幸家公室完子/万治元年八月十八日/俗名お江与の方」とあります。俗名に母江との混同がみられますね。
随心院境内の奥まった場所にあり、お寺の方に尋ねても、その場に“何か”あることはご存じでも、それが随心院に寄進をした女性の供養塔であることをあまりご存じでないようでした。供養塔自体、当時のものではなく新しいもので、もともとあったものを再建されたものか、もしくは全く新しく作られたものであるかどうかはわかりませんでした。
思っていたよりも小さな供養塔でしたが、実際にこの目で拝見できて嬉しかったです。

④醍醐寺
・慶長三年春の醍醐の花見で秀吉、秀頼、寧・茶々姫・龍など秀吉の妻たち、大蔵卿局・右京大夫局・饗庭局・海津局・阿玉局・小督局などうちのサイトやブログでお馴染みの方々が訪れた寺院。花見は山の中腹に屋敷「純浄観」(三宝院に移築され現存する)を築き、見下ろす形で花見が行われたそうです。売店では醍醐の花見に由来したと思われる秀吉・寧・茶々姫・龍のお茶が販売されていました。流行にのって、花見に参加していない初や江のお茶も(笑)
・再建された三宝院の唐門(勅使門)ほか、寺中に五三桐と菊の紋。さすが門跡寺院。
・三宝院の庭園の奥には豊国大明神の社。義演さんの時代からあるそうです。徳川の時代には「豊富稲荷大明神」というお稲荷さんにカモフラージュして乗り切ったそうです。
・三宝院本堂。奥には歴代住職、つまり義演さんのお位牌もあるのでしょう。ここで秀頼のために幾度も祈祷をされていたと思うと、感慨もひとしおです。
・秀頼再建の仁王門を通って下醍醐伽藍へ。本堂は秀吉の命で紀州湯浅から移築され、秀頼に引き継がれ慶長五年に完成したものだそうです。五重塔の再建にも秀吉が関わったとか。三宝院も秀吉の再建ですが、三宝院もやはり生きている間には完成しなかったそうです。
・上醍醐にも秀頼再興の五大堂(当時のものは焼失)、如意輪堂(現存)、秀吉再興の開山堂など縁の伽藍があるのですが、片道一時間の山道と教えていただき、時間と体力的に断念…無念です。
・霊宝館、去年は醍醐の花見の短冊が多く展示されていたとのことですが、今回はひとつもありませんでした。大河ドラマの特別展に出展しているからかな…
・秀吉と義演さんの肖像画、『義演准后日記』に登場する秀頼八歳当時の豊国大明神の神号に惹かれて、「醍醐寺展」の図録を購入。
・同所で、醍醐の花見の全和歌が掲載された書籍を発見し、慌てて購入。帰路で改めて見返したら、楠戸義昭氏の本(『醍醐寺の謎』)でした。全和歌の書き下しが掲載されているのは大変ありがたいのですが、あいかわらず茶々姫が目も当てられないほど扱き下ろされていました…。お願いですから、氏のお嫌いなひどい茶々姫の“イメージ”を根拠なく、または曲解して書き立てないで下さい……茶々姫にもファンはいるんです……

話がずれてしまいました。明日は最終日です。
毎日備忘録にお付き合いくださり、ありがとうございます。
 

大原・鞍馬・東山など ~京都冬?の旅 5日目

 
①寂光院(大原)
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・本堂の扁額に「寂光院御再興 黄門秀頼卿御母儀 浅井備前守息女 為二世安楽也」と掲げられています。k2さまに教えていただいた貴重な茶々姫個人の足跡。お寺では「秀頼が茶々姫のために寂光院を再興した」と解釈されていますが、「茶々姫が自らの現世と来世の安寧を願って寂光院を再興した」というのが正しい解釈でしょう。平成十二年五月九日付けで寂光院の火災を報じる京都新聞の記事では、後者の解釈で書かれていました。
・宝物館の年表によると、文化十(1813)年八月に秀頼の二百年忌が催されたことが寺伝に残されているそうです。文化十二(1815)年四月には徳川家康の二百年忌も催されていますが、江戸時代に秀頼の法要が行われていることは注目に値するのではないでしょうか。秀頼のみの法要であったのか、茶々姫など大坂の陣での戦没者も供養されたのかはわかりませんが、寂光院再興に由来するものであるならば、当時から再興の施主は茶々姫ではなく秀頼であると伝えられていたのかもしれません。
・本堂前に雪見灯籠があります。五三桐の紋の透かし彫りから秀吉寄進と伝えられていますが、これも本堂再建当時の茶々姫による寄進でしょう。私は寂光院で購入した冊子で知ったので現地でチェックすることが出来ませんでした。無念。
・淡交社『寂光院』によると、復元前の建礼門院像は江戸時代制作とのこと。この像に関しては、ダイナゴンさまがブログにて茶々姫がモデルとなったのではという可能性を言及されておられました。寧の像とする書籍があるそうですが、再建という形で寂光院に深く関わったのは茶々姫なので、施主をモデルに建礼門院の木像を作ったのでは、というご意見。茶々姫は確かな肖像がひとつもないので、そうであればいいと思います。
・平成十二年の火災の被害にあった本堂、扁額、建礼門院像などは復元されたものなので、作られたばかりの頃こうであったろうと思われる鮮やかさです。
・茶々姫が特に寂光院を、ご自身の名前で再建されたのは、源平合戦で身寄りをなくされた建礼門院に格別な思い入れがあったのではないでしょうか。「わたくしは身寄りがないので…」と心情を吐露した片桐且元宛の音信と、寂光院に思いを馳せる茶々姫には重なるところがあるように思います。

②由岐神社(鞍馬)
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・慶長十二年、秀頼の名前で本殿と拝殿が再興されたのですが、当時の建物が残っているのは拝殿のみ。擬宝珠には、再建した日時「慶長十二年正月吉日」、施主として「豊臣朝臣秀頼公」、奉行として「建部内匠頭」と刻まれています。
・お寺の方曰く、こちらの神社はそもそも菅公さんの怒りを鎮めるため朱雀天皇の詔で、現在の場所に移されたものだそうです。秀頼の名による由岐神社修築は北野天満宮の修築と同時期のため、天神信仰との関係性を指摘されていました。またそれが真実であるならば、由岐神社再建の志もまた、茶々姫のものであった可能性があります。茶々姫の天神信仰の篤さがうかがえますが、これは茶々姫に限ったものではありません。豊臣家と天神信仰の関わりについては、寧もまた篤く信仰したところであり、高台寺にも寧に由来する天神社があります。
・由岐神社の拝殿・本殿には菊と五三桐の紋が使われていました。菊の紋は由岐神社創建の由来に天皇のが大きく関わっているため特に許されたものだそうです。五三桐は再建に大きく携わった豊臣家に由来するものでしょうか。

③三十三間堂
・太閤塀
…天正十四年に秀吉が築いたもの。瓦には五三桐の門が多数並んでいました。なぜか一ヶ所だけ別の紋でしたが、修理の跡かな…?
・南大門
…秀吉が文禄四年に大仏殿の南門として築いたものを、秀頼の名前で移築されたものだそうです。三間一戸の八脚門。

④知積院
・長谷川等伯筆、祥雲禅寺襖絵など
…正面は松に立葵、側面には紅葉や菊、白菊などが見えました。
・庭園
…現在の知積院庭園の右手側は、祥雲禅寺当時のものだそうです。刈込を多用しているのが特徴だそうです。

⑤東福寺
・安国寺恵ケイ再興の退耕庵、九条道房再興の大機院、豊臣秀吉妹旭姫の菩提寺南明院などを拝観。もちろん外から。
・九条家墓地を垣間見ましたが、誰のものか判別できるわけもなく。完子の墓地があるのなら、生きているうちに一度でいいので手をあわせたいです。

⑥泉涌寺
・実は伝東福門院木像を求めて、迷いこんでしまったのですが、お話をうかがうとこちらには東福門院の持仏があるそうです。もちろん拝観できないものでしたが、貴重な情報を教えていただいて怪我の功名。

⑦戒光寺
・伝東福門院木像
…尼姿。割と小さめの木像。これが東福門院のものかどうかかなり微妙だそうですが、だとしたらどなたのものか気になります。
ご住職が写真がお嫌いとのことで撮影は許されませんでしたし、お写真が掲載された印刷物もないそうなのですが、某所で拝見できるのでまあいいや。実際に拝見できただけでもありがたいことです。

⑧豊国神社
・「馬塚」
…Twitterで教えていただいた宝物殿裏の秀吉のお墓だそうです。神社の方は「馬塚」と呼ばれていました。
豊国社破却に幕府が作ったもの、豊国社ができる前のもともとの秀吉のお墓という二つの説を伺いました。
供養塔の正面になにか掘られていたのですが、あいかわらず判読できませんでした…(苦手)
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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