今回は信長の横死、山崎の合戦の後の、清州会議と市の再婚まででした。
清州会議への江の介入はまあ、ここ数話を見れば容易に想像がついたのでそんなに驚きませんでした。慣れって怖いかもしれない…
①信長横死、三姉妹への影響
信長はまごうことなき浅井長政の仇ではありますが、小谷落城後は市や三姉妹は信長の縁者として扱われ、大なり小なりその存在に支えられていました。
(小和田説では伯父信包、宮本説では大叔父信次に養われた後信長の庇護下に置かれたとされています)
三姉妹の年齢(数え:茶々十四歳、初十三〔十二?〕歳、江十歳)を考えるに、以前書いた通り、実際信長は三姉妹の嫁ぎ先について考えていただろうと思われます。
特に茶々姫は適齢期と言ってもよい年齢ですし、末の江については実際最初の佐治一成との婚姻は福田説では信長の意志であったとされています。宮本説では信雄の意思とされていますが、市がその身柄を秀吉に託したと考えると、やはり信長の意思であったという説に私は賛同します。
そして、おそらく初と京極高次との婚姻も信長の遺志であったのではないかと考えます。高次と初の婚姻は、秀吉の考えだとするといくら愛妾の働きかけがあったといえども、まだ茶々姫との間に子のいない秀吉にとってメリットがないからです。
高次は小法師と呼ばれた時代に信長へ人質に出されていました。成長した高次に、さらなる織田家とのつながりを持たせるために初を娶せようとしたのではないかと考えています。
信長はそれを果たせぬまま没してしまい、高次は本能寺の変以降明智方に与し、その後叔母市を頼って秀吉にとって敵方である柴田方に身を寄せます。本来ならばここで初との婚姻話はご破算となってしまうところなのでしょうが、同じく明智方に与した武田元明の妻龍が秀吉の女房衆となり、龍や龍と共にいた母養福院(マリア)の働きかけにより、高次は許され、数年後ようやく初との婚礼が果たされたのではないでしょうか。
…となると、茶々姫はどうでしょう。
天正十年に数え十四歳を迎えていた茶々姫こそ、信長がその嫁ぎ先を思案していなかったと考えるのは不自然です。信長でなくとも、母市が動いていたことでしょう。
しかし、周知の通り茶々姫もまた龍と同じく秀吉の女房衆となり、その寵を受けることになります。秀吉は市との縁談でさえ「馴染みの女(お寧)がいるから」と相手候補から外されているのに、まさか信長や市が茶々姫の嫁ぎ先として考えていたはずがありません。ましてお寧は信長から太鼓判をもらい、その後ろ盾で秀吉の正妻として影響力を持っていたのです。
『渓心院文』によると、茶々姫は秀吉に妾となることを申し入れられた際、「自分のことは、まず妹たちを無事嫁がせてから」と話したといいます。初や江が婚約相手と無事婚礼が果たせたことには、龍や養福院の働きかけはもちろん、茶々姫が親を失った三姉妹の長として、このような言動をしたこともその一因となっているのではないでしょうか。思えば初の婚礼は茶々姫と龍、そして養福院という女性三人が協力した初めての一件だったのかもしれません。
さて、茶々姫の許嫁の話に戻ります。先ほどの様な話もありますが、私は北庄落城以降、数年間茶々姫の動向が伺い知れないのには、この許嫁との「縁切」の期間があったのではないかと考えることがあります。
また、秀吉と対立しても結果婚礼の整った高次と初を考えれば、茶々姫の許嫁は本能寺の変から北庄落城の間に命を落としたのかもしれません。
ともかく、従来考えられているよりもずっと、信長の死は大きく三姉妹の人生を揺るがしたものであったことは間違いないと思います。
②市の再婚
市の再婚話については、信長生前からあったという説があり(『川角太閤記』)、再婚相手として長男信忠(「城之介殿」)が秀吉を推し、信孝(「三七殿」)が勝家を推し、信孝が柴田勝家は既に越前一国を治めていたので、信長の妹婿として相応しいと主張すると、信長はその通りであると同意したと言います。
この繋がりでいわゆる「清州会議」(『川角太閤記』では岐阜城になっていますが…)で柴田勝家は信孝を後継者として取り立て、秀吉は信忠の嫡男三法師丸(川角:吉法師)を後継者として取り立てた…という流れなのですが、ここは秀吉の意図もあったでしょうから割愛。
『誰も知らなかった江』ではこの信忠がなぜか信雄になっていましたね。
一応『太閤史料集』に入っている『川角太閤記』では信忠と信孝兄弟の話になっていました。
ところで、市が三法師を呼び捨てにしていましたね。大叔母さんとはいえどうよ、と思ったのですが、あれは三法師を家督とは認めないという表現だったのでしょうか。
③市と秀吉
市と勝家の再婚が信長の生前から出ていた話だとしたら、秀吉の驚くところではないわけで…
そういえば秀吉もこの再婚を仲介していたとする書状があるそうですね。私はまだ拝見したことがないのですが。
先にあげた『誰も知らなかった江』では、『渓心院文』に、北庄落城の折、市が自筆の書状を秀吉に送り、三姉妹の将来を頼んだとされていることから、憎んでいたどころか、ひとかどの人物として認めていたのでは、と言及されています。
私は個人的に秀吉が市にドラマで描かれるような恋愛感情をもっていたとは考えていませんし、同時に市が秀吉にだけ特別悪い感情を抱いていたとも思っていません。
小谷落城の件でいえば、織田方では再婚相手である柴田勝家も活躍していたわけですから。
万福丸の刑死も信長の命令なのですから、それを分からず、もしくは信長を恨めない代わりに理不尽に秀吉を憎んでいたとは思えません。
④勝家と茶々姫(今週の茶々姫)
今回の大河ドラマの茶々姫は、嬉しいことに父長政を強く慕っている設定なのですが、このことがかえってあのような勝家への仕打ちという現代的な表現になっているようです。
茶々姫の浅井家の総領娘としての自覚は史実通りだと思うのですが、勝家との関係はどのようなものだったのでしょう。
劇中で市は、自分や三姉妹を主筋の人間としてではなく、妻子として扱ってほしい、と言っていました。
これに関しては、福田千鶴先生が、市が勝家の後妻になったからといって、勝家と三姉妹が父子関係になるわけではないと『江の生涯』で仰っています。
確かに市と勝家の婚姻期間は半年ほどであり、実の父子ほどの絆を築く時間も余裕もなかったと思われます。
しかし、茶々姫が勝家を赤の他人だと思っていたかというと、私はそうではないと思っています。
先日取り上げた茶々姫(「伏見ノ御カミサマ」)による柴田勝家(「柴田殿」)の供養の記録は、茶々姫が勝家を只の他人と考えていたのではないことを示しているものであり、『江州浅井家之霊簿』に列せられられていることからは、家族として見ていた部分も否定できないと私は思っています。
なお、余談ですが、先日、この供養記事について、勝家の没日が北庄落城の日ではなく、賤ヶ岳合戦の日になっていることを教えていただきました。
勝家は市と同日に亡くなっていますし、市の没日については「四月二十四日」と正確に記していますので、記憶違いということは考えにくいです。
ただ、市を供養した時期(茶々姫は「大坂二丸様」と表記)と勝家を供養した時期が同じではありません。
賤ヶ岳敗北の報を聞いた市は、茶々姫たち三姉妹をすぐに安全な場所に移動させ、その後勝家と対面することなく、城外へ出されたために、勝家の正確な没日が分からなかったのかもしれません。
北庄落城の折には、語り部の侍女が逃れているようですが、まさか当事者である茶々姫を前にその話をしたとも思えませんし…
『渓心院文』によると、市は三姉妹と別れのあいさつをしに、御三の間まで見送ったという記述はあるのですが…
勝家の供養と思われる記述については「柴田殿」と記されているだけですので、勝家が柴田家中で「大殿」と呼ばれていたことを踏まえれば、その後継ぎを指すとも考えられなくもないですが、柴田家滅亡後「柴田殿」と記される人物いえばやはり勝家を指すと考えるのが無難に思います。
すみません、このあたりはまだまだ考察不足です。また改めて。
⑤秀吉と寧
個人的に、今回は一番お寧さんの描き方が気になりました。
秀吉は三法師の素性や自らの本心を明らかにせず、なかとお寧さんに預けていました。秀吉はお寧さんに、政治向きのことに口を出すな!的な反論をしていました。
しかし、実際にはお寧さんは長浜時代から政治的なことでもバシバシ秀吉を補佐しています。秀吉もお寧さんのそういう部分は大いに認めていました。ですから、三法師関連のことも、私は夫婦でその意図を分かち合って協力していたと考えています。
⑥江と寧
初対面から、何かと取り上げられている江と寧の関係ですが…これが、後の秀吉とお寧の養女となることを前提としたものならばまだ納得できなくもないのですが、今回の大河は秀吉は「江の義兄」という側面を推しています。だとすると、この演出は、「偉人」の一人としてのお寧さんとの江は個人的に繋がりがあったんですよ~…といういつもの出しゃばり的な演出だったとしたらちょっとガッカリかなあと思っています。
今回も長くなりました。とはいっても考察ばかりですね。
今後も、大河ドラマの感想にかこつけて考察を織り交ぜていくと思います。ご容赦くださいませ。