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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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冠雪の小谷山

 
お休みを頂いたので、慶長十年の舜旧記を更新しました。

お千名義で主催された豊国社十七日祈祷+夢想連歌会などがあります。
(もちろんproduced by 我らが姫ですv)

今日は豊国神社とまたもや長浜城の特別展に行って来たのですが、展望室からは冠雪した小谷山が見えました。



北国の冬は寒いです…(※瀬戸内海沿岸出身)
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家宝にします

 
この間、小和田先生の講演会でぶしつけながら渡した手紙になんとお返事がもはや到来しました。

…ちゃんと〆がお城マーク凸だったv

押し付けた論文にお褒めの言葉を賜り、将来への活力も頂きました。

ほんの少しの時間でも、こんな私のために大先生がお時間を割いてくださったと思うと恐れおののきます。

信者めいててすみません…
でも、メディア露出とは関係なく、浅井氏や茶々姫を研究するものとしては小和田先生は決して避けては通れない偉大な方なのは揺るぎのない事実です。

来年の御本も、全力で楽しみにしております。
先生ならば茶々姫を扱えば通り一遍のものになることだけはありえないでしょうから!
 

四代にわたる夢絵巻

 
ここ2週間史料の更新が滞っていてすみません…

昨日、長浜上歴史博物館25周年記念特別展『浅井三代と北近江』展示説明会二回目に参加してきましたので、とりいそぎそちらのご報告でも。

すでに会期も後半を向かえ、前半に訪れたときとはすこし展示も変更されていました。
斉藤道三が朝倉義景になったり、
高野山系のお市肖像の写しがマイナーチェンジしてたり。
そして湯次神社に奉納された太刀も刀になり、しかもそれは長政が使っていたかもしれないという…

何度見ても大興奮です。

いや、しかし何度見ても久政さんの寿像は男前ですね。


…さて、展示説明会。今回はいつもの太田先生。
先週の森岡栄一先生の説明もとても面白かったのですが、今回もなかなかに面白かったです。

久政さんの寿像に描かれている紋、たたみ扇がX字型に重なっているのですが、あれは久政さん個人の紋だったのですね。
確かにそういえば三つ亀甲じゃない。
先生方と肖像を見ると、いろいろ見るべきところを指摘していただけてとても勉強になります。

久政さんについては、有名な餅の井の件について初めて理解できました。
用水論というととても複雑で分かりにくいように思うのですが、
要は下流の小谷城下への水路を、上流の村々よりもさらに上流付近からむりやりに引っ張ってきているというお話です。
これだけでもかなりの権力を以ってではなければ出来ないこと。
それをやり遂げた久政さんもすごい。

…けど、その上流の村々(今の高月町付近)を束ねていたのは阿古さんの実家井口氏。
阿古さんとの婚姻があってこそこれをなし得たといっても過言ではなさげ。
ということは、阿古さんを久政に娶せたのは亮政さんな訳で、これは親子二代にわたる壮大なプロジェクトだったわけですね。すごい。
まだ阿古さんがちいさな時分から跡継ぎである兄経親共に目を掛けていたことを考えると、二十年ほどに及びます。
亮政さんでいきなり小谷の山上にどの豪族よりもすごい城を建築し、久政さんで水利を得る。
それを思うと、久政さんの時の一時的な六角臣従でさえ壮大なプロジェクトの一角だったのでは?などと思えます。だって、六角との戦があまりなかったからこそできた国内政策だったのですから。


肖像といえば、例の初公開かもしれない養源院の束帯姿の長政像。
あれはずっとみててもあきません。
並み居る肖像画の中で、一番穏やかな顔をしていると思います。
桃山時代に養源院にこんなものを収めるなんて、先生方は口にしないけどやっぱり姫しかいないよなあ…と思うと、姫の父を慕う気持ちが胸にしみて涙を誘います。

今回の展示説明会は主に書状の解読などだったのですが、やはり長政公の感状は何度見ても泣けてきます…
そしてそのような感状はもちろん、拝領した品々、そして小谷山城の図を、主家滅びてなお大事に伝えてきた家臣の方々の思いすら胸に迫るものがあります。

特に片桐且元の父直貞に当てた感状などを見ると、姫が且元を重用し頼りにしていたのはきっと無関係ではないんじゃないだろうかなどと思うわけです。

肖像画から、太田先生などしきりにお江がお市に似ているとおっしゃいますが、
やはり茶々姫は面差し…というか、暖かな雰囲気が父に似ていたのではないかしら…
だからこそ浅井家臣や浅井の品々は、権力磐石な徳川にいるお江の元ではなく、自然茶々姫に集まり慕われたのだと思うと、「長女だから」という曖昧な理由だけなく、すごく納得できる気がします。
お市ではなく長政似というと、なぜか褒め言葉でないように使われますが、浅井の縁の者たちにとっては、長政こそが慕う主だったのですしね。


それにしても、太田先生も周囲の状況からお市の婚礼はかなり早い時期だったというお考えなのですが、それならば「尾張守」書状はどう解釈したらよいのでしょう?(※ 小和田先生の著書を参照)
側室の記録がない=万福丸の母はお市以外ありえないという話はどうしても腑に落ちません。
在野にはお弁さん(万寿丸の母と伝わる人)や宗心(くすの母)さんもいるわけですし……
あれがある限りは永禄十一年説へのこだわりはどうしても拭いきれません。

そして浅井三代記!!
なまじ出版被を稼ぐためにちょこちょこいろんな人の経歴を偽装したばっかりに、もしかしたら合ってるかもしれない記録まで使えないなんて!
阿古父の経元さんでさえこういう理由で公式には使えないらしい(…)
 

なぜ抵抗?

 
小和田先生の話で思い出したのですが、大河『秀吉』のエピソードを一つお話されていました。
(小和田先生は『秀吉』で時代考証を担当されていました)

ようやく浅井も「あざい」が正しいということが広まりつつある(それでも天涯の貴妃では「あさい」でしたが…)昨今ですが、その転機はどうやらこの『秀吉』だったそうです。

小和田先生は院生の頃に浅井をテーマにされ、現在でも避けては通れない第一人者です。
湖北を訪れる度、多くの地元の方に「『あさい』じゃない『あざい』なんだ」と言い聞かされ、それを大河の製作側に伝えたそうです。
しかし、製作側はこれに抵抗。
長々とやりとりがあり、なんとか「あざい」を採用していただけたとか…

…いや、なんだか、大河が何年たっても同じ役が同じキャラなわけが分かったような気がしました。
大河の設定って、結局「見る側に求められている」ようにしているのかなあ…って。
それならば一体、何のための時代考証なんだろう。
生活の常識や、環境だけをあわせるためなのかな?
じゃあ少しも新しい事実なんて反映されないわけか。。

そういうわけみたいです。
そんな中で「あざい」を全国放送に載せた小和田先生は、やはり浅井ファンとしては足を向けて寝られない存在ということに変わりはないですね。

こりゃあ来年の大河も………………

そして、昨日から何度か耳にしたのですが、現在長浜周辺では、浅井三代と三姉妹を大河に、という運動をしているのだとか。
それは私としても嬉しいといえば嬉しいのですが、このままの姿勢で作られるのでは、結局これまでの大河のコラージュにしかならないわけで…
それならば、そっとしておいてほしいと思う心もまた事実です。
 

浅井三代・三姉妹と北近江

 
本日はずっと楽しみにしていた小和田哲男先生、そして中井均先生という超大物大先生sのこられたパネルディスカッションでした。

特に小和田先生…茶々姫を学ぶものとして、この先生はとても避けては通れません。


このチャンスを逃すまいと、実は昨日からお手紙を書いたりしておりました。

無事、スタッフさんの手を通して小和田先生の手に渡ったようで、一安心なようなさらにドキドキするような、不思議な気持ちです。

小和田先生が姿を見せられた瞬間、感極まって泣きそうになったのですが、ここで泣いたら変な人だわ!と思って、かなりがんばってこらえました^^;(涙目にはなってましたが…)
著書のお写真(もしくは探偵ナイトスクープw)ではお姿を拝見したことはあったのですが、お写真は若かりし頃のようで、白髪もはえる上品なご老紳士でした。

肝心のパネルディスカッションのテーマは、浅井三代・三姉妹と北近江ということだったのですが、司会の太田浩司先生を交え大変盛り上がったせいでかなり前半は重厚に、そして後半は私的にちょっと残念な感じに薄っぺらくなってしまいました。ちなみに茶々姫に関しては、小和田先生に期待した誤解を解く方向の発言も望めないほどさらっとしか触れられず…残念。ある程度歴史の流れを分かっているものにとっては問題なかったですが、そうではない人にとっては辛かったのではないかしら。。

講演が終わってみると、同じ会場に職場の上司がいてものすごいびっくりしました!!

そしてなんと!講演の後に30名限定のサイン会がっっっ!!
但し、その場で先生の著書を購入したら…ということだったのですが…

浅井長政のすべて浅井長政のすべて
(2008/08)
小和田 哲男

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…持ってるって!!(涙)
幸いすぐ側に職場の本店があったので、泣く泣くお金を下ろして二冊目を購入。その上で、たくさん書き込みのある最初に買ったほうにサインを頂きました。講演後、ばったり出会った上司に買い取っていただけることとなり、迷ったけど思い切ってよかったと思っています(…ほ。)

実は会場に来た時点で判明していたため、もうずっとどきどきしっぱなしでした。
なるべく短時間に、言いたいことを言えるように何度も心の中で練習していたのですが、結局小和田先生の前ではほとんど忘れ去っていたという…一番肝心なお手紙の話すらすっかり忘れていて、慌てて引き返して伝えました…;何度も引き返して申し訳なかったです。
小和田先生からは私の住所が書いてあるか尋ねられたのですが、まさか、まさかお返事なんかをいただけることを期待してもいいものでしょうか!!
超ご多忙な先生ですから、目を通していただけるだけでもめっけものと思っていたのですが…
たとえPCでも、代筆でも、お返事をいただけたら神棚に飾るわ…!

 

もうひとりの中井先生は、城郭史研究の第一人者でいらっしゃいます。

恥ずかしながらインドアなわたくしは中井先生をそんなに存じ上げなかったのですが、パネルディスカッションを聞いていた、この先生の著書を読みつつ城郭も検討しなければならないなあと大変勉強になりました。

その場で著作は売っていたので、早速購入しました。

近江の山城ベスト50を歩く近江の山城ベスト50を歩く
(2006/11)
中井 均

商品詳細を見る


すると中井先生の分もサインの整理券を頂いたのですが、にわか者の私がサインなどを頂いてもよいものか…と思いながら、もらってしまいました…



小和田先生に比べ、中井先生のほうはだいぶ人数にも余裕があったので、なにも準備していなかったにもかかわらずかなり充実した受け答えが出来ました。

やはり自己紹介の中にはどの先生に学んだか、というのが重要な項目なのですが、そのことを告げると中井先生はなんと私の先生となんども共同研究をしていたということが判明!!
ああ、そうだった!うちの先生は城郭とか町並みとかそういう研究が専門だった!!!!(おいおい)自分の先生のことを失念していたとは何たる…不覚!
…ですがおかげで和やかにお話をしていただき、またお手紙でも…と名詞を頂いてしまいました。うれしい!
早速近いうちにお礼状を書こう。


本を買うために二度もATMに走ったり、その道中にたまたま当番だった(別の)上司とばったり出くわしたり、なかなかに面白い一日でした…
 

姫と浅井 〜刀編

 
今日は刀や甲冑に関しての展示説明会もありました。
その中で姫に関わる刀に関する話題を。

そもそも浅井系の武具はほとんど残っていないのですが、それは浅井が滅亡した一族だからというのが一つの理由です。
そしてもう一つの理由が茶々姫もまた、大坂城で自刃という結末を迎えたからだといいます。

浅井宗家が滅亡後、ご存知のとおり浅井の支えとなったのが茶々姫でした。
自然縁の人も物も姫のもとに集まり、大坂城には浅井縁の品々がたくさんあったかもしれないそうです。

ふむ、なるほど。そうするとちょっと話は変わってくる。

まず、茶々姫が大坂城にこだわった理由。
秀頼を外に出さないというのが秀吉との約束だったとはいえ、喉元に刃を突きつけられてなお転封を拒んだのはなぜでしょう。
その一つが、大坂城にあったかもしれない浅井縁の品々だったとしたら…

大坂城にあった豊臣縁の品々は、孝蔵主や木下家定を通じて姫がお寧さんに少しずつ託して疎開していました。
一方浅井の品々は…託すべきおごうとの間にそれほどのパイプがあったとは思えません。
それでも、やはり疎開はしていると思います。
理由は、姫が(お初はもちろん)浅井系侍女を幾人も逃していたこと。
もちろん、彼女たちの命を守ることを目的としていたことはいうまでもありませんが、彼女たちにはきっと僅かながら浅井の品々を託したのではないか…と、この浅井縁の品々について知ったときにふと考えたのです。

今回話題に上ったのは二つの刀。


一本は「浅井一文字」と呼ばれる名刀で、長政の刀だったといわれているものです。
これは茶々姫の手に渡り、大坂の陣にて行方不明になった後に尾張徳川家の手に渡ったといいます。
しかしながら現存せず、関東大震災で山県有朋邸のなかで焼けてしまったとか…

まずなによりも、父の持刀が茶々姫の手に渡っていたというところが、先ほどの縁の品々が集まってきていたというのと合致します。
やはり浅井縁の人々にとって茶々姫は心のよりどころとなる存在であったことが偲ばれますね。

今回説明してくださった学芸員さんは、焼け跡の捜索で尾張徳川家に渡ったのでは、ということでしたが、刀身に「一」としかしるされていない刀、それが「『浅井』一文字」だと判別できるものでしょうか(しかも焼け跡で)。
そういえば、慰霊宴で姫が作庵に浅井縁の刀を持たせてお初と逃げるようにはからったという話を書きました。
あのときはもちろん「浅井一文字」という刀は知らず、浅井三代記に出てきた亮政由来の刀を登場させたわけですが…
やっぱり、父の愛刀はお初か、作庵かに託したのではないでしょうか。
しかし無事逃げ延びたことだけでも奇跡に近いあの状態で、名刀はなんらかの理由により作庵、もしくはお初の手を離れたとしたら…

…あまり根拠のない妄想はこのあたりにしましょうか。


さて、もう一本ですが、これは茶々姫の短刀「来国光」です。
これまた名刀で、どういう経緯でか18世紀はじめに売りに出された記録が最後となり、こちらは現在行方不明だそうです。
茶々姫の愛刀がこの世のどこかで眠っているかもしれないのですね。
もしかすると太平洋戦争かなんかで海外に流出している可能性だってあります。
でもいつか、暗い蔵の中から陽を浴びる日が来ることを願ってやみません。そして、世界のどこにあろうともこの目で見に行きたいです。


この2本の刀については、「長浜み~な」の100号に掲載されているそうです。よかったらどうぞ。

(別窓/長浜み~な編集室)
 

浅井三代と北近江

 
現在、長浜城歴史博物館では25周年特別展示「浅井三代と北近江」を開催中です。
遅ればせながら私も本日展示説明会と共に行ってまいりました。

 公式サイト http://www.city.nagahama.shiga.jp/section/rekihaku/news/info103/index.html

この特別展示は、一言で言うと「すごい」です。
後にも先にも、浅井でこれだけのものを集められる展示はないのではないかと。
門外不出だった養源院蔵の崇源院像が公開されていることはもちろん、普段展示で目にするものはほとんどレプリカな肖像たちが、すべて本物です。
あの有名なお市の肖像も、当然浅井久政・長政像も。
浅井系に興味のある方は、行かなければ確実に損だと断言できます。

たとえいけなくても、今回は図録が発売されています(たしか1890円)。

内容も、展示物はもちろん諸研究者による記事などかなり盛りだくさんです。
今確認したら、もう長浜城歴史博物館のサイトから購入できるみたいなので、売り切れないうちにぜひぜひ。
これは絶対オンタイムで買い逃すと凄い値段になりそう…
(印刷も少数部数&古本が高額になることで有名?なご当地出版社・サンライズさんだし…)

というわけで、細かい感想は以下。

・もう飽きるほど見て、見飽きたはずの肖像たち。本物はとても存在感が違う。絹に塗り重ねられた色が、なんともいえない重厚感と立体感を感じさせられる。

・今度はいつ見れるだろうと思っていた亮政・蔵屋木像。去年見たときにはもっと小さい印象だったのですが、今日見たら意外と大きかった。この蔵屋さんのポニーテールがキュートで個人的に大好きです。
  ← これこれ。
この亮政夫妻木像を作った人は対馬局という方なのですが、この方は浅井一政さんの妹だそうですよ、H身さん!(見てないってw)

・長政公の肖像もほぼ余すところなく一堂に。今回見慣れない下郷共済会蔵(江戸中期に書かれた久政のとそっくりの肖像)や養源院蔵の束帯姿もおごうの隣に公開。
養源院の束帯姿は、桃山時代に養源院に奉納されたらしい。私の考えでは、そんな時代に肖像を養源院に奉納できたのはやはり茶々姫しかいないように思います。鶴松を産んで、かの有名な2幅の父母肖像画を収め、秀頼を産んで養源院を建てた時にこの束帯姿を奉納したのではないでしょうか。
…というのも、死後すぐに描かれた入道姿の徳勝寺蔵系はとても苛烈で戦国大名らしいのですが、一方高野山小坂坊蔵系の肖像と、養源院蔵の長政はとても表情が穏やか。「有人」こと茶々姫は、死んだ父を本当に慕っていたのだなあ…と胸を打たれます。

・肖像といえば、久政さんの有名な肖像は寿像(生きているときに描かれた像)なのですが、いつも見るほどに男前だと思うのですがいかがでしょう(笑)
きりりとした肖像に学芸員さんは「とても暗愚とは思えない」と見事なフォローコメントもあり、なんだか嬉しかったです。優しき領主よ、復権は近いかも!

・そして、数々の家臣や其の妻の肖像も… 決して今後も有名にはならないであろうけれど、確かに生きていた人たちのその証はいくら見ても見飽きないものでした。

・姫の肖像は例の奈良県立美術館像の「伝 淀殿像」でした。しかし、今回はさすがの特別展示!きっちり「伝」のところを説明してくださっていました。この画像が茶々姫という確証はどこにもないのです。ただ、豪華絢爛な衣装だからというだけで比定されたんじゃ?と疑いたくなります。
江戸のだいぶたってから、お市と長政の像を見ながら描かれたという話もありますからね。そういえば、着物に詳しい方が、姫の着ている衣装はだいぶ後のもの(丁度描かれたといわれる時代)ですよと仰っていましたっけ…

・さて、今回初公開の崇源院像。尼姿で瓜実の可憐な顔立ちの肖像画で、今回の解説文にも「お市の肖像によく似ている」というコメントがありました。しかしここの学芸員さんはお市像に対してただ賛辞を送っているわけではなく、表情がないのでだいぶ理想を美化されているんだろうと考えておられるようです。納得。
その崇源院像コメントに隣にいたおばさんが一言。
「へえ…おごうがお市に一番似てるんだって!」
な、なんかニュアンスが大分違うんですが…
一番っていうには、姫のちゃんとした肖像はないし、いくらなんでもそこまで正確に絵で表現するなんてありえないと思うのですが…
だってあくまで写真ではないんですよ。むしろ描く人によってものすごく感じがかわるんじゃないかなあ。

・というか、どうせなら養源院さん、茶々姫の肖像も貸してくださったらよかったのに…。やっぱりボロボロだから出せないのかな。養源院の肖像はどれもあまり保存状態がよくないのですが、いろいろ複雑な事情があるのでしょうか。
じゃあせめて姫が拝んだ弁天様!あの小さな金色の厨子の中に眠る弁天様が見たかった!(※ 私は養源院で見ました)

・姫関連の展示物は、あと姫のものとされる扇子。宇野茶道美術館蔵だそうです。保元物語の絵が描かれた中に、源実朝作の和歌(『金槐和歌集』蔵)が描いてあるのですが、それが姫の直筆という伝承があるそうです。
直筆というものが少ない姫ですので、どきどきしながら見入っていました。

・そして知善院蔵の京極高次宛書状。高次に対し、とても世間で流布している姫像とは対極のイメージである懇切丁寧な礼状。世の中にある姫が高次を好きだったという話は、この書状から来ているのではないだろうかというのが私の予想です。
しかし…私はたしかに崩し字がほとんど読めませんが、読めないなりに書き下しと見比べればどこに何が書いてあるか分かるのですが…
この書状はかなり難易度高いです、姫、ほぼ読めません。。唯一確認できたのは署名の「よ□」(福田先生は「よど」、桑田先生は「あこ」と読んでいる部分)と「秀頼」だけでしたよ(涙)力不足ですみません姫!でもこの書状はいくら読めるようになっても読める気がしません!!
 

伯母 泉源寺殿について

 
「京都教区時報」(1998/9 No.250より)


 京極マリア380年忌追悼式

 (ウェブサイトより)

 戦国の武将、浅井長政の姉で、キリシタンとして生きた京極マリアの没後380年忌追悼祭が去る6月28日(日)舞鶴市泉源寺の真言宗古寺笠松山「智性院」(増円憲空住職)において、カトリック関係者120名、仏教関係者150名の参列者を得て合同で営まれた。

 中央祭壇には「養福院殿法山寿慶大禅尼」(佐々木京極若狭守同丹後守御母 元和四年戌午年七月朔日)と銘記された位牌が祭られ、仏教者を代表して増田住職の読経から法要か始まり、続いてカトリック形式による聖歌、大松正弘神父による聖書の朗読、ルメー神父のお話、さらに京都北部三教会代表による共同祈願、最後に終わりの聖歌が境内に流れ、宗旨を越えて参加者一同深い感動に打たれた。

 又、追悼式に続いて「京極マリア」の著者で豊岡市在住の渋谷美枝子先生による「マリア追憶の歴史について」の講話が行われた。

 さて、京極マリアが世に出たのは昭和16年(1941年)智性院の末坊「此御堂(こみどう)」において一つの古びた位牌が発見された事から始まる。マリアは1581年、夫の京極高吉とともに安土で洗礼を受け、京都、大阪で布教活動をし、その後長男若狭守小浜の城主高次、次男丹後守田辺城主高知のいる舞鶴の泉源寺に移り住んで戦乱の世を逃れ、1618年75歳で没するまでの8年間を「此御堂」を布教所として、祈りの中で生涯を閉じたと言い伝えられている。

 この度、ルメー神父と永年ご公諠のあった増田住職との念願か叶えられて、実に380年振りに仏式、カトリック形式合同による追悼祭が実現した。

 「京極マリア」、戦国キリシタン暦史の中のこの偉大な女性の存在はこの追悼祭を出発点として、丹後のキリシタン暦史の中で「細川ガラシア」とともに、私たちはもっと世に光をあてなければと思う。マリアの位牌がある智性院、隣接した「此御堂」跡は京都府北部と福井県との県境に近い緑の山々に囲まれたところで、静かに訪れる人を待っている。


記事URL: http://www.kyoto.catholic.jp/hp/y94-00/cn9.html
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プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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