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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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督(江)の名前についてなど(『江の生涯』感想①)

 
江の生涯―徳川将軍家御台所の役割 (中公新書)


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福田 千鶴

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福田先生の著書、すごかったですね。

既存の史料を、既存の解釈などくそくらえ!な姿勢で再検討されている姿勢は、さすが福田先生!と感銘を受けました。

…とはいえ、私は茶々姫ファンであって督(江)ファンでないので、まだ心中穏やかでいることが出来ますが、この一冊は督のファンにはちょっときついかも…


かくいう私も、納得できていないところが多々ありまして、それはまた追々書いていきたいと思っているのですが、まずは賛同した部分を取り上げたいと思います。

(以下、福田千鶴『江の生涯』を「福田本」とさせていただきます。)



①督の異称、「お江与」について


この「江与」(えよ)という称について、その由来は「江戸に与えられた」という意味ではないかという説を見たことがありました。

私も何の疑いもなく、そんなもんかいなあ、というふうに受け入れていたのですが、福田本ではこれを茶々姫にとっての「淀」同様、督の住まい「江戸」の変態仮名である、と論じておられます。


「江戸」→(平仮名)→「えど」→(旧かな)→「ゑと」→(変態仮名)→「江与(えと)」


つまり、「於江与の方」=「お江戸の方」であり、「おえどのかた」と読むのが正しい、という解釈です。

実際に「ゑとさま」と督のことを書いている一次史料もあるとのことで、「江戸に与えられた」説よりも説得力のある説だと思いました。現状私もこの点に関しては大いに賛同するところです。

(一時期、同じく秀吉の養女である豪〔ごう〕と名前が重なるから改名したのだろうかと思ったこともありましたが…)



②「ごう」を表す漢字


また、「ごう」を表す漢字について、良く見かける「江」と「督」の違いについても検討がありました。

実のところ、私は最近と茶々姫の勉強を始めた当初は「江」を使用していたのですが、これは「近江」の「江」であるという説に乗っかっていたからです。(間に「小督」を使った時期があります)


督の手紙(初の菩提を弔うために建てられた栄昌院というお寺に残っている初宛)に、「五」(ご)と署名した物があり、当時女性の手紙では書名に自分の名前の頭文字を使うという例が多く見られます(お寧さんが「祢(ね)」を使うなど)。

ですので、お督の名前の頭文字は「ご」であることは間違いないようです。

異説として「小督」の字から「こごう」、諱として伝わる「徳子」から「とく」(これは督の「督」の字を「とく」と読んだのが始まりか)などがありますが、彼女の名前が「ごう」と読むことはこの手紙から間違いないでしょう。


さて、「ごう」を表す漢字についてですが、福田本では「江」と書いたものには徳川系史料が多いことを指摘され、秀忠に嫁いで「江」と変えたのではないか、とされています。

改名の有無、時期については後稿を待ちたいところですが、督にとって実家である浅井・豊臣家側の史料『太閤素性記』には「小督」とあり、茶々姫側に立つ私としては古い「督」の字を使おうかしら、などと今は思っているところであります。



③女性の名前と敬称


実は、かねてから悩みのタネであったのがこの敬称。

福田本でも指摘されているとおり、浅井三姉妹を表す時に「茶々・お初・小督」とするものを良く見かけますが、これ、茶々姫だけ敬称が無い状態なんですよね。語呂はいいんですが。


そして千姫…彼女もいつも「千姫」にするか「千」にするか「お千」にするか悩んでいる女性の一人です。もちろん彼女の名前は「千」なのですが、正直「千」だけでは目に馴染んでおらず分かりにくい。

一般的に通っている名前はもちろん「千姫」なのですが、それなら他の女性の名前は…という問題にぶち当たり、頭を抱えることがままあります。


もう一人は松の丸殿。一般的には「竜子」と書かれています。

しかし同時代的に「龍子(竜子)」と呼ばれていたとは考えにくく、おそらくは「たつ」、「龍」と呼ばれていたのでしょう。(「たつ」の訓読みから、ひょっとして「たづ(鶴)」だったりして…と考えたことも。)

ただ、これもまた目に馴染みがなく、結局のところすぐに彼女だと判断できるように私は「松の丸殿」の称を使っていました。

今回、福田本で彼女のことを「龍」とされていたのは、私にとって得るところが大きかったです。


女性の本名は漢字で表わすと一字であることが多く、なかなかそれと判断しづらいのは大きな欠点ですね。そうなると「お」や「姫」をつけた方が、読みやすさの上で分かりやすくはなります。


私が茶々を「茶々姫」と書いているのは、うちは茶々姫贔屓ですのでもちろん意識的にしていることなのですが、お寧さんだって「寧」もしくは「禰居」と書かねばならず、「さん」づけなんてもっての他な訳です。(でも私のイメージでは「お寧さん」なんですが…)


有名な秀吉の母大政所の「仲」という名前をはじめ、そもそも女性の本名は伝承にとどまるものが多く、正確さを追及しているとどうしようもない部分が確かにあります。

正直難しい問題なのですが、これはこれからも考えていかねばならないところです。



④崇源院


督の院号である「崇源院」、私も今まで何の疑いもなく「すうげんいん」と読んでおりました。福田本ではこれについても再検討されております。

同時代に書かれた「東証大権現祝詞」(春日局が書いたといわれていますが異説も)では「そうげんいん」と読んでいるそうです。



福田本では以降続々と通説を覆しまくっていますが、こと督の名前、称についての検討はおおむね異論はありません。かつてこれほど督の名前についてこれほど史料的に検討されたこともなかったのではないでしょうか。

「史料がない」と検討を放棄されていたお督が、とりあえず机上に乗せられたことが、福田本の一番大きな功績ではないかと思います。


とはいえ、そのまますべて受け入れられるかというとそういうことでもなく、特に東福門院とお督の母子関係については納得しがたいところもありますので、それはまた記事を改めて。



PS: 大河ドラマの予告が公開されていました。

http://www.nhk.or.jp/go/movie/v1mpr_go.html

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『慶元記』に見える茶々姫侍女

 

近代デジタルライブラリーに入っている『慶元記 大阪夏冬両陣始末』を見ていました。


『慶元記』は江戸時代前期の軍学者北条氏長による大坂の陣の顛末事細かに書かれた史料です。


まだ詳しくは呼んでいないのですが、


木村重成は木村重茲とその妾の子で、佐々木家の血を継いでいる。母と五歳まで生活を共にしたのち、母は秀頼の乳母となるが、秀次に連座した重茲の子(母は身重だったため助命された)である重成が秀頼の乳兄弟となれるはずがなく(歳も秀頼より二歳年少)、六角義郷に引き取られ十五年間養育された…という説が掲載されてました。


また、茶々姫・秀頼母子は婚礼以降千姫を厭い面会しておらず、大坂の陣の前に徳川方の手によって於国という女性と入れ替えたが、長年会っていなかったために母子はこれに気がつかなかった、という話もありました。

これが真実でないことはいまさら言うまでもないのですが、どこかの小説で茶々姫が婚礼以降千姫を閉じ込めて面会していないという話を読んだことがあったので、これが出典なのかしら、と思いました。


さて、自刃の場面に茶々姫・秀頼に殉じた侍女たちが載っておりました。

もちろん一次史料ではないのでそのまま信用することは出来ないのですが(二位局は自刃していませんし、正栄尼は一日早く亡くなっていますし…)、見覚えのない名前もあったのであげておきます。


大蔵卿

右京亮ノ局

宮内卿

饗庭ノ局

於玉ノ局

二位ノ局

正栄尼

常盤井ノ局

愛殿(=お愛の方?)

松殿

於竹ノ方


赤字が私が見覚えのなかった方です。


別の史料ですが、二位局が茶々姫の侍女頭であったというものがありました。

足跡を追っても、一の女房は大蔵卿局で間違いないとは思いますが、邸内で茶々姫に使える女房をまとめる役割だったのでしょうか。これも要検討です。

 

天正十三年の茶々姫?

 

今回は、『歴史読本』のほうで、天正十三年の正月に茶々姫が大坂城にいたらしいことが『兼見卿記』に見えるらしい、ということを教えていただいたので、そちらを確認してみました。


福田先生は昨日の天正十四年十月記事が一次史料初登場、というふうにおっしゃられていたので、これが茶々姫ならばその記録を塗り替えることになりますね。


『兼見卿記』は現在活字化されているのが天正十二年までで、あと文禄年間~を岸本眞実氏が『ビブリア』にて活字化されているらしいですが、私は天正十二年までしか持っておりません…。『兼見卿記』にはいろいろと情報があるということなので、ぜひとも天正年間を早く活字化していただきたい…と他力本願なことを言いたくなる勉強不足な私です…


ということなのですが、今回は幸運にも大日本史料より該当箇所を探し出すことが出来ました。

天正十三年正月二十八日の記事です。


廿八日、庚子、天晴、

(中略:御所での祈祷関係、吉田兼和、休庵を訪れることなど)

大坂ちゃ/\方ヨリ書状、美濃紙廿帖、到来、返礼俄ニ不調之由、使先返畢、明朝罷下之由申之間、自是重而返事可調下之由申、罷下了、


さて、まずは昨日同様同姓同名問題ですが、『大日本史料』から引いていますので、昨日ほど精密な調査が出来ませんが、ざっと前後を見たところ、やはり天正十三年五月十六日条に於次秀勝のところに「ちゃ/\」さんが登場しています。


丹州亀山へ御祓持下之、修理進罷下也、御次へ御祓、御女房へ御祓計進之、薫衣香五、御袋へ御祓、薫衣香五、ちゃ/\白粉五、書状遣之、毎度此分也、石懸善右衛門尉へ五明五本・御祓遣之、入夜罷帰、御袋ヨリ弐百疋、御次御返事無之、


秀勝は天正十三年末には病没してしまうのですが、この「ちゃちゃ」さんは丹波亀山にいらっしゃる侍女さんのようです。特段用がなければ大坂にいらっしゃる方ではないように思います。その「特段」が正月二十八日にあったかどうかはわかりませんが…

ふたつの違いですが、前者は「ちゃ/\方」、後者は「ちゃ/\」ということで、前者により敬意を表されていますが、前回を考えるとその他記事を比較してみないと断言はできかねますね…

「大坂ニ」云々の「ニ」歴読では「二の丸」と解釈されたのでしょうか。


でも、突然大坂から書状と美濃紙が送られてきて、慌てた兼見が取り急ぎ御使いを送り、改めて返礼を調え御返事します、と伝えさせている様子は、確かに驚くような人からの手紙だったのかなあなんて気もします。

 

天正十四年の茶々姫?

 

先日の福田千鶴先生講演会にて、

『言経卿記』の天正十四年十月一日に茶々姫が大政所を訪問した記事がある…と聞き、昨日雨の中届いた史料でようやく確認しました。


 一日、壬戌、 天晴、

一、茶々御方大政所へ被行了、


…なんとも小ざっぱりとした記事ですが、実は、この記事でものすごく悩まされています。


問題は、当時「茶々」という名前が決して珍しいものではなかったということ(「茶々」に限りませんが…)で、この『言経卿記』にも「茶々」という名前のつく女性が他にも登場します。

それは、四条隆昌の関係者なのですが…彼女の正体についても、言経さんに直接語っていただきましょう。


「四条妻御茶々」(天正十二年十二月二十三日条)

「□条□中御茶々(「四条女中」が虫食い)」(天正十四年四月八日条)

「御茶々被来、殿下御妹局」(天正十四年九月二十七日条)

「御茶々 四妾、徳川妻御乳、」


…はい、という訳で、四条隆昌の妻妾に「御茶々」さんという方がいらっしゃり、この方は徳川家康に嫁いだ秀吉の妹(後の南明院)の乳母だった、ということです。


実は、天正十四年に南明院が家康に嫁いでいる関係で、この前後、かなり「御茶々」さんの記事が出て来ます。

今のところ、史料のそろっている天正十二・十四年よりその一覧を…


・天正十二年

12/18「四条女房衆」

12/19「四条女房衆」

12/23「四条妻御茶々


・天正十三年

2/7「四条御茶々

(以下調査中)


・天正十四年

4/8「四条女中御茶々」、「御茶々」(大坂より上洛記事)

4/12「御茶々御方」(「御茶々御方薄暮ニ被来了、」)

4/14「御茶々御方」(大坂下向記事)

4/19「御茶々御方」(「御茶々御方ヨリ向ヨリ入来了、」)

9/27「御茶々」(「入夜御茶々被来、殿下御妹局ト〆徳川家康嫁娶ニ付テ被行了、殿下ヘ御使云々、入来了、被宿了、…」)

10/1「茶々御方」(「茶々御方大政所へ被行了、」)

10/7「御茶々」(「夜半ニ御茶々大坂ヨリ入来了、」)

10/8「御茶々」(「早朝ニ御茶々大坂へ被行了、則上洛了、」)

11/1「御茶々」(言経邸にて夕食記事)

11/2「御茶々」(上洛記事、愛洲薬を所望)

12/27「御茶々四妾徳川妻御乳」(近々下国のため挨拶。愛洲薬を所望し、「持明院」・「大和三位入道」へ言伝する)


…さて、いかがでしょうか。


同じく福田先生の講演会で、『言経卿記』で女性に「御方」とつけられるのは相当高貴な女性のみ…とおっしゃられていたために、最初は「茶々御方」と「御茶々」は別人を指すのかしら、なんて軽く考えていたのですが……四月の記事に「御茶々」さんが「御茶々御方」で散々登場するんです…うーん(大汗)

内容からいって、この「御茶々御方」が茶々姫を指すとは考えられません。


そして、天正十四年九~十月、後の南明院が家康に嫁ぐという話が動き出し(話が出たのは春ごろのようです。『言経卿記』での初出は四月二十八日。)、年末には御茶々も南明院に従って駿河の国に下向したことが分かります。

(個人的には、御茶々さんが元から南明院の乳母だったとは考えにくいので、「御茶々御方」が頻発している四月ごろ…ちょうど家康への輿入れ話が出たころですね。その頃に乳母に任じられたのでは?と考えています。)

流れを追うと、南明院の使いとして秀吉に会いに行き、大政所へ挨拶or報告を終え、また冷泉邸(摂津中島)にもどり、南明院の待つ聚楽第へ上洛…不自然さは特に感じませんが、京を拠点にしている方ですから、これら一連を一度も帰洛、もしくは冷泉邸に帰らずにこなしたのだろうか?というのは疑問です。

ちなみに、活字化されている『言経卿記』では、「茶々御方」を御茶々として解釈しています。


ただ、福田先生があえてこの「茶々御方」を茶々姫であると解釈したのはどうしてだろう…と考えていたのですが、細かいことですが、私が所持している範囲で、「御茶々」さんが「茶々」や「茶々御方」と「御」抜きで記録されているところがここ以外にないんですよね(一覧参照)。

これだけ登場していて、ここしか「御」をぬかしていないというのも不自然といえば不自然。


私の中でどちらとも結論付けるには、まだもう少し検討が必要なようです…

明日は天正十三年の記事を。

 

万菊丸(万寿丸)具足@杵築城

 

先日、万菊丸について調べているときに、杵築城模擬天守閣というところで万菊丸所用の具足が展示されているとのブログ記事を見つけました。


杵築城といえば万菊丸が豊後細川藩を頼り、藩士として続いたといわれていますので、その関係でしょうね。(杵築浅井氏)


→*織田信長の甥(浅井長政・お市の方の子)万菊丸着用の具足(鎧兜)

→*杵築城

 

〔メール便〕同じ会社でも、人によって違うようで…

 

今日、大阪府立図書館の複写センターさんにお願いしていた史料のコピーが届いたのですが、

大雨の中思いっきり雨ざらしにされていて、封筒の上に水たまりが…shock*


私、今日は一日中家で仕事をしていたのですが、一度くらいインターホンならしてくださってもいいのに…

届けてくださる方によっては、ポストに入らないメール便は、

不在を確認してわざわざ持ちかえってくださる方(対応としては一番丁寧なんでしょうね)、玄関のドアや門柱にビニールに入れて掛けておいてくださる方(個人的には再配達をお願いしなくて済むのでこれが一番助かります…)、そして今日のような言語道断の方…


一番大手さんなのですから、評判を落とすようなことはしていただきたくないですね…


正直、メール便のあまりにずさんな扱いに閉口したのですが、

複写センターさんは標準で封筒の中にさらにビニール袋で入れておいてくださるので、

大事な史料は事なきを得ました。


怒りと同時に、複写センターの担当者さんにめちゃくちゃ感謝しました。

ありがとうございます。

いつもお世話になっております。

毎回たくさん頼んで申し訳ありません。


 

茶々姫と柴田勝家

 

文禄4年に、茶々姫は柴田勝家の供養もしているようです。


茶々姫をたどる汐路にて


   【江州浅井家之霊簿】


   始観浄金大禅定門

      施主伏見ノ御カミサマ、御志為柴田殿也、

      文禄四年卯月廿一日立之、



供養記事を見ていると、茶々姫は自分の役割を相当意識して日々を生きていたんだなあとつくづく感じます。


鶴松を産んだら、浅井家の菩提寺小坂坊(高野山)で祖父母、父母、兄の供養をし、

秀頼を産んだら、養源院を建てて父を供養し、同地に供養塔を建てて母を供養し、

そして翌年には義父の柴田勝家を供養し…

(他にも故郷の伯母も木像を造って供養したりしていますし)


浅井一族の供養も、秀吉とは敵対した立場であるから供養を言いだすタイミングが難しいというのに、

柴田勝家なんて、浅井家よりももっと直接的に秀吉と敵対した人物。

さぞ神経を使ったことだろうと思います。

福田先生は『淀殿』で、お市が柴田勝家に嫁いだからといって、三姉妹を養女にしない限りは親子関係は生まれない、ということを指摘されていましたが、

この記事を見ているとやはり、全くの他人だとは思っていなかったように感じます。

(養父娘関係があったかどうかはわかりませんが…)


父長政と母お市の遺言に従って、亡き家族の供養がしたかったというのも、茶々姫が秀吉の妻として死ぬまで懸命に尽くした理由の一つなのでしょう。

お市の婚礼&茶々姫誕生永禄10年説から、茶々姫が浅井長政の娘ではないなんて説が生まれましたが、

こういうところを見ているとますますあり得ないと思います。


茶々姫をたどる汐路にて

 

福田千鶴『江の生涯 徳川将軍家御台所の役割』

 

福田千鶴先生の本が、ようやくamazonでも予約が出来るようになりました。


福田千鶴 江の生涯 徳川将軍家御台所の役割 (中公新書) (2010/11/22)
江の生涯 徳川将軍家御台所の役割 (中公新書)

今からとっても楽しみです♪2

 

「北近江戦記 巻之弐 賤ヶ岳合戦 秀吉vs勝家」(長浜み~な108号)

 

長浜み~なサイト内108号特集ページへ


今号のみ~なは賤ヶ岳合戦特集号でした。


賤ヶ岳をはじめ、合戦で戦場となった北近江の各所や、戦死した中川清秀に関する記事があります。

各要地の航空写真や絵図は圧巻でした。

 

中島左近家に伝わる万菊丸伝説

 

湖北は大変郷土史の活動が盛んですので、しょっちゅう村の歴史についての冊子が発売されていたりします。

なので、湖北へ行った際、チェックは欠かさないのですが、今回は小谷城に関する書籍が出ていました。


すでに大河をにらんだお江ツアーが始まっているようで、今回もツアー一行を何組か見ましたが、

この本はお江の故郷(生地かどうかはともかくとして)小谷城を訪れる方をにらんだものでしょう。


小谷城下まちづくりウォーク実行委員会

近江浅井氏 小谷城と城下をゆく
茶々姫をたどる汐路にて


<関連記事>

地域の魅力マルチに発信 湖北町小谷学区がガイド本発刊など近江毎夕新聞


こちらには小谷城はもちろん、小谷城や浅井氏ゆかりの寺院などが紹介されています。

中には河毛泉龍寺に伝わる「伝小谷城裏門」など、あちらに住んでいても知らなかった情報がいくつもあったりして、ぜひとも一度訪れたい場所がまた増えてしまった次第です(苦笑)



さて、今回は表題の通り、後の正芸こと万菊丸の話が詳しく掲載されていましたので、ご紹介したいと思います。

 そして、中島左近家の伝承はこのことを次のように詳しく物語る。すなわち、万菊丸はまず上山田の礼信寺にかくまわれ、そこから山田山の尾根伝いに北に逃れて、奥琵琶湖に突き出た葛籠尾崎にある菅浦安相寺にたどり着く。ついで、左近の養育のもと、そこで数年間を過ごした後、福田寺十一世覚芸の養子に入り十二世正芸を名乗り、その法灯を継いだという。

 なお、中島家は現在も福田寺の直参門徒であり、福田寺の護持に努めているつとめている。

…とのことです。


現在も中島家では何代かごとに当主が「左近」さんを名乗られているそうです。

当代の左近さんは…実は内科で御見かけしたことがあったのですが、生来の人見知りが災いして結局声を掛けられず…

ですが、同じ集落に住んでいる方にお聞きしたのですが、中島家では今も万菊丸を守るときに携えていた槍が伝えられているそうです。


万菊丸の存在は、それを伝える史料の著者が万菊丸を先祖とする方で、そのために信憑性が低いといわれてきました。

私個人としては、菅浦安相寺を訪れたときに、その地の利があまりにも理にかなっていたことに感銘を受け、「これはいただろう!」と思うに至ったわけですが、このような話を聞くと、往時のことが鮮やかに蘇りそうですね。

プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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