fc2ブログ

茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

RSS     Archives
 

第七話 「母の再婚」 【大河ドラマ感想】

 
第七話の感想です。
今回は信長の横死、山崎の合戦の後の、清州会議と市の再婚まででした。
清州会議への江の介入はまあ、ここ数話を見れば容易に想像がついたのでそんなに驚きませんでした。慣れって怖いかもしれない…

①信長横死、三姉妹への影響

信長はまごうことなき浅井長政の仇ではありますが、小谷落城後は市や三姉妹は信長の縁者として扱われ、大なり小なりその存在に支えられていました。
(小和田説では伯父信包、宮本説では大叔父信次に養われた後信長の庇護下に置かれたとされています)

三姉妹の年齢(数え:茶々十四歳、初十三〔十二?〕歳、江十歳)を考えるに、以前書いた通り、実際信長は三姉妹の嫁ぎ先について考えていただろうと思われます。
特に茶々姫は適齢期と言ってもよい年齢ですし、末の江については実際最初の佐治一成との婚姻は福田説では信長の意志であったとされています。宮本説では信雄の意思とされていますが、市がその身柄を秀吉に託したと考えると、やはり信長の意思であったという説に私は賛同します。

そして、おそらく初と京極高次との婚姻も信長の遺志であったのではないかと考えます。高次と初の婚姻は、秀吉の考えだとするといくら愛妾の働きかけがあったといえども、まだ茶々姫との間に子のいない秀吉にとってメリットがないからです。
高次は小法師と呼ばれた時代に信長へ人質に出されていました。成長した高次に、さらなる織田家とのつながりを持たせるために初を娶せようとしたのではないかと考えています。
信長はそれを果たせぬまま没してしまい、高次は本能寺の変以降明智方に与し、その後叔母市を頼って秀吉にとって敵方である柴田方に身を寄せます。本来ならばここで初との婚姻話はご破算となってしまうところなのでしょうが、同じく明智方に与した武田元明の妻龍が秀吉の女房衆となり、龍や龍と共にいた母養福院(マリア)の働きかけにより、高次は許され、数年後ようやく初との婚礼が果たされたのではないでしょうか。

…となると、茶々姫はどうでしょう。
天正十年に数え十四歳を迎えていた茶々姫こそ、信長がその嫁ぎ先を思案していなかったと考えるのは不自然です。信長でなくとも、母市が動いていたことでしょう。
しかし、周知の通り茶々姫もまた龍と同じく秀吉の女房衆となり、その寵を受けることになります。秀吉は市との縁談でさえ「馴染みの女(お寧)がいるから」と相手候補から外されているのに、まさか信長や市が茶々姫の嫁ぎ先として考えていたはずがありません。ましてお寧は信長から太鼓判をもらい、その後ろ盾で秀吉の正妻として影響力を持っていたのです。
『渓心院文』によると、茶々姫は秀吉に妾となることを申し入れられた際、「自分のことは、まず妹たちを無事嫁がせてから」と話したといいます。初や江が婚約相手と無事婚礼が果たせたことには、龍や養福院の働きかけはもちろん、茶々姫が親を失った三姉妹の長として、このような言動をしたこともその一因となっているのではないでしょうか。思えば初の婚礼は茶々姫と龍、そして養福院という女性三人が協力した初めての一件だったのかもしれません。
さて、茶々姫の許嫁の話に戻ります。先ほどの様な話もありますが、私は北庄落城以降、数年間茶々姫の動向が伺い知れないのには、この許嫁との「縁切」の期間があったのではないかと考えることがあります。
また、秀吉と対立しても結果婚礼の整った高次と初を考えれば、茶々姫の許嫁は本能寺の変から北庄落城の間に命を落としたのかもしれません。

ともかく、従来考えられているよりもずっと、信長の死は大きく三姉妹の人生を揺るがしたものであったことは間違いないと思います。

②市の再婚

市の再婚話については、信長生前からあったという説があり(『川角太閤記』)、再婚相手として長男信忠(「城之介殿」)が秀吉を推し、信孝(「三七殿」)が勝家を推し、信孝が柴田勝家は既に越前一国を治めていたので、信長の妹婿として相応しいと主張すると、信長はその通りであると同意したと言います。

この繋がりでいわゆる「清州会議」(『川角太閤記』では岐阜城になっていますが…)で柴田勝家は信孝を後継者として取り立て、秀吉は信忠の嫡男三法師丸(川角:吉法師)を後継者として取り立てた…という流れなのですが、ここは秀吉の意図もあったでしょうから割愛。

『誰も知らなかった江』ではこの信忠がなぜか信雄になっていましたね。
一応『太閤史料集』に入っている『川角太閤記』では信忠と信孝兄弟の話になっていました。

ところで、市が三法師を呼び捨てにしていましたね。大叔母さんとはいえどうよ、と思ったのですが、あれは三法師を家督とは認めないという表現だったのでしょうか。

③市と秀吉

市と勝家の再婚が信長の生前から出ていた話だとしたら、秀吉の驚くところではないわけで…
そういえば秀吉もこの再婚を仲介していたとする書状があるそうですね。私はまだ拝見したことがないのですが。

先にあげた『誰も知らなかった江』では、『渓心院文』に、北庄落城の折、市が自筆の書状を秀吉に送り、三姉妹の将来を頼んだとされていることから、憎んでいたどころか、ひとかどの人物として認めていたのでは、と言及されています。

私は個人的に秀吉が市にドラマで描かれるような恋愛感情をもっていたとは考えていませんし、同時に市が秀吉にだけ特別悪い感情を抱いていたとも思っていません。
小谷落城の件でいえば、織田方では再婚相手である柴田勝家も活躍していたわけですから。
万福丸の刑死も信長の命令なのですから、それを分からず、もしくは信長を恨めない代わりに理不尽に秀吉を憎んでいたとは思えません。

④勝家と茶々姫(今週の茶々姫)

今回の大河ドラマの茶々姫は、嬉しいことに父長政を強く慕っている設定なのですが、このことがかえってあのような勝家への仕打ちという現代的な表現になっているようです。
茶々姫の浅井家の総領娘としての自覚は史実通りだと思うのですが、勝家との関係はどのようなものだったのでしょう。

劇中で市は、自分や三姉妹を主筋の人間としてではなく、妻子として扱ってほしい、と言っていました。
これに関しては、福田千鶴先生が、市が勝家の後妻になったからといって、勝家と三姉妹が父子関係になるわけではないと『江の生涯』で仰っています。

確かに市と勝家の婚姻期間は半年ほどであり、実の父子ほどの絆を築く時間も余裕もなかったと思われます。
しかし、茶々姫が勝家を赤の他人だと思っていたかというと、私はそうではないと思っています。
先日取り上げた茶々姫(「伏見ノ御カミサマ」)による柴田勝家(「柴田殿」)の供養の記録は、茶々姫が勝家を只の他人と考えていたのではないことを示しているものであり、『江州浅井家之霊簿』に列せられられていることからは、家族として見ていた部分も否定できないと私は思っています。

なお、余談ですが、先日、この供養記事について、勝家の没日が北庄落城の日ではなく、賤ヶ岳合戦の日になっていることを教えていただきました。
勝家は市と同日に亡くなっていますし、市の没日については「四月二十四日」と正確に記していますので、記憶違いということは考えにくいです。

ただ、市を供養した時期(茶々姫は「大坂二丸様」と表記)と勝家を供養した時期が同じではありません。
賤ヶ岳敗北の報を聞いた市は、茶々姫たち三姉妹をすぐに安全な場所に移動させ、その後勝家と対面することなく、城外へ出されたために、勝家の正確な没日が分からなかったのかもしれません。
北庄落城の折には、語り部の侍女が逃れているようですが、まさか当事者である茶々姫を前にその話をしたとも思えませんし…
『渓心院文』によると、市は三姉妹と別れのあいさつをしに、御三の間まで見送ったという記述はあるのですが…

勝家の供養と思われる記述については「柴田殿」と記されているだけですので、勝家が柴田家中で「大殿」と呼ばれていたことを踏まえれば、その後継ぎを指すとも考えられなくもないですが、柴田家滅亡後「柴田殿」と記される人物いえばやはり勝家を指すと考えるのが無難に思います。

すみません、このあたりはまだまだ考察不足です。また改めて。

⑤秀吉と寧

個人的に、今回は一番お寧さんの描き方が気になりました。
秀吉は三法師の素性や自らの本心を明らかにせず、なかとお寧さんに預けていました。秀吉はお寧さんに、政治向きのことに口を出すな!的な反論をしていました。
しかし、実際にはお寧さんは長浜時代から政治的なことでもバシバシ秀吉を補佐しています。秀吉もお寧さんのそういう部分は大いに認めていました。ですから、三法師関連のことも、私は夫婦でその意図を分かち合って協力していたと考えています。

⑥江と寧

初対面から、何かと取り上げられている江と寧の関係ですが…これが、後の秀吉とお寧の養女となることを前提としたものならばまだ納得できなくもないのですが、今回の大河は秀吉は「江の義兄」という側面を推しています。だとすると、この演出は、「偉人」の一人としてのお寧さんとの江は個人的に繋がりがあったんですよ~…といういつもの出しゃばり的な演出だったとしたらちょっとガッカリかなあと思っています。


今回も長くなりました。とはいっても考察ばかりですね。
今後も、大河ドラマの感想にかこつけて考察を織り交ぜていくと思います。ご容赦くださいませ。
スポンサーサイト



 

伊勢菊(阿古御局)

 
k2様より「伊勢系図」を見せていただきました。
『寛政重修諸家譜』での記述しか存じ上げなかったので、大変参考になりました。ありがとうございます。

そこで、今回は阿古御局こと伊勢菊について考察してみようと思います。
「おきく物語」の「菊」と混同するので阿古御局を使っていましたが、ここはできるだけ本名を使いたいので、「菊」とします。

そちらによると、菊は、秀頼付き上臈(大上臈)として十二歳(年齢は以下数えです)で召しだされたとのこと。
翌年、秀頼が参内した際には、秀頼と同車にて参内したとされています。同車というからには、当時かなり秀頼に近しい女性だったことが推察されます。

秀頼が参内したのは文禄五年五月十三日、慶長二年九月二十八日、慶長三年四月十八、二十日ですので、召しだされたのは文禄四年でしょうか。ただ、享年が三十六歳とありますので、十二歳当時は天正十九年となり、秀頼がまだ生まれいません。当然翌年天正二十(慶長元)年に秀頼の参内はありませんので、ここで年齢に矛盾が生じています。
享年三十六歳(天正八年生)が正しいとするならば、最初の参内である文禄五年時点でも十七歳です。参内した年齢が十三歳で、それが文禄五年であるならば、享年は三十二歳(天正十二年生)になります。
以上のことを踏まえると、菊は天正八年に生まれ、天正十九年に十二歳で鶴松もしくは茶々姫に仕え、文禄四年に十六歳で秀頼付きとなり、十七歳で参内したと考えるのが自然でしょうか。

それはともかく。
公家衆が、武士の娘が参内することはどうか、と後陽成天皇に奏上したところ、天皇は菊が「小松内府」平重盛の子孫であるから、特別仮親をたてずとも問題ないとの勅宣をたまわったそうです。このことから、秀頼に従った女房のうち、菊が特別仮親等を付けず参内を許された、とありますので、参内した他の女房衆(大蔵卿局や右京大夫局など)は仮親を設けたことが分かります。

それより、二三ヶ月、女房として内裏に仕え、「宰相」との女房名を与えられました。再び秀頼のもとへかえされる際には、「弁宰相阿古大上臈」の任官を賜り、内裏より「下される」形がとられました。
なお、秀吉が慶長二年四月二十日に定めた大坂城の城門掟では、奥への文を取り次ぐ女房「はりま・あこ」の「あこ」が菊のことであるとされています。

菊は当時十四歳、もしくは十八歳であり、奥向きの秩序を取り仕切るには幼い(若い)ように思われますが、これは福田千鶴先生の指摘される通り、「大上臈」を通じて秀頼の母である茶々姫に書状を渡すという形をとることで、茶々姫ひいては秀頼の権威を高めようという秀吉の狙いであったのでしょう。一方「はりま」の詳細は不明ですが、おそらくこちらは年嵩の、奥向きの文通を取り仕切る「門番」にふさわしい女性であったと推察されます。

その後、茶々姫たっての希望により茶々姫付きの女房となったとあり、特に内裏と同様に厚く遇されたそうです。茶々姫の信頼が厚かった背景には、秀頼に近しい立場であったことももちろん、そもそも仕えたのが茶々姫であったことがあるかもしれません。その出自や教養から秀頼付きに取り立てられ大上臈となったのでしょう。
「伊勢系図」によると、常には「阿古御局」と称されたとあります。ほかに「阿古」、「あこ」または「和期」(「和」は「阿」や「於」と同じ用途で用いられますので、これも「あこ」もしくは「おこ」とよむのでしょう)という名で残されています。

大坂落城の際には、女中が七、八人供した中に菊は入り、主二人と共に戦火に没します。院号は青松院。大坂城山里曲輪の供養塔でも、三十二義士の一人として列せられています。享年は三十六歳と記されていますが、三十二歳であろうと思われます。

茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫をたどる汐路にて
(菊は「和期の局」と記れています。)

弟の貞衡は菊(「上臈」)の養子となり、幼いころから秀頼に仕えていましたが、大坂の陣の後浪人となっていたこところを千姫に召され家康に仕えたそうです。その後、「従母」春日局の執成しで家光に仕えました(『寛政』)。
「伊勢系図」によると、父貞為(貞景)は斉藤利三妻の姪(春日局の「妹」=従妹?)を養女としたとあり、これが春日局との縁になったのでしょうか。

菊(妹鶴、弟貞繁)の母は松永久秀女(孫女とも)、貞衡ら弟妹の母は後妻「岸和泉守」(寛政:岸和田和泉守章憲)女であり異母姉弟であったようです。
 

饗庭局供養塔(宗正寺)

 
名墓録」というサイトを見ていたのですが、偶然饗庭局の供養塔が宗正寺にあるという情報を見つけました。

饗庭局は浅井宗家の血をひく女性です。
浅井亮政は分家の出身で、妻の蔵屋(先代直政の娘)の婿養子でした。
亮政と蔵屋の間に生まれた娘が鶴千代といい、鶴千代の次女が饗庭局です。

茶々姫に仕えた女性で、大津城攻防戦では、(おそらく息子大野治長が東軍についている関係で動けない大蔵卿局に代わって)講和の斡旋・折衝に活躍し、無事初や龍を救い出しました。
大坂の陣でも使者として活躍し、茶々姫と最期を共にしました。

饗庭局は茶々姫の乳母であったと言われています。
姉の海津局と混同されがちな方ですが、多くの記録に殉死者として饗庭局の名前がありますので、彼女は間違いなく茶々姫に殉じたものと考えていいと思います。

小谷落城で散り散りになっていたであろう鶴千代(宗正寺へ)、海津局(夫に従い転々と)、饗庭局(茶々姫に従う)は茶々姫のもとでふたたび再会することができています。

姉の海津局は千姫が大坂城を出る際、茶々姫に付けられ、城を出されています。
浅井家大事の茶々姫にとって、嫡流の血をひく総領娘海津局の存在は、何より守るべきものでした。
千姫出城に際し、茶々姫が千姫の裾を踏んで拒んだという俗説がありますが、なにより海津局・三好直政が千姫に従っていることが、この俗説が真実ではないことを示す証左です。

海津局自身茶々姫の侍女であり、茶々姫に長く仕えていた饗庭局の姉であり、夫浅井政高(田屋政高)は大坂の陣で戦死、海津局の嫡男三好直政の妻は大坂方の将明石全登の娘というバリバリの大坂方でした。
直政は江に迷惑がかかることを案じて、浅井の姓を棄て、三好姓を名乗りました。
しかし、海津局・直政は共に大坂残党として処罰されることなく、千姫に従った後、直政は旗本として将軍家に仕え、海津局は督(江)の侍女として大奥に仕え、重く用いられました。
督の危篤の報が秀忠・家光・忠長のもとに届いたとき、秀忠らに従い京都にいた直政ですが、すぐには江戸に戻れない父子に代わってお督のもとに駆けつけました。
直政の嫡子は、大奥で海津局に養育――つまり督の保護下で大切に育てられました。

茶々姫が、徳川家に嫁ぎ将軍御台所となった督を妬んでいたように語られますが、それもまったく正しくないことです。
督念願の嫡男、家光の誕生をわがことのように寿ぎ、督が豊臣家の養女として徳川と豊臣のかすがいとなるべく尽力していたことを、茶々姫は誰より知っていたことでしょう。

督も、茶々姫の遺志を受け継いだと思われる功績をいくつも残しています。
その筆頭が海津局一家の保護です。
海津局母子が何も咎めだてされず、三好家が旗本として続いたのは、何より茶々姫が大坂から出し、江戸で督が守ったからに相違なく、戦を越えて手を携える姉茶々姫・妹督の絆を今に伝える重要な存在です。


話は宗正寺に戻ります。
現在は集落に囲まれ、閑静なお寺ですが、宗正寺は、饗庭局の母浅井鶴千代(「海津殿」)が入寺した寺で、豊臣家の侍女頭孝蔵主(こほ)もこの寺の出身という由緒深いお寺です。

茶々姫をたどる汐路にて
(宗正寺)

その関係で一度訪れたことがあったのですが、誰のものか分からない供養塔のようなものが二つほどありました。
誰のものだろう…と気になっていたのですが、このどちらかが饗庭局のものでしょうか。

(前庭にある供養塔)
茶々姫をたどる汐路にて

(裏手にある供養塔)
茶々姫をたどる汐路にて

お寺の由緒的には、前庭の供養塔は鶴千代のものではないかと思っていましたが…
しかし、おそらく名墓録の示す供養塔はこれでしょうね。
 

第六話 「光秀の天下」 【大河ドラマ感想】

 
東京より無事戻ってまいりました。
先ほど、録画しておいた大河をようやく見ることができたので、早速感想を。

①明智光秀に思う

市村正親さんの明智光秀、発表から大変楽しみに拝見しておりました。
「悪役を作らない」という今回の大河ドラマの方針もありますが、全くその通り、退場の惜しまれる光秀でした。

実際、事をなした後、光秀があそこまで揺れに揺れていたらついてきた家臣はたまったものではありませんが…ドラマ的に、分かりやすい表現だったと考えれば、私的にはとても共感できる光秀でした。

特に、信長にはたくさんの人が必死についてゆき役に立とうとしていたのに、自分には誰もついてこようとはしない…と嘆くところは、大坂の陣における茶々姫を始め、魅力、権力、財力…その人自身の力はもちろん、それだけではいかんともしがたい運や、時勢、時代に愛されず散って行った人たちを思い、心に響きました。

江が捕まったときに、家老の斉藤利三が名乗る場面がありましたが、あれは後の春日局との絡みで回想シーンとして再登場しそうですね。

②伊勢上野から清州へ

結局、伊勢では最後まで上野城にいたという設定だったようですね。
清州会議を前に、清州城へ移ったようですが、予告を見る限りまたもや清州会議に江が介入しそうな…
家康の伊賀越え等もそうですが、主役が出ずっぱりでないといけないわけではないと思うのですが…
一時の大河ドラマでは、主役が絡まないイベントも多く盛り込まれていたようにも思いますし、それはそれで主役ではない人たちの見せ場として素敵な場面もたくさんあったと思います。
(…とはいえ、その時の大河ドラマは今ほど主役を限定していなかったというのもありますが…)

③秀吉サイド

秀吉サイドは相変わらず、というか、コメディ担当からどんどん黒さが増してきているように思います(秀長は無駄にイケメンですがw)。
秀吉&秀長&官兵衛のトリオがしばらく秀吉サイドの主要メンバーになるのでしょうか。

ああやって「戦は数じゃ」なんて言わせたら、とんでもなく嫌なヤツにしか見えませんが、数を揃えるのも軍略のうち、そして官兵衛もおりますから、もちろん本当は数だけではないでしょう。…とフォローしてみます(苦笑)

④今週の茶々姫

清州へ移る支度のシーン、江の荷物を率先してまとめるあたりお姉さまらしくて素敵でした。
やはり、茶々姫は長女らしい姉っぷりを発揮しているシーンが素敵です。

それに見習うも素直になれない初はやっぱり可愛らしいですね。
今回の初は今までの様々な作品の初の中ではかなり珍しいキャラクターですが、いちいち可愛くて好きです。
引越し支度でお菓子ばっかり選んでいたシーンがすごく好きですw

そして、前回の櫛ですが……なんということもなくあっさり茶々姫に返却されてしまいましたね…
さすがにあの櫛のおかげで命拾い、なんてベタな展開まで望んではいませんでしたが、個人的には忘れたころに姉を思い出すきっかけとして江に持っていてほしかったです(『新選組!』のコルクのような…)。
 

大河ドラマ特別展(江戸東京博物館)行ってきました♪

 
茶々姫をたどる汐路にて-110210_1715~01.jpg

しかも明石さんとご一緒しました♪

前もって新幹線で図録を予習していたので、何があるかだいたい把握してサクサク見ることができました。

明石さん曰く、展示品にだいぶ入れ替わりがあったようなので、その辺は長浜かどこかで拝見したいと思います。

伝崇源院木像(私もあまのさんの海津局説に賛成です!)やパネルだったけど常高院木像、うわさの宮殿など目にできてよかったです。

実はあまり見れない「わもじするする」の書状も見れましたし♪

くすさん関係の資料も、龍澤寺で拝見して以来久しぶりの再会てした。

せっかく督が主人公だから、ちらとでもくすさんが出たら良かったなあ~なんて、贅沢ですね。


太田先生の龍高次妹説の根拠、佐々木京極家記録も図説で知れてよかったです。
展示もなかったし、図録に該当部分が掲載されてなかったのが残念でしたが…


あと、相変わらず督が豊臣家一族として評価されてませんでしたが、秀忠の寧宛ての贈答は督との養母娘関係も考慮すべきではないかと思います。


…まあ、なににしろ、新幹線で具合悪かったのが吹っ飛んだので、行って良かったです(b^ー°)
 

二条城会見について考える

 
明日から東京へ行ってきます。
仕事で滞在するのですが、ついでに大河ドラマ特別展見てきます。
噂の宮殿とか、東京展でしか見れないものを特にがっつり拝見してきます!

というわけで、出発前に二条城会見についてのつぶやきまとめを。
一部加筆修正しております。


(2010/12/26)

 

【二条城会見①】慶長十年、家康の遣いとしてお寧さんが秀頼の上洛を促したことに茶々姫が猛反発したという噂。京や大坂の人間が、すわ戦か!?と大騒ぎしたけれど、家康が折れたお陰で何にもなかったということになっています。大概の意見は家康の要求やお寧さんの提案をはねつけた茶々姫に批判的です。

posted at 04:02:50

【二条城会見②】しかし上洛の件について、茶々姫はよく周りの意見を聞いてたんだなあ、と私は思うんです。というのも、慶長十年は親秀頼の大名(有名どころでは加藤清正や福島正則が挙げられますね)や家臣が秀頼の身を案じて上洛に反対し、茶々姫に家康の申し出を断るように説得しているようなのです。

posted at 04:04:30

【二条城会見③】そもそも清正や正則らは関ヶ原合戦の前後関わりなく秀頼を大切に遇していて、秀頼に累が及ばないと家康に言わせることで東軍についています。清正が熊本城に秀頼の居室を作っていたこと、大坂の陣の際、正則が大坂方からの手紙に返事は否ながらも丁寧な手紙を返したことは有名です。

posted at 04:11:51

【二条城会見④】家康はそんな彼らの意向をまだ無視できなかった。つまり、家康が折れて忠輝を秀頼のもとへ送ったのは、茶々姫のヒステリーに呆れたわけでも、大らかに対応したわけでもなく、未だ秀頼を慕う、家康にとっては厄介な存在がまだ無視できないほどいたから、という感じではないでしょうか。

posted at 04:13:31

【二条城会見⑤】だから、慶長十六年での二条城会見は応じざるを得なかった。親秀頼派は、既に自分たちの影響力では太刀打ちできないほどの力を家康が得ていることが分かっていたのでは。親秀頼派は数を減らし、逆に徳川は将軍職を譲ってなお辣腕をふるう大御所家康を筆頭に勢力を増していました。

posted at 04:16:32

【二条城会見⑥】茶々姫が二条城会見をしぶしぶながら受諾したのは、占い師に相談した結果だといわれています。しかし、現実的に考えて、秀頼を大切に思ってくれている加藤清正や浅野幸正、お寧さんが命がけで秀頼を守ると言ってくれたからことがやはり一番説得力があったのではないかと思います。

posted at 04:17:15

【二条城会見⑦】ちょっと話はずれますが、福島正則はこの時、病と称して大坂にいたそうですが、秀頼不在の大坂を守り、何かあった時に茶々姫の介錯をするなど、豊臣家の名誉を守るためだったという説もあるそうです(残燈傾談)。 http://p.tl/6ELk

posted at 04:18:00

【二条城会見⑧】結果的に、二条城会見は甘やかされ育ったと思っていた秀頼が思いのほか立派に成長していたため、家康の危機感をあおることになってしまいました。しかし、これを断っていたら秀頼と茶々姫は大坂の陣よりも早く生を終えていたやもしれません…

posted at 04:19:08

【二条城会見終】実際に母子が命を絶った慶長二十年、親秀頼の家臣は、二条城会見時点より更に生を終え代が変わり、その数は激減していました。慶長十年の茶々姫の対応、もしくは秀頼周囲の家臣が家康の申し出を拒否したことは、従来通りただ愚かだったと断じてしまうのは早計ではないかと思うのです。

posted at 04:22:32

…てしたり顔で呟いて既出だったらゴメンナサイ。そしてタイムライン埋めちゃってごめんなさい。最初分割して投稿する予定だったのだけど、twitterが調子悪かったのでメモ帳に呟いてたら、寝る前に連続投下という事態に…\(^o^)/大変失礼しました。

posted at 04:24:06



本当に、二条城会見の時の茶々姫の反応ほど、見方を変えれば評価が変わるものはないと最近思っています。(あ、あと寺社の再建修築もですね…)

秀頼を大坂城で守り育てることこそ、茶々姫に課せられた使命だったわけですから、その使命を脅かす事態に慎重になることはちっともおかしなことではないはずなのに…
 

第五話 「本能寺の変」 【大河ドラマ感想】

 
前回に引き続き、フラグ乱立→本能寺の変でしたね。

開始前から騒然とさせられた江の伊賀越え、この時点で家康が江を個人的に呼び出すということは普通ありえないことですが、後に義父娘となることを、逆行して出会いから丁寧に重ねて描かれているように思います。
しかし今回は数え十歳ですが、まだ幼いのに市から離れて単独行動の多い娘ですね(苦笑)

今作品の信長は、「3」どころか「1」だけを伝えて「10」を知れ、というタイプだったので、明智さんがなかなかかわいそうでした。
しかし市村さんの演技は素晴らしいです。
そして蘭丸かっこよかったです。これまで森兄弟は無表情を貫き通してきたので、今回の必死の形相や切ない表情がより際立ってぐっときました。

馬上での江と信長ですが…
前々から感じていたんですけれど、市よりも江のほうが信長とラブロマンスを驀進していたように思います^^;
前回だったか、よろめいた江を受け止める信長にも同じものを感じましたが、今回の馬上のランデブーもなかなかのものでした…
…でも、確かにいろんな方が仰っているとおり、あの距離で信長の顔があったら普通ビビりますね(笑)

あんまり目立っていなかったのですが、本能寺の変が起きたということは、三姉妹の居所も伊勢から清州→岐阜(たぶん)へ変わりますね。

ところで、清州会議のシーンは必ず市や三姉妹が絡んでいるような気がするのですが、実際清州にいたのでしょうか。
勝家への輿入れは信長の生前に既に話が出ていたようなので、岐阜でそれを受け入れ、婚礼をあげたということはないのでしょうか…良くわかりません。

とりあえず…

○今週の茶々姫

やはりあの櫛は気になります。
すぐに役に立つのか、それとも長いスパンで役立ってくるものなのか、とても意味深でした。

あと、お留守番中初とお菓子を食べながらじゃれ合っているところは可愛らしかったです^^
 

須磨寺(福祥寺)

 
久しぶりに須磨寺へ参拝してきました。

須磨寺は、慶長七(1602)年に茶々姫が秀頼の名前で再建された寺院です。
奉行は片桐且元。

茶々姫をたどる汐路にて

こちらの案内掲示を見ると、慶長(元年…というか文禄五年)の地震で荒廃した本堂を修復したことが分かります。

この時期に再建が多いのは、領地が削られることを始めとした豊臣家の動揺と、地震で倒壊した寺社が多かったことなどの要因が重なったものかと思われます。
茶々姫が修築を志さなければ、地震等で倒壊、半倒壊したまま今日に続かなかった寺院が数多くあっただろうことは先人の語られる通りです。

茶々姫をたどる汐路にて

本堂。
お寺の方に伺ったところ、こちらの本堂は平成十五年に解体修理されたそうですが、使われている古い材木は慶長七年再建当時のものだそうです。

須磨寺には、ゆかりの品々を展示した場所があり、そちらには秀頼再建当時のものも展示されています。

(片桐且元筆と伝わる福祥寺扁額と本堂再建寄進状)
茶々姫をたどる汐路にて

(扁額の一部)
茶々姫をたどる汐路にて
「権大納言豊臣朝臣秀頼卿再興焉」

茶々姫をたどる汐路にて
「于旹慶長七壬寅年十二月如意珠日拜書」…かな

(片桐且元筆本堂再建寄進状)
茶々姫をたどる汐路にて
秀頼の命により、且元が奉行となって須磨寺を再興すること、また、秀頼が銀子五百枚、且元が銀子二百枚を奉加する旨がそれぞれ記されているようです。

須磨寺にはこんな展示物も
茶々姫をたどる汐路にて

須磨に縁のあるさまざまな人の石人形が展示されています。
須磨と言えば、一の谷…ということで、茶々姫がことのほか思い入れがあったというこの方の石人形も。

茶々姫をたどる汐路にて

須磨は来年の大河ドラマの主人公、平清盛一族の没落の始まりの地でもあります。
茶々姫がこの須磨寺の修築を志したのも、建礼門院縁の場所だったかしら…と思ったりしておりました。
(須磨寺は特に当地で亡くなった敦盛と敦盛の首を撮った熊谷直実の展示が多いです)
 

第四話 「本能寺へ」 【大河ドラマ感想】

 
遅くなりました。インフルやらノロにやられておりましたが、ようやく第四話を拝見。
今回は明智さんイジメも含めて、次回へのフラグ大会でしたね。

①いきなりですが、今週の茶々姫
市に「好きな香りを選べ」と言われ、父長政の好みと知らずに、同じ「浮嶋」という香を選ぶ茶々姫。
どちらかというと、父を知らぬ江にスポットを当てた演出でしたが、浅井ファンとしても茶々姫ファンとしても嬉しい場面でした。

私はまったく香に詳しくないので、「浮嶋」という香りがどのようなものか存じ上げないのですが…気になりますね。
実際の長政公や茶々姫はどんな香りを好まれたのでしょう。それも気になります。

②父の面影を知らない江
姉二人が「浮嶋」を聞いて父を懐かしんでいる傍で、父を覚えていない江はなんとなくしょんぼり。
今回の大河は、浅井長政を父として記憶していない江が織田信長に父を見るというストーリーになっていますが、実際は茶々姫(落城時数え四歳)も初(数え二、三歳)も記憶があるかないか微妙な年頃です。
そして、江は後に浅井家所縁の人たちを大切にしていますので、実際は浅井家の思い出から除け者にされることなく、市に教えられ、茶々姫に教えられ、浅井長政の娘であるという自覚を強くしていったでしょう。
しかしまあ、それはそれ、ドラマとは別のお話で…

③秀長
相変わらずコント担当の秀吉でしたが、弟秀長初登場でしたね。
なーんとなく茶々姫とは関係がない、むしろ「お寧さんvs茶々姫」の構図では完全にお寧さん派に描かれる秀長ですが、茶々姫の産屋を含めた淀城修築の責任者は秀長だったりします。
『秀吉』といえば、秀長逝去のシーンはありえないくらい号泣しました…

④明智さん
各所で無駄に美形にされる明智さんですが、五十六歳だったんですね。
市村さんはもともと素敵な俳優さんですが、なんとなく年相応で良い明智さんです。
ドラマでは相変わらずひどい明智さんいじめっぷりですが、現実はどうだったんかなあ、と一連のシーンをいろんな作品で見るたびに思います。

⑤茶々姫入内!?
信長が市や三姉妹の嫁ぎ先を考えていたというのは、これは史実もそうだと思います。
信長は生前に市を柴田勝家に嫁がせようとしていたといいますし、長女茶々姫は天正九年時点で数えて十二歳、本能寺の変が起きる天正十年には十三歳ですから、信長が茶々姫の嫁がせる先を考えなかったということはないでしょう。初もさることながら、江の佐治一成への輿入れも、最近では信長の意志であったと言われますね。

それにしても後陽成天皇に入内とは…。どこかの公家に嫁がせるくらいかな、なんて考えていましたが想像を超えていました…
その場合信長の養女として入内しただろうか…それともやはり后妃としての立場を整えるために摂関家の養女として入内しただろうか…でも前子さんの入内が…

そういえば物語中にも登場した誠仁親王の妃、勧修寺晴子さんの御名前は「あちゃあちゃ」さんなんですが、ときどき「阿茶々」さんとか表記されていたりします。
…茶々姫とお名前が似ているというだけの話です(苦笑)

⑥市と信長
…いや、もう、本能寺の変を前にした和解ということは分かるんですけど…
…いや、今回の市は「長政<信長」らしいですからね。仕方ないですね…

なんとなく、長政さま、不憫。

⑦今週の茶々姫 其の弐
上の市と信長のシーンを受けて。というか、それより前のシーンですけれど。
信長の話題が出て、表情がこわばる茶々姫を見て、やはり前回、「江が信長に父を見ている」と聞いたシーンはとても複雑だったんだなあ…と再確認しました。

やっぱり茶々姫には、いつまでも長政公を大切に思っていていただきたい。
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





月別アーカイブ

フリーエリア

メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


検索フォーム



ブロとも申請フォーム

QRコード
QR