続いては胞衣塚大明神(よなづかだいみょうじん)です。
太融寺は朝日が眩しくて残念な写真だったのですが、
今回は夕方、夕日が眩しくて残念な写真となっております…泣きたい。
(この日昼間に大阪で仕事があって、それに便乗して取材したためにこういうことになっております)
茶々姫と秀頼の身体の一部ともいうべき胞衣が当時大切に埋められ、地元の方に守られてきたという伝承にグッときます。
後に取り上げる生國魂神社もそうですが、こちらも戦火で焼けてしまったとのこと。
社殿もそうですが、貴重な書物や記録も灰になってしまったのですから、残念なことこの上ありません。
しかし、この玉造の地がかつて三の丸であったとは…改めて大坂城の広大さに恐れおののきます。
さて、この玉造稲荷神社自体、大坂城の鎮守として豊臣家の信仰も厚かった神社です。
玉造神社ホームページによると、慶長八(1603)年に豊臣秀頼の名前で社殿、高殿(舞台)を建立したとのこと。
当時秀頼はまだ数え六歳ですから、茶々姫や重臣たちの判断による建立でしょう。
境内には、同年三月に秀頼の名前で奉納された鳥居が保存されています。
大坂の陣、第二次世界大戦と大きな戦果を二度乗り越えたものの、阪神・淡路大震災で基礎に損傷を生じたため、現役を退きここに保存されているそうです。
その他、玉造稲荷神社境内に残る史跡をご紹介。
この地はかつて千利休の屋敷があったと伝えられ、本殿のそばには縁の井戸「利休井」があります。
(解説掲示)
千利休を偲ぶ「利休井」
豊臣・徳川時代に大坂城の鎮守神として篤い崇敬をうけた当神社は、その繋がりが深く、付近には武将・前田利家の屋敷を始め、茶匠・千利休も屋敷を構えていました。利休屋敷には利休井があったと伝えられ、古くより「玉造清水」と呼ばれる良質の水脈を使い、この上町台地東端の良き自然環境にも恵まれ、茶の湯文化をはぐくんで参りました。
当神社付近には他にも、門人の細川越中守忠興(三斎流)の「越中井」や、もう一人の門人であった古田織部(織部流)の「山吹井」が存在したと「摂津名所図会大成」などに記されております。
さらに、江戸時代中ごろには神社境内の北側(現・玉造小学校)で酒造りが行われており、酒造り用の竈類も近年発掘されました。灘、伊丹、伏見と共に、ここでも酒造りが栄えていたことが文献にも見受けられます。
この井戸は平成十八年八月にNPO法人「大阪城甲冑隊」らによって採掘されました。
境内の奥には千利休の顕彰碑も。
千利休居士顕彰碑
大坂城三之丸にあたる当社の南西は玉造禰宜町(現玉造町)と称し豊臣時代、利休屋敷があったと伝えられ、当時お茶の水をこの邸内の井戸にて汲まれ、付近の清水谷の地名もこれら良質の水脈が存在するために名づけられたと「摂津名所図絵大成」にしるされております。
今般、土地柄、利休居士の遺徳を偲ぶことは誠に意義深いことであります。