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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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『寛政重修諸家譜』再読

 
史料整理の合間に、『寛政重修諸家譜』を再読していました。
物覚えが悪いので(苦笑…)、読むたびにいろいろと発見があって面白いです。



『寛政重修諸家譜』再読中。尾張浅井氏の田宮丸弟政重は、豊臣秀俊死後、督の勧めで徳川家に仕えている。尾張浅井家と近江浅井家の関係については諸説あるけれど、この頃には親戚…というか、同族という意識があったと思っていいのかな。

posted at 18:22:13

三好直政。この一家は茶々姫のもとにいたのだけれど、父政高は大坂の陣で戦死。母海津局と子直政は、千姫に付けられて督のもとへ走り、お咎めなし。海津局の妹饗庭局は茶々姫の側近の一人で、母子のお咎めがなかったのは明らかに督・千の尽力の賜物でしょう。

posted at 18:24:35

直政はその後寛永三年に家光に仕え、その際督のが移籍を憚り浅井の姓を棄てて三好の姓を名乗ります。しかし督の最期には近臣として江戸に召されています。妻は大坂の陣で大坂方として活躍した明石全登の娘。自分を保護してくれた督への感謝は深かったでしょうね。

posted at 18:27:44

で、その直政の嫡男が政盛。家光の周りは春日局の息のかかったもので固めていたと言われていますが、この子は幼いころより海津局に育てられ、大奥にも上がっていたことから督も可愛がっていたでしょう。そんな彼は七歳の時、家光の小姓として仕えています。家光の側に督に近しい者もいたんです。

posted at 18:31:00

木下利房。父家定が亡くなった時の遺領相続の際、兄勝俊と折半すべき旨の幕府の意向を無視し、お寧が兄勝俊一人に継がせようとして、結局遺領が幕府に没収されたという一件の当事者です。

posted at 18:35:15

その利房の項には、大坂の冬の陣の際には家康に従軍し、夏の陣にも従軍しようとしたけれど、お寧を大坂城に来させないようにしろと命じられ、京にてお寧を「守る」役目にあったそうです。冬の陣でもお寧は大坂に駆けつけようとしたものの、鳥羽の関を越えることを許されませんでした。

posted at 18:37:26

このときは従来のお寧の評価から、「自主的にあきらめて帰った」とも言われますが、利房を使った対応を見ているとやはり、「鳥羽の関を越えることを許されなかった」のでしょうね。そして、夏の陣でも大坂に赴く可能性があった。しかし、利房に「守ら」れ、それは叶わなかった訳です。

posted at 18:39:15




やはり同時代浅井家関係を見ていると、督による庇護が目立ちますね。
特に海津局・明政母子は、縁故や立場からいって、大坂残党として罰せられてもおかしくない立場だったことが分かります。

あと、『寛政重修諸家譜』が編纂された時点では、まだ寧に親家康というイメージはあまりなかったことが分かります。

「督と豊臣家の関係について考える」で考察したとおり、やはりお寧が秀忠と文や物を交わしたり、徳川家に敬われたのは「督の養母」としての立場からだったのでしょう。
…という思いを当該記事に頂いたコメントから強くしました。
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『日本切支丹宗門史』

 
注文していた『切支丹宗門史』が届いたのでざっと目を通していました。

基本的に「豊臣家滅んだのは秀吉の因果応報!」というスタンスなんですが、細かく見ていくといろいろと面白い。
まだ茶々姫関係しかチェックしていないので、そのうちじっくり読んでみたいです。

特に、秀頼の評価がなんかめっちゃ高いですね。
あと、茶々姫の秀頼に対する態度の変化が伺えて勉強になりました。

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【宗門史】慶長九年の豊臣家。(秀頼が)渾天儀について僧侶に聞いたが、納得いく答えが得られなかったので、宣教師に説明を求め満足したという。ときに数えて十二歳。満10~11歳なので、小学四年生。すご…

posted at 20:11:00

【宗門史】慶長十一年、朽木宣綱室京極氏(秀隣寺殿)葬儀のシーン。「秀頼公の母政所様(茶々姫の意)は、狂人じみた異教徒で…」…ひどい言われようだ(涙)

posted at 20:17:44

【宗門史】「彼(家康)もこのプリンセス(=「夫人」。茶々姫)に遠慮して大坂の城壁に、漠然たる言葉で記され、必ず実行されることのない命令を張りだした。」…いろいろと突っ込みたい文章。

posted at 20:19:07

【宗門史】「(太閤)殿下は、多くの人が命令に背いてバテレン教徒となったことを知り大変不快であった。家臣やその夫人・家人は殿下の命令を守るべきであるし、下人にまでそれを徹底し、バテレン教徒は棄教すべきである」要約するとこんな感じ。慶長十一年四月二十日付で発令。

posted at 20:23:56

【宗門史】慶長十二年秋頃?秀頼と茶々姫、片桐且元の仲立ちでパエスの用意した伝道士の歌と器楽演奏を楽しむ。秀頼はこのような文化的交流によって、大坂のキリシタンに寛容であったと記す。

posted at 20:32:23

【宗門史】慶長十八年時点で、大坂の駐在所・天主堂は秀頼と茶々姫の庇護下にあったと記されています。最初は秀頼後見として秀吉の遺志を固く守っていたけれど、秀頼の成長に従ってその意思を尊重している、そんなふうに感じます。

posted at 20:43:16

【宗門史】大坂の陣に至る筋書きはいろいろ戸惑う。家康が市正を誑かし、秀頼・茶々姫を梵鐘供養の儀式に呼び出し、その場で秀頼をとらえようとしていたが、秀頼は既に人から危機を知らされ、儀式出席を断った…という筋書き。その後もいろいろと突っ込みたい。

posted at 20:56:32

【宗門史】『宗門史』の伝える国松の最期。「この不敵な小児は、最後に臨んでないふ様の太閤様と秀頼に対する背信の罪を責め、勇ましく首を劊手に差延べたといふ事である。」

posted at 20:59:57



個人的に、「プリンセス」=茶々姫がヒットでした。
訳では「夫人」とされていましたが、「姫」なんだ…!
 

督(江)と豊臣家の関係について考える

 

(2010/12/20)

 

『歴史人』で楠戸氏の撮影されたお督の位牌(養源院)の写真が掲載されていましたが、豊臣の桐紋が入っているのを見て、やはりお督は徳川へ輿入れの時に形だけ秀吉の養女となっただけではなく、亡くなるまで豊臣出身の女性としても敬われていたのだなあ、と思いました。

posted at 01:05:13

ここからは想像ですが、徳川がお寧さんを敬ったのも、秀忠室であるお督の養母という立場を重んじたという面もあったのかな…?もちろんお寧さんとお督が養母娘の関係を結んでいたかどうかは確証ありませんが…。豊臣と徳川の関係を考える上で、お督って結構重要人物ではないだろうか…

posted at 01:08:37

しかし豊国神社や祥雲禅寺はお寧さんの抗議も梵舜の頑張りも虚しく、大坂落城後容赦なく破却されているという事実…。茶々姫が建立した養源院が同じ運命をたどらなかったのは、これはお督(江)が頑張った結果だろうな…。お督にとって鶴松は甥っこだから、祥雲禅寺も守ろうとしたのではないだろうか…

posted at 01:13:01

…というか、お督(江)は秀頼の生誕からかわいい盛りまで完子の成長とともに見守っているはずだから、姉茶々姫だけではなく秀頼に対しても思い入れがあったのかもしれないなあ…。でも、お督が動いていたとしても、まずその記録なんて残るはずないか…。うう、いろいろ想像がとまらなくなってきた…!

posted at 01:15:47



このつぶやきをきっかけに、督のことについて真剣に考えるようになりました。

督の「豊臣家の養女」という肩書は、今日のその印象の薄さを思えば、徳川将軍家にとって決して誇るべきものではなかったのでしょう(秀吉は義兄として描かれることが多いですね)。
つぶやきにも挙げている豊国社や祥雲禅寺同様、豊臣家の痕跡を消し去りたかったのだとしたら、むしろ邪魔なものだったのかもしれません。
それでも、位牌に残るほど最期まで督が豊臣家縁の女性として認識されていたのは、なにより彼女がそれを意識して生きていたからだと私は思います。

初が大坂の陣で使者として奔走できたのも、家康の意向とありますが、なにより一番は初の意思でしょう。そして、督の意思だと思います。
初が出家の身だったために、京極家に迷惑をかけずに行動できたともいわれますが、前田家の松(芳春院)、千代保(寿福院)は家の代表として江戸へ人質に行っていますし、なにより豊臣家の寧(高台院)は出家してなお政治の世界に影響力があったといいます。
出家=家に影響を及ぼさないというのは、疑問に思います。

初の意思に、督の尽力(意思)で家康の許可を取り付け、また将軍御台所の後ろ盾という大義名分あったればこその初の行動力・行跡だと私は考えています。

督が、徳川に嫁いでから、自分の人生を翻弄した豊臣を恨み、姉と対立したというのはとんでもない誤解であるというのは間違いないでしょう。姉を無視していた、もしくはあきらめていたというのも正しくないと思います。
督ほど立場も身分もある女性が、ここまで記録や消息が残されていないということは、残されていない何らかの理由があるのでしょう。
私は、督は考えられているよりももっと積極的に行動していたと考えていますし、その結果が督に関する史料の少なさだと考えています。

将軍御台所として、新しく一宇を建立する力が十二分にあったはずの督が、あえて茶々姫の建立した養源院を再建した事実はもっと重く見られてもよいと思います。
それは秀忠の妻としてではない彼女自身の権力、影響力が確かにあった証拠であり、失ってなお姉を業績を誰より知り慕っている証拠ではないでしょうか。
(前回の記事で取り上げた高野山の供養塔もそうですね)

『歴史街道』の植松三十里先生の記事は、そういう側面から督のありえただろう活躍を書かれています。未読の方はぜひ!

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高野山 茶々姫逆修碑(伝)、茶々姫・鶴松・秀頼供養塔

 
天岸正男「豊臣秀頼母子慶長二十年石造五輪塔 ――紀伊高野山金石遺記(3)――」(『史迹と美術』三〇七号、昭和三十五年)

ようやく読むことができました。
高野山は一度参拝したことがあるのですが、墓域は本当に広大で、「豊公墓域」にも辿りつけませんでした…
ぜひもう一度伺い、逆修碑や供養塔に手を合わせたいです。

①茶々姫逆修碑・鶴松供養塔

『和歌山県史跡名勝天然記念物調査会報告』第二輯(大正十二年)に、「豊公墓域」内に鶴松の供養塔と茶々姫の逆修碑(伝)があることが報告されています。

鶴松の供養塔には「玉巌麟公神童 天正廿年二月時正 浅野弾正少弼造之」とあり、
茶々姫の逆修碑といわれている石塔には「天正十七年七月三日 御上臈逆修」と書かれてあるそうです。

この両塔は現在も確認できるそうです。

②秀頼・茶々姫供養塔

高野山に秀頼・茶々姫の供養塔が存在することは知らなかったのですが、この論文では主にこの供養塔についての調査報告となっています。
秀頼・茶々姫の供養塔がそれぞれ左右にならんでいるそうですが、現在でも確認できるのでしょうか。

秀頼塔には
     御取次筑波山知足院
   嵩陽寺殿秀山大居士尊儀
     慶長弐十□□年五月七日

茶々姫塔には
     御取次筑波山知足院
   大虞院殿英岩大禅定尼尊(儀)
     慶長弐十□□年五月七日

と陰刻されているそうです。

ところで、この供養塔を建立したのは一体誰なのでしょうか。
そのヒントとなるのが、取次をしたという「筑波山知足院」。この寺院は現在の茨城県にあり、徳川家康の時代から特に家光に盛んに整備されたのだそうです。

まさか家康や秀忠が自ら供養塔の建立を命じたとは思えませんし、何より亡くなった日が「五月八日」でなく「五月七日」となっている辺り、戦場に立ち詳しい報告を受けていた人物とは思えません。

徳川家の中心人物で、茶々姫や秀頼の供養を行えた人物…やはり、私は督(江)ではないかと思うのですがいかがでしょうか。
この供養塔は、論文から「豊公墓域」付近にあることが伺えるのですが、その場所に二人の供養塔を作れた人物は、死ぬまで豊臣家の養女であった督以外にいないように思います。
 

第三話 「信長の秘密」 【大河ドラマ感想】

 
前回に引き続き、天正七年~八年という時代設定でした。江の年は、数えて七~八歳です。

内容は、前回顔をチラ見せした信康と築山殿の事件を中心にストーリーが進んで行きましたが、このあたりはお詳しい方のお話を待ちたいと思います。
今回も私の興味と趣味の範囲で自由に書かせていただきます。

①信長の同母兄弟

まさか江ひとりが安土に行くとは、信長と江が連れだって竹生島を訪れるとは思ってもいなかったので驚きました。
信長の話の中で、兄弟二十二人中、同母の兄弟は信行一人だけ、と語っていましたね。

信長の母である土田御前は、市や三姉妹が身を寄せている信包のもとに身を寄せていたこともあり、信包や市は信長と同母では、と推測される説もあります。

ただ、やはり今回の大河ドラマでは信長と市の関係にはちょっと含みを持たせていますので、同簿兄妹では都合が悪いのかしら…というのはちょっと勘ぐり過ぎでしょうか。

②竹生島の弁天様

茶々姫をたどる汐路にて

ラストの紀行コーナーにも登場した弁天様ですが、「浅井氏」が奉納したとしかナレーションが入っていませんでしたが、奉納したのは第一回にも登場していた江の父方の祖父、浅井久政公です。

茶々姫をたどる汐路にて
(詳しく名前が出なかったのは、そういうキャラに描かれなかったから…?それはさすがに勘ぐりすぎか…)
久政公は母とされる馨庵(寿松/尼子氏)、それぞれが蓮華会の頭役を務め、弁才天を奉納しています。

この弁天様は茶々姫にも関係が深く、特番で何度か紹介された養源院にある厨子の弁才天像は、こちらの弁才天を模したものだとされています。

弁才天堂の反対側には、慶長十年に奉納された弁才天像も祀ってあるのですが、これは奉納した名前が記されていません。残っていないのでしょうか。

茶々姫は秀頼の名前で慶長七~八年に都久夫須麻神社、宝厳寺、弁才天堂を修築しています。
修築後の奉納になりますので、やはり茶々姫が(もしくは秀頼の名前で)行ったものではないかと私は思っているのですが…

③今週の茶々姫

茶々姫ファンとして、一瞬でも移っていれば必ずやりたいこのコーナー(笑)

今回は、一生懸命信長へ手紙を書き続ける江を手助けして、墨を磨ってあげる茶々姫がとっても素敵でした。
三姉妹の中では父の面影を最も強く心に刻んでいるはずですが、それを秘めて妹の心を大切にしている描写がとてもお姉さまらしくて素敵です。
 

[Twitter]康道、道昭

 

完子の三男、松殿道昭(道基)は三十二歳の若さで亡くなっていますが、この前後、父の忠栄(後の幸家)も病床にあったようなので、はやり病だったのかもしれません。もしくは、道昭は幼いころより忠栄に可愛がられていたので、道昭の死がかなり堪えたのかも…。


posted at 13:26:03


二条康道の子、斎宮(貞子内親王)所生の光平しか書いていないところがほとんどだけど、完子の末娘日怡を継いだ瑞龍院三世日通(瑞照院。~寛文十二年七月十七日)は康道の娘だそうです。あと、娘に慈受院比丘尼という人(~寛文十一年六月十五日)がいたそう。斎宮の娘かな…?


posted at 01:44:44

 

茶々姫と善光寺

 
茶々姫をたどる汐路にて
(画像はしなちくにゃんこさまよりお借りしました)

いつもブログでお世話になっているしなちくにゃんこさんが、長野の善光寺に参拝されたということで、ブログに記事をアップされていらっしゃいます。

そちらで、茶々姫(「秀頼公御母堂淀殿」)の手跡を見つけられたとのことで、ぜひうちのブログでもしなちくにゃんこさんの記事を紹介させてくださいとお願いしたところ、快く了承してくださいました。
おまけに、画像を転載してもよいとのお言葉に甘えて、画像をお借りしております。
ありがとうございました。

善光寺と茶々姫の関係は、慶長五(1600)年に秀頼の名前で本堂を修築しております。但し、寛永十九(1642)年に焼失したため現存しません。
豊臣家との関係でいうと、秀吉が慶長三(1598)年に地震で倒壊した京都大仏殿に善光寺如来を遷座させようとしたらしいです。
(奇しくも、k2さんのブログでも督(江)の岐阜出生説に関連して善光寺さんをとりあげていらっしゃいました。)
畿内の寺社を中心に修築している秀頼と茶々姫ですが、この善光寺さんに特別な思い入れがあったのでしょうか。それとも秀吉時代からの事業の継承でしょうか。

それにしても、やはり女人の書は難しい…どこから手を付けていいものやら、くずし字辞典を片手に途方にくれております…
大学生に戻りたい…(´・ω・`)

→*善光寺・淀殿書状|Tour Bus Guide☆しなちくにゃんこのファイトだ英語とダイエット
(リンク先は音楽が流れます。音量にご注意くださいませ)
 

茶々姫たちは小谷落城後伊勢にいたか?

 
(伊勢上野城)
写真素材 PIXTA(c) kash*写真素材 PIXTA


タイムリーな話題…というか、若干で遅れ気味ですが。



(2010/12/24)

 

水を差すようでなんだけど、小谷落城後のお市と三姉妹の居所、上野城→津城で定着していいものだろうか。信包が管理していた清州城という説や、安土城という説もあったと思うのだけど…

posted at 17:00:18

お市と土田御前に縁が深い(実の母子、でなくとも血縁など)のならば、土田御前のいた伊勢というのは確かにある程度説得力がある。私としては清州ってのも捨てがたい思いがある…。信長のもとを離れてずっと清州にいたものか、本能寺の変の直後に清州へ移ったのかわからないけれど…

posted at 17:02:33

なにか一つ、贈答記事でも、母娘が過ごした形跡や史料が出てくれば解決するのになあ。

posted at 17:03:44




まだ私に確固たる見解というものはありませんが…どちらかというと、清州城説寄りかな…?
ツイートしているとおり、市が信包と同母兄弟で、土田御前と実の母子であれば、常に伊勢にいるというのではなくとも、伊勢に滞在したことはあるかも…とは思います。

第2回の放送からしばらく経ちましたが、未だ新史料発見のニュースはありませんね。
まだ北庄に移るまでには間がありそうなので、希望を捨てずに注目していたいと思います。

(伊勢上野城天守台跡)
写真素材 PIXTA
(c) kash*写真素材 PIXTA


まさか素材屋さんに伊勢上野城の素材があるとは…感謝します。
 

植松三十里氏「自分がすべきことは何か… 大坂城と姉の悲劇になす術もない中で」

 
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めのと』よりお世話になっている
植松三十里先生や、一度長浜でお話させていただいた畑裕子先生の記事がありましたので、慌てて購入しました。
(楠戸氏の記事もあります…まだ読んでいません…)

内容は、私にとって、とても素晴らしいものでした。
その感動は、ツイッターで怒涛の如く呟いております。植松先生の記事で引き出された私の督に対する考え、思いなどもありますので、よろしければ。
植松先生によるお江の受け身ではない半生の可能性をぜひ。


めのと』の植松三十里先生、ほかに畑裕子先生の記事などがあります。植松先生の記事は特にぜひ読んでいただきたい。/歴史街道 2011年 02月号 [雑誌] http://t.co/9aNWK9e

posted at 20:55:49

【歴史街道植松先生記事①】千の輿入れについて、これは督が積極的に働きかけたものであるという見方は、私もそうだと思っています。千姫の支度にかかる贈答でも、「江戸御前様」と、督(江)の名前が江戸方の筆頭にあります。

posted at 20:59:28

【歴史街道植松先生記事②】督が大坂城に入れなかったのは家康の意志では、という面もあったかもしれないけれど、やはり臨月近かったのが一番大きな原因でしょう。けれど、督はその後長い間伏見にとどまっていますので、なんとかして茶々姫と連絡を取り合おうと図っていたのでは、とは思います。

posted at 21:01:21

【歴史街道植松先生記事③】督(江)が徳川家に嫁ぐ際、茶々姫が完子を引き取り立派に養育をしてくれている前例から、千への待遇はそれほど案じていなかったのでは、と。督が最も案じていたのは、関ヶ原合戦の後減封され、秀頼の地位に心を痛めて体調を崩しがちだった茶々姫の身ではないでしょうか。

posted at 21:04:50

【歴史街道植松先生記事④】その後も、督は茶々姫と徳川家の架け橋になろうとしていたが、家康の反対で具体的に動くことができなかった、という見解です。私もこれはそう思います。やはり豊臣家は微妙な立場、どのような顛末になっても徳川家に問題が生じないようにするのは当然だと思います。

posted at 21:07:47

【歴史街道植松先生記事⑤】お寧さんに関して、植松先生は「けっして心安い仲ではない」と不仲をにおわせていますが、これに関しての私の考えは従来通り。二条城会見の際も、今度は徳川家の依頼ではなくお寧さん自身の意志で大坂城に赴き、茶々姫はその言葉も受け入れています。

posted at 21:09:45

【歴史街道植松先生記事⑥】お寧さんの存在は秀頼にとってなくてはならないものだという意識があったからこそ、秀頼にお寧さんを敬い続けるよう教育したし、お寧さんも大坂の陣のときに駆けつけようとしてくれたはず。でも、茶々姫を本気で説得するならお寧さんより督をつかうほうがたしかに確実ですね。

posted at 21:11:31

【歴史街道植松先生記事⑦】大坂の陣でも、初が大坂方の使者にたっていますが、これは家康の命を受けて、ということになっています。けれど、私はこれも督(江)の意志が働いているのでは、と考えています。

posted at 21:13:48

【歴史街道植松先生記事⑧】茶々姫の身や督の心を慮った初が自身の意志で使者を申し出、督の強い後ろ盾で自由に行動できた。その後ろ盾の一つに、初の行動に家康の了承を取り付けるというものではなかったのかと考えています。以前も書きましたが、出家の身ゆえに俗世と関係なく動けるというだけでは…

posted at 21:16:01

【歴史街道植松先生記事⑨】同じく出家の身であった芳春院が前田家の人質に立ち、お寧も出家後なお政治的影響力があり、徳川家に警戒されていた。出家したからといって、京極家に影響がないとは言い切れないはず。となるとやはり初には強い後ろ盾があったはず。それが、御台所督ではないかと。

posted at 21:18:56

【歴史街道植松先生記事⑩】やっぱり、督が茶々姫との仲違いゆえに大坂の陣を冷淡に見つめていたというのは不自然だと思います。それならそう記録に残したほうが徳川には都合がいいはずですし。督にそんな気がなかったけれど何らかの事情で動けなかったから、何一つ記録に残っていないのでしょう。

posted at 21:21:43

【歴史街道植松先生記事⑪】督が徳川の人間としての意識しかもっていないのだとしたら、それこそ徳川家が豊臣家の支配に督を利用しない理由がない。動かれたら困るということは、その動きは豊臣に、茶々姫に利するものだったのでは。

posted at 21:23:18

【歴史街道植松先生記事⑫】長々と書いてきましたが、なかなか語れないそういった考えを刺激してくださる素敵な記事でした。やはり、いつか植松先生には茶々姫の小説を書いていただきたい!というわけぜひ。/歴史街道 2011年 02月号 [雑誌] http://t.co/9aNWK9e

posted at 21:25:28

 

第二話 「父の仇」 【大河ドラマ感想】

 
今回は特に語るべきポイントもなく、全体的にしっくりこなくてツッコミどころだらけだったのでさらっといきます。

なにがしっくりこなかったかというと、やはり年齢のせいでしょう。
今回は天正七(1579)年の設定ですので、茶々姫は数えで11歳、初は10歳、督(江)は7歳です。
(ややこしいんで、ドラマの督は「江」としますね。)
分かりやすく言えば、前回茶々姫の幼少時代を演じた芦田愛菜ちゃんは2004年生まれなので、今年で数え8歳になります。

だから、今回はまあ、今後ドラマを続けていくに当たっての制作者さん側の設定をドラマにして語られたというところでしょうか。
無粋ではありますが、いくつかどうしても飲み込みきれないツッコミ及び感想を。

①小谷落城後の三姉妹の居所
大河ドラマでは、小和田哲男先生の説を採用して身柄を預かったとされる織田信包の治める伊勢上野城から安濃津城へうつるという設定になっているようです。ですが、これについては残念ながらなんの史料も残っておらず、確固たる史実とは言えません。
他にも信包の管轄下にあったという清州城や、信長のいた安土城下など、諸説ありそのどれもが確定する、否定するに足る確固たる論拠が無いのが現実です。
伊勢上野については当時戦乱が激しかったため、市と三姉妹が移されたのはここではないのでは…という指摘もあります。

②信長の行動
正直、信長の行動が訳分からなさすぎました。江に槍を突き付けているのも、槍をぶん投げたのも、江や市の会話を踏まえたうえでも今一つ感情移入できなくて…。下に誰かいたらどうすんだ、なんて冷静なツッコミがぐるぐる頭を駆け巡りましたw

③織田信包
信包がちょろっとだけ出ていましたね。小林隆さんを見ると、どうしても『新選組!』の源さんを思い出して懐かしい気持ちになります(笑)

「そちが武将に生まれれば…」
最近の大河の女主人公の定番設定です。実際にこう言われたエピソードが残っている女性もいるかもしれませんが、督に関してはそういうのは残念ながら見たことありません。いつも思うのですが、男勝りだから優れているのではなくて、女性は女性らしくあっても、魅力的であるはずなのに、どうして男勝りでなければいけないんだろう…と…。無粋ですね。無粋ですけれど、どうしても大河はそこが納得できなくて。

「あの姫は織田さまに似ておられる」
これも定番です。茶々姫が主人公であっても、たいていこの設定が付いて回ります。確かに三傑のひとり織田信長のキャラクターは強いインパクトになりますが…。信長に似ていようがいまいが、督がああして生き抜いたそのままで充分魅力的です。

「戦で死ぬのに立派も名誉もございませぬ」 ~今週の茶々姫 其の壱
“物静かな中に時々激しさを秘める”という設定である茶々姫のセリフです。これはツッコミではないのですが、ご存知の通り茶々姫は戦の末に自害するという最期を迎えます。この設定がそういった最期にどのように生かされてくるのか、それを楽しみに思いました。

⑦今週の茶々姫 其の弐
数え11歳設定の茶々姫、年不相応な落ち着きぶりでとても初とひとつ違いとは思えませんでしたが、そこはとりあえず茶々姫が魅力的で美しかったので問題ありません(笑)

⑧江…さま…?
乳母が江のことを「江さま!」と読んでいましたが、そこはさすがに「お江さま!」のほうがいい気が。細かいことですが…

最後に。
「見るべき何かがあるとすれば、それは浅井長政の娘故でしょう」
今回で一番嬉しかったセリフです(笑)お市さん、よくぞ言ってくださった。
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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