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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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第一話 「湖国の姫」 【大河ドラマ感想】

 
各方面から感想をお待ちいただき、恐縮です。
見ている最中に姉妹大喧嘩が勃発したりしまして(笑)、なんやかんやと今日になりました。申し訳ございません。

茶々姫が好きなんじゃないの?と訊かれると、それはそうなんですけれど、とあいまいな答えをするしかないというか、やはり歴史ドラマ・小説の類をひも解くのはどうも億劫という気持ちはぬぐいきれません。
とはいえ、観はじめるとのめり込むタイプですので、こんなぐだぐだ言っているのは始めだけでしょうね(苦笑)

感想ですが、文句ばかりもアレですので、できるだけ楽しんで観ていきたいなーと思っています。
ドラマを楽しみつつ、ぶつぶつ文句言いつつ(笑)、適当に目を通していただければ幸いです。

というわけで、前置きが長くなりました。



①浅井久政

最近湖北ではこの御方の見直しが進んできていますが、さすがに大河ドラマではステレオタイプでした。そこは残念。しかし最期はかっこよかったです。潔かったですね!
織田との同盟を反対していたことについて批判されていますが、後年長政は信長のやり方に疑問を持ち道を違えますので、その意味では先見性があった方なのではないかというのが私の評価です。
小谷城が長く籠城できたのも、そもそも戦に備えて水利を整えた久政のおかげです。
余談ですが、この方の肖像画(寿像)は男前で素敵です(笑)

②浅井長政

イケメンでしたねー!
私は茶々姫ファンでもありますが、浅井ファンでもありますので素敵な長政は大歓迎です。
最初時任三郎さんがキャストだと知ったときは、ただそのカッコよさにしか目がいかなかったのですが、長政を演じられているときには、不思議なことに、肖像画になんとなく似ているような、そんな印象を受けました。
長政公の肖像画といえば、現代では丸顔だとか太り肉とか言われたり、あまり男前扱いではありません。(この評価もどうかと思っていますが…)
今回の時任さんは間違いなく男前でいらっしゃったのに、なぜかあの肖像画と似通って見えてしかたありませんでした。
これは私の印象ですので、私の目が悪いだけだったら(もしくは何らかのフィルターがかかっていたら)、ゴメンナサイ(苦笑)
最後の、泣く娘を見て泣き笑いのような複雑な表情、すごくグッときました。
時任さん、長政公を演じてくださってありがとうございました。しばらく時任さんのイメージは長政公になりそうです。

③輿入れ時期、女佐の臣、乳母

いろいろなところで指摘されていますが、今回は時代考証の小和田哲男先生の持論永禄十一年輿入れの設定でした。資料提供としてお名前がテロップに流れた長浜城歴史博物館の太田浩司先生は、もっと早くの輿入れという説を唱えていらっしゃいます。
結局、「長政」の「長」の字が信長の片諱かどうかというところだと思うのですが…『浅井三代記』には市が信長の娘分として嫁いだとされているとのことですが、それが織田方の史料にも記載があれば…

で、輿入れの様子が、市と乳母だけで浅井に引き渡されていましたが、実際は女佐の臣(輿入れにつき従う家臣)がもっといたはずです。実家はその威信をかけて、嫁ぐ娘に「女佐の臣」を付け送りこみます。名前が残っているところでは、「藤掛三河守」(k2さんはこの方の父永継のことではないかと論考されています)の名前が通っていますね。
市の乳母については残念ながら名前が残っていません。幼いころからの乳母がいたのか(長女=総領娘ならばいると見てほぼ問題ないのですが…)、それとも嫁ぐに当たって信長につけられた乳母役だがいたのかもわかりません。私は、前述の藤掛氏の妻や親類に織田家から市に従った侍女がいるのではないかと思っているのですが…何せ、記述が残っていないのでなんとも言えないのが現状です。

④万福丸、阿古

小谷落城の後、刑死させられる浅井家一族の筆頭が、茶々姫らの兄にあたる万福丸です。

早期の市輿入れ説を唱えていらっしゃる方は、万福丸は市の所生に違いないためという点も論拠の一つにされていますが、実際は史実とは違うといえども平井定竹女(長政のはじめの妻)など、市ではない女性を生母にする史料もあります。妾の存在が確認されないため、万福丸が市の所生ではないとされますが、督と同時代に万菊丸が生まれており、後に周防守と名乗る喜八郎がやはり実子ではないかと私は考えていますので、万福丸が市でない女性の所生である可能性は充分にあるでしょう。万菊丸の存在を否定する説もありますが、福田寺や菅浦安相寺の件を考えると、万菊丸をいなかったものとして考えるほうが不自然に思います。また、茶々姫の姉にあたると思われる「くす」(後に京極龍の侍女として活躍する女性です)は、自身の両親の名前として「浅井太守 天窓芳清大居士」、「本念宗心大姉」と位牌に残していますが、この女性が市であったとは考えられません。

そもそも、市が輿入れするのが永禄十一年とすると、長政の年齢は数えで二十四歳。もちろん初婚ではありませんが、先妻平井定竹女と結婚・離縁したのが永禄二年(長政は数えで十五歳。初婚としては自然な年齢です)なので、その間側に置く女性がなかったと考えるのも不自然な話です。もちろん、これが太田先生や宮島敬一氏の説、永禄六年以前の婚姻だとすると、その前提は覆ります。

私の見解は…正直、まだなんとも断じかねています。後に茶々姫は万福丸の供養をしていますので、同腹かしら…?とも思います。しかし、両説を見ていると私は永禄十一年説のほうがしっくりくるかな…?という程度で、確固たる見解がまだありません。
(小和田哲男先生の説はそれまで裏打ちする史料がなかったのですが、『戦国三姉妹物語』の新版『戦国三姉妹 茶々・初・江の数奇な生涯 (角川選書)』で、『総見記』で市の輿入れが永禄十一年四月とあるのを発見されたと紹介されていました。)

万福丸は小谷落城後捕らえられ、関ヶ原で磔の後殺されたといいます。市は(実子であろうがそうでなかろうが)これを恨み、秀吉への恨みを深めたといいます。

また、姑である久政夫人阿古も捕らえられ、毎日指を切り落とされて死ぬという惨い殺され方をしました。この殺され方は、単に惨いというだけでなく、信長の阿古に対する怒りが見えますので、彼女は浅井家の中で発言力、影響力のある女性だったことが偲ばれます。

浅井家と織田家との合戦をもって、女性の命は助けられるのがしきたりだったとも言われますが、阿古を見るとそうだったのだろうか、と疑問を覚えます(阿古の実父は阿古の幼いころに亡く、兄は長政と最期を共にしています)。市も織田家の女性でなければ、阿古と同じ運命を辿っていたでしょう。

⑤小豆袋

『朝倉公記』という史料にあるエピソードですね。私は、これについては史実ではない派です。
なんで織田家でも浅井家でもなく朝倉家の史料に残っているんだという疑問はとりあえず置いておいて…

この説は市が浅井家の中でたった一人織田家縁の人間であることを前提に作られた話のように思います。
実際はというと、よく言われる話ですが、長政が信長と手切れした後、市は織田家に帰るのが当時としては当然のなりゆきだったのですが、それをしませんでした。それどころか、落城の年に督(江)が生まれているのは大河ドラマの示す通りです。

意地の悪い見解では、長政が美貌の市を手放すのが惜しく、閉じ込めていたのだなんて言いますが、これもまた、織田家から従ってきた市の侍女や家臣の存在を無視した、そして当時の女性の地位を軽視した見解です。
市が帰ると言えば周りの者が段取りを付けて帰ったでしょうし、長政が絶対に織田に返すと言えば周りの者はそれを止めなかったでしょう。長政と市双方の同意で、市は浅井家に残っていたものと考えます。

浅井家に残った以上、市はそれなりの覚悟を以てその決断をしたでしょうから、私は小豆袋の話はどうにも腑に落ちないのです。小豆袋なんて分かりにくい手段を使わずとも、周りの者のパイプがあったと思いますし。
市が、最後の義理だとばかりに送ったとしても、周囲が信長に報じたとしても(ただし、長政の翻意を周囲が知っていたかどうか…)、もっと違った方法ではないでしょうか。

⑥督(江)の出生時期と小谷落城

小谷山頂から虎御前山まで轟く大音声で出征した督(江)ですが…
ドラマの描き方だと、朝倉義景が亡くなった後の誕生ということでしょうか。本当にギリギリの誕生という設定ですね。
とすると、落城の時には本当に生後間もなくなので、笑ったことに私は何よりびっくりしました。そこはもうちょっと不自然さを感じない演出だったら嬉しかったかも。

一度浅井家に残ることに同意した長政と市なのに、結局最後には娘たちともども市を逃がしていることの整合性についてあまり語られることはないように思います。
長政は、浅井家の菩提を弔うこと、そして娘たちを頼むと市に言い残したとされますが、やはりこの時督はまだ市のお腹の中にいたと考えたほうが自然に思えます。その点からも私は督の岐阜出生説を支持しています。
身ごもっていた市だからこそ長政は娘たちと共に逃がし、市もまた最後には納得して小谷城を出たように思えるのです。
八月の末の脱出だとすると、市はまだ臨月ではなかったでしょう。となると、督は冬の生まれではないでしょうか。
ドラマの設定通り落城寸前の誕生だとすると、市は出産直後ですから、その状態で城を落ちたことも不自然に思えます。

小谷では生まれないけれど、故郷が小谷であったことは忘れないでほしい…そんな願いを込めて、長政が「姫ならば近江の『江』の字を名付けてほしい」と遺言する設定のほうがドラマティックなように思うのですが…それは余計なお世話か(笑)

⑦桐の家紋

ところで、秀吉が桐の紋を使い始めたのっていつ頃なんでしょうか…今回早速桐の紋でしたが、あれって確かかなり特別な紋ではなかったでしたっけ…。すみません、家紋はさっぱりで。



…長くなるまいと思っていたのですが、やっぱり長くなりましたねえ(苦笑)
思いつくまま書き連ねたので、練られていない文章で読みにくく申し訳ないです。
次からは短くするかもしれません。しないかもしれません。気負わず適当に楽しんでいきたいと思います。

今回は、茶々姫の涙の訴えと、長政さんの別れの表情で涙をこらえきれませんでした。
なんだかんだいいながら、思い入れのある人たちのシーンはグッときます。
あまり評判のよろしくない『茶々-天涯の貴妃(おんな)-』でも、北庄から茶々姫が妹を守りながら脱出するシーンや、最期のシーンは涙を禁じ得ません。
これから大河で何度も泣くんだろうなあ…と思うと、しんどいような、そうでないような(笑)
次の泣き所は北庄落城かな。
 

督(江)の「乳母」について考える

 

(2010/12/18)

 

大河のドラマストーリーが届きました。信包おじさん優しそうだ…。あと三姉妹それぞれに乳母的な女性が付けられている設定なのですね。大蔵卿局は「サキ」さんという設定のようです。

posted at 15:35:23

実際のところはどうなんでしょうね。総領娘にはしっかり乳母を整えて、次女以下は乳母を兼ねることもあったというけれど…。おごうについては大蔵卿局的立場で登場する「京殿」が乳母か…?と思ったこともあるけれど…

posted at 15:36:49

乳母と言っても、生まれてすぐからに主人仕えている人と、秀吉の妹朝日姫にとっての「御茶々」(もとは四条家に仕える)のように、婚礼など出自を整える時に乳母役として仕える人がいるようです。茶々姫で言うと佐脇良之の妻「大局」は茶々姫が秀吉の保護下に入った時につけられた乳母役です。

posted at 15:39:11

そういう意味では「京殿」もそのような経歴の女性かもしれない。徳川に嫁ぐ際に朝日姫と同様に養父の秀吉に乳母役として付けられたか…。

posted at 15:42:46

福田先生の『江の生涯』ではお督(江)の侍女についても何名か挙げられていますが、本で言うとおり京殿が浅井家ゆかりの女性ならば、生まれた時からの乳母かもしれない…けど、岐阜生まれならば浅井所縁の女性であるとすれば生まれた時というよりもやはり嫁ぐときに茶々姫が世話をしたかも…ううむ。

posted at 15:43:54



↑の論理で行くと、初や督も大蔵卿局が養育にかかわっていたかもしれません。

千の輿入れで督は大坂城に入れなかった公算が高いけど、大蔵卿局が伏見まで出向いて督を迎えています。
この再会は軽視されているけれど、私たちが思うよりドラマチックだったのかも。
 

大谷吉継の母東殿と妹小屋(1/14追記あり)

 

今回は茶々姫からちょっと離れて大谷吉継の母と妹について。

『時慶記』、『兼見卿記』で見つけた記事からいろいろ勉強させていただきましたのでまとめておきます。



(2010/12/13-14)

 

文禄・慶長年間の兼見卿記が届いたので見ていました。「東殿御祓、同子息形部少輔…」これが東殿が大谷吉継の母であるという説の根拠なのかな?後に妹さん(「ひかし殿息女廿五歳」)も出てきます。文禄四年時点で倉の責任者だったようですが、盗みに入られて責任問題になったようです。

posted at 23:16:39

兼見卿記で見つけた大谷吉継の妹、普通に『時慶記』に登場していました。名前は「こや」さんというそうです。大坂城で倉の管理をしていた人ですが、関ヶ原合戦の後、母東殿とともに捕らわれの身となったらしい…

posted at 23:53:52

(リプライにて『華頂要略』に「大谷刑部少輔妹コヤ」、太宰府天満宮に寄進された鶴亀文懸鏡の銘に「願主同 東・小石・徳・小屋」と出てくる旨教えていただく。)

@ そうなんですか!また『華頂要略』をチェックします。ありがとうございます。『時慶記』ではひらがなで「こや」でした。「小屋」と記すのですね。母・息子・娘そろって豊臣家に仕えていたんですね。

posted at 00:26:25

@ これを拝見すると、小石、徳も大谷家の娘さんのように見えますね。こちらこそ勉強になります。

posted at 00:37:44

@ わざわざありがとうございます^^東殿の娘としてではなく大谷吉継の妹として書かれているんですね。

posted at 14:03:11

(2011/01/14 追記)

『幸家公記』にも小屋(「こや」)さんが出てきました。東殿の娘で、秀吉に仕えていたということが書いてあり、元和九年には秀勝の生母日秀(「瑞竜寺殿」)のもとに身を寄せ、ここで忠栄と初対面していました。

posted at 10:41:42


はじめ、『時慶記』に「東殿コヤ」と続けて記されていたため、東殿の名前が「こや」なのかな…?と勘違いしていた時期がありました(汗)
 

養源院 特別公開~戦国武将と女性たちゆかりの寺宝展

 

茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫が父長政のために建立した養源院で、特別公開が催されるそうです。


普段は血天井や浅井一族の位牌、茶々姫の持仏などは見ることが出来るのですが、境内にある市・督(江)供養塔などを見ることは出来ません。

私もまだ拝見したことがないので、この機会にぜひ伺いたいと思っています。


日時: 2011/01/08(土)~03/21(月・祝)

料金: 大人600円、小学生300円

URL: http://www.digistyle-kyoto.com/event/tokubetsuhaikan/post_705.html

 

茶々姫の寺社修築事業

 

茶々姫をたどる汐路にて

(北野天満宮/茶々姫が秀頼の名前で修築した代表的な寺社の一つ)


(2010/12/12)

茶々姫・秀頼の名前で修築した寺社をまとめています。膨大な数だ…。中には秀吉の遺命で、というものもあり、面白いです。しかし、これだけ神仏に貢献しているのに残されている評判が芳しくないのは…なんだか、虚しさを禁じ得ません。

posted at 02:44:59

豊臣家の金銭について。慶長末期になって前田利常に借財を頼む書状をもって寺社造営で豊臣家の蔵が底を尽きた説、落城後も相当のお金が残っていて東福門院の入内や宮中での支度金などなったという説、さてどちらか…

posted at 05:45:24

個人的に、借財を頼んだ書状っていうのは利常(利光)の豊臣家に対する態度を試していたようにも思う…。お金がないからではなく、相手の忠誠を試している天下普請のように。

posted at 05:48:55

@ そうなんですよねえ。秀吉が貯め込んだ金銭を文化の保存に運用したと思えば、業績の一つとして語られてもいいはずなんですが…。とかく茶々姫関係の業績には偏ったフィルターが掛けられやすいように思います。

posted at 05:51:01

アドバイスをいただいて木村展子氏の論文を読み返していると、寺社造営の件で先日つぶやいたのと同じような見解(秀吉の遺命など)を発見。やはりそうか…

posted at 22:45:12

「従来は徳川氏による政略とみなされてきたが、それだけではなく、秀吉の遺業の継承、淀殿の敬神崇仏、豊臣氏の領国経営の一環「という側面が強いと考えられる。」(木村展子氏)

posted at 22:46:59

 

すうげんいん?そうげんいん?~祐天寺崇源院御玉屋にみる~

 

『江の生涯』 で、福田先生が督(江)の法名「崇源院」について、現在一般的にもちいられている「すうげんいん」ではなく「そうげんいん」が同時代的には正しかったという説を展開されました。


その時は、春日局が記したといわれている(異説あり)「東照大権現祝詞」に「そうげんいんさま」と記載されていること、また『寛永諸系図伝』仮名本にて「崇源院殿」を「そうげんゐんでん」と読み仮名がつけられていることを根拠とされていました。


さて、先日祐天寺にて督の宮殿が発見されたことがニュースになりました。(下記参照)

1/3の展示説明会で、太田先生がこの宮殿を遣って「そうげんいん」説を補強されていましたので、ニュースのチェックがてらご紹介を。

この宮殿は修理に際し、屋根組から墨書が見つかったのですが、その墨書には「寛永五年/辰九月十五日建立/宗源院様御玉屋」と書かれていたそうです。

また、これを作らせた忠長の書状も残っており、忠長が督の三回忌に合わせて御玉屋を作っていたことは間違いなく、また墨書に書かれた建立日は紛れもなく督の三回忌であり、「宗源院様」がすなわち間違いなく督のことであることが分かります。

「宗」は「しゅう」もしくは「そう」と読みます。「すう」とは読みません。つまり、「宗源院」は「そうげんいん」と読むことがこの御玉屋からも裏付けられるということです。


江の位牌納めた宮殿を確認 東京・祐天寺が所蔵


 来年1月放送開始のNHK大河ドラマ「江(ごう)~姫たちの戦国~」の主人公、江の位牌を納めていたとみられる「宮殿(くうでん)」が、東京都目黒区の祐天寺に所蔵されていたことが27日分かった。

 江戸東京博物館(東京都墨田区)で来年1月2日から開かれる「江」展で公開される。江の関連資料は希少で、話題を集めそうだ。

 宮殿とは、仏像や位牌を安置する厨子の一種。江の宮殿は、高さ2メートル38センチ、幅2メートル10センチ、奥行き1メートル35センチ。徳川家康のものとされてきたが、修復の過程で屋根組みから墨書が見つかり、その日付から、1628年に崇源院(江に死後贈られた名)のために作られたことが判明。内外全面にハスの花などの装飾が施されている。


出典:47NEWS

江 姫たちの戦国:江戸博物館で大河ドラマ特別展 初公開「崇源院宮殿」など


 11年のNHK大河ドラマ「江 姫たちの戦国」のヒロインで、女優の上野樹里さんが演じる“浅井三姉妹”の三女・江の生涯を紹介する特別展「2011年NHK大河ドラマ特別展 江 姫たちの戦国」が1月2日~2月20日、「江戸東京博物館」(東京都墨田区)で開催される。開幕を前に27日、内覧会が開かれ、初公開となる崇源院(江)の厨子「崇源院宮殿(すうげんいん・くうでん)」など貴重な資料が紹介された。

 「江 姫たちの戦国」は、織田信長の妹・お市と近江の戦国武将・浅井長政との間に生まれた“浅井3姉妹”の三女・江(上野さん)が波乱万丈の戦国時代をしなやかに生き抜き、江戸時代の幕開けを見届ける様を描く。連続テレビ小説「さくら」(02年)、大河ドラマ「篤姫」(08年)などの脚本家・田渕久美子さんがオリジナル脚本を手がける。

 同展では、江と長女・茶々、次女・初の人生を軸に、江が将軍の正室として増上寺の墓地に葬られるまでの生涯、その子孫を紹介。プロローグでは江の年表と2点しか現存しない直筆消息が展示され、本編は母・市と3姉妹の子供時代を振り返る「江の父母と伯父」、茶々が嫁いだ豊臣家の人物模様を中心に茶々の生涯を紹介する「江の姉・茶々が嫁いだ豊臣家」、3姉妹の次女・初の温和で柔和な性格を自筆消息などから見る「江の姉・初と京極家」、江の多彩な人脈を通してその生涯を追う「江が嫁いだ徳川家」の4部で構成される。

 また、エピローグでは、08年に祐天寺(東京都目黒区)の修復時に屋根組みから発見された墨書により、崇源院(江)の宮殿であると確認された厨子「崇源院宮殿」を展示。高さ2.38メートル、幅2.1メートル、奥行き1.35メートルで、飛天と蓮(はす)が内装に描かれ、外装には蓮華(れんげ)の文様や逆蓮(ぎゃくれん)の彫刻が施されている。それまでは徳川家康の宮殿と伝えられていた。

 場内では、音声解説を江の母・市を演じる女優の鈴木保奈美さんが担当。音声ガイドは、鈴木さん演じる市が3人の娘たちの人生や周辺の人々を紹介するという趣向で、「本日はようこそお越しくださいました」というあいさつからはじまり、母親目線での優しい語り口で行われる。

 開場は午前9時半~午後5時半(土曜は午後7時半まで、1月3日、10日、17日を除く月曜休)。入場料は一般1300円、大学・専門学生1040円、高校生・65歳以上650円。中学生以下無料。(毎日新聞デジタル)

出典:毎日jp

お江の位牌納めた「宮殿」、東京・祐天寺で確認


 江戸幕府の2代将軍徳川秀忠に嫁いだお江(ごう)(崇源院(すうげんいん))の三男忠長(ただなが)が、母の三回忌の際に造った位牌(いはい)などを納める「宮殿(くうでん)」(霊廟(れいびょう)の一部)が、東京都目黒区の祐天寺で確認された。

 江戸東京博物館(墨田区)で来月2日から始まる特別展「江~姫たちの戦国~」で展示される。

 祐天寺に「徳川家宮殿」と伝わるこの宮殿(高さ2メートル38)を、同寺が2008年から修復調査したところ、お江の三回忌を示す「寛永五年(1628年)……建立 宗源院様御玉家(おたまや)」との墨書きが発見された。

 忠長が徳川家の菩提(ぼだい)寺である増上寺(東京都港区)に宛てて書いた手紙(寛永5年9月)に、「(幕府に無断で)駿府に母親の霊廟を造るよう命じたので、(増上寺での)三回忌の法会に参会できなくなった」とあることから、駿府城(静岡市)にいた忠長が造り、後に祐天寺に移されたものであることが分かった。(2010年12月27日17時23分 読売新聞)


出典:YOMIURI ONLINE

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関連記事:

→*江にまつわる品の発見/かとりぶたを側に置き(あまのかるもさん)

 

家光・東福門院和子と督(江)の母子関係

 

追記追記ばかりでキリがないので、新しく記事にしたいと思います。


1/3に長浜城の展示説明会に行ってきたのですが、そこで『江の生涯』が大きく取り上げられました。

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大量に出版されている大河関連本の中で、唯一の督(江)研究本として太田先生に大いにPUSHされておりました。

だけれど、すべての論点に首肯することは出来ない、と。


わかります。私もそんな感じです。

めちゃめちゃすごい本だと思っているけれど、腑に落ちないところも結構ある。荒削り、というのでしょうか。

それもそのはず、督で研究本を出された人が他にいないのですから、さらに論が磨かれるのはこれからですよね。


というわけで、太田先生も何個か福田先生の説に異論を発表されていました。私の感想・意見も。


≫家光と督の母子関係

①神宮徴古館蔵 茶々姫消息(慶光院宛)

福田先生も家光の項で取り上げられていたのですが、茶々姫の慶光院宛音信。

福田先生は、もし家光が督の実子であれば、家光のことだけでなく、督も無事ですという旨を書いていなければ不自然だと家光が庶出子である論拠にしておられました。


太田先生は逆に、家光が督の子どもでなければ、茶々姫は話題にしなかっただろう、と。

誕生日も福田説の1月ではなく、やはり7月17日が正しいのではないかとおっしゃられていました。7月17日に誕生し、それを知らせる飛脚が江戸から大坂へ飛び、茶々姫が7月26日に慶光院へ最新情報を伝える、というのがとても自然な流れではないかと。

なるほど、確かに大事な妹である督に関わることでなければ、茶々姫がそれを慶光院に喜び報告するのは不自然ですね。


そしてこの件から分かることは、茶々姫と督は決して音信不通になっていなかったということ。

茶々姫も督も、自筆の消息はほとんど残っていませんが、お互いの近況を伝えあったいたことが偲ばれます。


②東京神田東福寺薬師堂(『麻布本村東福寺薬師縁起』)

そして、家光の誕生に際して督が東福寺薬師堂を造営した件も紹介されました。

督が家光を懐胎中に「無事生まれたならば薬師堂(本堂)を作るように」という霊夢を見、実際無事に生まれたために薬師堂を造営したという一件です。


またその直後、生まれたばかりの家光の名前で慶長十年四月、同東福寺へ十二神将が寄進されていますが、これも家光の名前で督が用意したのだろうということでした。

茶々姫が幼い秀頼の名前で寺社を修築していることを彷彿させますね。実際督は姉に倣ったのかもしれません。


≫和子と督の母子関係

③栄昌院蔵 江消息(常高院宛)

これは別件で取り上げられていたのですが、内容が関連するかなと思ったので。

常高院こと初が和子へ使者・小少将を遣わせ、それに対して和子が機嫌よく親切に対応し、初に小袖を送ったという旨がこの消息に書かれています。

前回の記事で、和子が初の体調不良に見舞いの使者を送ったことを取り上げましたが、京極家の後家である初がわざわざ和子へ使者を遣わし、また初の不調に対しわざわざ和子が使者を遣わして見舞うというのは、やはり初と和子との伯母姪関係があったからでしょう。


そして、この手紙ではかなり頻繁に督と初が手紙をやり取りしていたことが分かります。

きっと、茶々姫と督は本人同士でも音信を送りあっていたのでしょうけれど、時には初を挟んでお互いの近況を伝えてもらっていたのかもしれません。


督は大坂の陣で茶々姫のために何もしていないといわれていますが(正しくは動きが分かるものが何も残っていない、ですが…)、私は初が大坂城に駆け付けたのは、本人の意思はもちろん、督の意思も大きかったのではないかと思っています。

俗世を離れた法体であったから、京極家の存亡に関わらず大坂方の使者を務められたといわれますが、御台所督の意向を受けた使者であったからという面もあったのではないでしょうか。

 

養源院の肖像画

 


茶々姫をたどる汐路にて

(冠雪の長浜城)


本日、長浜城歴史博物館の研修室で行われた展示説明会「崇源院(江)の生涯と肖像画について」に行ってまいりました。


大河に関連してたくさんの関連書籍が出版されており、そのどれもに養源院の肖像画が督のものとして使われています。ここでは何度か書いているのですが、あの肖像画の像主が間違いなく督かどうかは実ははっきりとわかっていません。


徳川秀忠室[浅井氏]画像(伝):模写


肖像画の表具に墨書が貼ってあり、そこに「崇源院殿像歟未詳」、つまり「督の像かもしれないけれどようわからん」と書いてあり、それがこの像が督のものであるという根拠になっています。

同じく墨書が書かれた日にちと書名も添付してあり、そこには「寛政十一己未八月 僧正亮天修補之」と書かれてあります。

これについては、「江戸時代に督のものであるという説がすでにあった」という解釈をされている場合もありますが、逆に言うとすでに寛政十一(1799)年にはこの肖像画が督のものかよくわからなくなっていたということでもあります。


この像主は法体で描かれていますが、普通当時の女性の肖像画は、夫に先立たれていた方は出家した姿が多く、それ以外は俗体で描かれることが多いそうです。

督はご存じの通り、夫秀忠よりも早くに亡くなっています。

供養像としてつくられたのだから、法体でもおかしくないという見解もあるそうですが、実際三の丸殿(豊臣秀吉のち二条昭実室)やお犬の方などは供養像として制作されていても、やはり俗体で描かれています。

実は、養源院には督のものと同年同月、同じ亮天僧正に書かれた墨書のある肖像画がもう一幅あります。

それが、「伝淀殿像」とは別にもう一幅あるとされる茶々姫の肖像画です。


淀君[浅井氏]画像(伝):模写


この肖像画の墨書には、「浅井長政卿室之像歟未詳 寛政十一未年八月 僧正亮天修補之」と書かれてあります。先ほどと同じように解釈すれば、「市の像かもしれないけどようわからん」と書いてあるのです。


どうして前者がこの墨書で督のものであると理解されているのに、後者が市でなく茶々姫のものとされているのか、私にはどうしてもしっくりこないのです。

今日長浜城歴史博物館の太田先生にお伺いしたのですが、後者はお寺で茶々姫のものであると伝わってきたから市ではなく茶々姫のものとされているのでは、とのことでした。

しかし、督の肖像画も、一時は市のものとして長政の肖像画と並んで掛けられていた時期もあったのだとか。


なんで前者だけ墨書を信頼して、後者は墨書を無視してしまうのかどうしてもしっくりこないんです…


ちなみに、後者は俗体で描かれています。

持明院蔵の市の肖像画も俗体ですので、市としても違和感はありません。

茶々姫の像であれば、夫秀吉に先立たれていますので法体であるべきなのかというと、太田先生によると、茶々姫は秀頼養育のために出家が許されなかったのではないかとおっしゃっていました。

茶々姫は側室だったから俗体で描かれたのではないかという意見もありましたが、それは龍(松の丸殿)の肖像画が法体で描かれていますので、適当ではないでしょう。


何にしろ、謎と疑問の多い肖像画であることには間違いないのです…




(1/5 追記)


k2さんのブログですでに同じテーマで記事がありました。

いつものことながら、本文、コメント欄ともにとても勉強になります。


崇源院画像/泰巖宗安記(k2さん)

 

東福門院和子と督(江)の母子関係(追記しました)

 

茶々姫をたどる汐路にて

(養源院。ここには茶々姫・督・和子の三人みなに縁のあります)


年末に書いた東福門院と督に関する記事、いろいろと追記をしております。

また、リンクを張らせていただいるあまのかるもさんも該当事項についてさらに詳しい記事を上げられましたので、そちらへも記事からリンクを張らせていただきました。


よろしければご確認ください。


→*東福門院和子と督(江)の母子関係 ~「浅井家」との関わりに見る(『江の生涯』感想②)(2010/12/23)

 

新年のご挨拶2011

 

茶々姫をたどる汐路にて

↑*今年の年賀状はこんな感じです♪)


明けましておめでとうございます門松

昨年は、mixiやブログを通じて、貴重なご縁をたくさんいただき、本当にありがとうございました三つ指ごあいさつ

本年もマイペースではありますが、大河ドラマにあおられつつ、より茶々姫の素顔に近づけるよう頑張ります!

何かと至らぬところがあるやもしれませんが、本年もどうぞ変わらぬお付き合い、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします!
よいお年をお迎えください。


平成二十三卯年 元旦

紀伊/赤石いとこ

プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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