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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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小和田哲男『戦国三姉妹 茶々・初・江の数奇な生涯』

 
今回は、小和田哲男先生の『戦国三姉妹』の感想です。
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基本的に、私が良書に挙げている『戦国三姉妹物語』の再録なのですが、訂正個所がちらほら…


(2010/11/24)

『戦国三姉妹物語』と新版『戦国三姉妹 茶々・初・江の数奇な生涯』を読み比べ中。「小督」→「お江」、「北ノ庄」→「北庄」など、細かい違いがいろいろあります。細かくないところもあるけれど。

posted at 09:51:40

長浜城でも基本「小督」で通してたけど、お江に変えるのかな…。お江は茶々姫ほどはっきり名前が残っていないけど、自分では初宛の手紙に「五(ご)」と署名しているので、「おごう」、「こごう」ではなく「ごう」が正しい名前なんでしょうね。

posted at 09:53:29

しかし、「小督」を「お江」に変換しているので、「茶々・初・お江」とお江だけ「お」がついているのはちょっと違和感かな。あと、新版の帯「姉は豊臣とともに滅び、お江は徳川を支えた!」…帯決めた編集者さんか誰か、茶々姫ファンに喧嘩売っとんのか!(#゜Д゜)ノ

posted at 09:55:31


①市の婚礼時期を裏付ける史料

「細かくない」訂正の最たるものは、市の輿入れに関する史料についてでしょう。
『戦国三姉妹物語』では、永禄十一年一月~三月という論を出しながら、それを裏付ける資料は紹介されていませんでした。
『戦国三姉妹』ではそれに加えて以下の記述があります。
「その後、遠山信春の表した『総見記』(別名『織田軍記』)に永禄十一年四月下旬の輿入れという記述があるのをみつけ、現在はそのころの輿入れとみている。」


②福田説の採用

また、第三章の小見出しが「一人残された茶々」が「嫁ぐ機会を与えられなかった茶々」、第四章が「秀吉の側室となる茶々」から「秀吉の二番目の正室となる茶々」と改められ、本文には
「なお、私は、淀殿が鶴松を生んだあと、それまでの側室から正室に格上げされたのではないかと考えている。もちろん、お禰、すなわち北の政所が正室なので、二人目の正室というわけである。ふつう、正室は一人だけであるが、関白は二人いることもあったのではないかと思われる。
 そして、天下人の跡取り鶴松を生んだことで、淀殿の立場も大きく変化していった。二人目の正室となった地震というべきか、余裕というべきか…」
という文章が加筆・修正されています。


茶々姫正室説のほか、知善院所蔵文書では、『戦国三姉妹物語』では桑田説を採用し、「あこ」の代筆としていたあとに、「しかし、研究とは面白いもので、実は、淀殿の自筆の文書であることが福田千鶴氏によって明らかにされてきたのである。」と加筆されています。


③細かい訂正

細かいところですが、ツイッターで上げている他、第四章で浅井長政の二十一回忌が文禄三年から文禄二年に訂正されています。ただこれは第八章では『浅井三姉妹物語』も文禄三年としているので、単なる誤植だと思われます。


ラストの「鶴松の誕生が関白秀次之失脚に直結していたことは間違いなく…」の部分には訂正がありませんでした。これは「秀頼」の誤りでしょう。


見落としがあるかもしれませんが、このあたりでしょうか。
訂正のポイントとしては、大河に合わせた呼称・地名などの変更、お市の輿入れ永禄十一年説の補強、そして福田説の採用といったところ。


感想としては、もともと茶々姫についての一般的評価に異論をお持ちの小和田先生ですから、福田先生の再評価を踏まえて書かれたこの書籍がさらに広く読まれてほしいと思います。


ただ、ラストに茶々姫が鶴松と秀頼を生まなければ…というくだりは、秀頼はもとより、なにより母の茶々姫が一番悲しむことだと私は思っています。
今でさえ容易に考えつくそのIFを、当時思い至らせた人がいなかったわけがなく、そんな中で生きぬいた秀頼の、そんな秀頼を見守っていた茶々姫の心情に思いをはせずにはいられません…



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万福丸の肖像画?

 
k2さんのブログで教えていただいた(いつもありがとうございます!)『肖像画の視線―源頼朝像から浮世絵まで』という本についてのつぶやきです。

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(2010/11/24)

教えていただいた宮島新一氏の『肖像画の視線』見ました。大徳寺大慈院にある子持ち三亀甲文の童子像は万福丸のものか…と推測されていました。大徳寺と浅井家は直接的な関係がないそうで、什物の移動により大徳寺にあるものかとのことです。

posted at 21:57:55

もしそうだとしたら、持明院の長政夫妻像…厳密にはお市像は後年という説もありますが、それらと同時に収められたものが大徳寺に流れたのでしょうか。天正十七年の追善供養か、文禄三年五月の養源院建立にともなって描かれたものか、というところかな…

posted at 22:04:00




持明院蔵の市の肖像画については、市のものだけ賛がないため、同時に描かれたのではないのでは?という説があります。同時に描かれたにしろ、後に描かれたにしろ、長政のものと対になるように描かれているのは間違いないでしょう。

(市の肖像画作成の時期について)
①天正十七年…長政十七回忌、市の七回忌にあわせ同時に制作(鶴松誕生後の供養の際に制作か)
②文禄四年 …市の十三回忌(この年勝家の追善供養あり、同時に制作か)
③慶長四年 …市の十七回忌(長政の肖像が十七回忌につくられたことにあわせた制作か)
④慶長十一年 …この年、浅井家の菩提寺高野山小坂坊が秀吉の名で再興されたことにあわせた制作か

ただ、文禄四年であれば、このとき勝家の供養記事は残っているのですが、市の供養記録が残っていないんですよね…市のだけが残されていないというのも不自然なので、②は弱いかな。


茶々姫をたどる汐路にて

童子像と比べてみました。長政・市夫妻の肖像に構成が似ていなくも…ない?
白黒画像での収録なので、カラーで見てみたいですね。
万福丸の肖像であり、小坂坊に収められたものであるならばこれは天正十七年か慶長十一年制作のどちらかでしょう。

あと、元和八年に「正栄尼(横井氏)」が大徳寺大源庵を建立したことが記されていますが、この正栄尼は茶々姫侍女の正栄尼(渡辺糺の母)とは別人…ですよね?
そういえば、桑田忠親氏の『淀君』でも正栄尼が茶々姫の妹?というふうに読み取れる文章があり悩んだことがありました。
「北の政所は、この珍花を得たことを喜び、淀君やその妹君・正栄尼などを招いて…」というくだりです。これは、妹(初or督)+正栄尼という意味でしょうか。
こちらの正栄尼(横井氏)も浅井氏の出身だとのことでしたので、若干混乱。
正栄尼は大坂の陣で慶長二十年五月七日に糺とともに亡くなっているはずだし…

今回はまとめが長くなりました。

 

茶々姫の危機感(ある日のつぶやき)

 

日々、twitterのほうで思いつくままに呟いているのですが、いつかはブログで記事にしたいと思いつつ、なかなかまとめて文章にしにくい考察や感想などのよしなしごとを、ちょこっとずつテーマ別にまとめていきたいと思います。


気楽に読んでいただけると嬉しいです。


(twilogを使うと良いよ!とアドバイスくださったあまのかるもさんに感謝しつつ…)




(2010/11/19)

大河関連本を読みながら考えてたんだけど…茶々姫が秀吉没後も己の立場の危うさも知らずにいたと評されることが多いけど、秀吉が死に瀕してあらゆる手段であらゆる人に秀頼への忠誠・助力を懇願している鬼気迫った様子を傍で見ていた茶々姫に、それが分からないってのは不自然じゃないだろうか…

posted at 16:59:27

秀吉は可愛い秀頼を病床に侍らせていたはず。当然、茶々姫もそれに付き添っていただろう。秀吉が抱えていた妄執ともいうべき秀頼への不安を目の当たりにして、誰よりも不安に襲われていたのは茶々姫じゃないだろうか…とそんなことを考えていました。

posted at 17:02:44

私のこの考えは状況証拠ばかりで根拠に乏しいですけれど、巷で言われているような茶々姫の態度も、いい加減状況証拠すら怪しいものですから…人の心が包み隠さず明らかになるわけもありませんしね。

posted at 17:03:53

「世間知らずの御姫様育ちが、まざまざと家康にはめられて自滅してゆく」…秀吉没後の17年間は、そんなではなくて、幼少期を時代の荒波にもまれて育った茶々姫が、必死に闘って、それでも家康には敵わなかった…気鬱の病や、さまざまな業績を見ているとそんなふうに感じます。

posted at 17:09:19

 

茶々姫の生年について考える

 

永禄十二(1569)年を更新しました。井上説では茶々姫の生年にあたります。


井上安代氏の説(「星座から推定した淀殿の年齢」〔『豊臣秀頼』、1992〕)では、『義演准后日記』にある茶々姫の「有気」の記事から従来の永禄十年出生ではなく、永禄十二年出生であると推論されたことは割とよく知られていることですが、これは井上氏が小和田説である「市が長政に嫁いだ時期を永禄十~十一年とする」説に賛同されているという前提があることはあまり注目されていないように思います。


先日出版された楠戸義昭氏の『お江 将軍家光と皇后の母となった戦国の姫』(静山社文庫、2010)では、まさにここを追及され、実は従来から採用されていた永禄十(1567)年やその前年永禄九(1566)年生まれでも、「有気」の記事が成り立つことを指摘されました。


果たして、茶々姫の生年については白紙に戻されたのでしょうか?

今回の更新では改めてそのあたりを私なりにですが検討してみました。

なにぶん史料が少ないことですので、今回は憶測が多いですが、ご容赦くださいませ。


そのヒントとなったのが、督と佐治一成の婚姻は信長の意思だったのでは、という説です。

信長は、生前に三姉妹の将来を考えていたのではないでしょうか。

市が娘たちを信長の野望の犠牲にするのを拒んだ、などという説も耳にしますが、いくら市の意思といえども信長の意向に逆らうのは限界があると考えるのが自然ですし、市自身、娘の将来を思わなかったとは思えません。


ここで、もし茶々姫が永禄十年の生まれならばどうでしょう。

本能寺の変があった天正十年には、茶々姫は数えで十六歳です。

この時代、十七歳が初婚でも少し遅いといわれます。

幼すぎるからと許嫁のまま母親の手元で置いておく年齢ではありません。

永禄九年生まれは言うまでもありません


もちろん、永禄十二年生まれでも天正十年時点で茶々姫は十四歳ですから、督が十二歳で嫁いだことなどを考えると(実際に嫁いでいないという説もありますが)、嫁ぐのに決して早くはありません。

それでも、永禄十年説や永禄九年説程の違和感は感じないように思います。


信長はすでに茶々姫の許嫁を用意しており、しかるべき時期に嫁がせようと考えていた。

しかし、茶々姫が十四の年に本能寺の変で信長は横死、市と柴田勝家に従って北庄城へ入ったものの、茶々姫が十五の年に北庄城は落城し、秀吉の保護下へ。


茶々姫を妻に迎えた秀吉ならばともかく、信長が茶々姫を嫁がさずにおく利点は見当たりません。

柴田勝家も織田信孝も、落ち着いたら信長の遺志通りに茶々姫の婚姻を調えてくれるつもりだったのかもしれません。

すぐに離縁させたとはいえ、督の婚姻を調えた秀吉も、ひょっとすると最初は信長の遺志を守るつもりだったのかもしれません。

しかし、結果的に秀吉は少なくとも二年は茶々姫を世間から隠し、誰にも嫁がせることはありませんでした。

その二年が縁切りのためだったのか、他に理由があったのか、それは分かりません。


本当にそんなことが史実にあったのかどうか、それを示す史料はどこにもありません。

ただ、やはり適齢期が天下分け目の激動期と重なってしまったと考える方が、戦国時代を生きた一人の女性の生涯として不自然が少ないように思うのです。

 

東福門院和子と督(江)の母子関係 ~「浅井家」との関わりに見る(『江の生涯』感想②)

 


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『江の生涯』感想続きです。

この本で何より衝撃的なのが、督の所生と伝わる子どものうち何人かが実の子どもではない、とされているところでしょう。


正直、私は茶々姫と離れているときのお督(お江)については全く詳しくないのですが、その乏しい知識でも素直に納得しがたかったのが、この東福門院和子と督の母子関係です。


この著書で福田先生が取り上げられているのが

①和子の生母とされる「妙徳院」の記録(「一札控之事」)

②和子の出産時期が国松(忠長)を産んで間もないこと

③和子の入内に付き添ったのが督ではなく「母代」阿茶局であったこと

④督の七回忌に香典を送った記録が見られないこと

などを以て、お督は和子の実の母ではないという結論に結び付けておられます。


この説を受け入れるとするならば、腑に落ちない点がいくつかあるので、それを上げてみたいと思います。


①和子の周囲に使える浅井家縁の女房
和子入内に督自身が付き添いませんでしたが、和子のそばには少なくとも3人の浅井家縁の女性が女房として仕えています。

・対馬(浅井定政女)

・出羽(浅井清忠女)

・宰相(浅井長政家臣横山家次女)…若宮乳母

彼女たちが選ばれた背景には、やはり和子と浅井家の間に縁があったからでしょう。

さらに、家光の妻選びに督自身が関わったことを考えると、督が自らこの女性たちを選んで娘に従わせたのかもしれません。


②和子と雁金屋

以前茶々姫の衣装について取り上げた雁金屋ですが、ここの呉服屋の記録で際立って多いのが東福門院和子の衣装です。

雁金屋を経営する尾形家は浅井家縁の家とも言われ、茶々姫を始め初・督の三姉妹がお得意さまとなっていたことが有名です。三姉妹は自身の衣装を注文していたばかりではなく、夫や子どもの衣装もこの雁金屋に注文していました。

和子と雁金屋の関係も、やはり督を介して培われたものではないかと考えるのが自然ではないでしょうか。


③浅井長政中納言追贈

三姉妹の父浅井長政に中納言に追贈されたのが寛永九年九月十五日のことです。なお、『東武実録』ではこれが家光の執請によるものであるとありますので、少なくとも長政の追贈には家光の祖父として追贈を受けたようです。しかしそれだけではなく、長政が和子にとっても祖父であるという事実も影響していたのではないかと思われます。


④和子による徳勝寺での長政・督追善供養

徳勝寺の住職江峰の記録によると、寛文十二年春、長政百年忌に東福門院が督の位牌をおさめたという記録を残してました。同時に送られた銀五十枚で堂宇を造営し、法事をしたそうです。

わざわざ督の実家の菩提寺で追善供養を行うからには、やはり和子と督・浅井家との間に関わりがなかったとは言えないように思います。


④養源院蔵観音逗子 ~茶々姫と和子

養源院にある観音逗子は茶々姫の持仏であったと伝えられています。

今日まで残っているのは、この観音逗子が和子の手に渡り養源院に納められたものだからです。

大坂の戦火で焼かれることなく、また略奪されて縁もゆかりもないところから出てきたならともかく、これは茶々姫の生前に督を通じて、入内する際に和子の手に渡ったものではないかと考えられます。


⑤病気見舞い ~初と和子

寛永元年七月に、督の次姉、初が病を得た際、和子は初の見舞う為、使者を遣わしています(大内日記)。

宮中からわざわざ遣いをやっているのは、やはり母方の伯母だからこそでしょう。

(ちなみに、家光も初が亡くなった際、香典として銀千枚を送っています〔寛永日記・京極家譜〕)


⑤香典

私も七回忌の供養がなかったのではなく、残らなかったのでは、という方がしっくりくる気がします。

実際、他に和子による督の供養記事を当たってみますと、寛永十年九月十五日には、養源院に使いを出し、金子一枚を奉納し、焼香させたという記事が『大内日記』に見えます。

その他、あまのかるもさんが『徳川実紀』より寛永十九年の督十七回忌、慶安元年の督二十三回忌に和子から香銀が送られたという記録を指摘されているほか、k2さんのブログではコメントにて和子が養源院に督の塔婆碑を建立したという記録があることを指摘されています。


→*『江の生涯』の感想 その二(東福門院和子の母代) /かとりぶたを側に置き(あまのかるもさん)

…あまのかるもさんは、督についてとても詳しい方です。和子以外の子女についても詳しく検討されています。

→*『江の生涯』感想その二について追記/かとりぶたを側に置き(あまのかるもさん)

…該当事項についてあまのさんが改めて詳しく書かれていますので、ご紹介します(2011/01/02追記)

→*江の生涯/泰巖宗安記(k2さん)


和子について、「妙徳院」の記録は存じていたのですが、上記の通りとても浅井に縁のない女性だとは思えませんでしたので、ずっと督の子どもだと思っていましたし、今でもやはりその方がしっくりきます。

和子を生むには年齢が…という話もありましたが、それにしたって高齢で出産した后妃や妻室を上げればきりがありませんし、なにより直前に忠長を生んでいるのならば、かえって和子だけ高齢だから…という理由は通らないように思います。


それでも、大河をきっかけに山ほど出版されている書籍の中でこれほど史料に忠実にお督を書いている本は他にないと思います。

これをきっかけに、さまざまな検討、時には批判が積み重ねられ、よりお督…そして未だまともに研究されたことのない女性たちの功績が明らかにされることを願ってやみません。


読んだ時から矛盾を感じてツイッターでいろいろ呟きつつ、いつかまとめて記事にしようとは思っていたのですが、今日になってしまいました…考えをまとめるというのはなかなか難しいものです。。


追記:和子の出産
別件で『徳川実紀』を読んでいたのですが、和子の出産の様子が思いのほか詳しく書かれていたので、追記したいと思います。

『徳川実紀』は十九世紀にまとめられたものですので一次史料ではないのですが、当時のいろいろな史料を集めたような編纂史料になっているようです。

和子の誕生についてはその父「台徳院殿御實紀 六」に記述があるのですが、そのお産にはかの有名な曲名瀬道三が付き添っていたらしいです。やはり、当時としては高齢出産ですから、万全を期したのでしょうか。

和子の前に生まれた国松の出産の際にも道三は付き添っていたようで、生後一週間後の国松の不調を『医学天正記』に記していることが福田先生の『江の生涯』で紹介されていました。

そして、このお産は「ことさら御なやみつよくわたらせ給ひし」とあり、難産であったことが記されています。それをよく治療・看病したということで道三は刀を賜ったようです。

周知の通り、督にとって和子が最後の子どもですが、それもこの出産が難産だったために、以降の出産を断念したように思えます。

 

鶴松の追善供養

 

茶々姫をたどる汐路にて

(鶴松の菩提寺祥雲禅寺の庭園を今日に伝える知積院庭園)


鶴松について調べていたら、追善供養のについての記録を見つけました。

鶴松の菩提寺祥雲禅寺の開基、南化玄興の『虚白録』には、南化玄興が記した弔辞とともに初七日、三回忌、七回忌の記録が記されています。


≪初七日≫

施主:秀吉(「大功徳主前関白大相国公」)

場所:妙心寺(「山城州平安城西京華園正法山妙心禅寺」)


≪三回忌:文禄二年八月五日≫

施主:秀吉(「大功徳主太閤相公」)

場所:妙心寺(「國山城州平安城正法山妙心禅寺」)


≪七回忌:慶長二年八月五日≫

施主:茶々姫?(「大功徳主清信女」)

場所:祥雲禅寺(「大日本國山城州平安城天童山祥雲禅寺」)


三回忌までは秀吉が自ら施主となり鶴松の追善供養を執り行っていたようですが、七回忌の施主は「清信女」という記載のみ。

鶴松の追善供養を行う女性として思い浮かぶのが、生母の茶々姫と、そして嫡母のお寧ですが、もうこの頃には跡継ぎの秀頼も健やかに成長しており、茶々姫も「御上様」として盤石な権力を築いていましたので、やはりここは茶々姫であると考えます。


この頃秀吉は鶴松のことを忘れてしまったわけではないのでしょうけれど、翌年に迫る自らの死を知ってか知らずか、秀頼の身が立つように必死に動き回っていました。


なお、十三回忌は慶長八年ですが、翌慶長九年に南化玄興は亡くなっています。

七回忌までの記録しか残っていないのは、十三回忌以降は祥雲禅寺二代目海山元珠によって営まれていたのでしょう(確認中)。


その死以降、秀頼誕生もあって、物語ではその面影を語られることがない鶴松。

しかしその死にひどく嘆き悲しんだ記録が残る父はもちろん、嘆き悲しんだ記録すら残らない母も自らのお腹を痛めて産んだ息子の死を忘れることはなかったのでしょう。

 

浅井三姉妹のイラスト素材

 

写真素材 PIXTA
(c) 鮎太朗パパ 写真素材 PIXTA


PIXIAでこんなのを発見しました。

肖像画にすごく忠実でいいすね。

 

茶々姫と雁金屋 ~衣装に見る茶々姫の生き様

 

『別冊歴史読本 江ガイドブック』、前の記事で書いた通り、トップ記事は本当に残念だったのですが、河上繁樹氏の「姫君たちの華麗なるファッション」はとても面白かったです。


…といいますか、例の「ふしみ殿」の着物が出てくるのですが、その顛末記、この間国会図書館からコピーを取り寄せてようやく読んだばかりだったのに、そのまま記事を使われていて複雑な気持ちになりました(苦笑)


お寧や三姉妹、豊臣秀頼、徳川家康・秀忠、東福門院など名だたる有名人が贔屓にした雁金屋という呉服屋が出てくるのですが、この雁金屋尾形家は浅井家の家来筋に当たるとされるそうで、三姉妹そろってこのお店を贔屓にしている様子を想像して、とてもほほえましく温かい気持ちになりました。


こちらの記事で慶長7年の注文表から、お寧さん・茶々姫・お初・お督4人の注文した柄を検証しているのですが、お初とお督が紅色を良く使い、お寧さんと茶々姫の小袖には紫色が多用され紅色を避けられていることから、お寧さんと茶々姫が秀吉の死後後家として華やかな色を避けていたのではという指摘があることを始めて知りました。

この件は森理恵氏「雁金屋『慶長七年御染地之帳』にみる衣服の性別」(『風俗史学』改題九号、1999年)で指摘されているそうです。


ちなみに、このとき茶々姫が注文された小袖は


「くもの内地しろのもんむくら一くもすすき一くも水ふき又つたむらさきつまミみちはあさき水」

(雲の形を白くして、一つの雲には葎〔むぐら〕、あるいは水蕗〔みずぶき〕や蔦を紫色につまんで、雲の間は浅黄色で水をあらわす。水色の地に白い雲が浮かび、その雲のなかに紫色の草花を散らした)

という「清楚な感じの小袖」だったそうです(記事より引用)。

背の高い茶々姫が来たら、確かにさわやかでりりしくてカッコ良さそうですね!


ちなみに、福田千鶴先生の『淀殿 われ太閤の妻となりて』にも慶長七年・八年に注文した記録が取り上げられています。


(慶長七年分)

①ほ(よヵ)とさま            大さか御しろにてうけ取

 一、上御地もへきなわすめすち七所ニうわもん

    なし                   卯月十九日

   …「萌葱地に縄目筋の上紋を七ヵ所に染めた呉服」


②同人

 一、上御地あさきのこはんかうしたすき

    むらさき           上る

   …「浅葱地に碁盤格子・襷(紫)模様を染めた呉服」


③同人

 一、上御地こひちゃはつれ雪二つ三つかさねて

    うえあさきしろきに

御一え物                 卯月十九日上る

   …「媚茶地にはづれ雪を二つ、三つほど重ねた模様を染めた単物」


(慶長八年分)

①「総紫地の鹿子絞りに細い白筋一つずつを七ヵ所に入れた呉服」


②「固織に白い竜を唐墻にした上紋に桔梗を二つ三つ連れにして紅鹿子・びわ鹿子・浅黄色を小柄に散らした呉服」


③「浅葱地に水蕗の紋を四ヵ所に入れ、紫の雲筋の紋、千本松・桔梗・鹿子も少し入れた呉服」


④「大柄の浅葱色の菱散らし紋に菊の葉を五ヵ所に入れ、菱筋の内側は紫色で、びわ・浅葱・紫鹿子を取り合わせた呉服」

慶長八年分の注文主は「大坂御うへさま」となっているそうです。福田先生の評は「茶々の好みの色は浅葱色と紫色で、模様は複雑で派手なものを求めたようである」とあります。


私は着物の柄には全く素人ですが、このように複雑な柄を指定するのにはやはりそれなりの教養と美意識が求められるのでしょうね。

ドラマの印象では秀吉の没後も赤や金の華やかな着物をまとっている印象ですが、真実は精巧な文様を散らしながらも浅葱や紫、媚茶といった控えめな色をまとい秀吉の後家としての立場を死ぬまで決して忘れなかったのでしょう。


そんなところもまた、かっこいい流石の生き様です。


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茶々姫の信仰篤き鴫野神社

 

茶々姫をたどる汐路にて
続いては、生国魂神社摂社鴫野神社(しぎのじんじゃ)。

実は何年も大阪に住んでいたのに、なぜか一度も行ったことがない場所でした。


この神社と茶々姫の縁については、鴫野神社に備え付けられている解説を引用します。


①鴫野神社(しぎのさん)


淀君ゆかりの神社である。鴫野神社はその昔「鴫野の弁天さん」として大阪(ママ)城東側に祀られていた。この弁天社を大阪城の淀君が殊のほか篤く崇敬し、後には弁天社の隣に「淀姫社」として祀られたほどである。

爾来、女性の守護神(まもりがみ)と仰がれ心願成就・縁(縁結び・悪縁切り)の神様として霊験あらたかとの評判を呼び、お参りする人が群れをなしたと伝えられている。


②鴫野神社の御由緒

いくたまさんの境内“生玉の社”に鎮まります「鴫野神社」は、かつて大阪城の東、鴫野の弁天社として祀られておりました。

天下人豊臣秀吉の側室、淀姫の崇敬はことのほか篤く、女性の守護神として悪縁を切り良縁を結ぶという心願成就の御利益が伝わります。後に淀姫自身も祀られ、大阪城に縁の深い当社に移ってからも良縁を望む多くの女性から篤い信仰を集めています。

茶々姫が弁天様を篤く信仰していたことは事実の様で、姫の持仏として伝わるのもやはり「金厨子入弁才天」(養源院蔵)でした。そういえば浅井家縁の竹生島も弁天様信仰ですね。


こちらで弁天様とともにに祀られるようになったという「淀姫」というご祭神と茶々姫の関係については諸説あり、そもそも「淀姫神」という女神が祀られているのであり、茶々姫とは無関係とされる研究者の方もいらっしゃいます。

ただ、こちらの場合、まず弁天様が祀られており、この弁天様に茶々姫が篤く信仰したことが由来で「淀姫社」と呼ばれるようになったとのことですから、たとえ「淀姫神」という女神さまが別にいらっしゃったとしてもこれは茶々姫と無関係ではないのでしょう。

茶々姫を偲んで、その号と同じお名前の女神様を祀るようになったものか、茶々姫自身を「淀姫」として祀られたものかは分かりません。


それにしても、この由来を読んでいると、「淀姫神」は昔からいらっしゃる神様ですから、茶々姫は同じお名前を持つこの女神様をどんなふうに思っていたのかしら…と気になってしまいます。


そのあたりの由来についてもっと調べてみたいと思い、社務所の方にお伺いしたのですが、生国魂神社の社殿や記録類は戦火で焼けてしまい、現存していないとのことです。残念。

社務所の方は茶々姫のことを「淀姫さま」と仰っていました。この神社では「淀姫」を茶々姫のこととして、大切に敬われているのだと分かるやり取りでした。


(生国魂神社正面)

茶々姫をたどる汐路にて

その他、鴫野神社の近くには城方向神社(きたむきじんじゃ)が祀られていました。

その名の通り、大坂城の鬼門を守る神社だそうです。
茶々姫をたどる汐路にて

 

ご当地茶々姫

 
出先で発見してしまいました。

$茶々姫をたどる汐路にて

もちろん三姉妹それぞれ売られていました。
やっぱり「淀・初・江」なのね...どうしても違和感が...

これからご当地系もいろいろ出てくるのでしょうか。
見つけたら買っちゃうんだろうなあ(´Д`;)
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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